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「よう、小僧」
柳 田輔が老人を訪れた日、勇介は老人に最近の読み物を頼まれた。その数日後に勇介は何冊かを見繕い届け、そして今日、老人の様子を看に来ていた。老人は布団の中で肘をつき頭を支えながら頁をめくっていた。
「最近なぁ、こういうのが多いのかい?」
「こういうのと言いますと?」
縁側に座った勇介が応えた
「昔もなかったたぁ言わねぇけどよ。好いただのどうなのってなぁばっかじゃねぇか。面白ぇのかい?」
「読まれてはいるようですが。おやっさんの好みもわかりませんから、評判らしいものを持って来たんですが」
「ふぅん」
老人はまたページを繰った。
「で、お前は眺めるくらいはしたのかい?」
「いえ、私はそういう物よりも人間に興味がありますから」
「そうかい。これなんざ、人間を描いているとかあるぜ? そういうなぁ、お前の好みには入らねぇのかい?」
「入りませんね。そういう俗事が人間を描いているとは思えませんし」
「なんでぇ、少しゃぁ読んでんじゃねぇか。読んでねぇってなりゃぁ、気に入らねぇとは言えやしねぇだろ?」
「まったく読んでいないとは言いませんが。好んで読もうとは思いませんね」
勇介は縁側から部屋に戻り、布団の横、火鉢の横に積んである本の中から二冊取り出した。
「両方とも新人のようですが、これらは好みの範疇に入るかもしれません」
「ふぅん」
老人は持っていた本を脇に置くと、勇介が持った本を受け取った。
「こいつぁ読んだぜ。探偵小説って奴だな、両方とも」†
「えぇ。人間を描いていると言われる著作よりも、こちらの方がよっぽど人間を描いていると思いますね。なにより、論理的なのがいい。仕事柄ということもあるかもしれませんが」
「ふぅん。お前ぇは理屈っぽいのが好きそうだわなぁ」
老人はくっくっと笑った。
「宿儺の民が理屈好きたぁなぁ。ま、いけねぇってこたぁねぇ。だが、探偵小説が好きだってわけでもなさそうだな。理屈っぽいったってよ、所詮、書いてる奴の思惑ってのがよ、丸見えじゃねぇか。てこたぁ、なにやらこれってのがあるように思えるぜ。なんかあんのかい?」
「確かにありますね。かなり前に出た著作ですが」
「ふぅん」老人はまたそう応えた。「探偵小説はその代わりかい?」
「そうかもしれません」
「よっこらせ」老人は起き上がり、布団の上に座ると、火鉢の抽斗から茶筒を引っ張り出し、お茶の用意を始めた。
「これって奴と似たような物ぁねぇのかい?」
「判断が難しいところですね。あると言えばある。ないと言えばない」
「なんでぇ、そいつぁ書くのを止めちまったのかい?」
「書いてはいましたね。既に故人ですが」
老人は勇介に湯飲みを渡した。
「なら、そいつぁ自分の筋を曲げちまったのかい?」
「そこはわかりませんが。なので、あると言えばある。ないと言えばない。ですが、すこし遅れてもう一人。こちらは存命で、今も著作を出しています」
「とは言え、立て続けにゃぁ出て来ねぇ。それで、探偵小説で我慢してるってわけだ」
「その言い方が正確と言えるかは疑問ですが」
「おおっと」
地震があった。火鉢の上の鉄瓶が揺れた。
「でかかったな」
鉄瓶の蔓を持っていた手を離し、老人が言った。
「こいつぁたまんねぇ。寝てたら大火傷になりかねねぇ。小僧、お前ぇ力ぁあんだろ。火鉢をよ、すこぉしそっちに動かせねぇか?」
「手で動かすのは無理ですね。すこし畳を痛めてもかまいませんか?」
「程度によるけどよ」
「では」
勇介は右手を火鉢にかざした。
「あれ」
勇介の言葉に応え、掌を広げた程度の輪が火鉢の向こう側に現れた。勇介はその輪を見ていた。その輪は形を変え、火鉢が入る形、大きさになった。
「あれ」
勇介の掌のすぐ先に光る輪が現れ、同程度の形、大きさになった。勇介は眉間に皺を寄せ、二つの光る長方形の位置を調整した。
「入り、現れる」
火鉢の向こう側の光る長方形が火鉢を飲み込んだ。手前にあった光る長方形がまた移動し、そこから火鉢が現れた。火鉢は五寸*ほど勇介の側に移動していた。
「ほう、いいもん見たぜ。こいつぁ久しぶりだ。まったく久しぶりだ。お前ぇが理屈が好きだってのもわかんねぇでもねぇ。こいつぁ宿儺の民の理屈やら尋常やらの範疇も越えちまってる奴だ。いろいろと気にゃぁなってるだろうなぁ。前の奴も滅法理屈好きだったしよ」
老人は何度も頷いた。
「こいつぁ、ちぃっとやりすぎたかな」
「動かしすぎましたか?」
「いや、そうじゃねぇ。てっきりよ、異形になるのが精一杯だとか、ちぃっと物ぉ動かせるとかよ、そんなもんだと思ってたからよ。お前ぇに入りきるかと思ってよ」
「入りきる?」
勇介は訝しげに訊ねた。
「いや、なんでもねぇ。こっちの話だ。先見はねぇだろうたぁ思っちゃいたがってくらいってことよ。俺が先見やら遠見ができるってもよ、見っぱなしってわけにゃぁいかねぇ。しかも肝心のとかぁ、どうにも見えやしねぇと来たもんだ。だが、よりによってこれたぁなぁ」
「わかりませんが、なにかしたということですか?」
「してねぇ、してねぇ。なんもしてねぇ。神仏にでもなんにでも誓って、なぁんもしてねぇ」
「怪しいですね。ですが私になにか変化があったわけでもないように思います。なにもしてないという言葉をとりあえず信じておきますよ」
「そうしてくれ」
老人は湯飲みを空けると、横になった。
「まだ本調子じゃぁねぇな。疲れちまった。今度ぁちょいとした菓子でも持って来てくれねぇか?」
「お茶だけというのも寂しいですね。なにか探してみましょう。今日はこれで帰ります」
「おぉ、帰ぇれ帰ぇれ。俺ぁ一眠りすらぁ」
勇介は長屋から離れ、浅草仲見世周辺をぶらついた。老人の「入りきる」という言葉が引っかかってはいた。
† 日本での探偵小説の芽生え、あるいは発展は、史実よりも早かったと設定しています。
‡ ジュール・ヴェルヌの「二十世紀のパリ」が刊行および翻訳されていると設定しています。
* 15cmほど。




