2−1:
遠くはない、だがビルディングのすぐ裏手というほどに近くもない。どこからか狂舞の鉦、鳴子、太鼓、団扇太鼓の音が聞こえていた。それに合わせ、「ほう! ほう! えぇじゃないか、えぇじゃないか」というかけ声もかすかに聞こえていた。
事務所には一人の婦人が訪れていた。
「それでご主人の捜索の依頼とは聞いていますが、えぇと…… 大野さん」
勇介は帳面に目を落とし、婦人の名前を確認した。
「はい」
向いのソファーに腰を下した女性はクロッシェとハンドバッグを膝に置いたまま答えた。
「家に帰らなくなってから…… まだ五日ですね?」勇介はまた帳面を確認した。「失踪として扱うにも、まだ早くはありませんか?」
「ですが、こんなに帰らなかったことなど今までになかったんです」
婦人は身を乗り出して応えた。
事務所の水回りから小村少年が紅茶を持って来る音が聞こえた。
「そうは言っても…… あぁ、小村少年が紅茶を持って来たようだ。お茶請けは?」
ティーカップを応接テーブルに置く少年に勇介は訊ねた。
「うちの女将さんからいただいたクッキーがありましたので」
「あぁ、それはいい。大野さんもぜひ。小村少年がお世話になっている下宿の女将さんの料理や菓子は逸品ですよ」
勇介はテーブルに載ったクッキーの置かれた皿に向けて掌を差し出した。
「それよりも夫のことですが」
婦人は紅茶とクッキーを一瞥し、首を横に振り、訊ねた。
勇介はティーカップを取ると、一口飲んだ。
「たとえばです。地震が頻発している昨今です。いいですか、あくまでたとえばです。不安になっている愛人に請われて、そちらに長めに滞在している。そういうことは考えられませんか?」
「だとしても、電話くらいは」
「そうですね。どういう理由を付けるにしても、電話くらいはあってもいい」
もう一口、勇介は紅茶を飲んだ。
「ですが反面、大野さんが依頼をしてくるにはあまりに早過ぎる。依頼をしたいという電話をいただいたのが一昨日。二晩帰らなかっただけです。これはいくらなんでも早過ぎる」
ティーカップを置くと、太股に置いた腕で上半身を支え、勇介は大野夫人を見た。大野夫人がハンドバッグを握る手に力が入ったように見えた。
「失踪だとして、なにか根拠をお持ちですか? あるいは、家を出たときの様子を見ていたとか」
「はい」大野夫人は静かに答えた。「ふらっと。話に聞いている、狂舞に入って行く人の様子に……」
「似ていたと」
「はい」
勇介はソファーに背を預けた。
「だとしたら面倒ですね。連中は帝都を目指して来たようだ。しかし、帝都、とくに東京市に入ってからは、あっちに向かいこっちに向かい、またあっちの集団に入りこっちの集団に入りと、目指す場所もなにも見当がつかない」
勇介はそのまま大野夫人の目を見ようとした。目が合った大野夫人は、すぐに目をテーブルへと移した。
「大野さん、ご主人がふらっと出ていく前になにかありましたか? ちょっとしたとことでもかまいません。あるいは言い難いことでもかまいません」
「いいえ、なにも」
夫人はテーブルを見たまま首を横に振った。
「いいですか? 大野さんがこちらに電話をしてくるにはあまりに早過ぎる。ご主人はふらっと出ていった。それを大野さんは見ていた。そして、警察にも行っていないとのことでしたね」
勇介は大野夫人の応えを待った。しかし、夫人はやはりテーブルに目をやったままだった。
「この状況で私が警察に連絡したとしましょう。警察はあなたの周辺から調査を始めるのではないかと思います」
「私はなにも……」
「と言って、信じてくれればいいのですがね。手順としてもあなたの周辺からというところは変わらないでしょう」
勇介はまた大野夫人の応えを待った。だが、やはり夫人の目はテーブルを見ていた。
「勘違いしないで欲しいのは、ちょっとしたことや言い難いことというのは、ご夫婦の間のことに限りません。そう、たとえば噂にあるような」
そこで勇介は言葉を切った。