3−3:
勇介が立つ前に、小村少年が入口を開いた。
「先生! まずいって! こいつぁまずい!」
飛び込んで来た管理人は勇介に駆け寄った。
「これ以上まずいのかね?」
「あぁ、まずい。今、ビルヂングのシャッターを閉めてきたとこだけどよ、連中が……」
小村少年は自分のティーカップから飲み干し、軽く振ると、ティーポットから紅茶を注ぎ、管理人に差し出した。
「ありがとうよ、坊主」
管理人は一気に飲み干すと、カップを小村少年に手渡した。
「それで、今以上にまずいというのは?」
「あぁ、それだ」管理人は事務所の窓際に走った。「先生、見てくれ。こっからでも見える」
勇介も窓際から外を見た。管理人は横から地上を指差していた。
「あれだ。狂舞の連中が、鬼なんだか妖なんだか知らねぇが、突然化けやがった」
確かに複数の異形がそこにいた。
「これは、いくらなんでも私の手に余る。警察や軍の…… いや軍は当てにできないか」
「そうだよ。だからまずいって言ってんだ」
「となると、警察と一部の郵便配達員†だけか」
「だけど、そんだけじゃ足んねぇ。足んねぇどころか、連中に銃なんか効かねえっていうじゃねぇか」
「管理人さん、あなたは狂舞の連中が化けるのを見たんだね?」
「あぁ、見た。この目で見たよ」
管理人は自分の目を指差した。
「それなら、今の一瞬だけだ。自分でもなにが起きたのかわかっていないだろう。人間の常識が残っている今だけだ。ビルディングの中で銃を持っている人に伝えてくれ。玄関に集まろう」
「先生、それじゃぁ足りぁしねぇ」
「もちろん足りない。それに連中を撃っても駄目だ。使えるのは、連中に残っている銃で撃たれる恐怖だけだ。そこを間違いなく伝えてくれ」
「よっしゃ。持ってる連中はだいたいわかってる。一走り行ってくらぁ」
管理人は走って事務所を出て行った。
勇介はジャケットの内ポケットから鍵を取り出すと、書斎机の抽斗の一つにかかっていた鍵を開け、箱を取り出した。その箱には、拳銃と銃弾、ショルダー・ホルスターが収められていた。
事態は、あまりいいとは言えなかった。宿儺の民だとして、猶予はその力に気づくまでの間だった。
「小村少年、君はここを出ないように」
誰か一人が気づけば、その状況は崩れる。ともかく、ここから遠ざける。今、取れる対処はそれが限界であるように思えた。もちろん、勇介自身が力を使わないという前提においてだが。勇介自身の力を積極的に使うという選択肢もなかった。ビルディングの中から集まった人びとの目を逸らすことはできるだろう。だが、要らぬ刺激によって宿儺の民の力に気づかせてしまうかもしれない。門で異形を遠くに飛ばすことは、最後の手段にしておきたい。
玄関には、すでに二人、拳銃を持った人が降りて来ていた。
「明日先生、なぜ連中を撃っちゃいけないんだ!? 相手は妖だ。撃たなきゃ、奇妙な力でこっちがやられちまう」
一人が訊ね、一人は頷いた。
「撃っても効かないだろう。だが、管理人さんの言うとおりなら、連中は妖になったばかりだ。連中の力はこっちも知らないが、連中自身も知らないだろう。撃たれても大丈夫だと気づいたら、そこに付け込めなくなる」
「だがよ、先生。それじゃぁ、いつかはやられちまう」
「いつかはな。だが、それは今じゃないかもしれない」
勇介は玄関の待ち合いにあった椅子の一つを取り、玄関脇の窓硝子を割った。
「交代でやろう。近付いて来たら、そいつの横に向けて撃つ。いいな?」
そう言い、勇介は一発撃った。
「他のビルヂングの連中も同じようにしてるんじゃねぇか? そいつらが当てちまったら?」
「そうなっても、それまでだ」
「先生、そいつぁ不味いぜ。あっちのビルヂングにも銃を持った連中が集まって来ちまってる」
「筆耕室!」もう一人が声を挙げた。「あそこなら筆も墨も、それになんか書くもんもあるだろう!」
「それなら、そっちを頼む」
そう言い、勇介はまた一発撃った。
数分の後、その男はテーブル・クロスに警告を書き、戻って来た。勇介は残っていた男と交代し、拳銃に弾を込め直していた。その頃には、また数人が玄関に降りて来ていた。
「先生、これでどうだ?」
男がテーブル・クロスを広げて示した。そこには、「明日先生より。当てるな。やっかいになる」と書かれていた。
「怪異が起きるって書いちまうのもまずいだろう? 連中にも読めるんじゃないか? だから……」
「あぁ、それでいい。それを周囲から見えるように」
「合点」
その男はベルトから金槌を、ポケットから釘を取り出すと、周囲から見えるように、窓枠に打ち付けた。
周囲のビルディングに隠れている人びとに、こちらを指差す動きが見えた。
「よし。今じゃぁなくなったかもしれない」
硝子が割られた窓際では、また撃ち手が交代していた。
さらに十分ほどの後、妖は、異形はこの一角から離れて行った。このビルディングの玄関では、口笛と拍手が響いた。
† 一部の郵便配達員: 当時、現金封筒を扱かう郵便配達員は拳銃の携帯が認められていました。なお、現在ネット上には「すべての郵便配達員に認められていた」という記述もありますが、これは誤りのようです。「現金封筒を扱かうことが認められていた郵便配達員」であって、「すべての郵便配達員」ではないようです。なお、1923年、大正12年当時の実態としてはどうだったのかは調べが至りませんでした




