4.変身
一晩明けて、ともかく少女――――ジャバウォックとアズマは今後について話し合うことにした。
まず、ジャバウォックはアズマの幼馴染なのかどうか。
「……? 言っている意味がよく、分かりません。アズマの匂いを追ってきただけですから。……お役に立てずごめんなさい、アズマ」
「いや」
やはりというべきか。ジャバウォックには普通の人間の常識が欠け落ちていた。例えば彼女に親の記憶があるのならば、その親元へ連れていくべきなのだろう。
しかし彼女はオウム返しのように「分からない」を繰り返すばかりである。
言語能力にも若干の問題があるようで、時折表現する言葉が見つからず「あー」「うー」と困る素振りを見せた。
その点でも記憶の中の幼馴染とかけ離れている。自分で小説を書くような少女だったのだ。言葉に困る事はそうそうなかったはずである。
「……ともかく、市役所にいこう。そこで色々と調べりゃ答えが見つかるかもしれない」
名前はやはり思い出せないが、住んでいた場所なら分かる。そこを頼りに役所で調べてもらえば彼女の存在をはっきりとさせることが出来るかもしれない。
「それは、アズマのさいしゅーしょく? のためですか」
ジャバウォックの思わぬ一言に、アズマはぶほッと吹きだす。
「何でお前がそれを」
「アズマ、うなされてました。さいしゅーしょくがー、とか。やちんがー、とか。なのでその役所に行けばアズマ、元気になるのかなって思いました」
「そうだな……元気になれればいいな。ともかくそれも含めて役所に行こう」
「はい。アズマと一緒ならどこへでも行きます!」
****
再就職に関して、役所の反応は芳しい物ではなかった。
一日、二日で新しい求人が舞い込んでくるはずもないが、少しばかり期待もしていたアズマは肩を落とす。
「アズマ、元気を出してください」
「うぅ、迷子に慰められるとは」
就職課を後にする二人。それなりに賑わう廊下を歩くアズマとジャバウォックは、役所の中でも戸籍を統括している窓口へ向かった。
「……しかし、よく考えたら今の俺って役所的には結構グレーゾーンなんじゃないか」
道中、自分の危うさにふと気付く。無職で、身元不明の幼女を連れて歩いている男なんてよく考えなくてもやばい。
「ジャバウォック」
「はい?」
「なんか聞かれても、誤魔化してほしいんだけど出来るか?」
「ごまかす、ですか? ……んん、やってみるです」
「頼むぞ」
待ち時間の間に沈んだ気持ちを立て直し、呼ばれた先の窓口で住所の旨を話すアズマ。
しかしここで、思わぬ壁にぶつかることになった。
「で、オーベルライトさん。その住所の方とのご関係は?」
「え、えぇと」
「親族の方ですか?」
「では、ないんですけど」
「では銀行関係の方ですか?」
「でもなくて、ですね」
「はぁ……では個人情報の保護という観点からお教えすることはできませんね」
そう、役所が簡単に町民の情報を漏らすはずがないのである。思い付きで動いたせいで、そんな簡単な事にも思考が及んでいなかった。
口ごもるアズマだったが、なんとかしようと発言してみる。またもや思いつきで。
「えぇと、この子! この子がまさにその住所に住んでいた子でしてね」
「そうなのですか? なら、本人から直接お伺いすればよろしいのでは」
「それが、覚えてないらしくて。いやぁ記憶喪失ってやつですかね。で、僕はこの子を助けようと思ってここを訪ねた次第でして」
「……それは、騎士団の仕事では」
「そう、なんですけど。この子が騎士団アレルギーみたいで。鎧の音を聞いただけで、じんましんが体中に出てくるみたいなんですよ」
「それは本当ですか?」
「はいです」
ジャバウォックはにっこりと頷き、そう言う。なかなか役者じゃないかとアズマはほっとした。
役人はフロントから身を乗り出して、ジャバウォックへの質問を続ける。
「お名前は?」
「はいです」
またもニッコリ笑顔で頷く。アズマは冷や汗をかいた。
「……ええと、お名前をおうかがいしているのですが」
「は い で す!」
「それでゴリ押そうとするのやめろ!」
思わず声を荒げて突っ込むアズマに、ジャバウォックはしゅんとなって「ごめんなさいなのです」と呟いた。
「いいか、名前を正直に伝えればいい」
「はい。私はジャバウォックという名前なのです。よろしくお願いします」
「じゃば……本名でしょうか」
役人はアズマに、疑り深い視線を向けた。
アズマはホテルのフロント時代に培った作り笑いをここぞとばかりに発揮して、頷く。なんとか誤魔化されてくれという願いを込めて。
「戸籍の偽造は犯罪ですよ?」
勿論、そんな願いが当然通るはずもない。
「違います! えぇとそんなつもりはなくてですね」
「冷やかしで役所に来ることは止めてください。……特別にお教えしますが、ジャバウォックなんて名前の方はパルコラには居ませんし、そもそも……」
「え?」
「あなたの言った住所に、人が住んでいた記録はありませんよ」
****
名前を覚えていなくとも、過ごした記憶はおぼろげに残っている。
少女の家もまた、残った記憶の一つだった。
外で遊び疲れたら少女の家に行って、喉を潤した後、少女が最近読んだ本について熱心に話すのを分かった振りして頷いていた。
アズマには間違いなくその記憶があった。だから、……その家があったはずの場所に、見知らぬ宿屋『民宿 ラバーノート』が立っていることに少なからずショックを受ける。
「宿屋ねぇ……」
アズマが元々務めていた宿屋はそれなりに老舗だった事もあり、七階建ての大きな建物だった。それと比べるとラバーノートは二階建てで、門構えも一見宿屋と気づけないぐらい質素である。
いつの間にこんな宿屋が立っていたのか。それも思い出の場所に我が物顔で居座っていることに少なからず嫌な気分を覚える。
だが役人が言う事には、この場所には人が住んでいた記録はないのだ。
お店用に貸し出されている借家のようで、道具屋や食事処などのお店が新しく出来ては短い期間で潰れ、また新しい店になるという商人からすれば呪いじみた一角らしい。
だとするならば、ここは少女の家ではないということになる。
確か、彼女の両親はお店を営んではいなかったはずだ。何の仕事をしていたのかまでは覚えてはいないが、職人のような仕事だったようなとアズマは自分の記憶を手探る。
ならば何故自分は、この場所を少女の家だと思ったのだろう。
一体どこから、何の記憶を違えているのか。それとも記憶全てが間違っているのだろうか。
「アズマ、ここが私のお家ですか?」
少女の問いにアズマはひとまず考えることを止めた。
「あ、ああ。そうだったと思うんだけど。何か覚えてないか」
「さっぱり、です」
「そっか。……なんでこうも思い出せないんだろう」
この状況でもっとも疑うべきは自分の記憶だろう。そう判断したアズマは、また振り出しから考えなくてはならないことに頭を悩ませる。
その時、宿屋の扉が静かに開く。
いつまでもぼーっと店先に突っ立っているのも冷やかしになりそうで悪い。そう思ったアズマはジャバウォックの手を引いて立ち去ろうとするのだが。
「ちょっとアナタ」
背後からそう呼び止められてしまい、足を止めた。
「あ、すみません。ちょっと見ていただけなので」
「見ていたって店先だけでしょ? つまり外見だけってことでしょう? 見てくれだけで何が分かるというのかしら」
どうも宿屋の店員らしい。
女性口調であるが、声色は猛々しくて低い。店先から出てきたのは筋骨隆々の男性である。剃り込みのある単発は彼なりのお洒落なのだろうか。
そんな口調や髪型以上に目を張るのは鎖帷子のようなエプロンであろう。キッチンは戦場というが、まさか具材に射抜かれるようなことはあるまい。
「大事なのは中身よ。……しかしあなた、鎧が似合いそうな身体してるわね。それも一式揃えるようなものでなくて……頭も体も腕も足もバラバラの防具をつけた方がとってもフレキシブルに闘えそう。例えば頭はグルハ銅のメインヘルム、身体は身動きの取れやすい虎の国製ズァグプレート、足には第二の心臓であるふくらはぎを確実に守ってくれるパプテマスレッグがお勧めねぇ。そして極め付けは大事な大事な両腕を守ってくれるフルプレートガントレェ……」
「それ全部、傭兵か騎士団向けの防具じゃないですか! 宿屋の人が何を勧めているんです」
「趣味よ。武器は……ンン、アナタ、えげつないのが似合いそうねぇ」
「そんなこと言われても困りますから」
「本当かしら。だってあなたの筋肉の付き方、一般人の物じゃないわよ。戦うことを生業にする人のもの。あなた騎士団じゃなくて?」
言われてアズマはバツが悪そうに視線を逸らす。
「違いますよ。目指してたことはありますけど」
「あら。あー……そういうこと。悪い事言ったわね。ところで」
居心地悪そうにするアズマに構うことなく、店長は話題を切り替える。少しだけ目つきに鋭さが加わるが、俯くアズマがそれに気づく事はなかった。
「その子は、あなたのお子さん?」
ジャバウォックの事をさしているのは明白である。ジャバウォックは店長に何を言うでもなく、ぼーっと見上げていた。
「いや、そういうわけではないんですけど。まぁその、迷子を助けている途中でして」
「迷子ねぇ。騎士団に預けるのが一番いいんじゃないかしら」
「アズマと私を離れ離れにしようとしているのですか?」
「あら、この男の子と離れたくないの? お嬢ちゃん」
「はい。もしもあなたが無理にでもアズマから引き離そうとするのならようしゃはしないのです」
まるで何でもないように、それまで通りの平坦な口調と表情でジャバウォックはそう言ってのける。そんなジャバウォックの頭をアズマは軽く小突いた。
「あぅ……」
「こら、何物騒なこと言ってるんだ」
「ごめんなさい、アズマ……」
「ま、何か事情がある事は分かったわ。その子の保護者、見つかるといいわね」
事情を理解してもらえた事が嬉しくて、アズマは少しはにかむように頷く。変な人かと思ったが、悪い人ではなさそうだ。むしろ、理解のある良い人物なのかもしれない。
「でもただの一般人にしておくのは惜しいわね。あなた私の防具のモデルになってみない?」
そう思った傍から、考えを改めたくなるような事を言ってくる。
「え、いや……モデルって。だからここ宿屋ですよね」
「だから言っているでしょ。趣味よ趣味。ここのお店とは関係なく、私の個人的な防具のモデルにならないかって言っているのよ。そ・れ・に。確かにとぼけた顔はしているけれど、きっと磨けばモデルとして光るものがあるはずよ……?」
そういう店長の目は明らかに怪しい。ワキワキと節足動物のように動かす両手の指から嫌な予感を覚えたアズマは「遠慮しておきます」と早々に辞退するのだが。
「大丈夫よ、ちょっと個人的なレッスンを乗り越えればスターの道にまっしぐら。一度見られる興奮に身を委ねれば後はもう病みつきよ」
……と、言ってと引かない。
むしろ息が掛かるぐらいの距離まで近づいてくる。分かった。この人は善人でも悪人でもない。変態だ。
首をかしげるだけのジャバウォックに助けを求めるわけにもいかず、アズマは神にでも祈ろうかとしたその時。
「ちょっと店長―。あれほど店長自身が呼び込みをするのはやめてくれって言ったじゃないっすかー。お陰で閑古鳥が店中でランデブーを……ってあれ」
その声によって店長の前進は止まり、憎々しげな表情を浮かべて振り返る。
救いの女神は宿屋の店内から現れた。しかもその気だるげな声、仕草にアズマは覚えがある。
数日前までは同じ職場の同僚だったのだから。
「ユラ、お前。次の職場って」
ユラは、大きくため息を吐くと抑揚のない声で話し始める。
「はちゃー……バレちゃったっす。次の職場も実はそんないい場所じゃないことに。店長も変態だし」
「いや! そこで働いていてくれてありがとう!」
「へ? ああ、どうもっす」
「ちょっとユラ! あんた今の聞き捨てならないわよ! 変態って誰のことよ!?」
あんたの事だよ。と、うっかり口が滑りそうになるのをアズマはぐっと堪えた。
「だってそうですもん! 勘定計算する度に背中がゾクゾクしてくる経理の身にもなってくださいって! 好みの男だからって半額で泊めさせたら利益あがったりっすよ!」
「戦略よ! リピーターを増やそうとしてるんじゃない!」
「なら店長のキスマークを付けるポイントカードも止めてください! 今時、如何わしい店でもそんなんやらないし、あれで間違いなく客足遠のいていますからね!」
「ぬおおおおおおお! 嘘ばっかり! 腹立つ経理だわ!」
「にゃああああもう! 事実っすよ! マジで!」
「あ、あの、俺もう行っていいですか?」
「え、そうね。寝床が必要になったらいらっしゃい。半額で泊めたげるわ」
「ちょ、店長! もう……あー、まぁそういうわけっすから。まぁ気軽に寄ってくださいね。出来ればお金を落としてほしいっすけど」
「ああ、まぁそのうち」
アズマたちは早歩きでラバーノートを去る。なんだか余計に疲れてしまった。だんだんと背後から聞こえる二人の喧騒が遠のいた所でジャバウォックがぽつりと呟く。
「好みの人には半額って言ってました。つまり」
「言うな。頼むから」
ラバーノートを後にしたアズマたちは、町の中をぐるりと歩く。
何故か幼馴染のことを忘れてしまっていたアズマだが、町の誰かなら知っているかもしれない。
ともかく分からないことが多すぎる状況を変えるため、やけっぱちのような行動だ。しかし長く歩いたとて、情報が得られるわけでもない。
いよいよ町並みは夕日に染まり始めていた。
化粧漆喰の家々の煙突からは煙が立ち上り、その煙一つ一つから家族の団欒を彷彿させた。
水路を流れるせせらぎは優しく、細い風が嫋やかに頬を過ぎていく。
「なぁジャバウォック。この町の色んな名所、珍所、食事処と色々回ってみたがピンと来た場所はあったか」
「ないのです」
ジャバウォックは先ほど買ってあげたホットドックのケチャップを口元につけたまま、そう言ってのける。
「ないか……」
「ねぇ、アズマ。アズマは何が気になって、町の中をこんなに探しているのですか」
「何って。そりゃ君が俺の知ってる人かどうかを確かめるためだろ」
「……私がその人じゃなかったら、アズマは私のことをどうするのです?」
「え、どうするも何も。君が一番望むようにするよ」
ジャバウォックは、さも当然というように言葉を返すアズマに目をぱちくりとさせた。
「君と、俺の知っている人が同一人物かどうかは大事なことだ。だって、それによって君に対して何をしてやれるのかが変わるだろう? どっち俺は、君を助ける選択肢を選びたいんだ」
「アズマ……」
ぽぉっと顔を赤くするジャバウォックは、口ごもって俯いた。
そんな風に話しながら歩いている内、アズマたちは町の外れにまで来てしまった。
そこでジャバウォックがふと足をとめる。感情の見えない無機質な瞳で、何かを見つめていた。
「どうした? まさか、あそこに覚えがあるのか」
ジャバウォックの視線の先には――――町の外れに建てられた洋館があった。アズマが生まれる前から聳えているそれは、アズマが生まれる前には既に廃墟である。
昔は著名な芸術家が住んでいたらしいだなんて噂を耳にしたことはあるが、アズマが洋館について知っていることはそれぐらいである。
「……あの子たち、死ぬと思います」
ジャバウォックの指さす先には、洋館の門前で騒ぐ四人の子供たちである。
距離が遠くて会話は聞き取れないが、どうも穏やかな雰囲気ではない。すると四人の中で何かの話がまとまったらしい。
四人の子供のうち、一人が洋館の敷地へ入っていく。それが何だか見過ごせなくて、引き返すのを止めて、アズマも洋館へ向けて歩きだした。
「ちょっと行ってくる。ジャバウォックはそこで待っててくれ」
持ち前の正義心がアズマを突き動かす。
当然のようについていこうとするジャバウォックだが、アズマはそんな彼女と同じ視線になるよう腰を落として言い聞かせ始める。
「大丈夫だよ。俺が勝手に首突っ込もうとしている事に、お前を巻き込むわけにはいかないしさ」
そうアズマに念を押されては、しれっとついていくことも出来ない。ジャバウォックは落ち込み気味に「分かりました」と頷いた。
「キッシュのやつ、本当に化け物屋敷の中に入っていったよ」
洋館の門構えの前で待つ少年の一人が嫌味ったらしく言う。その言葉につられて、他の二人の子供は笑い始めた。
「入ったらすぐに食い殺されたりしてな」
「別にいいよ、あんな泣き虫」
「誰が何に食い殺されるって?」
突如会話に割り込んできた部外者に、子供たちは揃って狼狽する。アズマは言葉を続けた。
「お前ら、あそこが危ないってこと知ってるだろ? なのに一人で向かわせるなんて何考えてんだ」
「あ、あいつが勝手に行ったんですよ」
「なんで?」
「……最近、あの洋館には化物がいるって噂があって。度胸試しってやつです」
アズマは目を反らしながら話す少年に心底呆れる。勝手に行ったわけがない。行かざる得ない空気があったはずだ。
「そうか。なら俺が勝手に連れ戻しにいく。お前らはさっさと勝手に帰れ」
「は、はい」
「それとな。もうこんなくだらない事、二度とするなよ」
少しだけ凄んだアズマの言葉に少年たちは不満そうな表情を浮かべながらも頷く。勿論、反省はしていない。洋館へ歩きだすアズマの背に「騎士団でもないくせに、偉そうに」と文句を垂れたのがいい証拠だろう。
そんな雑言にアズマは振り返らない。騎士団に言われても変わらないくせに、と呆れるだけだった。
アズマの記憶が正しければ、洋館へ入って行ったのは以前助けた迷子の少年である。まさか二度も関わることになるとはと世間の小ささを骨身に感じながら洋館の玄関へ入っていく。
扉を開ければ開けたフロアが視界に飛び込んでくる。天井にはもう何年も明かりを灯していない埃まみれのシャンデリア。目の前には二階へと繋がる大きな階段がある。
一階の捜索だけでも骨が折れそうだが、幸いにも二階から足音が聞こえたのでアズマは迷わず階段を登った。
軋む音から、建物が如何に老朽化しているかをうかがい知ることができる。子供が遊び場にするには少し危険過ぎる。
「とっとと取り壊せばいいのに、いつまでもこんなとこ残しておくから」
そうつぶやくのは、町への批判が半分と怯える自分を誤魔化すのが半分である。アズマからすれば老朽化した建物よりも、霊的な存在が居るのではないかという懸念が何よりの不安材料だった。
おっかなびっくり二階へ上がると、薄暗い廊下が左右に広がっている。どっちだろうか。どっちにも行きたくないが。
アズマは目を閉じて耳を澄ませてみる。子供の声が聞こえないだろうか。そう思っての行動だったが、聞こえたのは予期せぬ音だった。
食器を洗う音。誰かと駆けっこをする息遣い。歌。小鳥の囀り。
『アズマは、優しい匂いがするね』
はっきりとそんな声が聞こえて、ハッと目を開ける。視界に広がるのは薄暗い闇で、聞こえるのは廃墟らしい不気味な無音である。
「今のは。……俺はここを知っているのか?」
そう思った途端、この不気味な洋館の匂いはとても懐かしいものである気がしてきた。そうだ、俺はここの匂いを知っている。
弾かれたようにアズマは階段を下りていく。そして一階の大広間にある壁の一つをよくよく探した。思い出したのだ、そこに自分の名前を彫ったことを。
『アズマ・オーベルライト』
その名前が拙く記されている壁を見つけ出し、そこよりもさらに低い場所に彫られている文字を手さぐりで探す。そして、探し当てた。
『ソニア・ジグワース』と彫られた名前を。
そこは彼女との思い出の場所。お互いの身長を競い合うように彫った壁。
間違いない。この家だ。この家が、彼女の。
――――わああああああああああああああ!
記憶の追想は、洋館内に響く子供の叫び声によって中断された。
アズマは気を取り直して、急ぎ声の方へ走りだす。暗い廊下をしばらく走り、二階のある一室に辿り着いた。
扉は半分開いている。勢いよくアズマはその部屋に飛び込むと。
「嘘、だろ」
――――そこに居るはずのない、いや居てはいけない存在。
人間が怪人と銘打つその生き物が、部屋の中央で佇んでいた。
頭頂部が悠々と天井に着くその大きさは二メートルと少し。顔面は醜悪な瞳が三つ、逆三角形の作るように並んでいる。
しかしもっとも特筆すべきはその腕の多さと長さだろう。右腕が七、左腕が八つとアンバランスに思える黒い腕は、怪人の身長よりも遥かに長い。
何故、町の中に怪人が?
そんな疑問は怪人に捕らえられている少年を見て、すぐさま吹き飛んだ。
怪人はその奇怪な全腕で、キッシュと呼ばれた男の子を持ち上げていた。四本はキッシュを持ち上げるために、残りの腕はキッシュの体を何かを確かめるようにして触診している。
その間キッシュは涙を浮かべて、何もできないでいた。声を上げようにも、口は怪人の手で塞がれている。数秒の間に、何千という死の覚悟を強いられていた。
だからこそ濡れた瞳がアズマの姿を捉えた時、抑える怪人の手の中で「助けて」と縋るように叫ぶ。
だがアズマに何が出来るというのか。それはアズマ自身が一番理解していた。
「どうする、どうすれば」
アズマは必死に騎士団に入るためにしてきた勉強を、テキストの内容を思い出す。しかし思い出せるのは逃げ方ばかりである。
無理もない。テキストに乗っているのは殆ど怪人からの逃げ方である。戦い方を学ぶのは、騎士団に入団してからだ。
それでもアズマは自分の記憶を辿る。逃げ方以外を必死に検索する。絞るように脳を使っているからか、脳に生えわたる血管がジクジクと痛みだした。
だがその甲斐あってか、ひとつの打開策にようやくたどり着く。アズマは弾かれるようにして周囲を見渡し、その部屋が音楽室であり、ピアノが置かれていることに気づくと、ピアノの方へ向けて疾走した。
鍵盤よ生きていてくれ。祈るようにアズマは、両の手で鍵盤を思い切り叩きつけた。
響く耳触りな不協和音。
その音に怪人は少しばかり反応を見せる。その隙を逃さず、アズマは叫んだ。
「こっちだ! 馬鹿野郎!」
怪人のキッシュを触る手が止まる。
「お前が欲しいのはそっちじゃなくて、俺の方じゃないのか! 見ろよ! 俺の方がずっと元気そうだろう! ええ!?」
怪人に音の方を襲う習性はない。だが注意を惹き付ける効果はある。アズマにはそれが必要だった。
詳しいことは分かっていない怪人の性質だが、ひとつだけハッキリしていることがある。襲う対象には優先度があり、気力が有り余り、肉体が強靭な方を狙うというものだ。
牛を使った行商人が襲われる時はまず牛から狙われるし、幼い子供のいる家族が対象になった時は父親が対象になりやすい。
そして今、怪人の対象はキッシュからアズマへと移った。キッシュは怪人に支えられていた手を突如離され、尻もちをつく。
無傷とは言えずとも、キッシュは解放されたのだ。
「お、お兄ちゃん!」
「馬鹿! 声を上げるな! いいか、お前はこの屋敷を出て、騎士団にこのことを伝えるんだ!」
「でもお兄ちゃんが!」
「俺は大丈夫!」
アズマは怯えという本心が見破られないよう、不敵に笑ってそう言いのける。
「頼むぞ! キッシュ、でよかったか? お前の勇気を見せてくれ! 全部終わったらあの悪ガキ共を一緒にぶん殴りにいこう! だから、頼む!」
「わ、分かった」
キッシュは竦む足に鞭を打って、音楽室の出口へと向かった。怪人はキッシュのことなど目もくれず、アズマに向けてじりじりと近づく。
そのお陰でキッシュは見事、音楽室の外へと脱出することが出来た。
「ふぅ。さて」
アズマは自分を奮い立たせるように徒手格闘の構えをする。それもまた騎士団へ入るために学んだ型の一つだ。
にじり寄る怪人の動きを注視しながら、アズマはどうすれば最善かを思案する。
まず、ここから逃げることが一番悪手であると考えた。
怪人の標的は現在、間違いなくアズマである。そのアズマが洋館から出れば、怪人も洋館の外へ出ることになるだろう。
そうなれば町はパニックになる上、被害者が出ることは免れない。
だが時間稼ぎをするには戦力があまりに乏しい。怪人が本気でアズマを仕留めようと思ったのなら、ものの数秒も持たないのは火を見るより明らかだった。
ならばひとつしかない。キッシュを信じること、そして。
「来い」
――――自分の命を捨てること。
怪人は観察が済んだのか、行動を開始する。その触手のような腕をアズマの元に伸ばした。先ほどのキッシュと同じように縛りあげようとするつもりだろう。
アズマはピアノを盾にしてひとまずそれを過ごそうと考える。だが、甘かった。
怪人の腕にとって、ピアノなどは障害物にもならない。腕はピアノをかわそうともせずピアノを粉砕して突き進む。
慌てて後ろに飛び退くが、それが隙になり仇となった。
空中でうまくかわすことが出来なくなったアズマの右足は、ピアノに目もくれなかった怪人の別の腕に引っ掴まれる。
バランスを失い不格好に倒れるアズマは、軽々しく持ち上げられ怪人の顔のすぐ近くまで引き寄せられた。
アズマ自身、怪人と遭遇するのは初めてではなかったが吐いた息が跳ね返るような距離まで近づくのは初のことである。
三つの眼が、アズマの顔をじっと見つめる。ずっと開いているように見えたその眼も、近くでみると瞳の中に瞼があり、その奥にもう一つ眼球があるということに気付いた。
「変な眼だな」
その言葉は間違いなく強がりだったが、口元に浮かぶ笑みはそれだけではない。アズマの企てた作戦が成功したからだ。
怪人は死体を弄ぶ。
その時間に個人差はあるが、少なくとも数時間は見積もれる。それだけあればきっとキッシュの呼んだ騎士団が来てくれるだろう。
だから成功なのだ。これで。
アズマを掴む怪人の手に力が籠り始める。そしてついに、怪人の凶悪な握力はアズマの両の腕を握りつぶした。
「――――!」
筋肉の繊維が断たれる感覚は恐ろしいほどの激痛で、声にならぬ声が喉を激しくふるわせる。
裂けた肉の割れ目からは粉々に砕けた骨が毀れ、弾ける赤黒い血液の量は並々注いだコップの水をひっくり返したほどである。
辛うじてアズマのシルエットは両の手を残してはいたが、潰れかけの肉の繊維と皮がそれをギリギリ維持しているに過ぎない。
痛みと絶望の狭間で、アズマは流石に自分の選んだ選択を少し後悔する。
心の底から死ぬ事が恐ろしくなった。だがもうどうしようもない。
これでいい。
どうしようもないのなら仕方ないと諦めるしかないのだ。瞳に浮かぶ涙は両手が潰れてしまっているので拭えない。
「ごめん」
掠れる声は妄りに助けてしまった少女に向けてだった。
そんな不甲斐ない自分が許せなくてアズマは歯を食いしばる。腕はひしゃげて、足は宙ぶらり。抵抗の一切は否定されていた。
悔しい、悔しい。
だからせめて眼を見開いて、自分を殺すその存在を勇ましく見続けてやろう。
その一心でアズマは瞳を閉じなかった。
閉じない瞳が捉えたのは、閃光の如く現れた少女の背中である。
アズマを縛りあげていた怪人の腕は、華奢な少女の素手によってバラバラに引き裂かれた。そのプロセスをアズマは確かに見開いた瞳で捉えたはずである。
だが理解が出来ない。認識がまるで追いつかない。
つまりその手刀は、人間の知覚を遥かに超えた速度を持っていた。
体制の崩れたアズマが尻もちをつくコンマ数秒の間に少女は地面を蹴り上げ、怪人の顔面へと急速に捻り寄る。
その顔面にぶち込むのは、痛烈な飛び蹴りである。大木が捩じ切れるような強烈な破裂音と共に、怪人は屋敷二階の一番端まで吹き飛ばされていった。
「じゃ、ジャバウォック」
「アズマ、大丈夫ですか?」
「は、はは。すげぇ力だな。ともかくありが……っぐ」
お礼の言葉は、両腕から迸る激痛に邪魔されてしまう。地面へ崩れ落ちようとするアズマを、ジャバウォックは慌てて支えた。
「無理しちゃダメです」
ジャバウォックによって蹴り飛ばされた怪人によって開けられた壁の穴から、衝撃音が響く。すると土煙の彼方から、多数の腕を持つ化物の影が見えた。
「あんな一撃を受けて……まだ死んでないのか」
「あれはあの程度じゃ死にません」
「万事休すか」
「そうでもありません。倒し方は分かります」
「倒し方だと? そんなもん、あるわけ」
「あります。アズマになら出来ます」
「俺に? どうやって」
「私を装着するのです」
「またそれか。って」
アズマは思い出す。
足元から出現し、アズマのことを縛りあげた鎖のことを。ジャバウォックが居るということは、あの鎖もまた夢ではなかったということである。
ならば、あの鎖は一体なんだ。
「装着ってなんなんだ」
「私の鱗をあなたの鎧にすること。そうすればアズマは万物不当の存在になれる」
言っている言葉の意味は相変わらず分からない。だが殆ど無傷の怪人が、いよいよすぐ目の前にまでやってきた時、言葉の意味などはどうでもよくなった。
「装着すれば、あいつを倒せるのか? 町の人を守れるのか?」
「はいです。あなたの望みは全部、私が叶えます」
「なら装着でもなんでもやってやるよ。でも最後に教えて欲しい。君はなんで、俺にそこまで尽くす?」
「……私は、アズマの優しい匂いを追ってここまできました。アズマの匂いに何度も、何度も助けられてきたのです。ですから、今度は私が助ける番なのです」
――――アズマは、優しい匂いがするね。
記憶の少女と、ジャバウォックの言葉がリンクする。
アズマの中のぐちゃぐちゃな記憶が、少しずつ形を成していく。そしてようやく大事な記憶に辿り着いた。
「あとでお前に話さなくちゃいけないことが出来た。でもその前に、あいつを倒す」
「うん」
アズマは力を振り絞り、怪人を正面にして立ち上がる。ぶら下がる両腕を必死に持ち上げ、怪人に向けて構えた。
そして少女はアズマの後ろに回ると、そっとアズマの腰に手を回す。
「装着とやらをするとして、俺はどうすればいい?」
「ただ前を見て、私を受け入れてくれればいい」
「分かった」
「行くよ、アズマ。装着……〈ジャバウォック〉」