3.記憶
汽車の発車ベルが鳴り響く。プラットフォームを行き交う人々は一様に忙しない。
戦争の予感に故郷から逃れてきた者、その逆に故郷へと帰る者……その年のユエルは、誰もが生きるために精一杯だった。
アズマはそんな人混みの中で、まるで濁流に流されない大木のように突っ立っている。
どこか虚ろげな表情を浮かべるアズマの視線の先には、二人の少年少女。
ぐずる少年と、気丈に笑う少女の様子から、少年が汽車に乗るのを嫌がっているようにも見えたが、汽車に乗るのは少女の方だとアズマは知っていた。
「本当に行っちゃうの?」
「うん。私、行かなくちゃ。これ返すね。ごめんなさい、汚しちゃって」
そう言って少女は少しだけ血の滲んだハンカチを少年に渡す。しかし少年はそれを受け取らなかった。
「あげる。今、僕があげられるのはそれぐらいだから……」
少女は少し驚いた顔を浮かべた後、愛おしそうにハンカチを胸元で握りしめる。
「ありがとう。大切にする」
「……い」
少年は何かを言いかける。だが、慌てて涙を拭うと言いかけた言葉も拭い去るように首を横に振った。
「いってらっしゃい」
「うん」
少女は笑ってそう答えた。
それはアズマの古い記憶。
少し心が弱ると、いつもアズマはその夢を見ていた。
それも、これは夢であると夢を見ながら認識が出来る類のものだ。
夢の中で昔の自分を見るのは、きっとこの時の自分を後悔しているからだろう。その夢を何度も見ている内に、アズマはそう思うようになった。
あの時言わなくちゃいけなかったのは「いってらっしゃい」なんて言葉じゃない。
けれど彼女を止めるような言葉をかけるのが怖かった。
だから「いってらっしゃい」の言葉に全てを丸投げた。
リスクから逃げたのだ。俺は、逃げた。でも何から逃げたんだ?
アズマは少女がどこかへ行くのを止められず後悔していた。だが、何故後悔していたのかがどうしても思い出せない。
きっとその時何かに気づいていたのだろう。気づいていながら、知らないふりをしたのだ。
それが何だったのかを今も思いだせないのは、未だに逃げているからなのではないか。
その考えは、アズマの人格形成にまで影響を及ぼす。
アズマが他人に全力で善意を向ける理由は、まさにこのトラウマが起因していた。
しかしながら、このトラウマも奇妙なものである。
何故ならアズマは、この夢の中心となっている少女の名前すら思い出せないのだ。
名前も知らない。顔もおぼろげ。しかし大切だった気はする少女。
いつも誰なのか必死に思いだそうとして、結局何も思い出せず後悔を抱えたまま夢から覚めてしまうのである。
だがその日、夢は初めてアズマに続きを見せた。
プラットフォームに立っていたはずのアズマは、いつの間にか全く違う場所に佇んでいた。
彼が立つのはパルコラの大通り。そこで彼が見たのは、灼熱の炎に焦がされていく故郷の姿だった。
馴染みの家は瓦礫と化し、見知った人々は荒れ狂う炎から逃げ惑っていた。
焦げ付くような熱波は、皮膚をじりじりと焦げ付かせる。喉も酷く乾いた。身体中が鉛みたいに重い。目に入りそうになる火の粉を片手で防ぐのがやっとだった。
何故急にこんな夢に。大昔に体験した戦争を思い出しているのか? そんなはずはない、アズマはこんな前線じみた戦争を体験してはいない。
アズマは周囲を見渡して、逃げ惑う人々を探した。夢であろうと、困っている人は助けたい。こんな状況でも自分に出来る事はなんだってしてやる。だが気づかぬ内に、アズマの以外の人影は忽然と消え失せていた。
みんな死んでしまったのか。絶望的な心情から少しでも逃れるように、彼は虚ろな表情で空を見上げる。
「……。なんだ、アレ」
身体を押し潰すような威圧感に、腰が砕けそうになる。それは、立ち上る火柱を突き破って現れたその生き物を直視したからだ。
『ウウウウウウウ……』
おとぎ話の常連で、誰もが畏れる伝説の生き物。
空を覆うような翼を持ち、両の手には鋭い鉤爪。その皮膚に通る矢はなく、牛を丸のみに出来るぐらい大きな顎からは全てを溶かす灼熱の息を吐く。
竜。もしくはドラゴンと呼ばれる最強の幻獣。
紛れもなくそう呼ばれる生き物が、アズマの目の前に君臨していた。
あまりにも荒唐無稽。思わずアズマは噴き出しそうにすらなる。
「なんて夢だよ。町ぶっ壊されて、竜は現れて。夢ってのは深層心理だって聞くけど……ここまで俺は自暴自棄になっているのか」
アズマは竜を前にして、驚くほど淡々としていた。夢だと気づいていれば、いかに恐ろしい存在が現れようと怯えることはない。かと言って、別にあがくつもりもなかった。
「この竜にパックリ食われて目が覚めるってところか」
アズマはその場に座り込むと「さぁ、ひと思いに」と竜に対するあらゆる抵抗を放棄した。悪夢ならとっとと醒ましてしまうのが一番である。
「……」
しばらく目を瞑って待ってみるが、丸のみされるような気配はない。何をもたもたしているんだと、アズマは薄目を開けて竜を見てみる。
――――すると、どうだろうか。竜はアズマを食す所か、アズマに対して頭を垂れていた。
「……く」
なんだか笑いが込み上げてくる。
竜が出てきたと思えば、することはうちの犬と同じじゃないか。竜に対する自分の想像力の貧弱性にアズマは自嘲する。
燃え盛る町で、アズマは口元に笑みを浮かべながら竜の頭を撫でてやる。金属のような硬さと、生物特有の産毛の感覚が合わさって変な触り心地だ。
この生き物は愛おしい。そんな気持ちが溢れて、アズマは竜の額に、抱きしめるように身体をぴったりとくっつけた。
『ウウ……』
竜は小さく唸る。敵対するような鳴き声ではない。丁度、首元を撫でてやった時の飼い犬と同じような声。
アズマはいつまでも名も知らぬ竜とそうしていたいと思った。
しかし夢の終わりは唐突である。
アズマは急に身体の自由が利かなくなったのを感じた。突如、謎の鎖が足元から現れてアズマの身体をキツく締め上げたのである。
「あ? うおおおおおおおおおおお!?」
ついに、つま先から頭頂部までアズマの身体は簀巻きのように縛りあげられてしまった。鎖のせいで前も見えず、喉も縛られて声も上げる事が出来ない。
一切合切の自由が奪われたのである。
アズマは暗闇の中で、鎖に飲み込まれる寸前に見た竜の目をふと思い出す。少なくともアズマはその目から感情を読み取る事は出来なかったが、瞳の奥が金色に輝いていて印象的だったのだ。
意識が薄れていく。
ああ、きっと夢が醒めるのだろう。なんてよく分からない夢だ。とっとと目覚めてしまおう。アズマは率先して意識を失おうとした。
完全に意識が途絶える瞬間、「やっと見つけた」と言う誰かの声が聞こえた気がしたが、眠ろうとするのに忙しいアズマは特に気にすることはしない。
深淵に、落ちていく。
夢から覚めたアズマは、ベッドの上で跳ね起きた。
額に手をやればべったりと汗がつく。窓を見やれば地平線に沈みかけの月が見えた。どうも朝と呼ぶには、まだ早すぎる時間らしい。
「変な夢」
忌々しげにそう呟いて寝直そうとした折り、アズマは自分の掛け布団がやけに膨らんでいる事に気付いた。
いや、それ以上にもっとおかしな点がある。明らかに身体が重い。掛け布団に覆いかぶさって見えないが、何かがアズマの身体に乗っかっているのだ。
「ノックか。ベッドに潜り込むのは止めろって……あれ?」
ノック――――飼い犬はアズマの視線の先、食べ終わった後の餌入れの前で幸せそうに眠っている。つまり、アズマに乗っかっているのはノック以外の何かだということだ。
「なら、一体」
思わず生唾を飲み込む。その物体は、丁度アズマの下腹あたりに居るようだ。
よくよく感覚を研ぎ澄ませれば、足にも生々しい体温が感じる。どうも人間の子供ほどのサイズのようだ。そしてもう一つ気付いた事がある。寝息を立てている。間違いなく生物らしい。
「……よし」
アズマは腹を括り、掛け布団にそっと手を掛ける。ゆっくりズラすか、一気に引き抜くかを逡巡して、一気に引き抜く事に決めた。
宙を舞うかけ布団、派手に散るのはアズマの寝汗。
――――そして、アズマの上で寝息を立てる、長く艶やかな黒髪の少女。
時が止まったような錯覚を覚えるのも無理はない。すぐさま理解出来るような状況ではなかったが、アズマそれでも状況を飲み込むために少女をよく観察してみる。
布切れのようなローブは所々穴が空いていて、足も土で随分汚れている。裸足でここまで来たのだろうか。
少女は丁度、アズマの腹部に顔をうずめる形になっているので人相を窺うことは出来ない。ただ間違いなく自分よりも年下であることは見た目からして明らかだった。
顔をもっとちゃんと見たいと思い、慎重な動作で少女の顔に手を近づける。その動きが、少女の目覚める切っ掛けとなった。
「ん……ぅ」
「お、起きた?」
「……」
寝ぼけ眼の少女は真っすぐにアズマと視線を合わせる。端正な顔。だが、それが余計に右目の下にある切り傷のような銀色の瘡蓋を余計に際立たせていた。
少女はにへらぁと笑い「アズマが居ます」と嬉しそうに呟く。
「アズマって。何でお前、俺の事を……って、あれ」
似ている。夢の中で、後悔の中心となっている少女に。
だがそれはあり得ないはずである。
もしもそうだとするなら、この子は殆ど歳を取っていない事になる。
「お、お前は一体……って」
アズマの頬が上気したのは、少女が上体を上げた事によりローブが少しずり落ちたからである。少女はその布切れのようなローブの他には何も衣服を纏っていないようだ。
瑞々しい肢体が、月明かりに照らされて生々しく輝く。
「お、おっぱ……」
「アズマ、顔が赤いですよ?」
慌ててアズマは視線を反らす。
「誰のせいだ! お前は一体誰だ。勝手に人んちに侵入してきて」
「私はジャバウォックです」
「じゃば、何?」
聞いた事もない名前だ。名前らしい名前と思えない。少なくとも記憶の中の少女はそんな名前ではなかったはずである。
「ジャバウォック」
「……俺にそんな知り合いは居ない」
「そうですか。でもいいのです。やっと会えました。今までの我慢が……やっと報われた」
「我慢? って……おい、近い、ぞ」
少女はアズマの胸元に顔を近づけると、ほんの少しの空気も惜しむようにアズマの匂いを吸い込む。吐き出される艶めかしい吐息の温度を胸板で感じて、アズマは余計に頬が赤くなった。
「何やってるんだよお前」
「アズマの匂いをくんくん嗅いでます」
「止めろ、こっぱずかしい!」
とっさに少女を押し退ける。
少女はベッドの上で、薬物の過剰摂取でもしかたのようにビクビクと身体を震わせていた。表情がとんでもなく幸せそうな所が、なおさらそれらしい。
「はい。しばらくやめます。直接、こんな風に嗅ぎ続けたら、私、しんじゃいます」
「俺の匂いを嗅いで、どうしてそうなるんだ」
「だって……アズマの匂いですから」
「……っ。分かった。今のまま話しても、何も分からない。色々と整理して話そう」
アズマが何に頭を悩ませているのかが分からない少女は、不思議そうに小首を傾げた。
夜明けの手前であるが、アズマはすっかり目が冴えていた。謎の少女が突如現れたのだから無理もない。木製の机を隔てて座る少女もまた、眠たげな様子はなかった。
「よし、まず一つ目の質問だ。名前は?」
「ジャバウォックです」
「うん、まぁそれは分かった。ジャバウォックさん、君は俺を知っているんだよな」
「アズマです!」
「うん、元気がいいね。で、どこで俺の名前を?」
「昔です」
「昔? ……それで、ここに来たのは?」
「約束をしましたから。また会いましょうって」
「約束?」
「はい。これを貰った時に」
そう言うと少女はローブのポケットから布切れを取り出し、アズマに見せる。
「なんだそれ?」
「ハンカチです」
「ハンカチぃ? ……また随分ちっちゃい……ハン、カチ」
夢でもみたあのハンカチ。汚れと損傷で小さな布切れにしか見えないが、それが紛れもなく自分が渡したものだとアズマは気づく。
「だとしたら、君はやっぱりあの子なのか?」
「?」
「でもやっぱりそれはおかしい! だって何で、そのままなんだ。殆ど、歳を取ってないじゃないか」
「歳はとりません。そういう風に作り直されましたから」
「作り直された?」
「アズマは気にしなくていいのです。それとアズマ。一つだけお願いしてもいいですか?」
「お願いって」
少女はおもむろに立ち上がると、アズマの座る席の後ろに立つ。何をされるのかと緊張するアズマを、少女は後ろから優しく抱きしめた。
「な、なんだ」
「私を装着してほしいのです」
耳元で少女が囁く。濡れた吐息が耳にかかり、アズマをどぎまぎさせた。
「装着って、何を」
「私をです。あの、すみません、辛抱たまらないのでもうしてしまいますね」
「え、あ?」
アズマの足元から発生したそれは鎖。一体それがどこから沸いたものなのか、鎖はアズマの身体の自由を忽ち奪う。丁度夢で見たソレと同じ鎖のように思える。
「おっぐ、何を!」
「大丈夫。すぐにおわります」
「何が!」
「さきっちょだけです」
「だから何が! ぐおおおおおおおおっ!」
鎖は夢と同じようにアズマの視界を奪い、自由を奪い、そして意識を奪う。
ああそうか、とアズマは一つの真実に気付いた。
夢の中で夢を見るという奇跡。
そう、これは。
「また夢かよ! むぐぅうッ」
鎖はたちまちアズマの口も塞ぐ。椅子に縛られるように鎖で簀巻き状態にされたアズマは、そのまま床に転げ落ちた。
目も見えず、身体も動かせない。こんな夢を悪夢と言わずして何と呼ぶのか。
少女に対する思いが困惑から、怒りへと変わり始めた時である。
ぼぅっと真っ黒い視界の中心に蒼い炎が見えた。どこかで見た気がする炎。しかし何だったか思い出せない。
炎はアズマの視界を埋め尽くすほど大きくなり、それは閃光となる。
痛烈な閃光だったがやがてその眩しさを潜めていくと、今度ははっきりとした景色を描きだした。
――――それは、アズマがどうしても思い出せなかった記憶の一部。
母親の後ろに隠れ、恥ずかしそうにこちらの様子を窺う少女が居た。
話したいけれど自信がなくて出来ない少女の気持ちを汲んで、アズマは手を差し出す。
「よろしくな」
アズマは早くに両親を流行り病で亡くして、祖母の家で生活を送っていた。
ウォレスなど幾人かの友人は居たが、それだけではとても彼の孤独は拭い去ることは出来ない。
だから、新しく町に引っ越してきたその少女と繋がりを持とうとしたのも孤独を少しでも紛らわせるためでもある。
少女はその手を遠慮がちに、アズマの手をおずおずと握る。アズマが笑うと、少女もつられて微笑んだ。
それからアズマと少女が友達となるのにそう時間は掛からなかった。
その少女は気が弱くて、少しおっちょこちょいだったけれど、同い年の誰よりも聡明で、人に物を教えるのが得意だった。
町の図書館や、お互いの家でよく遊んでいた記憶が片隅に残っている。
アズマは少女と過ごす時間が大好きだったし、少女もまたアズマと過ごしている時は優しい笑顔を浮かべていた。
いつしかアズマにとって、その少女は孤独を紛らわせる以上の意味を持つようになる。
そんな彼女から聞いた、とある騎士のお伽噺。
今でもその物語だけはハッキリと覚えている。
何者にも仕えず、悪を光の剣で退治する騎士の姿が描かれた単純な物語だったけれど、アズマはその物語に強く惹かれたのだ。
アズマはその話をするよう何度も少女に頼み、その度に少女は。
「これで最後だから、ね」
と恥ずかしそうな顔をして、話をしてくれた。
そんな騎士の物語を繰り返して聞くうち、アズマは本当の騎士になろうと決意する。
少女はそんなアズマの夢を応援し、アズマもまた少女の期待に応えようとした。
だがそんな日々もそう長くは続かない。
少女は勉学に励むため、他国へ留学に行ってしまったのだ。
そう、留学だ。彼女は留学へいったんだ。
少女が多くの事を学びたいと思っていた事は知っていたし、教育熱心な彼女の両親を見て、いずれはこうなると勘付いてもいた。
でも何故、留学へいくことを止めようとしたのだろうか。
いや、そもそも何故今になって思い出した。何故今まで忘れていた。
記憶を思い出せば思い出すほどに、謎が溢れていく。
だが幾千の謎よりも、たった一つの真実がアズマにとっては重大だった。
――――そうだ、そうだよ。この子は俺に騎士になる理由をくれた子だ。
景色が遠くへ離れていく。それと同時に思い出したことも離れていく気がして、アズマはもう二度と忘れないよう頭の中で思い出したことを反芻した。
やがて目が覚める。
いつもの部屋だが、アズマは床に転がっていて、自分の腹の上では少女が安らかな寝息を立てている。
「思い出した」
アズマは自然と瞳から零れる涙が止まらない。思い出せなくてもずっと追いかけていた。探していた少女がそこにいる。
「思い出せて、良かった」
それだけで何もかもを捨てていいと思えるほどに幸せだった。
「アズ、マ?」
目が覚めた少女は、はっきりとしない意識のままアズマを見つめた。
そんな少女の小さな体を、アズマはぎゅっと抱きしめる。
そんなことをされると思っていなかったのか、少女は顔を途端に赤面させ「ふぇ?」と声を漏らした。
「俺、思い出したから。色々とまだ分からないこともあるけど、でも思い出したから」
「アズマ」
「俺はもう、逃げないから」
少女はアズマの流す涙の理由を少し考えたが、それよりも、すぐそこにある幸福に没頭することにした。
「アズマは……やっぱり、いい匂いがします」
部屋にはしばらく、男のすすり泣く声だけが響いた。