第一章1話 暗転した意識の先
「痛え……」
伊賀良昇祐はそう呟きながら目を覚ます。
そして体の痛みよりも、もっと重要なものを思い出す。
「あ!まずい!ボールが!」
あと一歩のところまで漕ぎ着けた甲子園へのキップを、ここで逃すわけにはいかない。
ボールを一塁へ送球するため、辺りを見渡す。
違和感は辺りを見渡しきるより早く、すぐに生じた。
「ここは……どこだ……?」
辺りにはキャッチャーもバックを守る内野手もバッターもいない。
自分がいる場所にあったはずのマウンドもない。
挙げ句の果てにいる場所はスタジアムですらない。
あるのは沢山の木々と地面に広がる落ち葉のみである。
そしてすぐに気づいたことはもう一つ、
「野球のユニフォームじゃない……?」
そう、昇祐が来ているのは野球部の試合用ユニフォームではなく家にある私服である。
もっとも学校と野球で埋め尽くされた毎日の中では、私服を着る機会など数えるほどしかないが。
意味の分からない状況に混乱するしかない昇祐だが、すこし離れた茂みの影から視線を感じる。
その茂みの方へ視線を向けると、そこには野犬がいた。
よだれを垂らしかなり腹を空かせている様子だ。
しかも今まで昇祐が目にしたことのある犬の中で、トップクラスの大きさである。
遠くからの見た目で野犬だと判断したが、その様子や大きさを見るとオオカミのような気もしてくるし、はたまたどちらでもない危険生物のような気もしてくる。
しかしどんな生物であっても、命の危険が迫っていることには変わりない。
恐らくあの野犬は自身を襲う気だろうと確信する。
昇祐はすぐに立ち上がり威嚇のために、近くに足元に落ちていた野球ボールの半分程度の大きさの石を拾い上げ、野犬に向かって投げつける。
石は野犬に向かって一直線に飛ぶ。昇祐が放った石が野犬に命中することは無かった。
野犬は昇祐が石を投げたのをを見て、あっさりと左に避けてしまった。
「……マジか」
想像以上に威嚇にならず、なんだか拍子抜けしてしまう。
今の感じだと何回投げても結果は変わらないだろう。
いつ襲ってくるか分からない野犬に対し、意味の無い威嚇をしている暇などないだろう。
かといって何か得策があるわけでもない。
何もしないよりはマシだと、もう一度石を拾い上げる。
その石は昇祐にとって握り慣れたあるものに酷似していた。
「これ、ほぼ硬球だ……」
大きさは多少小さいが、形はかなり球体に近い。
何故丸い石が森の中にあるのかは分からない。
近くの川から、誰かもしくは何かが持ってきでもしたのだろうか。
その石を見て、昇祐はあることを思いつく。
考えたことを実行に移さない手はない。
すぐに足をあげ、投球動作に入り、昇祐の手から放たれた石はまた野犬目がけて飛んでいく。
先ほどと似たような軌道の石が飛んでくるのを見て、野犬はすぐさま昇祐から見て左側へ飛ぶようにして避ける。
それを見て、昇祐はニヤリと笑った。
石は軌道を変え左側へ鋭く大きく曲がり落ちる。
野犬がもう一度避けようとする前に、石は野犬の横顔に直撃した。
「俺のスライダー、なめんじゃねえ!」
昇祐はそう叫ぶ。
想定外の石の軌道と昇祐の叫びに怖気付いたのか、野犬は踵を返し茂みの奥へ逃げ帰っていった。
「危なかった……マジで命の危機だったんじゃねえか、今の……」
咄嗟の機転で野犬を追い払うことに成功したが、昇祐の元へ残ったのは初めて感じた命を狙われることに対する恐怖心だけである。
しばしの間、昇祐は呆然としていた。
しかしここに突っ立っていては、また命を狙われかねない。
先ほどの手がまた通用するとは限らないのである。
「この森の外へ出てから、全部考えよう」
そう呟いて昇祐は見当もつかないまま、森の外を目指し歩き始めた。
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歩きながら、昇祐はあることを考える。
それは自分が今置かれている状況ではなく、自分が投げられるボールのことだ。
先ほどの手に思ったより手応えを感じたのか、何気なく自分の投手としてのスペックを思い出す。
ストレートの球速は平均して133キロ程度。
高校球児の中で言えば、中の上程度だろう。
変化球は投手から見て左に大きく曲がるスライダー、右に小さく曲がるシュート、下に大きく落ちるフォークの3球種。
スライダーにはかなり自信がある。
スライダーとシュートに関しては重力があるので、曲がるというより曲がり落ちるという表現の方が正しいのかもしれない。
コントロールも決して悪い方では無いと自負している。
あらかた自身のスペックを考えたが、先ほど野犬を追い返せたのはかなり奇跡に近いことにも気づいた。
足元に球体に近い石が落ちていたこと。
野犬がスライダーが曲がる左方向へ避けたこと。
石がぶつかった程度で野犬が去ってくれたこと。
これらが全て揃ったおかけで、昇祐は森の外を目指して歩くことができている。
また同じ状況になってもさっきの手が通用する可能性は低い。
先ほども考えたことをもう一度確認し、自然と森の外へ目指す足は速まる。
考えていたことが一段落して歩き始めてから、昇祐はやっとズボンのポケットの中にある異物に気づく。
「意味分かんねえ状況の中で、さらに意味わかんねえもんがポケットに入ってんのか……?」
ここまでポケットの中に入ったままでも何も無かったことを考えても危険なものである可能性は低いが、無意識の内に若干焦りながらポケットの中に手を突っ込み、異物を掴む。
掴んだ瞬間、慣れ親しんだ感触を覚えポケットの中に入ったものが何であるかおおよその検討がついた。
とにかく取り出してみる。
「やっぱりこれだよな……感触で分かったが何でポケットに入ってんだ……?」
取り出したものは、真っ白な生地に赤い2つの縫い目が刻まれた紛れもない硬球である。
高校3年の夏まで毎日触り続けたものを見間違えるはずもない。
しかしポケットの中に硬球が入っている理由については、まったく検討もつかない。
「これも、森の外に出たら分かんのかなあ」
森の中で1人で悩んだところで答えが出るような問題ではないと判断し、昇祐は再び歩き始めた。
雨が降った後なのか、かなり湿っている地面を踏みしめながら歩いていると一つの光明が見えた。
「外じゃ……ないか?」
まだ遠くはっきりとは分からないが、ここまで見てきた景色と同じように木々が続いている風ではない。
自身が想定していたよりもかなり早く森の外が見えたことに、昇祐はなんだか拍子抜けしてしまった。
最低でも数時間、下手をすれば半日ほどかかると予測していた。
現在の時間が分からないので何とも言えないが、最悪野宿すら覚悟していた程だった。
幼い頃、ボーイスカウトのキャンプに参加した際グループからはぐれ半日森の中を歩き回ったのを思い出し苦笑する。
しかし予測に反し、森の外が見えたのは歩き始めてから30分ほど。
想像よりも遥かに速い到着だった。
森の外へ出れるとなれば、うだうだしている暇は無い。
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しばらく歩いた森を抜け、ここがどこであるか確認しようとする。
しかし、
「は……?ここどこだよ?」
広がっていた景色は、それなりに人通りがある商店街のようだった。
しかし昇祐が知る商店街とは様子が大きく異なる。
石畳の地面、レンガや木で建築された建物。
いわゆる、中世や近世ヨーロッパというのが昇祐が持つ知識の中でもっともらしい例えだ。
通る人々の服装もどことなく近世ヨーロッパのような感じがする。
しかし昇祐が人々について最も違和感を覚えたのは別の部分だ。
髪色が様々すぎるのだ。
黒、茶、金、銀、オレンジ、青、紫……
歩いている人々を見る限り、どの髪色が多いなどは特に無い。
色が多すぎて多数派と呼べる髪色が無いのだ。
なんにせよ昇祐の知っている場所では無いということだけは確かだ。
「とりあえずあそこで何か売ってるおばさんにここがどこか聞いてみるか」
近くの店で果物の様なものを売っている茶髪のおばさんに声をかけることに決める。
売り物は果物のようであることは分かるが、具体的な名前は昇祐の知識の中には無い。
「あのー、すみません!ここって何ていうところなんですか?」
昇祐に声をかけられ、おばさんは怪訝な表情を浮かべ口を開く。
「▲☆=¥!>♂×&◎♯♪£〇!、¢£%#&□△◆■……?」
「……は?」
何を言っているのか全く理解できない。
聞き取りづらかったか、おばさんがもごもご話していただけだろうと自分を無理やり納得させ、もう一度おばさんに聞こうとする。
しかし口を開こうとした瞬間後ろから肩を掴まれ、無理に振り向かされる。
「おい、お前。ちょっとこっち来い」
後ろから掴んできたのは、紫髪の大学生くらいの男だった。
「いや、お前誰だよ!大体俺は別に……ちょ、ちょっと待てよ……!」
「いいからこっち来るんだよ!」
男は昇祐の手を掴み、無理やり引っ張っていく。
昇祐は男の鬼気迫る表情を前に、無理に手を振りほどくことも出来なくなり連れていかれるがままであった。
「おいおい、俺はホモじゃねえから男に手を繋いでリードされても嬉しくないんだが……」
昇祐の言葉を無視し、男は商店が立ち並ぶ道から逸れ路地裏へと入っていく。
「おいおい……どこ行くんだよ……」
「お前に確かめないといけないことがあるんだよ!」
男が語気を強め、返事を返す。
それに圧倒され昇祐は黙り込むしか無かった。
路地裏に入り、薄暗い中で男が止まり昇祐の手を離す。
「え……?ここなのか……?」
「別にここを目指して来たわけじゃねえよ。ただ表じゃまともに質問もできないからな」
話とはなんなのか。検討もつかない。商店街にいた僅かな間に自分がとんでもないことをしてしまったのか。
もしくはこの男が昇祐に一目惚れしたか。
「いや、男に好意持たれるのも悪いもんじゃないんだけど流石に俺はちょっと遠慮したいかななんて……」
「なんで俺がお前に好意なんて持たないといけないんだよ!」
「いや、だってこれそういう流れじゃないの?」
「違うだろ、どう考えても」
昇祐の軽口にしっかりとツッコミを入れる辺り、対話のできる相手ではあるようだ。
しかし、告白でないのすれば残る可能性としては襲われるや殺されるという可能性が高くなってくる。
「命だけは取らないでいただけないでしょうかね……」
「いや、取らねえよ。俺はお前に質問するだけだ。質問の答えがどうであれお前を殺したり襲ったりするつもりはない。」
その言葉にほっと胸をなで下ろす。
しかしそうなれば質問というのがかなり重要になってくる。
昇祐の不安そうな顔に気づいたのか、男が先に口を開く。
「お前、出身はどこだ?」
「へ?」
全く予想しない質問に困惑する。
何故ここで出身地など聞かれるのか。全く男の意図が分からない。
しかし男は至って真面目な顔をしている。
「神奈川県横浜市……」
「よし、大丈夫だ」
何故か住所を全て言おうとしていた昇祐が言い終わる前に、男が遮る。
そしてもう一つ質問をされる。
「お前、ここがどこか分からないだろ?」
昇祐はド肝を抜かれた。そんな質問が飛んで来るなど予想もしていなかった。
しかしとにかく返事をしなければならない雰囲気を感じ、言葉を返す。
「はい……分かんないっす……」
場所が分からないということを思い出し、一気に不安に駆られ軽口を叩いていた相手に対して敬語になってしまう。
それを聞いた男が口を開く。
「じゃあここがどこか教えてやる。ここは日本じゃない、もっと言えば日本があった世界でもない。」
「は?」
呆気に取られている昇祐を無視し男は続ける。
「ここは……異世界なんだよ!」