露の雫たちの密やかな『カノン』
ああ、これはパッヘルベルのカノンだ。
夜明け前に急に降り出した、スコールのような雨音の中で、寺崎修一がそれに気付いたのは、吉岡真奈美のハミングを聴き始めてからしばらく経ってからのことだった。
「それじゃあ寺崎さん、そういうことでよろしくお願いしますよ」
定番というものなのだろうか、地面に転がっている修一の腹へと手下風の若者が蹴りを入れた後に、ごく自然な流れで兄貴分らしき男がしゃがみ込んで、事務的に告げた。そして、返答など始めから想定していないように立ち上がってきびすを返し、若者たちがその後に続いて立ち去っていった。
実にあっさりとしたものだったが、修一はみぞおち辺りに入った蹴りが効いていて声など出せなかったし、何より自分を袋叩きにした連中を呼び止めるつもりなど毛頭なかった。
息が詰まったままの状態がしばらく続き、ようやくまともに呼吸が出来るように戻ったところで、修一は仰向けになった。終電も過ぎたのか、頭上を渡る路線を走る電車もない。路線は複線とはいえ、その下をくぐり抜ける為だけの、門のような小さな高架下の周囲に人気はなく、深夜の静寂に包まれていた。秋口が近いとはいえ、夜中でもまだ蒸し暑い。
動悸も落ち着いたところで、ゆっくりと体を起こしてみる。節々から鈍い痛みが走るが、怪我は思ったよりも酷くはないようだった。そのまま壁に背を預けて、修一は大きく息を吐いた。右手の地面にはギターを入れたケースが転がっている。連中は依頼を受けた脅しをかけただけで、荷物まではわざわざ壊したりしなかったわけだ。おそらくは“軽く痛めつけて言い聞かせておく”ぐらいの依頼だったのだろう。
ギターが無事だと分かって安心している自分に気づき、この期に及んでまだ未練があることに、修一は苦笑した。
こんな念押ししなくても、妙なマネなんかしないよ。
音楽の道で続けていくことを考え直しているところなのだ。わざわざ騒動を起こす気など、元より修一にはなかったが、しかし、修一が所属していた事務所はそんなこと知る由もない。彼らにしてみれば、表には出せないリスク管理の一つなのだろう。
確かに、この数年間のヒット曲の作詞作曲が、全て一人のゴーストライターによるものだということは、出来れば暴露されたくない類の話だ。
業界の中では弱小だった事務所は、この数年で何組かの売れっ子を育ててヒット曲を連発し、急速にその存在感を増してきた。そのアーティスト達は自ら作詞作曲することを売りとしていて、世間では実力派と評価されている。
それ故に、その実力派達の作品が、一つ残らずたった一人のゴーストライター、修一の手によるものという事実がバレると、さすがにイメージダウンは避けられまい。上り調子の事務所にしてみれば、懐に不発弾を抱えているようなものだ。その不発弾が事務所を辞めると言ってきたため処理をした、といったところか。
もっとも、修一自身にはその事実を暴露するつもりなどなかったのだが。
アマチュアならば、全国レベルの大会での優勝経験も持つ修一は、しかしプロとなるとオーディションに通らず、どこかに持ち込んでも音沙汰なしばかりと、どうにも芽が出ない苦しい日々を過ごしていた。そんな繰り返しが修一の気力を削り、焦りばかりが増していたある時、声をかけてきたのが、当時は弱小だった事務所だった。
“君の曲を世に出してみないかい?”
そう言って、事務所の社長が朗らかに笑ったのだった。
とにかく、曲をまず世間に認めさせようじゃないか。ちょうどウチに今一人、注目されている新人がいる。その子に君の曲を歌わせれば、間違いなくヒットする。君の曲は日本中に知れ渡るだろう。それから君が華々しく登場するわけさ。ただ、ウチの新人は詩も曲も自分で書くってのを売りにしているから、当面は名前は伏せさせてもらうけれど、そこはギブアンドテイクだよ。平等に、ね。なあに当面のことさ、当面こと。
その誘い水を鵜呑みにした訳ではない。修一には自信があった。ゴーストライターであったとしても、とにかく曲は修一の作ったものなのだ。自分の曲が売れて事務所に大きな利益をもたらすならば、その利益の源となる楽曲は交渉材料にしていくことが出来るはずで、一方的に飼い殺されることにはならないだろうと修一は考えた。
もっとも、それは、地を這い続けることに疲れた修一が、目先に現れた蜘蛛の糸らしきものにすがりつくための、自分自身への言い訳だったのかもしれなかった。
案の定というべきか、自身を売り出す話が顔を出すことはなく、のらりくらりとはぐらかされ続けて、業を煮やした修一は、一年ほど前から密かに他の事務所やプロダクションへも打診をし始めた。
そこで知ったのは、自分の読みの甘さだった。
その頃には、もう事務所からの手が業界に回っていたのだ。どこを回っても修一は敬遠され、まともに関わり合おうとするところは一つもなかった。人の良い対応者からその話をこっそりと聞かされたときには、修一は憤るよりも妙に納得してしまったぐらいで、それほどまでに一律の門前払いだったのだ。
そして、修一の中で、何かが消えた。
もちろん、怒りがなかったわけではない。納得できるような話ではないのだ。しかし、それでも、修一の心を占めたのは、静かな諦めだった。
実のところ、他の事務所などに売り込みを始めてから、修一は事務所に渡す楽曲をまともに作ってはいなかった。いや、正確には、自分の売り込み用のものを作る合間に、適当に作ったものを事務所には納めていた。自分の基準では発表する気にならないレベルの楽曲。ところが、それらの曲は誰かの手で手直しされ、それらしい仕上がりになってリリースされ、ちゃんと売れ続けた。アーティスト達の人気が陰ることもなく、事務所も順調だった。何一つ、問題はないようだった。修一の力があっても、なくても。その事実が、修一に告げたのだ。
実力など、取り替えが利くものなのだ、と。
修一は、実力は最低限必要なものであり、そして絶対的に必要なものだと思っていた。どれだけの運に恵まれようとも、発揮できる力がなければ、実を結ぶことはない。結局は自分のセンスや磨きあげた技術、己が力量が物を言う、そう信じていた。だから、修一はジャンルを問わず様々な曲を練習し、音楽理論を学び、そして音楽に限らずあらゆる芸術に触れてできる限り吸収して、自身を磨き続けてきた。
その全ては、無為に帰した。いや、初めからそれほどの価値などなく、実力など取り繕えるものだったわけだ。今の自分の有り様がそれを如実に表していると思って、修一は小さく苦笑いした。そして、目を閉じて、静かに、長く、深く、何度も、何度も、息を吐いた。
唐突に、頭上から轟音が降ってきて、寄りかかっている壁に振動が走った。頭上を電車が通っているのだ。終電は行ったはずだから貨物列車だろうか、などと思ったところで、自分が意識を失っていたことに気がついた。どうやら、しばらく眠っていたらしい。まだ暗かったが、腕時計を見ると、かなり明け方に近づいている。こんなところで一夜を明かす自分の姿に、修一はやや呆れてしまった。その上、何かが地面を打つ音が聞こえると気づく間もなく雨が降り始め、すぐにスコールのごとき勢いになった。一瞬唖然として、修一はすっかり呆れ果ててしまった。
その高架下へと飛び込んできたのが、吉岡真奈美だった。
身の置き所が、ない。
公園のベンチに座りながら、吉岡真奈美は漠然と夜空を見上げていた。空は夜通し曇りがちで、先ほどからは特に雲行きが怪しそうに見える。もしかしたらじきに降り始めるかも、と思いながらも、真奈美は足を前に投げ出したままだった。
どうしよっかな。
小さくため息をつく。雨が降り始めたら、というのもある。空腹、というのもある。帰るか帰らないか、というのもある。そして、これから先どうするのか、というのもある。
端から見れば、どうこうと言ってる場合ではない。午前四時も近いという真夜中の公園に、女子中学生がぶらついている時点でアウトだろう。真夏を過ぎて少し過ごしやすくなったから、などという話でもあるまい。警察にでも補導されれば、すぐに家へと連絡されるはずだ。
もっとも、父は今夜は帰ってこないだろうから家に電話しても無駄なのだが。真奈美としては、叔父の家へ怒鳴り込み同然に向かっていった父の方が、警察のお世話になりそうで心配だった。お人好しで直情的なところがある父は、娘のこととなると少し見境がなくなりがちになる。もっとも、腕っ節はからっきしだから、まあ大事にはならないだろう、という妙な安心感はあった。
そんな父は極度の病院嫌いだったが、半年ほど前に当て逃げされた時に、「お前に何かあったら娘さんはどうなるんだ? お前、奥さんに先立たれてるんだろうが。これを期に身体に気を遣え」と同僚に諭されて、渋々人間ドックに入り、かなり細かい検査まで受けてきた。その結果、健康状態には全く問題なかったものの、別の意味で問題が見つかってしまった。
父の血液型は、O型だった。これまで本人はAB型だと思っていて、あまりにもマイペースなため実はB型ではないかと言われてはいたが、O型とは誰も思いもしなかった。
亡くなった母の血液型は、A型だった。
そして、真奈美の血液型は、B型だった。
型が合わない。AB型とA型からならB型にも成りうるけれど、O型とA型からではB型には成らないはず。
つまり、真奈美は父と血がつながっていない、という話になるわけだ。
それが火種となった。かねてから父と険悪だった叔父がその話を聞きつけて、祖母を巻き込んで騒ぎだしたのだ。地主の娘だった祖母は、今でも少しだが土地を持っていた。実際のところ分けるほどの広さでもないその土地の相続問題があるのだが、具体的には知らないが叔父は素行不良とのことで、祖母の心証はすこぶる悪く、従って、借金に追われる叔父が祖母の土地を欲しがっても、非常に不利だった。
それまで、は。
血液型の食い違いが分かってから、叔父は積極的に祖母へと働きかけたようで、祖母の態度が少しよそよそしいものへと変わるのに時間はかからなかった。
しかし、それでもなお、祖母が真奈美に背を向けることはなかった。物静かではあったが、芯はしっかりとして、かつ細やかな心配りが出来た母は、祖母の大のお気に入りで厚い信頼を得ていたのだ。叔父によってゆらぎはしたものの、結局、その信頼は崩れなかった。
だが、そこで叔父は諦めなかった。探偵というか、興信所に依頼して母の生前の素行調査をしたのだ。知り合いのツテを頼って、とにかく、真奈美が生まれた時期のことを執拗に調査させたらしい。叔父にとっては死活問題、当時の事情を何が何でも知りたがったのだろう。
それはあまりに心配りのない有り様で、周囲の人間は完全に引いていた。しかし、一方で、そんな叔父がどこか受け入れられているような雰囲気があったのも、真奈美は感じていた。
知りたかったのだ。
そう、興味はあった。誰しも、真奈美が誰の子供なのかを知りたいと、心の片隅では思っていたのだ。叔父の行動を苦々しく思い、怒り、非難して、何度となく繰り返し叔父と口論していた父でさえも。そして、それは仕方がないことだ、と真奈美は思っていた。
何故なら、誰よりも知りたかったのは真奈美だったのだから。
ある日、唐突に父とのつながりを断たれたとき、その瞬間は意味が分からなかった。日本語なのは理解できるのに、まるで知らない外国語を聞いたかのような、まさしく訳の分からない感じに、真奈美は思わずきょとんとしてしまったほどだった。
それからは、ありがちな行動パターンは一通りクリアした。泣いて、惚けて、悩んで、怯えて、暴れて、荒れて、引きこもった。
残ったのは、知りたいという思いだった。
そして、その思いは叔父によって叶えられた。執拗な調査の結果、十五年前のことを叔父はついに洗い出したのだ。その調査結果は、半年近く悩み続けた真奈美の様々な想像を超えたところにあった。というか、想像も出来ないほどフザケた話だった。
取り違えられた、というのだ。産まれた時に。
真奈美が産まれた病院で、ほほ同じ時刻にもう一人女の子が産まれていて、あろうことか病院の手違いで取り違えられてしまった、というのだ。双方の両親の知らないところで、病院側が気づかずに、赤ん坊を交換した、という話になる。
事ここに至って、真奈美の世界の何かが壊れた。真奈美への接し方が分からなくなって、周囲の人間が挙動不審になった。善意と悪意、興味と敬遠がバランス悪く混ぜ合わさって、世界に不協和音が満ち溢れた。
ところが、その一方で、真奈美自身は壊れなかった。それどころか、達観したというか、吹っ切れたというか、度を超えたあり得ない結末で突き抜けてしまったのだ。
ただ、真奈美は、自分の歌声を好きだと言っていた祖母との間に溝を感じるようになったことは悲しかった。
それに比べると父の方は一層混乱したらしく、難しい顔をして押し黙っていることが多くなった。感情が顔に出やすく、そして行動にも出やすい父にしては静かな反応で、周囲の人々にとってはやや意外だった。だが、それは嵐の前の静けさだったようで、日付的には昨日、夕食後にかかってきた叔父からの電話中に激昂して、家を飛び出していったのだ。
その怒り方が半端なかったため、声をかけることすら出来ずに真奈美は父を見送ってしまい、それ故に案じているのだ。針が振り切れてしまった真奈美にしてみれば、今更そんなに怒らなくても、という思いもあった。
ただ、電話口で叔父が「俺たち家族と関係のない赤の他人なんか知った事じゃない」と口走ったことに父が激怒したことは、真奈美は知らなかったのだが。
そういった事情で、家で一人待つ身になった真奈美は、何となく出かけて、何となく夜中を散歩して、何となく公園で過ごしていた。そして、何となく、どうするかを考えているのだ。
雨ならどうするか。空腹をどうするか。夜が明けたらどうするか。父との関係をどうするか。
父は、変わらず愛してくれている、と真奈美は感じていた。確かに、あまりにもフザケた結末に翻弄されて、色々なところで不自然でぎこちないのだが、それでも、大切にされていることに疑いはなかった。
真奈美も、父が好きなことに変わりはなかった。この半年、怒濤の嵐が自分の中を吹き荒れたその結果、それでも真奈美に注がれてきた愛情は消え去ることはなかったのだ。その『確かなもの』は、真奈美の心を支えていた。
しかし、それでも、父との関係をどうするか、何となく考えている自分がいた。
どうしよっかな。
何度目か分からない小さなため息と同時に、手の甲を微かにつつかれた。が、誰が居るわけでもない。この公園には真奈美しか居ないのだ。小首を傾げたところに、もう一度同じようにきた。そして、見る見るうちに数と勢いを増して、木々や地面や真奈美を叩き始める。
あ。
思わず見上げたところへ、雨粒が続けて打ちつけてきた。ついに降り始めたのだ。しかも、どんどん勢いを増してくる。このままだと、あっと言う間に本降りになってしまうだろう。
やばっ。
曖昧な非日常に漂っていた真奈美を、冷たい日常が追い立てる。差し迫った問題が頭の中を急速にクリアにして、一息で結論をはじき出した。
脇の高架下っ。
雨宿り出来る場所で真奈美の居る位置から最も近いのは、公園の出口の脇にある、電車の線路の高架下だ。それでも、その出口と自分の居るベンチは公園の両端に離れている。真奈美は弾け飛ぶように駆け出し、一直線に公園を横切って、わき目もふらず高架下へと飛び込んだ。ほぼ同時に、雨が本降りになる。ギリギリだった。
その高架下に座り込んでいたのが、寺崎修一だった。
雨で閉じこめられた高架下に生まれたのは、何となく居心地の悪い空気だった。
高架下の両端で、同じ壁を背にしながらも顔は合わせない二人。
お互いに予想外だった。修一は、こんな時間に女の子が駆け込んでくるとは思っていなかったし、真奈美は、こんなところに誰かが居るとは思っていなかった。
特に、真奈美にとっては出来る限り避けたい状況である。何しろ、同じ場所で雨宿りしているのは、得体の知れない男なのだ。顔にある腫れとアザ、衣服の汚れ具合からして、転んで怪我をしたとはとても思えない。年の頃は二十代後半ぐらいだろうか。雰囲気がやけに大人しく、どちらかといえば線が細くて、妙に“弱った”感じをしている。でなければ、雨の中だろうとも走って帰っていただろう。
降り出した雨はかなりの勢いになっていた。その雨と修一とを比べて、真奈美は雨の方が脅威だと判断した。どっちでもいいや、と自分が心の片隅で思ったことには気づいていなかった。
一方、真奈美が登場し、その上立ち去らないことに、修一は内心戸惑っていた。自分の今の姿は人に敬遠されるものだと、修一はちゃんと自覚している。確かに、自他ともに認める文化系ではあるが、大の大人なのは間違いない。現れた女の子は中高生ぐらい、凛とした雰囲気で背丈もありそうだが、決して体格がいい訳ではない。むしろ細身だ。十二分に不穏な男が居るというのに、修一から見れば、妙に落ち着いた少女だった。
十代半ば程の少女が平然としているのに、三十路手前の自分がうろたえていることに、修一は密かに苦笑した。
雨は変わらず降り続いている。雨足は強く、地面を打ちつける音が響きわたっていた。
時間の過ぎ方が、今一つよく分からない。時計どころかケータイすら持って出なかった真奈美は、雨が降り始めてから何分経ったのかが分からなかった。最後に時間を見たのは、公園の丸時計で確か四時前だった。五分経ったか、十分経ったか。時の流れが分からないということに、少し不安になる。
小さな不安と居心地の悪さが、意識させずに真奈美の頭を働かせた。ちょっと気の紛れるものを軽く探して、すぐにピックアップする。そうしたときは大体馴染みのあるものが選ばれるもので、真奈美の場合も同様だった。
降りしきる雨の音に、真奈美のハミングが重なる。
自然と出てきたのは、合唱部で練習した曲だった。古典の名曲として有名なカノンをモチーフに、合唱用に作られた曲。オリジナルの美しい旋律と、合わされた美しい歌詞が、真奈美のお気に入りの一曲だった。好きなメロディは心地よいもので、声を出さずとも歌うことで、時間の流れも取り戻した気になって落ち着く。ハミング程度なら強い雨音で全く目立たない。
そう、この雨の中ならまず気にとまらない程度のものだったのだが、磨き続けてきた修一の耳は自動的にその一音一音を拾い上げた。そこから旋律を導いて、そして、三、四巡目で曲を割り出した。
ああ、これはパッヘッルベルのカノンだ。
曲を割り出すために少し時間がかかったのは、修一の知らない部分があったからだ。曲の半分ほどはあのカノンの有名なフレーズが使われているが、残りは知らない旋律だった。上手くなるために練習した中にはクラシックの名曲も多かったが、その合唱用の曲は修一の練習したリストに入っていなかったのだ。
上手い。
修一は素直に感心していた。ハミングだが、真奈美のそれは音程がしっかりしている。一音一音が正確なのだ。そこに、半分が知らない曲でも割り出せた理由があった。
雨音の中から微かに漂う、美しい旋律。
修一は無心になっていた。
手が使い込んだ荷物を取る。旋律の邪魔をしないように静かにギターを取り出した。元々雨音が激しいから、真奈美の耳には何も聞こえなかった。呼吸を整えた修一の指が弦を小さく弾き始める。
何巡目かのハミングの途中で、真奈美は自分の調子がノってきていることに気づいた。好きな曲だからかもしれないが、それにしても気分が良い気がする。特に歌詞のないヴォカリーズ、ジャズではスキャットと呼ばれる、ラララ……と歌う辺りでは妙にノってしまうのだ。何故だか、不思議と歌いやすい。その原因には、一巡してまた終わりにきたところで気がついた。
打ちつける水滴を縫うように伝わる、小さなギターの音色。
思わず、目だけで横を窺うと、地面に座っている“弱った”男が静かにギターを弾いていた。曲は、さっきから自分がハミングしている曲である。なるほど、気づかないうちに伴奏にノっていたわけだ。
しかし、それにしても、驚いたのは彼の技量だった。この高架下は大きくはない。雨足が強いとはいえ、ギターを普通に弾けばはっきりと分かるはず。それが、全く気づかなかった。
そう、彼は、真奈美のハミングよりも小さい音色を奏でているのだ。
ピアニッシモよりもピアニッシモ、とにかく限りなく小さい音色。ただし、それは変に弱々しかったり、かすれたりすることはなく、音はクリアである。外で鳴く鈴虫の声を家の中で聞くような感じと例えればいいだろうか。真奈美は、ここまで小さな演奏を聴いたことはなかった。
気がつけば、真奈美はハミングを止めていて、修一のギターの演奏だけが続いていた。
ささやかな、演奏。
決して押しつけることなく、我を主張しない、ただそこに“在る”だけの音色。
それが、真奈美には優しかった。
少しその音色に身を任せているうちに、真奈美は演奏が不完全なことに気がついた。歌詞のあるメロディとないメロディで、演奏に差がある。歌詞のないところに比べて、あるところがやや単調なのだ。もしかしたら、彼はその部分を知らないのかも知れないと、真奈美は思った。歌詞のあるメロディはオリジナルのカノンとは別に、創作されたものだったかもしれないと、朧気な記憶がよみがえる。
真奈美は、息を整えて、また始めから繰り返される演奏に、今度はもう少し力強くしたハミングを合わせた。
真奈美のパートではなく、伴奏のピアノを。
新たに加わった真奈美のハミングが、それまでと違うことに修一はすぐに気づいた。そしてそれが、伴奏用のコードだろうこともすぐに察した。知らない旋律は適当に弾いていたことに気づき、少女はそこを伝えてくれているのだ。彼女の察しの良さに感心しつつ、修一は耳を澄まして音を拾う。やや強めにしてくれているのか、先ほどまでよりも拾いやすい。が、それだけではなかった。
雨が、小降りになってきていた。
繰り返されるハミングを聴きながら、調整を重ねる。修一が把握するまでに、そう時間はかからなかった。修一の演奏が固まったところで、真奈美は自分のパートのハミングに戻した。
薄まる雨音の中、真奈美のハミングと修一のギターが重なっていく。
二つの音色がしっくりと合わさったところで、二人とも演奏を止めた。
真奈美が深呼吸を繰り返して息を整える。
修一がギターの弦をわずかに調整する。
雨は薄まり、かすれて、そして、止んだ。
空が白んできている。日の出はまだだが、もうじき夜明けなのだろう。
雨の名残の水滴が、時折そこここで地面を打った。
修一がギターの弦を弾き始める。
真奈美が一度大きく深呼吸する。
薄明るい空の下の、他に誰もいない小さな高架下で、歌と伴奏が響き始めた。
そのソプラノだけで合唱部を地区大会まで導いたと賞される、真奈美の澄んだ歌声が響きわたる。
深い森の中に満ちる朝の霧のようと評された、修一のギターの演奏が満ちあふれる。
その歌は、演奏は、涼やかに、柔らかく、清らかに、深く、高らかに、ささやかに、誰に聞かれることもなく、ただ広がっていった。
美しいフレーズが繰り返される。
そのたびに、空は少しずつ明るさを増していくようだった。
ランラララン……ランラララン……
曲がフィナーレにさしかかる。
ランラララン……ランラララン…………。
最後の音が、空の彼方へと、響き、去っていく。
そして、終わった。
真奈美は大きく息をついた。修一は動かなかった。
静かだった。
真奈美は一度大きく背伸びをした。それから、高架下から駆けだしていった。
修一と顔を合わせることは、なかった。
修一はギターを仕舞って立ち上がった。身体の節々が軽く悲鳴を上げるのをなだめて、一息吐いてから、一歩踏み出した。
真奈美の去った方へ目を向けることはなかった。
思い出したかのように、線路を電車が走り抜ける。
ふるえる空気に揺らされる水滴は、露の雫のようだった。