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5

 ゲームの中に閉じ込められてから、惰性の生活だけであっという間に二週間が経過した。原因は分かっている。現状を変えなければいけない程に切羽詰まっているわけでもなく、身の振り方を決めるほど情報が揃っているわけでもない。異常事態に巻き込まれてはいるのだが、即物的なトラブルもなく緊迫感が無いのだ。

 生活費に関しても、今の支出のペースを考えれば、数年は何もしなくても暮らせそうなくらいには蓄えが有る。自分のプレイスタイルでは、他プレイヤーに比べたらアイテムも資金も微々たるものであろう筈なのに、常に外食と宿暮らしという贅沢をしていてこれなのだ。衣食住が足りてしまっている。

 この二週間の主な行動といえば、昼前にリリヤさんを案内と称して街の散策に誘い、日が暮れると今度はシェリーさんと情報交換と称し飲み明かす。これがほぼ毎日で、傍から見れば女性と遊んでいるだけにしか見えないだろう。

 シェリーさんとは、最初は特に約束をして待ち合わせていた訳ではないのだが、二日目も同じ店で夕食をとっていたら彼女も僕と同じくらいの時間に訪れ、こちらを見つけるなり当たり前のように相席してきたのだ。特に避ける理由もなかったので、次の日も同じ店にいたら、やはり同様に向かいの席に座るので、それが続いて何時の間にか情報交換が習慣化していた。一度だけ試しに、先に店に居たシェリーさんに気づかない振りをして他の席に座ったら軽く詰られ、結局その日も相席になった上に、次回からの約束を取り付けられてしまった。そんな事が有って、彼女相手に変な遠慮はしない事にした。

 シェリーさんは僕とは違い、この二週間はずっと変化の著しいこの世界の情報収集に勤しんでいたようだった。他プレイヤーの動向、この世界の設定、情勢、地理、あらゆる物が、何を知るにしても現実とは違い、全て足で稼がなければならなくなっている。故に、僕の主観では有るが事態は遅々として進展はなく、一日中歩きまわってやっと僅かな情報を得て、それを共有しあうのが精々だった。とは言え、彼女と違い碌な動機も無く、半分遊び呆けているような僕から提供できる情報など、リリヤさんに教えてもらったこの街の情報や世間話くらいのものである。ただそれだけでも、シェリーさんにとっては貴重らしく、感謝までされたのが少し申し訳なく感じた。これならばいっそ、シェリーさんにリリヤさんを紹介した方が早いのではないかと思うのだが、リリヤさんの職業を思うと躊躇ってしまう。

 ふと「柵からの開放」という言葉を思い出す。山賀が言った言葉のはずだ。たしかにこの世界では現実での些事に煩わされる事もなく、自由なのかもしれない。しかしこの二週間で思い知ったのは、与えられたのは柵からの開放ではなく、それどころか社会からの放逐だったという事である。自分はこう有るべきだと律する、礎となる経歴と人間関係を失ったのだ。役割を無くしたとも言える。現実の些事からの逃避に始めたロールプレイングゲームに、役割(ロール)を奪われるという馬鹿げた話である。

 故に、何をして良いのかも分からず、どうなって良いのかも分からずに、こうやって諾々としか時間を過ごせなくなった。わざとフレンドを作ろうとせずに、ソロプレイを気取った事が、僅かに人間関係を疎んだだけの事がこんなしっぺ返しになると誰が思うだろうか。

 シェリーさんから聞いた話では、他のプレイヤー達は、所在の分からないギルドメンバーやフレンドの捜索に躍起になっているとの事だった。彼らはこの仮想世界においても、ちゃんと繋がりを持ち、それぞれ役割を持っているのだ。以前からこのゲームの主流と距離を置いていたとはいえ、この点においても、やはり僕は取り残されていると感じる。

 先行きの見えない不安も拭えず、割りきって今を楽しむ事も出来ず、只々情けない限りである。

 ぼんやり眺めていた先に、見知った顔を見つける。向こうもこちらを見つけると、まっすぐにこちらへ向かってくる。

 「また暗い顔してる」

 シェリーさんだ。

 「いや、そんなつもりは」

 今日はリリヤさんとの待ち合わせ場所をヴィーニヤヴィーナにし、遅めの朝食も同じ店で済ませて、そのまま昼の待ち合わせの時間までぼんやりとしているつもりだったのだ。一人で色々と見て回るのも少し億劫で、既に新しくなった街にも飽きつつある。

 「しかし君もこの店好きだねぇ」

 「シェリーさんこそ今日はどうしたんですか、朝からこの店って。まさか今から飲むつもりですか?」

 「もちろん。今日の情報収集はお休み、ちょっと疲れた」

 「昨日の今日でよく飲めますね」

 飲む気満々のその返答に些かげんなりする。昨日の夜も散々飲み明かし、つい先程まで二日酔いだったこちらの身としては、勘弁してほしい物だった。

 「君もそれ飲んでるんだから、もう大丈夫なんだろ?」

 テーブルの上には、まだ下げられずに居た朝食の皿以外に、僕が飲んだ解毒薬の空の薬包紙も転がっている。

 以前から有るゲームアイテムには、以前と変わらない即効性が有った。現実の薬のように薬効が現れるのを待つ必要など無い。飲めば直ぐに治る。そんなゲーム特有の嘘臭さが残っている。

 あと嘘臭いといえば、この世界の一般の物価と比較するとゲームアイテムはボッタクられているのかと思うほどに値段が高い。否、ゲームアイテムは以前と値段が変わっていない筈なので一般の物価が異様に安いと言うべきなのだろう。ただこの二週間の出費の中で一番割合が大きいのが、リリヤさんのワンピースを除けば解毒薬なのは事実だ。飲食、自分の衣服、宿泊、それらの出費を全部を足しても解毒薬の足元にも及ばないくらいだ。二日酔いの度に解毒薬を使わなければ、無収入でいられる期間はもっと長くなるのだろう。しかし懐に余裕があると直ぐに二日酔いの辛さを消せる誘惑には勝てず、つい毎回買ってしまうのである。

 「二日酔いは大丈夫ですけど。それでも耐性が有るのと、治さなきゃいけないのじゃ気分が違いますよ。ついさっきまで気持ち悪かったのに飲む気なんて起きませんって」

 いくらアイテムで不快感は直ぐに消えても、記憶まで直ぐにリセットされるわけではない。今なら匂いだけでも吐き気を思い出しそうだ。

 それに比べ、彼女は装備している指輪に強力な状態異常耐性が有るとのことで、幾ら飲んでも二日酔いは無く、酔っても行動に支障が無いとの事だった。つまり初日に感じた感情の乱高下や気安さに酒は関係が無かった。普段から変な人だったのだ。

 「でも酒に溺れられないってのも考えもんだよ?何もかも忘れてグチャグチャになってしまいたい瞬間も有るのに、幾ら飲んでも得られるのは僅かな多幸感と高揚感だけなんだから」

 戯けているが、本心ではないだろうか。

 「流石にそれはやさぐれ過ぎですよ」

 シェリーさんは事あるごとにお酒を飲んでいる。ゲームステータスが現実的な体性感覚にまで影響を及ぼす今では、プレイヤー達は肉体的にも精神的にも頑強なのだが、ストレスの蓄積が無い訳ではない。耐えられるだけでつらくない訳ではないのだ。だから肉体が耐えられる分だけ、度が過ぎるようなストレス解消を求めてしまう様で、彼女の過度な飲酒もそれの現れなのだろう。

 「ところで君の今日の予定は?」

 シェリーさんはテーブルの端の空の薬包紙をつまみ上げる。

 「此処で人と待ち合わせで、その人の案内で街の散策です」

 「ふぅん、それってもしかしてあの眼帯つけた金髪褐色の可愛い子?」

 シェリーさんは薬包紙を何やら折りたたみ始めている。しかしそんな事よりも、リリヤさんの事を知られていることに驚いた。

 「そうですけど……、何故知ってるんです?」

 わざわざ誤魔化す必要もないので白状する。

 「だって街中で手を繋いで歩いてるの何度も見かけてるし。しかも毎度変わらずあの子を連れてるでしょ?だから今回もそうかなって」

 シェリーさんは顔もあげず、薬包紙で折り紙を続けながら答える。

 「見てたんですか」

 「たまたまだけどね。しかし君って案外手が早いのな」

 誤解である。それにしても街の面積が拡大して、以前よりプレイヤーの密度が下がり、尚且つNPCの数が増えて、相対的にプレイヤーが目立たなくなった現在で、まさかそんな所をピンポイントで見られているとは思わなかった。行動範囲が重なっていたのだろうか。そう考えれば有り得る話だが、こちらはシェリーさんを見かけた覚えはない。いや、思い返してみるとリリヤさんと一緒にいる時に、僕が周囲を気にしていた事は無かった様な気もする。

 「違いますよ、そういうんじゃないです」

 「えぇ?あんな指まで絡めて違うとか言っちゃうのか?うっそだろぉ?」

 からかわれている。

 「彼女は眼帯をしている側が死角なんですよ。だから人混み抜ける時に手をつないだだけです。それに闇雲に歩きまわるよりこの街の事に詳しい人に頼る方が効率的じゃないですか」

 補助で手を繋ぐのは僕の方からだったが、指を絡めてくるのは毎回彼女の方からなのだ。しかしこれを言えば余計にからかわれる気がする。

 「それで恋人繋ぎまでしちゃうんだ」

 余計な情報を与えずとも、徹底的にからかうつもりの様だ。

 「シェリーさんに教えたこの街についての情報は殆ど彼女からの受け売りなんですから、間接的にはシェリーさんもお世話になってるようなものですよ。何でしたらこの後、一緒に街の散策でもしますか?」

 からかいを切り捨てたくて半ば自棄気味の提案をする。

 「いやぁ、人の恋路の邪魔は……、って巫山戯たい所だけどそろそろ街の案内が必要そうだし、紹介だけでもして貰えると助かるかな。これから入用な物買い揃えようと思うとやっぱ現地に明るい人の案内って欲しいもの。只でさえ今は調べたい事が山積みだから、なるべく手間は減らしたい」

 意外な返答だった。

 「入用な物?なにか始めるんですか?」

 「まだ下調べが終わってないし具体的な所はまだ何も決まってないけどね。その時になったらまた君にも話すよ」

 「はぁ、そうですか」

 話を打ち切られてしまった。しかし僕にも話すという事は、何かしら関係があるということだろうか。

 「ところでさっきから何をしてるんですか?」

 話をしている間も、彼女は手元から一度も顔をあげなかった。何時の間にか薬包紙は菱形になっている。あれは折り鶴だろうか。折り紙をするには薬包紙はかなり小さいが、それでもシェリーさんは器用に折りたたんでいく。完成時は一センチ四方ぐらいの大きさになりそうだった。

 「ん?そりゃ折り紙……、いや、ちょっと実験をね」

 あっという間に折り上げた鶴は、折り目のズレ、末端の潰れが無く、とても精巧に折り上げられていた。

 それを暫く矯めつ眇めつした後、人差し指に乗せ、顔の高さに持っていく。そして目をつぶり、何か集中するような素振りを見せたかと思うと、青白い火が灯り、折り鶴は灰も残さずに焼かれて消えた。

 「今の魔法ですか?」

 「そう、一応そのつもり」

 腕を組み宙を睨むように考え、言葉を選んでいるようだ。

 「なんかスキルの使用感が元のスキルを選んで使うって感じじゃなくて、修練の結果に会得した技術みたいになってるんだよ。身体がやり方を覚えてる、手足の延長線上って言っても良いくらいにね。だから今までとは比べ物にならない範囲で強弱も調整できるし応用も効く。ここまで好き勝手出来るとなると以前のスキルの形に拘るのは只の枷にしかなりかねないな」

 今度は手を使わずに、空中に小さな赤い火を灯したり消したりを繰り返してみせた。僕は魔法系のスキルを取っていないので、その使用感は良く分からないが随分と気軽にやっていることは見て取れる。

 「今の仕様ってMP、SP消費はどういう扱いになるんでしょうね」

 「それも数値的というより体力の消耗と直結してる感じだね。とりあえず今くらいの芸当はしんどくもなんとも無い。あと俺は現実じゃ、あんな小さい鶴を綺麗になんて折れなかったよ。折れたとしても、もっと時間はかかるし汚い筈だ。俺はINT型だけどDEXも低いわけじゃないからソレの影響かもしれない」

 HP、SP、MP、ステータス、スキル、あらゆるゲーム的な要素の存在感が希薄になってしまっている。しかしそれらは形を変えて、プレイヤー自身その物となって依然と存在している。

 「それにしても良く、あんなゲームシステムを人間の感覚にコンバートしたものだよ。あ!お姉さん、ビールと枝豆お願い」

 考えているようでいて、目ざとくウェイトレスを捕まえ注文している。

 「本当に飲むんですね」

 やはり、この人は放っておくとアルコール中毒まっしぐらなんじゃなかろうか。いや、それすらも耐性でどうにでもなるのか。

 こうして結局いつもと同じように、酒浸りのシェリーさんとこの仮想世界で気づいたことなどを話し合うのだった。互いに気づいた点を挙げてはシェリーさんが推測を述べるという形で、次々と内容を変えながら、話は続いていく。

 リリヤさんとの待ち合わせまでは特に予定も無いので、暇潰しにはちょうど良かったかもしれない。

 「そう言えばさ、プレイヤーの記憶が最後にログインした日までって話だけど覚えてる?」

 「流石に忘れようが有りませんよ」

 「あれな、やっぱり2160年の12月16日が最新で決定みたいだ。現役プレイヤーの証言を集めてみた結果、これは確定したと言っていいだろう」

 それを聞き、僕も納得できたことが有る。シェリーさんの指輪や、その他にも街で見かけたプレイヤーらしき人物の装備類に見慣れない物が多い事についてだ。七年の間にアイテムの追加、Lv帯の遷移が有ったのだろう。そして以前から気になっていたことにも納得がいった。

 「僕が知る訳無いよなぁ」

 「ん?何のことだ?」

 「シェリーさん、三年前まではPvPで名が知れていたとか何とか、よく有名人ぶってるじゃないですか。僕がこのゲームを始めたのは二年前、僕から見て二年前の正式オープンと同時なんですよ。だから七年も開きが有ったら知らなくて当然だなと」

 「有名人ぶってとか酷い言い草だな、おい。でも七年の開きって言うけど、七年前にも俺はいたからな?当時も悪目立ちしてたせいか色んな所で槍玉に挙げられてたし」

 てっきりプレイ期間が重なっていなかったから僕が知らないのかと思ったが違うらしい。それよりも槍玉に挙げられるって一体何をやらかしたんだろうか、この人は。

 「そもそもシェリーさんって何時からこのゲームやってたんですか?」

 「クローズドβからだよ」

 という事は、本当に僕から見ても三年前には既に居たということである。

 「本当に俺のこと聞いたことなかったの?」

 「全く無いですね、ネット上に有るこのゲーム関連の情報は公式以外なるべく見ないようにしてましたし、SNSは特に避けてましたから。もしかしたら噂くらいは聞いたこと有るかもしれませんけど」

 「随分と変わったプレイスタイルだな。まぁ汚名だから別に良いけどさ。そうだ七年前で止まってるってことは、スノウは俺より一つ歳上だって言ってたけど現実じゃもう三十路前になるのか」

 変な事に頭が回る人だ。

 「やめてくださいよ、こっちは22歳で止まってるんですから。知らない七年を足されても困りますよ」

 「フハハハ、精神年齢に差はないが世代が違うようだな。ちなみに7年前の俺はピチピチの中学せぃ……、うん、ピチピチじゃねぇけど中学生だよ。あぁ……」

 なにか嫌なことを思い出した様だ。この人の過去は性格に反して、否、見た目通り地雷が多いのかもしれない。しかも自分でソレを踏む迂闊さも持ち合わせているようだ。

 「止めましょうこの話題、誰も得しませんよ」

 「よし、話題を変えてくれ」

 他人任せだった。しかし、新たに疑問が浮かぶ。

 「シェリーさんの年齢から逆算すると、クローズドβの時ってシェリーさんが11歳の時って計算になるんですけど、小学生ってクローズドβに応募できたんですか?」

 「出来ないよ。年齢は自己申告だったしプレイヤーのプロフィールも大してチェックしてなさそうだったから偽っての応募だよ。まぁ、次のオープンβの途中で誰かが運営にチクったらしく、一度アカウント消された上に正式サービス開始までプレイできなくされたけどね。……あのさぁ、語っておいて何だけどもっと話題の方向変えろよ、結局昔話じゃねぇかよ」

 「分かりましたよ、変えますよ。じゃあシェリーさんの名前ですけど、シェリー酒の樽って意味でしたよね?でもこのゲーム始めたのが小学生の頃って……」

 「……」

 「……」

 不満気な顔で、そっぽを向いて目を合わせようとしてくれない。待っていても答える気は無さそうだった。

 素直に話題を変えることにする。

 「さっきの魔法スキルもそうですけど、INT型って事はシェリーさんってクラスはやっぱりメイジですか?」

 けれど共通の話題など、このゲームくらいのことしか無いのだ。

 「そうだけど今更そんな……、あれ?言ってなかったっけ?」

 思えばこの二週間、毎日のように顔を合わせて話をしていたが、意外とお互いについては話をしていない。

 「全然聞いた覚えが無いですよ。だいたい僕達の話題っていつも最近得た情報ばかりで、以前のゲームとしてのプレイスタイルとかそういう話は全くだったじゃないですか」

 「言われてみりゃ、そうだな。なんか、もうお互いの事はそれなりに話した気になってたよ」

 思い起こすように宙を見つめ、頬杖をつくシェリーさんのその手には、十指全てに厳つい指輪が嵌っている。しかもそれぞれで、指より太い真っ赤な大珠の指輪、篭手の指だけ持って来たようなアーマーリング等々、別々の物を嵌めている。先ほどの魔法スキルとステータスの話し以外にも、度々目についていたソレが、シェリーさんがメイジで有るという判断材料だった。

 僕の視線に気づいたのか、頬杖を外して、指輪を見せびらかすように手の甲をこちらに向ける。

 「まぁ前衛職なら普通は篭手をつけるから指輪はしないよね。それにしても邪魔なんだよなぁコレ。前と違って指輪の重さがちゃんと有るし、それにほら、指輪同士がぶつかって指閉じきらなくて鬱陶しいの。なのに鶴を綺麗に折れたりするんだから妙な感じだよ」

 派手で嵩張るデザインの指輪が多いせいで、指の股を閉じようとしても隙間があいてしまっている。

 「外さないんですか?」

 「俺はこの指輪で防御とレジストの大半を賄ってるから外してしまうのは不安なんだよ」

 「不安ですか?街中じゃ危険があるようには思えないですけど」

 この二週間は本当に何もなかった。トラブルなどソレこそ初日の迷子くらいのものだ。

 「けれど、さっき俺が魔法スキル使ったの見ただろ?小さいとは言え、攻撃性のスキルをだ。もう以前みたいに攻撃行動の一切が不可能な、絶対的なルールとしての非戦闘地域が無いんだ。ならば最低限の警戒は必要だよ。一応、今も回復アイテムは持ち歩いてる」

 一回限りのGMコール時に、こういう事こそもっと細かく聞いておくべきだったのかもしれない。

 「なるほど。……いや、でもその割に昨日今日と飲んだくれてますけど」

 「日々のストレスのアルコール消毒、飲まないとやってられねぇよ。それに例え酔ってても遅れを取る気はないからね。絡まれても何も出来ずに終わるってのはまず有り得ない、3年前に一線を退いたとはいえ、7年間PvPの最前線で鍛えた腕は伊達じゃないさ。装備がこの指輪だけでも、俺を瞬殺出来る奴なんて極僅かだ。むしろ完全装備でメイジの最大火力を街の中でぶっ放す方が後々厄介そうだし」

 そんな自信は見せられると今でも十分に一線級のプレイヤーなのではないかと思わずにいられない。

 「それで、やっぱ君は前衛職?元々ソロプレイヤーで装備を全部外しちゃってるってことは鎧が嵩張るキャバリー?馬連れてないしSTR型のウォーリアかな?」

 「いえ、スカウトです」

 「ん?ソロだよね?」

 「そうですけど、それがなにか?」

 「ソロでスカウトとか何がしたいんだよ。そもそもソロでやっててどうして判定がスカウトになるのさ」

 呆れるような、馬鹿を見る様な目をされた。口は悪いが、そういう事はしない人だと思っていたので少し傷つく。

 「いや、ただ死なない為のスキル取得してたらそういう風に……」

 このゲームではクラスは選択式ではなく判定式を採用していた。はじめからクラスを決めてスキルを習得していくのではなく、習得したスキルによってクラスが決まるのだ。逆に言えばクラスとステータスの振り方を聞けば大体の習得スキルを推測できる。

 「あぁ、そうなのか。いや、しかしそのコンセプトでソロだと普通はハンターとかアサシンになるんだけどな。7年前とはいえソロ向けのキャラ育成の方法は既に確立されてた筈だけど、我が道行き過ぎでしょ」

 「攻略情報もなるべく見ない様にしていたので」

 「さっきも言ってたけど其処まで徹底して情報を遮断する理由ってなんだよ」

 「だってゲームで先にネタバレされたら嫌じゃないですか。出てくる敵もその倒し方も分かってたらただの作業になっちゃいますし。こう言うと少し恥ずかしいですけど……、冒険してる気がしないというか」

 「へぇ、VRゲームで攻略法さえ分かれば戦いは作業とのたまうか、そしてPvP偏重のこのゲームで冒険を求めたか。……まぁ、良いや、そんなの人それぞれだ。しかしそのプレイスタイルだとレベルも低いんじゃないか?」

 「234、いえ235です」

 「7年前でソロプレイってのを加味してもやっぱ低いな」

 こちらのレベルを聞いた途端に、呆れは一転して心配そうな顔をする。それはそれで傷つく。

 「そう言うシェリーさんはいくつなんですか?」

 「1374」

 「……」

  7年の差が有るとはいえ、実際に数字を聞くとその差に絶句する。自分の知っているLvの上限は1000で、サーバー全体で一番Lvの高いプレイヤーでも800位の筈だった。しかしシェリーさんはそれを上回っている。

 「上限はもう1000以上まで有るんですね、僕の記憶だとトップレベルのプレイヤーですら800位の筈なのに」

 情報には疎い方だったが、流石にそれくらいは知っていた。興味は無かったが、それでもランキングなどPvP関連の情報は、力を入れていただけに公式サイトの中でも自然と目につく場所にあったのだ。

 「レベルキャップ解放されたのも随分前だな。あれのせいで色々と青天井になったんだ、新装備に新アイテムがどんどん追加されていったよ。あと7年前で既に800ってそいつ、ブレイドの事だな。アイツのLvとPvPの総合戦績って正式サービス開始直後の混沌とした時期以外ずっと一位だし。ちなみに今でもトップはブレイドのはずだよ、たしか今だとLv1600超えてるんじゃなかったかな」

 聞けば聞くほどに、自分が置いてけぼりになっているのだと気付かされる。

 「あぁ、前に教えてもらったトップギルドのリーダーですか」

 数日前にこの街のリスポーン地点である大聖堂の場所を確認しに、リリヤさんの案内で訪れた時の事である。其の時に一際目立つプレイヤーの集団がおり、それについてシェリーさんに聞いた所、メンバーの特徴からその人達がトップギルドのコムレッズ・イン・アームズであることを教えてもらったのだ。

 シェリーさんも何度か在籍していことが有るらしく、昔からの知り合いも多いという。

 「それにしても、235か。君にとって厄介な事にならなければ良いけど」

 「厄介?」

 「プレイヤーは以前通りゲームとして楽しむのか、それとも仕様変更のせいでゲームだなんて言ってられなくなるのか。それ次第で天国にも地獄にもなるんじゃないかとね」

 彼女は僕と違って他のプレイヤーとの接点が多い。そこからその徴候が見て取れるという事だろうか。

 「俺の予想ではさ、きっと以前のぬるくて緩いプレイヤー間のヒエラルキーがそっくりそのまま、もっと殺伐とした社会的ヒエラルキーに置き換わると思うんだよ」

 「どういう事ですか?」

 「このゲームってPvPが売りだったわけじゃん?それで君みたいな例外を除けば基本的にプレイヤー同士の価値基準て強さなんだよ。ゲームの中だけとは言え、強い奴が目立ち、自然と発言や行動が求められたり、あらゆるチャンスに恵まれる。でもコレって別に誰かの脅威になったりしなかっただろ?害なんて精々がゲームが全てっていう狭い世界観で生きる奴らの嫉妬心を煽る程度さ。しかし今は違う。この世界で丸一日暮らせば、いや、この世界になった時から気付いてると思うけど、此処は既に以前と違って痛みや不快感と言ったネガティブな感覚まで現実と遜色なく存在するんだよ。こうなると話は変わってくる」

 仮想現実に課せられていた規制。それはゲーム業界側の自主規制などではなく、プレイヤーに対して僅かでも害悪となる可能性のある感覚情報を与える事への法的な規制であり、痛感と言った不快な物だけでなく、僅かでも依存性を生みそうな快楽、または擬似感覚で生理的な欲求を充足させる事も自立神経系への影響を理由に厳しく取り締まられていたのだ。その規制が今では何処にも見当たらない。以前なら酒だけではなく食事一つ、娯楽用の仮想現実では許されなかった。

 「遊びのはずの只のゲームも、苦痛を伴えばソレは闘争だよ。ゲームを構成する一要素に過ぎなかった無害な攻撃エフェクトが、他者への強制力を伴う本物の暴力になるんだ。ゲームだからと与えられた玩具の武器が、本物にすり替えられた様なものさ。死んでも生き返るなんて、この事態に対して何のフォローにもならない。死が無くとも苦痛を与えられるなら、他者の尊厳なんて幾らでも踏みにじる事ができる。例えば俺が此処で君を丸焼きにしたら、君はどう思う?何を感じる?以前みたいな痛覚の代替に使われた極僅かな圧感ではなく、皮膚や喉、鼻の粘膜が焼ける熱も痛みも、肺が駄目になれば窒息感も有る。そんな中で、いくら死のうがリスポーンする度に追い掛け回され焼き殺されるだなんて、そんな事をされ続けた人間はどうなると思う」

 想像もしたくないような話だった。

 「しかし、そんな事をしてしまえば孤立しますよ」

 いくら個人が力を持とうとも、横暴が過ぎれば自ずと排斥されるのが摂理である。

 「その通り。暴力による強制力が現実と同じなら、それに対する抑止力も現実と同じになるだろうさ。期待すべきはプレイヤーのモラルだね。殺伐具合はそれ次第ってところかな」

 「武器や魔法がそこら辺に転がっている分、現実より厄介ですね」

 「やっぱこれってクソ仕様だよ」

 心底嫌そうだった。

 「だから、君もせめてLvだけでも平均くらいは有った方が良いんじゃないかなと思うわけよ」

 先ほどの心配そうな顔の理由はこれだったのか。

 「まぁ、確かに無いよりは」

 「さっきのはただの予想でしかないけどさ、もしも本当に殺伐とし始めたら君にとっちゃ地獄になりかねないよ?」

 「地獄って……、いくら何でもそこまで酷い事になりますか?」

 「断言は出来ない。ただあんまり人の善性を信用しちゃ駄目だぜ?世の中には他人を当然のように踏みにじれる奴だって居るんだ。それにいくら世の中がマシでも、たった一人の下衆に絡まれるだけで状況は簡単に悪夢になる、抵抗する力が無ければ尚更だ」

 誰に怒っているのか、この話題になってから段々と、シェリーさんは不機嫌になりつつ有った。今に至り既に憮然とした態度を隠そうともしなくなっている。怒りの矛先が自分に向いてるわけではない様なのだが、やはり居心地の良いものではない。

 「あぁ、ごめん、余計なお世話だったかな」

 シェリーさんは声を鎮めた。熱くなって居たことに気付いた様だ。

 「いえ、そんな事は……」

 話が途切れた所で、外がやけに騒がしい事に気づく。大通り沿いの窓の方を見ると、往来の人達は何かから逃げるように一様に走り去り、雑踏のざわめきは何時の間にか悲鳴混じりになっていた。

 「これは」

 「只事じゃ無さそうだな」

 店の外の異様さに、一気に緊張感が高まる。

 席を立ち、窓際に寄る。外の様子を伺おうとするが、嵌め殺しになっている窓は開かず、肝心の場所が見えないため、往来の人達が何から逃げているのか分からなかった。

 しかし、

 「最後尾にウォーリアが……、あれは、人を斬ってる……?」

 窓の縁と、往来の人達で見えないはずの場所で、何が起きているのか何故か、当たり前のように知覚出来た。ウォーリアが行なっているのは、相対する者の居る戦闘行為ではなく、一方的な殺戮だった。

 「其処から見えてるの?あっ、スカウトのスキルか」

 シェリーさんの後ろからの言葉に、不可解な知覚がスキルであると気付く、以前のように分かりやすく視覚に投影される訳ではないようだ。目を閉じて無意識の内に掴んでいた位置感覚に集中する。問題のウォーリアまでの距離は約30m、その手前に明らかに逃げ遅れている人達が五人。意識的に探る事でかなり正確に捉えることが出来た。

 ウォーリアはその足の速さで、まるで牧羊犬のように、否、嘲りと底意地の悪さを見せつけるように、威嚇を混じえて、焦り逃げ惑う人達を追い掛け回している。何時でも殺せる速度差が有りながらの、その動きは明らかに、獲物と決めた五人を、逃さず殺さず弄んでいた。

 「何時かやらかす奴が出るかもって思ってはいたけど……。しかしあんな話の直後にコレとは嫌なタイムリーだな」

 シェリーさんはこの事態を半ば予想していたようだ。彼女の言葉に気を取られている内に、通り魔の周辺の気配に一瞬の変化が起きた。

 直後、逃げ遅れていたと思われる五人の内、四人の反応が消失する。その意味は明白だった。あの通り魔は気まぐれが過ぎる。最後の一人が斬り殺されるのも時間の問題かも知れない。

 視覚外の知覚で得られた情報は、不慣れながらにも、雄弁に不安を煽るのだ。きっと、あの通り魔は面白半分に何時までも凶行を続けると。

 何より、生き残った最後の一人の気配には覚えがあった。

 確信を得た時には、身体が自然に動いていた。嵌め殺しの窓を枠ごと叩き割り、其処から表へと飛び出す。

通り魔と自分との間には、まだ他にも逃げ遅れた人達も居て、それが壁となり射線が通らない。ならばと、店の対面にある建物に向かい全速力で駆ける。そこから垂直の壁を蹴り上がり、屋根の上へと跳ぶ。

 標的との間に射線が通れば後は迷ってる暇など無く、屋根に着地すると同時に洋瓦を剥ぎ、両手に取る。

 右手の洋瓦は振りかぶりオーバースロー、間髪入れず前のめりの身体を起こす勢いで左手の洋瓦も投げる。初弾の狙いは頭、次弾は腹。

 まともに狙いを定める暇も惜しんだ投擲だが、投擲スキルによって補正された現在の技量ならば、その弾道は間違いなく、通り魔の頭と腹に命中する筈だった。

 しかし、不意打ちに近いはずのソレを、通り魔は二発とも切り払ってのける。

 納刀状態から抜刀まで一息で、間合いに入った洋瓦を二閃。それはどう見ても、瞬発力に優れた専用モーションを持つ居合系スキルの初歩的な技だった。居合はPvPをやらない自分ですら知っているスキルである。

 スキル熟練度に応じて威力のみならず速度を増し、両手剣スキル最速の初太刀から続いて派生する連続技はバリエーションにも富む、……らしい。しかし目で追い切れない程の、あの様な速度は見たことが無かった。一度抜いた刀をわざわざ納刀している所を見るに、居合の中でも更に初太刀の抜刀に特化したビルドではないだろうか。

 屋根の上という大通りを俯瞰出来る位置に来て初めて、先程の凶行をスキルに頼らずに直視することになった。石畳の上に大きく広がった血溜まりと、散乱する四肢と臓腑。見慣れた景色がグロテスクな色彩に塗り潰されている。

 そこかしこに散らばった人の切断面から目をそらす。この距離で仔細まで見て取れる強化された視力が今ばかりは恨めしい。

 その惨状の中に立つ、全身に返り血を浴びた、腰まで有る長く白い総髪が目立つ長躯の男。

 髪と同じ真っ白な着流し風の服を纏い、黒い拵えの長刀を一本腰に差している。浪人のようなシルエットだが、ディティールの意匠は洋装に近く、無国籍な噛み合わなさが有る。有り体に言えばゲーム用のリアリティを無視したデザイン。それを血で出来た斑模様が汚している。

 そんな浪人モドキの通り魔がこちらを見上げている。その前には生き残った最後の一人、脚から血を流した女性が座り込み、通り魔と同様にこちらを見上げている。

 やはり、最後の一人はリリヤさんだった。よく見れば傷は脚だけではない、全身のあちこちを浅く斬られ、頬には転んだような擦り傷も有る。

 通り魔の注意を惹くことには成功したようだったが、しかし、勢い良く飛び出した割に此処で足を止め、一考しなければならなかった。

 リリヤさんの様子を見るに疲れ果てたのか、血を流しすぎたのか分からないが、これ以上自力で走る余力は残されていなさそうだった。しかし僕では今の状況を力づくでどうにか出来るとは思えない。シェリーさんと同様に見覚えすら無い装備で身を固めていることから、相手のLvは自分とは大幅に違うことが伺える。また先程の迎撃に用いたスキルを見ただけでもステータスに雲泥の差がある事は明白。その上に相手は武装し、こちらは武器も防具もない。一人では既に手詰まりなのだ。

 ならば出来る事は限られていた。

 屋根の上を走りながら彼我の距離を一気に詰める。姿勢を低くし、走りながらも同時に足元の瓦を剥いで投げつける。走る速度も投げる威力も落とさずに瓦を十連。屋根から飛び降り、長刀の間合いに入る数歩手前に着地するまでに、牽制として更に二連。武器の無い今の自分に出来る精一杯の攻撃である。

 しかし通り魔は、その場から一歩も動くこと無く先程と同様に全ての瓦を切り捨てる。

 あわよくば相手の迎撃能力を飽和させるつもりで瞬時に放った十二の連撃は、一つとして有効打になりえなかった。せめてリリヤさんから通り魔を遠ざけたかったが、それすら叶わなかった。

 「何故こんな事をする」

 残るは苦し紛れの会話による時間稼ぎのみ。誰かしらの援護を待つしか無い。シェリーさんの人柄ならば期待できるかもしれないが、どちらにせよ、今は僕が殺されてしまう訳にはいかない。

 「格好とアバターが随分と地味だけど君もプレイヤー?いきなり人に物を投げ付けておいて随分なご挨拶だね、マナー違反だと思うよ、そういうの」

 こちらの行いに対する非難の声は随分と暢気で、所業にそぐわない言葉だった。

 「通り魔が言えたことか」

 「ハハハ、通り魔ねぇ、そう言われるのは何か嫌だなぁ。……でも、そうだね、そうとしか言い様がない」

 弁明をする訳でもなく男は笑う。しかしソレが余計に状況に対する温度差を如実にする。男はこちらの言葉など大して意に介していないようだった。

 「それで、そういう君は何?正義の味方か何か?」

 「僕は……」

 そんな題目を掲げた覚えはない。しかし、

 「でもこんな事は、して良いはずがない」

 面白半分で人を傷つけて良い訳がない。

 「ロールプレイするならせめてもう少しキャラを固めてから来てくれよ、興ざめするからさ」

 手前勝手に鼻白む男に苛立ちを覚える。

 「ふざけるな!もうこの世界は只のゲームじゃないんだ。今は現実と同じように苦痛が……」

 「ソレくらい分かるさ。言われるまでもなく」

 「それなら何故」

 「何故って……、だからこそ、だろ?」

 何を当たり前のことをと言わんばかりだった。そして、すぐ近くで動けずに居たリリヤさんを後ろから掴み、軽々と持ち上げ抱きすくめた。

 「何も現実と同じなのは苦痛だけじゃない」

 男は彼女の頬を、愛おしそうに撫でながら、もう片方の手を服の下に滑り込ませ、身体を弄りだす。リリヤさんは先程とは違う恐怖に涙を流し、口からは声にならない悲鳴が嗚咽なって漏れている。

 「それにこの子達も決められた譫言を繰り返すだけの人形じゃない、確かな意志があって、怒り、喜び、悲しむ心が有る。そしてこんなにも暖かくて柔らかい、血がかよって生きている、ここの具合もそれぞれ違う。こんなの人間そのものじゃないか。殺せば死ぬ分、今の俺達より人間らしく命に価値がある、愛でて踏みにじるだけの意味がある。――ハハハッ、見てみなよこの顔!市販のモデルデータじゃこうはいかない!」

 男は怯える彼女の表情が、心底気に入ったのか、首筋に舌を這わせ、もて遊ぶ行為をエスカレートさせていく。上手く力が入らないのか、抵抗するリリヤさんの動きは弱々しく心許なかった。不意にリリヤさんと目が合う。助けるを求めるように震える唇で何か言おうとしているが、声になっていない。その縋るような視線には、僅かに諦観が混じっているような気がした。

 頭の中で渦巻いていた打算が、それで消し飛んだ。そんな目をさせてしまったのが誰なのか、そう思うと情け無さと自責の怒りに目眩がしそうになる。

 「やめろ……」

 止める声は震え、掠れてしまった。

 今誰よりも追い詰められているのは彼女であって僕ではない。それなのに時間稼ぎなどという悠長な選択をするなど、見殺し以外の何だと言うのか。勇み足で飛び出しておいて、このざまでは意味が無い。消極的な選択は己の無力さを理由にした只の逃げだったのだ。元よりプレイヤーである自分は死なないと、僕自身にリスクはないと分かったいた筈なのに、何を躊躇う必要があったのか。これでは無力以前の無能である。

 「こんなにも嬲り甲斐の有るNPCがいる、なのに俺達の強さはゲームの時のまんまだ、武器だって金だって有る。警邏の騎士だって雑魚だった、誰も俺を止められねぇ。ハハハッ、こんなに……、ハハッ、こんなに現実と変わらないくらい、良いのに、気持ち、良いのになぁ……。ヒヒヒッ、これじゃあ我慢なんて出来るわけが無いよ、手を出さない方がオカシイのさ」

 こちらの言葉は届かず、自分の言葉で段々と高揚してきたのか男はアバター特有の端正な容貌を、陶酔で醜く歪め、涙まで浮かべて引き攣り笑いを上げる。それが只々、耳障りだった。

 「オカシイのはてめぇの頭だ」

 意図的に言葉を感情任せにする。

 「あぁ?」

 冷水を浴びせられたように、男の顔からは喜悦が消える。

 「いつまで女の体弄ってんだよ色呆け」

 既に迷いは無い、可不可を計っていては失うものが有ると知った。

 「……へぇ、装備もないのに、あとそんなにレベル高くないよね?あんた。それで喧嘩売るんだ」

 「御託は良いからかかって来いよ」

 始めからこうするべきだった。

 「ハハハッ、カッコイイねぇ。良いじゃん、様になってるよソレ。そっちがそのつもりなら、こっちも空気読むかな」

 男は愉快そうに笑い、リリヤさんの奥襟を右手で持ち上げた。襟で首が絞まり、リリヤさんは苦しそうに藻掻く。しかしそれは失策だ。お陰で無いはずの勝機が見えた。僕の後方に控えている気配が、それを後押ししてくれる。

 「……リリヤさんを離せ」

 勝負は一瞬。此処から先は思考を捨て、閃きに身を任せる。

 「知り合い?あぁ、先客ってもしかしてあんただったのかな?だとしたら良い趣味してるよ。ハハハッ、さっきからやけに気にしてると思ったらこれだもんなぁ」

 「……」

 「で、人質いるけどどうする?」

 「お前の負けだ」

 「ふぅん?どうやっ……ッ!?」

 嘲笑混じりの男の言葉を遮り、姿勢を深く下げて踏み込んで見せる。男は反射的に、こちらの動きを潰すためにリリヤさんを乱暴に投げつけてきた。

 しかし彼女を受け止めてはいけない。受け流すように、身体の位置を入れ替えるように身体を翻しつつ後方へ投げ、更にその反動で自身を加速させる。

 不意打ちの踏み込み、更に人質を利用した再加速。イメージ通り、淀みのない一連の動作は会心の出来。故に其処から放った肘打ちは、二人まとめて斬り伏せようとした男の顎を、カウンター気味に打ち抜く事に成功する。

 いくら目で追えぬ斬撃であろうとも、機を逸するならばその意味を成さない。なのに通り魔は人質を離さねば、抜刀できないという余計な手間を自分で作ってしまっていた。刀を抜き放った時には既に、こちらはその腕の回転半径内に潜り込んでいたのだ。

 完全に虚を突かれる形で顎を打たれた男は、刀を失速させ、姿勢を崩し、たたらを踏む。

 一撃では逃さない。

 男の長い総髪を掴み、頭を引き寄せ、抱え込むようにして執拗に膝蹴りを叩き込む。苦し紛れの反射的なガードの隙間を縫うように、角度を変えながら顔面と側頭部へ打ち分ける。

 「図に乗るなぁ!」

 男が怒気を露わにすると同時に、腹を深く切り裂かれ、臓腑が溢れそうなる。力を入れ損ない、頭を掴んでいた手も力任せに振り払われた。

 距離を開けようとする男に、追撃を試みるが、男は既に納刀済み。次の刹那、胴を一撃で完全に両断され、更に鎖骨からも袈裟斬りにされる。瞬く間に下半身と、右腕を胸元から失った。

 やはり僕ではあまりにも脆い。一度反撃を許してしまえば、こうなる事は分かっていた筈だ。

 下半身を失い体を支えられず、否応なく崩れ落ちて石畳に顔を打ち付けてしまう。痛みより、断面から一挙に血が抜けていく虚脱感と、肺を失った事による窒息に意識が落ちかける。

 初めて経験する致命傷の逼迫と、それに対する焦りに、脳裏を巡るあらゆる判断が乱されて上手く纏まらない。

 その只中で、痙攣か悪あがきか、自分でも分からず動かしていた左手が、その爪が、石畳の凹凸を掻いていた。

 軽くなった身体は、片腕でも思いのほか動くことに気づく。なけなしの意識がそこに収斂していく。

 動けるならば、まだ戦える筈だ。

 リリヤさんが逃げる時間を稼がねばならない。

 奴は、僕を仕留めたのだと思い込み、既に視線を外している。

 今なら、もう一度。

 残った身体を片腕だけで跳ね上げ、男の顔を鷲掴みにした。

 眼窩に突き立てた親指と、外耳道を抉った中指の二指をより深く食い込ませようと、力を込める。力むほどに、残された僅かな身体から、自分を維持するのに必要な諸々が零れ落ちていく。意識の限界は思ったより早かった、視界が暗く落ちる。感じ取れるのは、男の呻き声と、指先に付く幾許かの血と肉片。

 それらも失血による痺れと悪寒に包まれ、遠のいていく。

「―――ッ!」

 頭部への衝撃と鈍痛。地面にでも叩きつけられたのだろうか。男は何か喚いているようだが、よく聞き取れない。

 再度の衝撃と浮遊感。しかし、落下先は地面では無い様だった。抱きとめられたような、柔らかさと温もりを感じる。

 「もう耐えなくて良い、苦しむだけだ」

 これはシェリーさんの声だろうか。

 「あの子は無事に逃した、後は任せろ」

 遠くなった耳では判然としないが、そう聞こえたような気がした。

 吐く息も残されていないので、感謝しても声が出ずに言葉にならなかった。

 ただ安心からか、直ぐに意識を手放してしまった。

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