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 リリヤさんは日が暮れ始めた頃合いに、路地裏の店の前まで送っていった。

 そして一人になった途端、急に気持ちが冷めきり、自分のしていた事に呆れた。自分はあんなに軽薄な男だっただろうかと。自身の現状を忘れ、NPC相手に安易な憐れみと施しを与えて悦に入る、そんな自分の考え無しにも腹が立った。

 しかし日も落ち切り、一人になってからした事と言えば、イミテーションではなくなった酒場、昼間と同じ店の隅の席で、GMコール時の山賀の話と、リリヤさんと街を歩いていた時の事を、何度も思い返す事だけだった。やはり結局は考えなしなのだ。

 店の中央付近のテーブルでは、プレイヤーらしき人達が派手に飲み、騒いでいる。離れていても浮かれた空気が伝わってきた。派手な鎧を店に預けず着たままの者、僕と同じように鎧を脱ぎNPCの様な簡素な服を纏っている者、僧衣のようなものを纏う者、様々だった。きっと彼らはギルドメンバーかフレンドか、顔見知りのプレイヤーを見つけることが出来たのだろう。彼らの纏う空気だけは、アップデート前と変わらず以前のままのように思えた。それを少し煩わしく感じる自分に気づいて視線を逸す。目の前に置かれたぬるいビールを眺める。

 ジョッキの三分の一ほど残っており、すっかり気も抜け、室内と大差ない温度まで温まって不味くなったビール。アップデート前にはなかったアルコールと、それに伴う酔い。

 この仮想世界は既に、ゲームとしては無駄に演算リソースを消費しそうな要素で溢れかえっていた。人間と変わらない挙動と反応のNPCは、昼間の彼女だけではない。むしろ以前と同じままの、会話ボットのNPCは存在しなかった。この店のウェイトレスでさえ、挙動は人間その物である。

 いよいよと、山賀と名乗ったあの狂人の妄言が真実味を帯びてくる。

 今の僕には現実の肉体が存在せず、仮想空間上の一データに過ぎないという、あの男の妄言。仮想空間内が現実と変わらない解像度と密度と規模を得ている破格の現状が、妄言は真実であるという証左になっている。しかしこの現実感が、自分が虚像で有ることを否定したがるのだ。

 掌と指の間の感触を思い出す。あそこまで真に迫るものが、偽物であるとはとても思えなかった。

 それでも全部ただの情報の集合でしか無いというのなら、僕とこの本物の様に不味くなったビールにどれだけの差があるというのか。あの時に握りつぶした花と、何が違うというのか。ならば僕は―――。

 「どうしたよ、兄ちゃん。そんなにビール見つめちゃって」

 急に肩を叩かれて驚き、考えていたことが吹き飛んだ。

 何時の間にか、隣に知らない女の子が立っていた。ウェーブのかかった黒髪の、ボリュームのあるツーサイドアップ。険のある三白眼に、その下を化粧のように濃い隈が縁取っている。服装は随分と地味な、飾り気のない黒のノースリーブのロングシャツにパンツルック。黒い髪と黒い服、白い肌。全体的に彩度の低いモノトーンだが、グラスを掴む指には全て、多様な意匠の指輪を嵌め、其処だけが異様にギラついている。視線の位置が座っている僕とあまり変わらず、その背の低さと、肩幅などの体格的にどうみても子供である。

 突然の事に、つい不躾にその姿を凝視してしまった。

 片手には琥珀色の液体が入ったロックグラスを持ちながらニヤニヤと笑っている。

 ウィスキーだろうか。氷は入っていなかった。

 「今にもビールと心中しそうな顔してたぜ?」

 女の子はこちらの気落ちをからかうようにそう言うと、そのまま向かいの席に座り、グラスの中身を一気に呷る。声は酷く嗄れていて容姿との乖離が有るが、その声は目の前の女の子のもので間違いないようだ。

 「くぁーっ、これも甘い。酒が揃いも揃って架空の銘柄とか嫌がらせとしか思えねぇ」

 テーブルが小さいせいで、対面で喋る彼女の呼気はこちらまで届く。甘いと言っていたが随分と強いアルコール臭がする。

 「何か用ですか?」

 服装は地味だが、奇抜で特徴的な容姿と、『架空の銘柄』という発言から察するに、この人はプレイヤーだと思われる。

 「いや、なに、一人寂しそうだったから、つい声をね。君は次もビールでいいかい?」

 彼女はこちらのジョッキを一瞥して、そう尋ねる。随分と馴々しいような気もするが、世話を焼くのが好きなのだろうか。

 なんであれ一人で愚にもつかない考えを繰り返すよりはマシな気がした。

 「……いえ、僕も何か強いのを」

 「んー、じゃあ適当にウィスキーから選ぶよ。あ、来たらちょっと君のも試飲させて頂戴、色々と試してる最中なんだ」

 そう言うと、その特徴的な嗄れ声で、ウェイトレスを呼ばずにカウンターに向かって直接注文した。カウンター側からも返事が返ってくる。店の方も随分とフランクな対応である。

 「その声、酒焼けですか?」

 「いやいや、まさか。さすがに初日でこうはなるまいよ。アバターの設定でそうしただけだって」

 やはりプレイヤーで間違いないようだ。

 「あぁ、そうだ、君もプレイヤーで良いんだよな?」

 「そうですけど」

 「良かった、NPCからしたらアバターだの設定だの意味が分からん発言だよな。今じゃ挙動で見分けることも出来ないからちょっと焦ったよ」

 「何故僕がプレイヤーだと分かったんですか?」

 嵩張る防具も外しているし、彼女が自分でも言っている通り挙動で見分けは付かない。

 「その服、NPC売りのチェストプレートのだろ?胸甲は外しているが襟と袖を見りゃ分かるよ」

 自信に満ちた顔で、得意気に理由を披露してくれる。

 「なるほど」

 よく見ているものである。

 「それに君、初期アバターの内の一つをそのまま使ってるでしょ?」

 「いえ、違いますけど」

 僕のアバターは現実の容姿をスキャンしたものだ。最初は確かに、拘りがなかったので初期アバターを使ったが、仮想空間内だけとはいえ鏡を見ると別人が映るの事に据わりの悪さを感じたのだ。

 「あっ……、うん、ごめん」

 得意げだった顔が一気にしょぼくれた。しかし何故謝られたのだろう。

 「そ、それで、何を悩んでいたんだい?お姉さんに話してみなよ」

 気を取り直すようにそう言う彼女は、どう見ても僕より年下にしか見えないが、プレイヤーならばアバターの容姿と年齢が一致するとは限らない。容姿以外から受ける印象通り、実際の年齢は見た目相応と言うわけではないのだろう。

 しかし今の自分の悩みを初対面の相手に話すべきかと迷うが、他のプレイヤーが今の状況をどう思っているのかも気になった。今の自分が只の幻であり、偽物であるという不安。自分を人たらしめる肉体は無く、データ上の存在でしか無くなってしまった事への喪失感。自分が自分であるという確信が、記憶だけという心許ない現状。それを他のプレイヤーはどう思っているのか。

 山賀との会話は何度も思い返していたので淀みなく話せた。ただ環境の変化が思っていたよりストレスだったのと、酔いのせいでくだを巻くような形になってしまっていた。

 「なるほどねぇ」

 そう言いながら新しく来たウィスキーを、チョコナッツを肴にチビチビと飲んでいる。彼女の表情からは始めのニヤニヤとした笑いは既に無く、思っていたよりも真剣にこちらの話を聞いてくれている。

 「正直な話すると君みたいな自分が偽物だって言う不安は今の所無いかな。どれだけ説明されても、やっぱり自分は自分だとしか思えないよ。だからあまり君の参考には成れそうにはない」

 「そうですか……」

 「そう暗い顔しなさんな、要は君が何者なのかハッキリさせれば良いのさ。先が見えないから不安になる、保証が無いから全て疑わざるを得なくなる。それでも自分が何を成す者であるのかを決めてしまえば、その間は迷わずに済む。何かしらの目標を見つけ、それに邁進してる間はね」

 「目標ですか」

 「そう、例えばいっその事、自分が別物になってしまったのなら、この世界が現実と大差ないのなら、此処で一からやり直し、立身出世を企てるとかね。あそこで騒いでる連中とか見てみなよ、こんな異常事態に危機感もなく浮かれている。しかしそれも仕方ない。なんせ現実の柵からの解放だ、仮想世界に傾倒している人間の大半にとってはコレは夢の様な状況だろうさ。その日の糧を得る為の望みもしない労働からは開放され、娯楽の世界に生き、疎ましい現実の人間関係からも開放された。気の合う仲間だけと自由に楽しい毎日を謳歌するんだ。そして何より、こちらの世界ではプレイヤーは力のある存在だ。プレイヤーが力を振るえるように調整された世界、ルールと攻略法を散々頭に叩き込んだ世界。オマケにゲームの中の財産が本物になった。ならばゲーマー達にとってこれはきっと福音だよ」

 しかし言葉とは裏腹に、店内にちらほらと見える浮かれた他プレイヤーを眺める目つきは、胡乱な物を見るような険がある。この言葉はきっと韜晦で、彼女自身そんな戯言を本気にしている様には見えない。

 「それとも現実に残してきた大切な物を取り戻す為に動くかい?何でも良い、君が望むままに動けば良い。いや、その不安を消したいのならば、せめて叶わずとも目を背けたいのなら望みを持たなければならない」

 現実に残してきたものを取り戻す。そう言われてやっと、実家の家族の事を思い出し、自身の薄情さに辟易する。しかし、それが躍起になって取り戻したい程の物かと問われると疑わしいものである。別に仲が悪かったわけではない、むしろ良い方だっただろうに、優先順位が低い。ただ戻れないという実感が薄いだけなのか、もう逢えないという事実を飲み込めていないだけなのか自分でも分からないが、やはり薄情であることには変わりないと思う。

 だから結局は、どれも琴線に触れず、目標として掲げるには些か不足である。

 「分かりません、何をどうして良いのかすら……」

 視線を外し、俯くことしか出来ない。

 「あなたは平気なんですか?今のこの状況が」

 先程の周りに対する視線から平気なようには思えなかった。

 「まさか、俺だってこんな突拍子もない状況には参ってる。ゲームにのめり込んで、アホみてぇにPvPやってランキングばっかり気にしてた昔ならともかく、今の俺には楽しくもなんともねぇよ」

 苦笑しながらそう答えるが、どこか力が無い。

 「PvPのランキングですか」

 極力、他のプレイヤーと関わらないようにしていた僕には縁のない話だった。この人が不健康そうなのはアバターの容姿だけじゃないのかもしれない。

 「そう、シェリー・バットって知らない?3年くらい前まではそこそこ名が知られてたんだけど」

 「3年前?」

 ブロークン・プロミスの正式サービス開始は2年前なので勘定が合わない。サービス開始と同時に始めたので間違えるはずがない。

 「そう3年前」

 しかし目の前の彼女は3年前と繰り返した。

 「……3年前って、βテストの時のことですか?」

 となるとリリース前のオープンβの更に前、クローズドβぐらいのはずである。しかしその時点で有名だったというのは早すぎではないだろうか。

 「……」

 僕が聞き返すと、それには答えずシェリーさんは眉間にしわを寄せ、口もへの字に曲げて黙ってしまった。更には額を押さえて俯いた。

 「ごめん、話を変える。今が何月何日だか分かる?」

 そして俯いたまま、焦りが滲む声で聞かれる。その様子に、もしやという予感が脳裏を過ぎる。

 「……3月18日」

 この世界に入った瞬間と、現実での最後の記憶は曖昧だったが流石にそれくらいは思い出せる。

 「何年の?西暦で答えてくれ」

 「2153年」

 「………マジかよ」

 あげた顔は苦悶の表情に変わっていた。

 「あの、まさか……」 

 「そう、そのまさかだよ。俺の記憶では2160年の12月15日だ。……くそっ、これで確定なのかな」

 僕より七年も先だった。

 「確定というのは?」

 「俺達には既に肉体がなく、採取された記憶から再現された人格である事がだよ。正直なところ、俺はそれに限らず、あいつの言う事全てを信じきっている訳じゃないだ。君が山賀にやられたって言う人格の複製と再統合だって、何かしらの種か仕掛けでも有るんじゃないかってね。しかし違う時間軸の人間を、こうやって同じ時間に放り込めるとなると、やはり元の体が有ってログアウトが出来ないだけと言うのは無理が有る。これこそ何かしらの種か仕掛けで君の記憶が七年前で止められているのなら、今度はその理由という疑問が生まれてくる。何故、7年前なのか。何故、君は七年前で止められていて俺は止められていないのかってね。それならば、ゲームにログインしなくなって以降は記憶の採取がされず、俺達は最後にログインした時点までの記憶で再現された人格だって方が現状と合致する。もしかして君はこのゲームに飽きてた頃だったんじゃないのか?」

 シェリーさんは弾かれたように自身の考えを早口でまくしたてた。

 「そ、その通りです」

 その突然さに少々面食らった。

 ブロークン・プロミスの売りであるはずのPvPに殆ど魅力を感じなかった僕は、ただひたすら、このフィールド上を歩き回っていた。今と比較してしまえば大したことないのかもしれないが、歩いて渡るには広大なフィールドとダンジョンを、休日を使って少しづつ足を伸ばしていった。人と顔を合わせることのない、閑散とした効率が悪い狩場や、人気の無いダンジョンが特に好きだった。例えレベルが適正でない場所でも、工夫で乗り切るのが楽しかったのだ。そんなプレイスタイルで大してレベルも上がらないまま、一人で二年も旅をしていたのでは、飽きて当然だったのかもしれない。

 「やはりそうか。念の為に確認するけど、君はパラビジュアライザーをAR(拡張現実)用途でも日常的に使っていたかい?」

 「使っていましたね、折角の統合機ですから」

 パラビジュアライザーはコンシューマ向けとしては初のVR(仮想現実)デバイスとAR(拡張現実)デバイスの統合機だ。医療目的のみで認可されていた視床への機器のインプラントを必要とせず、ウェアラブルデバイスでありながら知覚の直接投影を可能とした初の機種でも有る。煩わしい網膜投影もディスプレイも無いのだから、AR機器としても使用するのは当然である。

 「だとしたらやはり記憶の採取はゲーム中ってのは本当になる訳だ。……やばいなぁ、あいつの言う事に穴が見つけられない。知れば知るほど補完されちまう。マジで永遠なのかこの世界」

 シェリーさんは僕とは違い、まだ今の状況を疑っているようだった。苦悩の表情で頭を掻き毟るその仕草からは、明らかに苛立ちが感じ取れた。

 本来ならあんな怪しい奴の言うことなんて、これくらい疑って然るべきであり、僕が抜けているだけなのだろう。

 俯き加減に悩みだしてしまったシェリーさんは声が掛けづらい雰囲気だった。

 「あの……、大丈夫ですか?」

 しかし暫くして、その両目から涙が溢れているのに気が付き、流石に放置できなくなった。

 「へぇぁ?」

 自分では泣いているの気付いていないのか、素っ頓狂な声を出しながら顔を上げた。

 「あぁ、これか?……もしかしたら、二度と彼氏に会えないんじゃないかと思い始めたら泣けてきちゃってね」

 そう言う割には涙以外は特に変化はなく、先程の苛立ちも顔を上げた時には綺麗さっぱり消えている。

 「……彼氏?」

 この人に彼氏がいることに内心驚きが隠せない。いや、初対面のこの人の普段を知らないのだから、勝手な印象でしか無いのだが、とても居るようには見えなかったのだ。

 「そう、彼氏。益体もないカスみたいな俺を選んでくれた眉目秀麗の聖人君子。けれど情熱的な所も有る俺には過ぎた人さ」

 むしろ過ぎているのは異様な自虐と賛美である。

 「はぁ……、そうですか」

 「お?信じてないな?よぉーし、ハル君が如何に凄いか聞かせて……、やりたいが長い話になるからやめる。話を戻そう」

 そんなに長いのだろうか。

 「しかし、あの薄らハゲの言うことが本当だという前提で話を進めると、すげぇ面倒くさいんだよなぁ。肉体有ってログアウトできないだけなら、放っといても事件になるから外で勝手に進展していくだろうが、そうでないとなると自分で動かないとどうにもならねぇぞ、これ」

 薄らハゲ?山賀の事なのだろうがハゲてはいなかったはずだ。しかし文脈上、人違いではないと思う。

 「あの人ってハゲてましたか?むしろ不衛生なボリューム感があったと思いますけど」

 先程の時間の事も有ったので、念の為に確認する。実はGM(ゲームマスター)が二人居ると言う可能性もあるのではないだろうか。

 「拡張されたフィールドに連れていかれた時に逆光で頭頂部が透けてた」

 「左様で……」

 可能性はあっさりと消えた。それにしても変な所を見ているものである。

 「まったく。現実あってこそのゲームであって、柵からの開放とか永遠とか可能性とか訳わからん目的のために人様を巻き込むんじゃねぇよ」

 どうやら今度は、シェリーさんの愚痴が始まってしまったみたいだ、目に見えて不機嫌になっていく。あまり威圧感は無いので聞いてるのは特に億劫ではない。

 「普通はそうですよね」

 「ほんと余計なお世話だよ!現世の柵からの開放って、俺は現世に未練しかねぇよ!ハル君が居ない世界とかいらねぇよ!」

 凄いな。恥ずかしげもなくそこまで言えるのか。

 「だから言ってやったわけよ山賀とかいうナルシストハゲに。こんな世界で俺が生きる意味ないって、そしたらあのハゲ『時間は無限に有る、いずれこの世界でも生きる意味を見つけられるはずだ』とか抜かしやがってよぉ。その後もまぁベラベラと……、気がついたら殴りかかってたよね」

 山賀の台詞らしき場所は、酷く馬鹿にした似てないモノマネだった。愚痴が段々とヒートアップしていく。

 「なのに当たり判定無くしてたんだよ、あのハゲ!何が同じシミュレートエンジンだ!お前だけ別かよ!小汚いロン毛がぁ!」

 この場に居ない山賀への罵倒はもう無茶苦茶だった。 

 シェリーさんはヒートアップした愚痴も終わり一息つくと、チビチビ飲んでいたウィスキーも一気に飲み干してしまう。そして僕の方にある別のウィスキーが入ったロックグラスを見る。

 「そうだ、ちょっと君のそれ試飲させて」

 「あ、どうぞ」

 感情の振れ幅というか乱高下の酷い人である。酒に口をつける時には怒りがもう静まっていた。

 「それで、話を蒸し返すようだけど君のさっきの悩みだがね、あればかりは我思う故に我あり、そう思うしかないでしょ」

 急に話が随分と前に戻る。その話は終わりじゃ無かったのだろうか。

 「さっきは目標を見つけろと」

 「いや、ごめん、さっきのは適当こいてた。真面目に考えてなかった」

 「えぇ……」

 真剣に話を聞いてくれていると思っていたのは間違いだったのか。

 「さっきの俺はまだ肉体がないだなんて信じていなかったからな。いずれ事態が進展すれば、そんなの悩むだけ無駄だと思ってたんだ。しかしそうでないとなると、もう他人事じゃないし」

 この人は容姿が陰鬱そうだが振る舞いは奔放で、それでいて妙に律儀だ。キャラが掴みにくい。

 「あんな曖昧な悩みどうにかなるものですか」

 「んー、保証はできないよ。要は物の見え方の違いだからね、そう簡単には変わる様なものじゃない。肉体の有無に悩む君と悩まない俺、その違いは物の見え方、捉え方の違いから来る価値観の相違に他ならない。陳腐な言い様だけど、結局はそこなんだよ。そしてその価値観を作り上げる捉え方の違いとは前提に有る知識の違いでも有る」

 「知識……」

 「そう知識。別に頭の良さとかそう言う話じゃない、情報や経験と言い変えてもいい。人はそれぞれ違う人生を歩み、その経験の中でそれぞれ違う知識を蓄える。人は自分の知識を前提にモノを認識したり理解するんだ。田畑の実りに土地の肥沃さを知るか、地母神の愛を見出すかは、農業を生業としているか神を知っているかの違いだ。人は知らない事は見えないし、知っている事は逆に嫌でも見えてしまう。そういう生き物だ」

 饒舌な語りに口を挟む隙がない。なんだか妙な講義が始まってしまった気する。

 「インプットが変わればセンスもレスポンスもアウトプットも変わる。こう言ってしまえば至極当然の事なんだけどね」

 終わりだろうか。

 「で、此処からが本題だ」

 終わりではなかった。

 「ただその前に断っておくと、俺に出来るのは価値観の押し付け程度のものなんだ。君の悩みを真に解決するのに必要な物が、新たなインプットではなく、既存のインプットの訂正だったならば的外れも甚だしいしね。それに他人のパラダイムシフトを意図的に促すって本来なら結構テクニックが必要なんだけど、不器用な俺には無理だから勘弁してね」

 つまり、先ほど同様にコレも僕が僕自身が何が納得出来ないのか具体的に分かっていないから、アドバイスのしようがないという話なのだ。それだと言うのに、この人は初対面でありながら、そんな情けない話によく付き合ってくれるものだと思う。

 「たとえこの世界が演算の上に浮かぶ幻でも、君にクオリアが有るのならソレは十分に君だよ。むしろ俺から見たら本当に君にクオリアがあるのかすら怪しい。この目に見えいてる世界の中心は俺で、君は受け答えの幅が広いだけの人工無能ではないかとね。ただしそんな事を言い出したら現実だろうと今の仮想世界だろうと同じことさ。哲学的ゾンビってやつだ。ただし今はプレイヤー全員がスワンプマンであると明言されてしまっては居るがね。それに君はぬるいビールと君が同じデータの集合体でしか無いと言うけれど、それこそ現実と同じさ、現実の肉体だって有機物の塊でしか無く、物質的に特別な事など何も無いよ、生命活動という秩序を保ってはいるが、生命活動だけならスワンプマンにも有る。魂は未だに幻で、誰も客観的に観測していない」

 我思う故に我あり。クオリア……、主観的な意識が投影される場所のことだっただろうか。主観は有るのだ、ソレは問題無いと思う、多分。

 「それとも意識の有無じゃなくて、それの在り処の、肉体の有無のほうが重要なのかな?別の個体として、頭蓋の中に収められている脳が有るか否か。山賀の言うこと真に受けるのならば、この世界では一つの装置、一つのシステムに全員の意識が乗っかっていることになるからね」

 プレイヤー全員、不味くなったビールや、あの潰れた花と同じ情報の集合体であり、たった一つの筐体を共有する存在。

 「すみません、結局、自分は何が不満だったのか良く分からなくなってきました」

 不安や不満が消えたわけではない。ただ捉えどころがなくなって、余計どうしていいのかわからなくなったのだ、饒舌な語り口に段々と煙に巻かれているような気もする。

 「そっか。まぁ、気を病まない程度に不満の原因を自問自答してみると良い。その内見えてくる物も有るかも知れない。んじゃ、話が散漫になってるついで、不安を煽るようだけど、現状の見方を無理矢理にでも変えてみよう。主観をアガスティアに移し、俺達の意識を載せた、そのシステムを一つの脳として捉えるなら、俺達はアガスティアの見る夢みたいな物になる。あいつが言うには、この世界は外が止まって見えるほどに加速されている。つまり加速されているが故に、現実では刹那で過ぎる、永遠のように長い夢」

 幻どころではなく霞のように捉え所のない話である。

 「アガスティアの夢だと言うのなら僕達の自我とは一体」

 「今の俺達は、俺達であるための記憶を持ち、それを礎とした人格を持ってはいるが、その記憶を体験した肉体を持ちあわせては居ない。持って生まれた容姿、血の繋がり、肉体の成長と刻まれた傷、それらは常に付き纏い、人生のあらゆる局面で影響を及ぼし、自己認識の形成とは不可分で有ったはずだ。俺達が俺達になるには、その体が有ってこそなんだ。しかし今、その肉体を失い、仮初の写身に植え付けられた記憶頼りでしか、自分を自分だと言える手段の無くなってしまった俺達は、記憶という過去の日誌を参照して自己規定する、無自覚な演者の様なものだ。そして人間を構成する一要素にすぎない記憶を、アガスティアというシステムの上で再現しているだけにも関わらず、自身が以前と変わらぬ連続した一個人であるという自己認識が、現状との齟齬を産んでいるのかもしれない。俺達が自我と思っているソレは、筺体という肉体の所有者であるアガスティアの“自我”であり、それを構成する要素でしかない俺達は、せいぜいソレが見る夢の中の登場人物と言うところだろう。借り物の記憶と心で駆動する夢見る機械、そんな泡沫のように曖昧なものが今の俺達。こうやって俺と君という形で、まるでパーテーションで区切るかのように分けられてはいるが、同じ筺体の中で一つのシステムを動かすために存在して居るのなら、それは既に一つの存在と言えるのかもしれない」

 あまりにも抽象的で、話の着地点が分からない。こう言うとシェリーさんに怒られる気がするが、言ってる事の意味不明さでは山賀に引けをとらないのではないだろうか。

 「まぁ、これはちょっと想像膨らませすぎかな、ここまで来ると只のポエムだ」

 シェリーさんは付け加えるようにそう言いうと散り散りになった話を払うように、手をひらひらとさせた。

 いつの間にか、こちらの悩みもまとめて有耶無耶にされてしまった気がする。悩んでいたのが馬鹿らしくなってきた。

 「それにしても原意識演算装置アガスティアとはね……、見たことも聞いたこともないし、名前からじゃ構造も動作原理も全く想像がつかない。その上、何処から湧いて出た技術なのかすら不明。無限のリソース持った演算装置なんてナノフォトデバイスと量子コプロセッサで出来る範疇じゃないし、完全にオカルト。これに関しちゃいくらあいつに聞いてもけんもほろろ、ラベルは見せても中身は漏らさずだった。揚げ足取ろうと質問攻めにしてやったのに、肝心な所ではぐらかしやがる」

 独り言のように次々と話を転がしていく。思い付いたことを全て吐き出しているだけなのだろうか、途中から彼女はこちらを見ずに、グラスを見つめたまま話しを続けた。そのグラスは試飲と称して飲み始めたはずの僕のウィスキーなのだが、話の合間に順調に量を減らされていた。帰って来る気配はない。

 「オカルトですか……。そう言えばこの世界が永遠に続くって言ってましたけど、そんな事あり得るんでしょうか」

 衒学的に語れるこの人なら、今の状況を僕とは違う様に見えている筈で、何かしらの打開案を持っているかもしれないという期待が少しあった。

 「有り得ない。…………在り得ない筈なんだけど」

 はじめは即答だったが、段々と声が弱くなっていく。

 「繰り返しになるけど完全にオカルトだよ。永遠の世界を作る為の、と言うかあのハゲの言う通りの仮想空間を作るのに必要な前提技術がおかしいんだ。別に俺は最先端技術の全てを把握してるわけじゃないけれど、それにしてもコレは突飛過ぎるよ。中から見たら外が止まって見えるほどの、無限の処理速度と容量を持った演算資源なんて物理的な制約が多すぎる。百歩、いや、万は譲って其処は何かしらのブレイクスルーが有ったとしよう。けれど原意識演算なんて物だけは意味が分からんよ。技術ってのは段階を踏んで進歩する物なのに、原意識演算なんてものはその技術の前提からして影も形もないんだ」

 「そんなに厄介なものなんですか」

 「そもそも原意識って言うのは汎心論とか哲学の方の言葉なんだよ。もしも意識っていう現象が純粋に物質の作用だけでは発生しないと仮定した場合、今度は意識を発生させる何かが有るはずだという話になってくる。その必要な何かの事を指して原意識って言うんだ。心の塵とか表現される、意識を発生させる性質を持つ何か。そんな仮定の話の上で出てくる概念を演算する装置とか言われても意味が分からないだろ?」

 「確かに」

 そもそも汎心論がどういう物か分からなかったが、とりあえず面倒くさい物だという事だけは良く分かった。シェリーさんは僕よりも知識が有る分、余計に現状の有り得なさを実感させられているのかも知れない。

 「今の技術だと原意識がどうとか言う以前に、生命活動の表層に現われている知能の再現がやっとってレベルだ。ハイエンドと言うよりはエクステンドの人工知能、労働効率と対費用効果無視の人間を模した、人間と同レベルのレスポンスの出来る知能の開発ってのは有ったんだけどね、人を模しては居たけれど、人造の身体で育ったが故に、この仮想世界の人間と寸分と違わぬNPCとは違う様相を呈していたけれど、それでも客観的に見て知性と言える物の再現は不可能ではない事は既に実証されているんだ。縁が会って少しだけ実際に接した事があるけど、ちょっと違和感は有ったくらいで、それでも人その物だった。あまりにも出来が良すぎたんで、色んな分野から論客出てきて喧々諤々だったそうだ。そのせいか未だに扱いに困ってるらしい。しかし其処まで行っても尚、根源の意識のハードプロブレムまでは解消されなかった。外から観測する限りにおいて自由意志と言って過言ではない知性を、どれだけ腑分けしても魂の座なんて、統合された知覚の行き着く意識の在り処なんて見つからなかったんだ」

 言いたい事は何となく分かるが、正確に理解出来ている自信がない。あと話しが長い、特に薀蓄が長い。自分から質問しておいてなんだが、この人は一を聞くと十で返してくるきらいがある様だ。

 「つまり意識という現象は未だ半分くらいは、エンジニアリングではなく哲学の範疇の筈なんだけどな」

 シェリーさんはそこで大きくため息を吐き、グラスに口をつけた。

 「なのに山賀は原意識演算なんて謳っている。見つかってすら居ないものを演算せしめている。そんな魔法みたいな技術持ちだされたら永遠に続くっていうのも、もしかしたら本当なのかなって気になってしまう。同時に原意識ってのは何かの比喩なのか、とも勘ぐってしまう。あぁ、そういや既存人格のエミュレートも倫理やらの問題で実験すら出来ていないはずなんだ。駄目だ、考えれば考える程に意味が分からん。GMコールもあの短時間じゃ情報収集も交渉も何も有ったもんじゃなかったし、せめてもう少し時間が有れば良かったんだがなぁ」

 「あの男に話なんて通じるものですか?」

 あの狂人を相手に、時間さえ有れば話し合う余地は有ったというのだろうか。

 「時間さえかければ多分。狂ってるように見えても、ソイツにはソイツなりのルールや論拠が有ったりするもんだよ。あの妙ちきりんなレスポンスの礎となったインプットが分からんから話が通じないだけさ」

 本当にそうなのだろうか。GMコール時の噛み合わなさが頭をよぎる。

 「しかし問題は、その機会をどうやったら得られるかということだ」

 GMコールはあの一回のみで、すでにGUIすら表示されずこちらからのコンタクトを取る手段は見当たらない。

 「向こうから会いに来るのを待つしか無いということでしょうか」

 「または向こうが会って話さなければいけない思う事態をこちらから引き起こすかだ」

 「一体何をすれば……」

 「あー……、んー、あいつの目的の妨害とか?」

 シェリーさんは急に歯切れが悪くなる。

 「目的の妨害?」

 「そう、妨害」

 「目的なんて一番良くわからないと思うんですけど」

 「GMコールの時に目的とか聞かなかった?」

 「聞きましたけど人の可能性がどうとか、あとは救済とかなんとか。……やっぱり分かりませんよ、どう言う意味なのか」

 怪僧の説法に似たアレを、一度で理解など出来るものだろうか。

 「どう言う意味も何も、そのままの意味だよ。あいつの目的は全人類の救済だ」

 「そんな馬鹿な」

 「印象でしかないけど、多分あいつメサイアコンプレックスなんじゃないかな。会話の節々に宗教関連の用語とか引用っぽいの混じってたし。出てくる言葉のごった煮具合いからすると特定の宗教を信仰してるようではないけれど、そのごった煮具合が新興宗教っぽくも有るから断言は出来ないね」

 メサイアコンプレックス。あの男は自分が人類の救済者であらねばならないと、本気で思い込んでいるのか。何の比喩でもなく、本当に救済が目的だとでも言うのだろうか。しかしゲームの世界ををリアルにし、その中にプレイヤーを閉じ込めることの何が人類の救済だと言うのだろう。

 「まぁ、そんな馬鹿なの一言で切り捨てたい君の気持ちは分かるんだがね、しかし既に現状でも十分に馬鹿げているんだよ。もしもこの破格の技術が本物で、この世界が永遠の楽園で有り得るのならば、もしかしたら本当にあいつの言う救済は実現できるのかもしれない」

 「そもそもの話ですけれど、その救済と言うのが分からないんですよ。一体何から人類を救う必要が有るっていうんです」

 本来ならばコレは山賀に聞くべきだった話である。あの時は混乱していて考えが上手くまとまらなかったとはいえ、そもそもの話をするのは今となっては遅すぎた。

 「俺もそう思ってね、全く同じことをあいつに聞いたよ。そうしたら『人が捨てられぬ業苦から』だとか、またしても抽象的な事言いだすのよ。さらにしつこく問い詰めてやっとソレらしいこと言い出した。けれど、まぁ、出てきたのは如何に人類が進歩の無い生き物かって内容だった」

 シェリーさんの眉間に皺が寄る。代弁している山賀の言に、呆れているようである。

 「曰く『未だに文明圏は地球からの脱出すら叶わぬほど経済的にも文化的にも閉塞していて、常に主義や思想で口当たりよく味付けされた火種を燻らせている。また富める者はますます富み、貧しき者は持っている物も取り去られる、この世界の構造は未だ変わる兆しが無い。そして他にもあらゆる病巣を抱え、時には新たに生みだし、それらは努力をもって先送りにしては居るが、どれ一つとして根本的な解決はされていない。政治、経済、思想、技術、文化のどれも小手先の誤魔化しを繰り返すばかりで人類史に大きな変革はなく、停滞している。英明にて日知りなる者も、深き慈愛をもってその身で道を示す者すらも、それを覆すことは叶わなかった』だそうだ。ずっと昔から同じことを繰り返す人類に業を煮やしているんだな、あいつは」

 シェリーさんが諳んじてみせた山賀の言葉は、やはり何処か説法じみている。しかし。

 「それに何の問題が有るっていうんです」

 そこまで行くと人類の歴史その物の否定である。

 そしてあまりに話の枠が大きすぎて、具体性も無く危機感も湧いてこない。人類の業など個人で憂う様な範疇なのだろうか。しかし、それを本気で憂い、自らの手で覆そうとするからこそのメサイアコンプレックスなのだろう。けれど、いくら説明された所で『そんな事の為に』としか思えなかった。

 「そんなの個人が気にしてどうするんだよ、ってのは俺も同意見だ。全くあいつの頭には何がインプットされて、どう見えたのやら……。でもソレだと話が終わっちまうんで、もう少しあいつの土俵に乗って話をする。まぁ、そうしてみたところで俺の意見は変わらんのだけどね、やっぱ一々問題視する方がどうかしているよ。そもそも今以上の停滞や衰退なんて歴史上にはいくらでもあった。それに問題を先送りできているって事は、解決策が見つかるまでの時間稼ぎに成功しているってことだ。その努力が少なくとも実っているのなら、特段卑下することじゃない。牛歩では有るが、それでも人類は進んでいるんだ。現世は賽の河原だとか言っていたけれど、現世に鬼なんて居ない。積んだ石が崩れてもその場に残る、不格好でも積み続ければそれなりの高さになるってもんだ。……ちなみにこれ、そのままアイツに言ったけど聞く耳持たずなのか、何も答えてはくれなかった」

 やはり話は通じないのではないだろうか。そんな懸念が浮かぶ。

 「それで人類の救済と僕達を閉じ込めることに一体何の関係が有るんです?」

 閉じ込めた理由。近いような事は山賀に聞いた筈だがあの時は意味が分からなかった。

 「あいつは何れ全ての人類を救うとも言っていた。だから俺達をこんな所に閉じ込めたのもきっとその為なんだ。いくら関係無さそうに見えても、あいつなりの筋道が見えているんだろう」

 シェリーさんはグラスから手を離し、腕を組んで厄介者を睨むかのような目で、中空を見つめる。

 「ただ具体的な方法は、コレもいくら聞いても答えてくれなかったな。だから此処からは俺の推測になるんだがね、あいつがこの世界を、このシステムを作り上げたことにより、きっと人類は永遠のシンキングタイムを得たんだよ。種として人類が終わる前に、この星が人を育む事ができなくなる前に、何かしらの答えを得るためのシンキングタイム。その答えを、死の無い人間に永遠の時間を与え試行錯誤を繰り返させ、見つけさせる。メールのタイトルになってた人の可能性ってのは多分そういう意味だ。あと人の努力が、死や継承の失敗によって消えていくのを惜しんでいた節が有る。アレクサンドリア図書館みたいな大きな学術体系の喪失だけではなく、個人レベルの知の喪失すら惜しいと考えたのかもな。または100年に満たない人の寿命では到達できない境地が有るとでも思ったのか。そしてその喪失のない成長を一人ではなく、ゲームで集めた百万近い人格のコピーで試すんだ。さらに言えばこのシステムは奴の掌の上だから、初期条件は幾らでも変更可能だろうし、演算資源に限りがないのなら人格を含めて仮想世界丸ごと複製して、それぞれ様相の違う平行世界みたいなのも作れるんじゃないかな。そうやって無限の可能性の中から人類を救済しうる概念の発生を待ち、選別し、現実に解き放つ」

 「あぁ……」

 途方も無い話に、ため息しか出ない。

 「コレが現時点の材料から俺が推測するあいつの目的とその手段だ。まぁ、現実への解き放ち方とか、色々と不明な点は多々有るんだけどね」

 「良くそこまで推測出来ましたね」

 面食らったあの怪しい話も、人によっては理解できない物ではないらしい。

 「肝心な所をはぐらかされたり、語彙が独特だったけど、その内容は特に難しい事は言ってなかったと思うよ。出てくる言葉が一々大仰でポエミーで、挙句の果てには誇大妄想みたいな話だからって、一笑に付してまともに聞いてなかったんじゃないかい?」

 図星だった。

 「まぁ、それも仕方ないか、俺も途中まではそうだったし。さて、そんな訳で長くなったがアイツが何をしたくて、そして何を妨害すれば嫌がるのか分かったはずだ」

 「あの、それは何となく分かったんですけど、具体的には何をすれば?」

 「ソレは俺にも分からん」

 ズッコケそうになった、アレだけ長々と語っておいてそれはないと思う。

 「なんですかそのオチ」

 「仕方無いだろ!?人類を救済する概念の発生を邪魔するって何だよ!ふわっとし過ぎて良く分かんねぇよ!クソゲーの魔王か何かかよ!」

 「逆ギレしないで下さいよ」

 「ええい、うるさい!偉そうに語っておいて何だけど、ぶっちゃけ俺だってあんな頭の痛くなるような戯言になんか付き合いたくないんだ!」

 お互い酒が入っているとはいえ、既に言葉が気安くなっている。

 「さっきも言ったけど、本当に無限のリソースなんて有ったら、この仮想世界を丸ごと複製作って並列処理しててもおかしくないんだ。もしもそうなら、ちょっとやそっとの事じゃ、動じやしないだろうよ、どれだけ滅茶苦茶に引っ掻き回しても数多の結果の一つとして数えられて終わりかもしれない。さらに言えば、アガスティアが一台だとは限らないんだ。目的を考えればオープンソースにする可能性もある。初期条件がゲームプレイヤーだけなんて言う偏りは、目的の達成からも外れるだろうからね。胸くそ悪いが、この中でいくら暴れた所で、どこまで行っても奴の掌の上だ。そんな中で、良く分からない内に極端な事はしたくない」

 無限という概念一つで、全て丸め込まれてしまう様だった。

 「ならば、逆に山賀の目的を叶えれば外に……」

 「なんだい?魔王が駄目なら勇者か救世主にでもなるかい?しかし、どうすればアイツの御眼鏡に適うかなんて分かりやしないよ。そもそも救済方法を探すって言ってたから、明確な答えがあるわけじゃなくて、きっとあいつにとってもまだ探してる段階なんだよ。それに外に解き放つものが人とは限らないんだ、もしかしたら思想や文化かもしれないだろ?だから俺は概念って曖昧な表現しか出来なかったんだよ。それに元より複製された人格データに帰る場所なんて……、もしかしたら有るのかも知れないけど、それが自分の元の肉体である保証もない」

 急に随分と弱気な発言である。先ほどまでは交渉の機会さえ有れば、どうにか出来るという自信を見せていただけに、齟齬が有るように思えた。

 「帰る場所が無いというのなら、シェリーさんは一体、山賀と何を交渉するっていうんですか?」

 「……」

 一を言えば十が帰ってくるような反応が途切れてしまった。こちらから視線を逸し、俯く彼女の顔は酷く暗い。その顔見てしまうと、余計な事を聞いてしまったかと後悔する。

 「俺自身の消去かな。本当にこの世界が永遠なら、俺が望むのはそれだけだ」

 漸くして出てきた言葉は、酷く沈んでいた。

 「その答えを出すにはまだ早いのでは?もっとこの先がどうなるか見極めてからでも」

 「いや、見極める必要なんてないさ。言ったろ?ハルくんの居ない世界なんて要らないって。それにこんな崩すのが面倒そうな底の見えないシステムに立ち向かうよりは、狂人相手に情けを乞う方がまだ楽そうだし」

 僕とは逆にこの人は、悩みも答えも既に決まりきっている様だ。

 「しかし、さっきのは推測にすぎないって言ったのはシェリーさんですよ、ならばこれからまだ何かしらの解決策を探す余地は有るはずでは」

 「そりゃあ、そうさ。ただその当面の目標が自身の消去ってだけだ」

 本当にそれで良いのだろうか。

 「納得いかないって顔だね。けれど、とりあえず、ってのも大事なんだ。後ろ向きかも知れないが、こんな目標でも無いよりはマシなんだよ。これすら無くしたらもう俺には蹲ることしか出来ない。前向きな目標は後で、その芽が見えてからで十分だ。今はとりあえず何でもいいから動機に成り得る目標が欲しいんだ」

 目標を見つけろ。僕にかけた言葉であるそれは、彼女が自身へと向けた言葉だったのではないだろうか。

 「けれど、動機がどうとか言った所で、ぶっちゃけ今は何をするにも億劫だよ。早々にして挫けそうだ」

 不貞腐れ、目に見えて萎れていく。とうとうテーブルに突っ伏してしまった、目の前には旋毛が見える。

 「生まれて初めて彼氏ができて三年目、調子こいて将来まで約束した矢先にこの仕打ち。奇跡のような人生の逆転劇は、魔法の様な超技術の前に儚くも散る。何だよこれ、呪われてるのか俺の人生。…………人に愛されるだなんて、今にして思えば俺には過ぎた幸せだったのかなぁ」

 空になったグラスをもて遊びながら、そんな事を呟く。しかしその茶化しと自虐は涙声で震えていてとても口を挟めそうにない。

 「くそっ、思い知るほどにきついわ。……………ちょっと君さ、試しに慰めてくれないか?」

 「え?」

 聞き間違いだろうか。

 「慰めれ」

 命令がぞんざいになった。恨みがましそうな上目遣い。凶相のせいか、正直なところあまり可愛いものではない。

 「こっちでもその内いい人見つかりますよ」

 軽いノリに、軽いノリで返してしまったが。

 「…………」

 無言でボロボロと大粒の涙を零しながら、垂れそうな鼻をすすりだした。

 たまたま近くを通り、シェリーさんの空になったグラスを下げようとしたウェイトレスが、その泣き顔を直視してしまい、気まずそうに目だけで僕と彼女の顔を見比べる。僕も非常に気まずくて、対応に困る。

 「あ、この変な名前のリキュールと何か適当にブランデー下さい。両方共ストレートで」

 ウェイトレスに気付いたシェリーさんは、メニュー片手に次の酒を注文しはじめた。切り替えが早すぎではなかろうか。

 「………すみません」

 しかし泣かせてしまった事には代わりないので謝る。

 「今のは思いつく限りで一番酷い慰め方じゃないか?びっくりしたぜ。いや、まぁこっちこそ急に泣き出したりしてすまんね。こんなの初対面の君に愚痴っても仕方ないわな。とりあえず目の前の嫌な事はアルコールで消毒だ」

 さっきから強い酒ばかり飲んでいるし、酔っているせいだと思うが振れ幅が広いというか、コレは既に躁鬱が激しいと言うべきか。この人、放っておくとアル中になるんじゃないだろうか。

 「けれど初対面で愚痴とか言い出したら、僕の方なんて悩みと言って良いのか良く分からない曖昧な話しでしたし……、それに比べたら仕方ないというか」

 「うぅ、改めて面目ねぇな……、相談に乗るとか言って俺から話しかけておいて」

 「いえ、僕の方も行き詰まって、一人で考えてたらどうにもなりそうに無かったので……。だから此処はお互い様って事で」

 「……そうか、そうだな、ふっ、はははっ」

 何が可笑しかったのか、シェリーさんは笑い出す。しかし今までのニヤニヤとした笑いではなく、先程までの陰りを払うような心底愉快そうな笑いである。

 「そうだ、今更だけどさ君、名前なんていうの?俺はさっきも言ったけどシェリー・バット」

 そういえばこちらは、名乗っては居なかった事に気づく。本当に今更だった。

 「ユキハル、アマミ・ユキハルです」

 世界が現実と大差なくなっていたせいか、それとも酔いのせいか、間違えて本名を名乗ってしまった。昼と同じことをしている。

 「……」

 名前を聞いた途端、シェリーさんは口をへの字に曲げ、片眉を上げる奇妙な渋面で黙りこんでしまった。理由を聞けば彼氏、ハル君と同姓同名だったらしい。

 そしてアバターネームを聞かれ、絶対に本名では呼ばないとまで宣言されてしまった。ちなみにスプリング・スノウと言うアバターネームは、あまりにも捻りが無いと笑われた。そういうシェリーさんの名前の由来を聞いてみたら酒関連の用語だそうで、見た目の割には妙に可愛い響きだと思っていた名前は、思いのほか可愛くない由来だった。

 その後は酔いも深まり、閉店まで互いに愚痴の様な雑談を繰り返すばかりだった。シェリーさんは変な人ではあったけど、一人でいるよりはずっと気が楽な時間を過ごせたと思う。

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