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閑話:あいは紡がれることなく

 王都には一人の偏屈な仕立屋の店主が居た。名をアベラルドという。

 腕は確かだが無愛想で気難しく、礼儀知らずでとても客商売をやっていけるような人間ではない。事実、客からの評判はその仕事を除けば良いものではなかった。接客は専らアベラルドの一人弟子が担っている。

 そんな偏屈な仕立屋の店主だが、店構えだけは立派なもので、王都エアスティアの中央区各付近、格式高い老舗の並ぶ通りにおいても引けを取るものではなかった。

 仕立屋『サストレ』。偏屈な仕立屋は今でこそ立派な店の主人では有るが、その出自は姓を持たない貧民の孤児である。両親の名前も知らぬ天涯孤独である。店の屋号も前代店主の姓であり、その前代店主とアベラルドの間には、師弟関係は有れど血の繋がりは無い。

 何故、貧民の孤児であったアベラルドが仕立屋に弟子入りし、しかも店を嬢り受けるまでに至ったのかと言えば、それは奇特な人間の戯れが原因であった。

 天涯孤独のアベラルドは幼少期を大聖堂が運営する孤児院で育ったが、孤児院を出てすぐに仕立屋の下に預けられた訳ではなく、仕立屋になる前に大工の棟梁の下へ奉公へ出されている。

 孤児院では慣例として十二歳で奉公人として院を出されるところ、アベラルドは周りの孤児に比べて頭抜けて背が高く、体躯に恵まれていたために彼だけ十歳で孤児院から出る事となった。これは孤児院が彼を追い出した訳ではなく、孤児院に仕事で訪れていた大工の棟梁が、大人と背丈の変わらぬアベラルドを見て奉公先として申し出た為である。

 アベラルドにとって大工の仕事は不満のない物だった。むしろ天職だとすら思えた。力仕事もすぐに慣れ、下働きの作業とはいえ任された仕事は全てそつ無くこなせた。これは師にも恵まれたお陰だと思っていた。師は口うるさく言わずに、ただ一番の手本を見せてくれたからだ。

 アベラルドを身請けした大工の棟梁は、頑固で口下手な若輩を褒めることの少ない老人だったが、この老人にしては珍しくアベラルドを可愛がった。アベラルドの無愛想さも無駄口を叩かない奴だと、前向きに受け止めてくれた。棟梁にとって孫ほどの歳のアベラルドが、隙を見つけては自分の仕事から見て学ぼうとする様が健気に思えたというのも有るが、一番気に入っていた点はやはり働き者だっという点である。

 アベラルドは子供の頃から偏屈で無愛想ではあったが、怠け者ではいし恩知らずでもなかった。孤児院に居た時から、何かしら力仕事や人手が必要となる場面が有れば率先して動いていたのだ。子供なりに図体のでかい自分が食い扶持のかかる人間だと自覚し、少しでもその恩を返そうとしていたのだ。これは奉公先の大工仕事でも変わらない事だった。良く働くからと毎日腹一杯まで食べさせてもらえたのでは尚の事だった。

 頑固で口下手の棟梁と偏屈で無愛想な奉公人の関係は、傍から見れば冷え込んだ仲に見える程に交わす言葉が少なかった。しかし、内実では互いに信頼できる師と弟子と思えるほどに良好なものだった。棟梁がまだ十三歳のアベラルドを、周囲の無茶という声を無視して直弟子に迎え鍛え始めた程である。これには老い過ぎる前に自分の知る仕事の全て教えたかった棟梁の焦りが有り、さすがのアベラルドでも学びきれる物ではなかったが、それでも棟梁がかつて教えてきた者の中では屈指であり、歳不相応の技と知識を蓄えていった。

 しかし、この根を詰めた鍛錬も、三年と言う職人一人を完成させるには短い時間で終りを迎える。この時のアベラルドの大工としての仕事は、齢十六にしては上出来だったが、棟梁から見ればまだ教え足りない事が多く悔いが残った。アベラルド本人もまだ物足りなさが有った、仕立屋という別の道に進んだ今でさえも、この時の事を少し残念に思うことが有るくらいである。

 アベラルドの大工としての道を断ったのは一人の貴族である。

 王都エアスティアにおいて貴族とは、はるか昔に王都の土地を拓いた者達の末裔である。その中に土木工学を含む独自の技術体系を有した事で長きに渡って王都の公共事業を独占し、王都の規模に合わせて膨れ上がった一つの門閥が存在した。

 その巨大な門閥の係累にありながら、爵位も嬢られぬ果ての末席に身を置く一人の貴族。正しい名は長すぎて暗唱できる者は居らず、通称をナヴァラ嬢。年齢は不詳で、ただナヴァラ嬢とだけ呼ばれる。末席とはいえ、門閥の規模を鑑みれば止ん事無い身分と言って差し支えのない彼女は、その奔放で奇特な嗜好と悪癖で、一部の界隈では名が知られていた。

 そんな彼女にアベラルドは目を付けられた。

 アベラルドが初めてナヴァラ嬢と遭遇したのは、彼女の所有する邸宅の一つの改築工事中のことである。本来なら、一介の大工見習いと王都を牛耳る貴族の末席が接する機会など有る筈がなかった。

 そもそもアベラルドの棟梁の所に回ってくる仕事には、本来なら貴族に縁の有るようなものはなく、この時も改築工事が大規模だった為に、たまたま下請けとして参加の話が回って来ただけの事である。滅多に無い経験が積めると踏んで、棟梁はアベラルドを連れてこの仕事を請けたのである。

 しかし、これでも貴族とアベラルドが接する機会というのは生まれるものではない。これはその貴族がナヴァラ嬢だったからこそ在り得た邂逅なのである。いくら自宅の改築工事とはいえ、それを長々と眺めたがり、ましてや大工一人ひとりに楚々と挨拶して回るような貴族は、ナヴァラ嬢くらいのものである。

 アベラルドはこの時の事を嫌でも覚えてしまっている。回りの職人たちに対し行われた、虚仮にしてるようにさえ見える独特な挨拶が、いざ自分に向けられるのかと鼻白んだ時のことである。

 ナヴァラ嬢はアベラルドを目の前にした途端、顔を恍惚に緩ませた。その面に分厚く塗られた純白のドーランの下が見透かせたならば、その頬は紅潮していたはずである。

 「()は花を愛でますの。(しし)はあしげなりと、存じておりましたので。でも(なれ)を見てますと吾があやまりではと、心移ろいますの。汝は獣でありましょう?なのに、そのまつ毛はとても露が映えそうなんですもの。膚もそう。日に焼べられながら瑞々しきは吾の道に背きますのに、如何ような天心かしら。ただその緑髪にかぎり、惜しげなりと言わせてくださいまし。多くは手を加えず遊ばしてみれば巻き毛も豊かで嫋やかに、何より芳しくなりましょうに。ああ、嘆かわし。なればこそ、吾の下にて汝は花を知る獣になりましょうや。ああ、善き哉、善き哉」 

 小さく塗られた紅のせいでおちょぼ口のように見えるナヴァラ嬢の唇からは、アベラルドの容姿に対する賛美が溢れ出たのだが、彼の聞き慣れない言葉遣いだったために本人には半分も伝わっていなかった。またナヴァラ嬢はアベラルドに対し、これから自身の物になるのだという身勝手な宣言もしているのだが、それも本人には伝わっていなかった。アベラルドはただ初めて見る類の薄気味悪さに、胃から迫り上がる反吐を我慢していたのだった。

 言葉の意図をアベラルドが知るのは、この三日後にナヴァラ嬢の使いがアベラルドと棟梁のもとに現れて、強引な身請け話がされた時のことである。大工の組合に対しても影響力の強い門閥貴族に、根回しまで済まされていては、いくら古老の棟梁であっても抗えず、アベラルドはナヴァラ嬢に引き渡される事となる。 棟梁は別れ際にアベラルドに対して詫た。アベラルドが棟梁の頭を下げる姿を見たのは、この時が最初で最後だった。

 横暴な貴族が市井から気に入った者を摘み上げるような行いをするのは、稀とはいえ無い話ではなかった。アベラルドも十六歳になり二次性徴を迎えて背丈と不釣り合いだった顔の幼さも抜け、美丈夫と言って差し支えが無いほどに精悍な顔付きの青年と成っていた。だからこそ、横暴な者の嗜好の対象になるのも無理からぬ話ではあった。

 ただしナヴァラ嬢の場合は、他の横暴な者達とは少々趣を異にしている。彼女は自分好みの男児を見初めても傍らに侍らせたりはせず、古今東西のあらゆる職や芸を仕込むのを好んだ。それは一人一芸では有ったが決して半端な仕込みでは満足せず、広い人脈を活かして各分野の白眉の下に男児を就かせ、財も手間暇も惜しまずに徹底して極めさせた。

 しかしナヴァラ嬢のそれまでの好みに照らし合わせてみれば、アベラルドの野味の有る容姿や、背の高さは大きく外れていた。

 また、アベラルドに何かしらを極めさせたいのなら、そのまま大工の道を行かせれば良かった筈なのだがナヴァラ嬢はそれを良しとせず、彼を大工仕事を全く生かせない職業に就かせた。それが現在まで続けている仕立屋である。

 ナヴァラ嬢はなぜ好みから外れる男を、ましてや雑巾と靴下の穴くらいしか縫ったことのないような大男を仕立屋にしようと思ったのか。その真意を汲み取れる者はなく、例え聞いても本人以外には理解できない理屈が開陳されるだけであった。

 こうしてアベラルドは無理矢理、王都随一の仕立屋と言われるサストレの下に就かされた。サストレにとってナヴァラ嬢は大得意先であり、その頼みを無碍にすることが出来ず渋々といった形でアベラルドの身を預かった。しかしサストレは、アベラルドを疎ましく思った。アベラルドへの賃金や育成に必要な経費はナヴァラ嬢が負担するとはいえ、普段からその人気で仕事に追われている身分である。しかも自分が必死に積み上げてきた技術と知識の全てを仕込めと、遠慮無しに言われたのであれば反発心も湧いた。サストレの腕は王都の貴族に広く知られており、得意先はナヴァラ嬢以外にも居るため、例えナヴァラ嬢の頼みとはいえ、多くの時間と労力を割くことは躊躇われた。それにアベラルド以外にも、自らが見込んで育てている途中の門弟達も居る。結局、それらを理由にサストレは暫くアベラルドをただの雑用として扱うことを決めた。それに対しアベラルドは文句一つ言うこと無く従った。偏屈で礼儀知らずでは有っても、仕事を与えてくれる者への恩は忘れなかった。

 アベラルドがサストレの下に預けられてまだ一ヶ月目のこと、ナヴァラ嬢がアベラルドの様子を見に店へと訪れた。彼女はアベラルドに対し出し抜けにレースの一つも編めるようになったのかと聞き、返答も待たぬ内に見本の中から一つ選び、今からこれを編んでみせろと言い出した。指定されたのはサストレの店独自の図案であり、今どき珍しく外注ではない手編み。同業が解いても真似できなかった、手編みでしか再現できない複雑怪奇かつ典雅な図案のレース。ただし手編み故に時間がかかり工賃は汎用の編み機で編まれた物に比べれば桁が跳ね上がるが、贅の凝らしを良しとする上客はこぞって注文時に指定する人気の図案でもあった。

 サストレは無茶だと思った。アベラルドにまだ何一つまともに教えていないのだ。例え邪険にせず教えていたとしても、たった一ヶ月ではまだその段階ではない。いかに無茶な要求であるか、ナヴァラ嬢に説明しようとしたが、それよりも早くアベラルドが了承してしまった。

 アベラルドは店の道具を借り、ナヴァラ嬢とサストレが見る前で注文通りのレースを一巡だけ編んで見せた。しかしその手付きは遅くて辿々しく、途中で間違いに気づいては解き、編み直し、編み上がりには所々偏りが有るような粗末な出来だった。それでも一応は完成させてみせた。

 「獣が爪の堅しまま、慣れずに花を編みて見せたる姿が、これほど愛しとは。ああ、思惑を優に越えて言うべき方無し。その愛らしさに、今は不出来も許せましょうや。けれど此度の早摘みはなんと優艶なのでしょう。熟れる前にしてこの甘露、吾が無作法に誘わるるとは、罪な甘さにございます。それもまた善き哉。……さて、吾は十二分に汝の業を堪能しましたので帰途へと。獣殿、後々も懈怠なく精進して下さいまし」

 ナヴァラ嬢は完成した出来の悪いレースには目もくれなかったが、しかし御満悦といった様子で帰っていった。

 サストレはこの光景を目の当たりにして悩んだ。アベラルドが教えてもいないレースを編めたことにではない。僅かに盗み見ただけで複雑な仕事も覚えてしまうような、その異様な才に水を与えても良いのかということにである。

 この時、自身の胸の内に湧いたアベラルドに対する反射的な忌避感に、サストレは嫌でも気付かされた。自分の弟子を取る理由が、自分の技を継ぐ者を欲していたわけではなく、何時まで経っても自分に並ぶ気配を見せぬ弟子たちを眺め、自分が唯一無二で有ることの再確認をする為だったのだと。その証左に、見直せば高弟達は覚えの悪い凡才ばかりである。玉を選ぶこと無く、石ばかり磨いて悦に入っていたのだ。

 サストレはその自分の醜さに抗うように、高弟達と同様にアベラルドを育てることを決意する。才能の有る弟子を取ろうとしなかった、無自覚なプライドが今度は真逆の判断をさせた。彼は自覚しうる限りにおいては、真っ当な人間であろうとするだけの矜持、または面の皮を持ち合わせていた。

 アベラルドは本格的に始まった仕立屋の修行に悪戦苦闘することとなった。昔から指先が器用で物覚えが早く、また他人の仕事から見て学ぶのも得意としていた彼では有ったが、若い内から大工の仕事で酷使してきた指の節は固くなりすぎていたのだ。大工仕事に求められる器用さと違う縫い物の繊細な仕事を、頭で理解できていても再現できない苛立ちに悩まされた。

 しかし、その僅かな躓きも時間で自然と解決される程度のものである。指の固さが取れる頃には、アベラルドは高弟達をあっさりと抜き去ってサストレの一番弟子となり、師の仕事を一番に理解する助手と言えるほどになっていた。これはアベラルドが一通りの仕事を覚えた途端に、ナヴァラ嬢からの仕立ての依頼が全てアベラルドへの指名となり、短期間の内に他の高弟達とは比べ物にならない量の仕事をこなす羽目になっていた事も由としている。

 アベラルドはサストレの危惧していた通り、あっと言う間に全ての仕事を覚えてしまった。僅か6年で、王都一と謳われたサストレに出来る全てを模倣する事を可能としてしまった。ただし、ある一点のみに置いては期待外れ。否、杞憂だったとサストレの無意識は安堵した。それは、アベラルドの仕事がサストレの仕事を超えることが無いという点だった。

 真似だけならば完璧にできるように成った、仕事の速さも遜色のない程に。ただし、其処までなのである。例えばナヴァラ嬢からのドレスの仕立てを依頼されても、決して独自の技術も発想もなく、全てがサストレの仕事の焼き直しだった。服の様式も色使いも、レースの図案の一つも新しく生み出さず、ましてやサストレのように貴族好みの流行を生み出すなどということは出来なかったのだ。

 その事が顕になって以来サストレはアベラルドに対し、事ある毎に『自分の美意識で仕事が出来るようになれ』と言うようになった。この言葉が大人気ない当て擦りの嫌味なのか、はたまた師としての忠告なのかは、サストレ本人にも区別がついていなかった。

 そして月日が流れ、アベラルドが仕立屋になってから12年目、28歳になった年のこと。アベラルドは師の言葉を漸く実現する。

 それは一つの習作。白いロングスリーブのワンピースだった。

 富裕層の上客が得意先のサストレの店では作る事の無いような簡素な普段着。随所に施された飾り縫い以外に装飾は無い。

 アベラルドの習作を目にした他の高弟達は、その簡素さをアベラルドの独自性の無さと捉えて内心で嘲笑した。ただサストレだけが幾つかの質問を投げかけた。

 「この飾り縫いは何処でやった?」

 「自宅のミシンです。改造しました」

 「一人でか?」

 「部品の手配だけはミシン屋に」

 「この布は紡績の段階からお前が口出ししたのか」

 「はい。ただこちらの要求に応えられる繊維も設備も想像以上に割高になりました。商売になりません」

 「そうか……。そうだろうな」

 アベラルド初の独自作に対するサストレの言葉は、それだけで、同時にアベラルドに対してかけた最後の言葉でもあった。サストレは、その日の業務が終わると一人店内で首を括ったのである。遺書には店の跡継ぎにアベラルドを指名する言葉だけが書かれており、首を括った理由には一切触れられては居なかった。

 口さがない者はアベラルドがサストレを殺したのだと噂した。もしも遺書がなければ、下手人扱いされかねない程に口汚く罵った。

 サストレの高弟達はアベラルドが店主となると、醜聞から逃れるように他店へと鞍替えし、大勢居た得意先の貴族達もナヴァラ嬢一人を残して離れていった。

 こうしてアベラルドは先代を追い落とす形で、仕立屋『サストレ』の店主となったのだった。

 そして現在、四十目前まで歳を重ねたアベラルドは、仕事もせずにぼんやりと過去を振り返り物思いに耽っていた。客が居なくとも、急ぎの仕事が無くとも、新しい着想を得るために何時も何かしら縫っていた彼にとってこれは珍しい事だった。

 原因は店の隅に長らく鎮座していた習作のワンピースが、約一ヶ月半前に売れてしまった事である。

 買ったのは白百合の刺繍が施された眼帯の少女と、無粋な鎧下を身に纏った青年の連れ合いだった。青年は三十万と言う値に顔色一つ変えず、少女にワンピースを買い与えた。

 あれ以来、だんだんと仕事の手が鈍りだしていて、とうとう今日に至っては何もせずにずっと過去を振り返っていた。

 アベラルドは師を亡くした時の事をもう一度思い起こす。あの時、アベラルドは困惑した。何故、師が首を括らねばならないのかと。その答えは今でも分からない。ただ師が首を括ったタイミングと、首を括るのに使用した紐が、師が一番得意としていたレースの見本だった事を思えば、何かしら察することは出来そうなものだが、それでもやはり明確な答えは出ず、想像の域を出ない。

 師は自分の習作に何を見出し、自害という結論に達したのか、それがずっと気掛かりだった。

 この問いに対して、ナヴァラ嬢は藍染めの品を注文するという彼女独特の方法でアベラルドに答えたが、アベラルドはその答えに納得できなかった。

 自分の習作に盛り込まれた技術は、師のレース編みのように流行りを生み出す事は無かったし、褒めそやす者も隻眼の少女以外に誰一人として居なかった。服飾業界に与えた影響も、紡績とミシンに廉価な類似技術が散見される様になった程度の些細なものである。どう評しても師が嫉妬し、絶望する要素はない。

 やはり何度考えても分からない。自分は師を失うのが早過ぎて、大工仕事と同様に半端な仕事しか覚えられなかったのだ。師を亡くした後も独自に研鑽は積んでみたものの、それでも師に追いつけたという実感を得るには至っていない。

 朝から無言のまま微動だにしない店主を見て、今日は仕事をしないのだろうと察した弟子が、来客用の上等な方の紅茶を淹れてアベラルドの机に置いた。アベラルドはその音に追想を中断され、時計を見やるともう昼前なのだと気付く。

 茶に口をつける前に弟子に軽く礼を述べると、弟子は何か奇怪なものでも見たかのような顔をした。

 人の事は言えないが、あの弟子も随分と失礼な小僧だと思い、アベラルドは薄く笑う。

 この一人弟子は、二年前の今頃にナヴァラ嬢から半ば押し付けられるように取らされた弟子である。きっと自分はナヴァラ嬢の寵愛の対象から外れたのだろうと、アベラルドはその時に察した。手入れに幾つも条件を科せられ、腰まで伸ばすように厳命されていた彼女のお気に入りの筈のアベラルドの髪も最近になって刈り取られた。付け毛に加工するとの事だったので、心変わりで嫌われた訳ではないのだろうが彼女の中でアベラルドの旬が過ぎたのは確かだろう。

 アベラルドは美味く淹れられた紅茶を飲みつつ、客も居ないのに忙しなく店内を整理して回る弟子の方を見る。アベラルドとはあらゆる意味で正反対の弟子である。歳の割には背は低く、髪の色は明るく肌も色白。女児と見紛うような線の細い容姿に、何処で身に着けたのか愛想の良い笑顔と言葉を客へ振りまく。得意先が無くなり、ほぼナヴァラ嬢専属の服飾工房となっていたこの店に、僅かではあるが徐々に客が戻りつつ有るのはこの弟子の働きによるものだった。それまでこの店はナヴァラ嬢がアベラルドを飼うためだけに維持されてきた様なものだったので、普段の売上など気にする必要は無かったのだが、弟子はそんな状況が気に入らない様だったのだ。弟子のアベラルドに向ける視線から、畏敬の念が消えたのも、店のそんな状況を知った瞬間からである。

 自分の仕事は次で最後にして、そろそろ弟子の育成に専念する事にしよう。アベラルドは、そう決めた。師に対してのみ不遜な態度を取るのが小憎たらしいが、それでも弟子は弟子である。教えるのが遅くなって、自分の様に半端にするのは忍びなかった。そして何より、弟子が育てば自分も師の最後を理解できるのではないかという期待もあった。

 気が変わらぬ内に行動に移そうと、アベラルドが腰を上げたところで来客が有った。

 一ヶ月半前に習作のワンピースを買った青年だった。買い与えられた少女は隣に居らず、一人で店を訪れた。一瞬、青年の雰囲気と以前は付けていなかった眼帯のせいで同一人物だとは思えなかったが、しかし良く見れば青年の眼帯は、少女の付けていた白百合の眼帯で、しかもワンピースを持参しているのでは間違えようがなかった。ただしワンピースは所々が斬られており、白百合は赤黒く変色している。

 青年は、弟子の接客を軽くあしらうとアベラルドの方へ直接ワンピースを持ってきた。

 彼の用件はワンピースの修繕だった。しかも希望する期日は明日までにである。

 ただならぬ様子に、アベラルドは思わず青年に事情を問いそうになったが辞めた。この習作が纏うので有れば、きっと碌な話ではないからだ。

 なのでアベラルドは差し出口も私情も挟まず、今の自分に出来得る限りの仕事をする事にした。

 今日中に修繕することは出来るが、布の構造上かけはぎは不可能で、見れるようには出来るが全く同じ様にはいかず意匠が大きく変わってしまう事を告げる。

 青年がそれを承諾すると、早速修繕にとりかかった。

 ワンピースは良く見れば所々に落とし切れていない血痕が有り、切り傷だけではなく擦れて綻んでいる箇所まで有る。修繕を始める前に血痕を適した洗剤で丹念に洗い落としてから干す。そしてワンピースが乾くまでの間に師のレースを編んでいく。薄手の布は水をあまり吸わないためすぐに乾くが、今のアベラルドにはレースを編むのに十分な時間だった。ワンピースが乾いた頃合いを見計らって繕いを始める。形状が複雑でこれ以上の修正が効かない胸から胴体にかけて無傷だったのは幸いだった、鋏を入れる必要があったのは袖とスカート部だけである。傷、綻びに合わせて切り分け、形を整えて再縫合する。増えた縫合線はレースに覆われ、修繕跡ではなく元よりそういう意匠だったかのように溶け込む。 

 修繕は何時ぞやの仕立直し程ではないが、それでも異様な早さと言える手際だった。アベラルドが師を越えた部分が有るとしたら、この仕事の早さだろう。ただし、修繕後のワンピースは普段着にするには少々豪奢になり過ぎ、ドレスのようになってしまっていた。

 けれど青年は文句一つ言わず、ただ礼を述べて受け取り、帰って行った。

 そして偏屈な仕立屋も何かに得心がいった様子で、事前に決めていた通りこの修繕作業を最後の仕事としたのだった。

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