16
この街に残ると決めた次の日、リリヤさんの所へ行くのに僕が部屋を出る時間は少し遅かった。いざ自分の好意を明確にし、相手に伝えるとなると妙に気恥ずかしくなってしまったのと、リリヤさんに言わなければいけない事をどう切り出すかに悩んだのだ。そのせいでリビングのソファーから腰を上げるのが異様に重かった。
僕がリリヤさんの所に行くことになったのでシェリーさんは予定が無くなり、その時間を今まで集めた資料や本の整理に充てていた。彼女は集めた情報を、時間があればそれを自分のノートに纏めるという事を頻繁にやっているのだ。
何時までも悩んでいる僕の対面で、その作業に勤しんでいたシェリーさんに時間を指摘され、半ば追い出されるような形でやっと部屋を出た。
部屋を出ても今度は足取りが重く、遅れ気味だから急がねばならないと思いもしたのだが、足を重くする告白への気後れと鬩ぎ合ってしまい、歩く速度は普段通りになってしまっていた。
そして現在、リリヤさんの部屋の前まで来ていたが、結局少し遅刻である。最近は既に店に顔を出さなくても直接アパートに入って良いとオーナーの許しを得ているので、直接リリヤさんの部屋に来たのだが、それでも僅かに遅刻である。なのでこれ以上は悩んでも居られず、儘よと意を決して部屋をノックする。
中からの返事に促され部屋に入ると、いつも通り裁縫をしていたリリヤさんが笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、傭兵さん」
シェリーさんではなく僕が来た理由を知っている。そういう笑顔だった
「おはようございます」
しかし、その笑顔が、してやったりと言う勝ち誇ったようなものではなく、只々願いが叶ったことを純粋に喜んでいるのが分かったので、嫌な気はしなかった。むしろ、そこまで喜んで貰える事に恥ずかしさがこみ上げてくる。顔が熱い、きっと今の僕は赤面していることだろう。
リリヤさんは、針と縫いかけの服をテーブルに置くと、おもむろに僕に近付き、抱き着いて来た。腰に手を回し、顔をこちらの胸に埋め、腹部も足も密着させた扇情的な抱擁。
「残って、くれるんだよね?」
リリヤさんの吐息は言葉に合わせて、服の上から鳩尾のあたりをくすぐり、それがこそばゆい。
「そのつもりで来ました。もう後ろ向きに考えるのはやめます」
「良かった」
腰に回されたリリヤさんの腕に力がこもり、彼女の頭がより胸に押し付けられる。
「不安にさせてしまったみたいで、すみません」
それに応えるように、こちらからも抱き締める。
そうやって、そのまま抱き合って暫していると、リリヤさんは手を裾から服の下へと滑り込ませようとしてきた。慌てて抱きしめていた手を彼女の肩へとやり、抱擁を解く。
「そうだ、服と靴を買い直しに行きませんか?最近は二人で出かける機会も有りませんでしたし」
少しわざとらしかっただろうが、今は彼女のペースに乗せられるわけにはいかなかった。今日はまだ言わなければならない事が有る。このまま何時もの様な時間の過ごし方をしていてはタイミングを逃しそうな気がしたのだ。
「……うん」
リリヤさんは僕の提案に頷き、身体を離すが少し切なそうな、名残惜しそうな顔をする。その表情に、また惹きこまれそうになるを堪える。
街に出る頃にはちょうど昼時になったので、靴と服を買う前にまずは昼食にする事にした。入った店はヴィーニヤヴィーナで、以前は毎日の様に通っていたが、シェリーさんの部屋で寝泊まりするようになってからは、情報交換のために待ち合わせ場所に使うことも無くなって、利用するのは久しぶりだった。
頼んだ日替わりランチの献立は偶然にも、初めてリリヤさんと出会った最初の日と同じ物だった。この世界での初めての食事なので良く覚えている。
あの日と同じ物を食べ、次に靴を買いに行くというその流れに既視感が有る。リリヤさんが選んだ靴は、全く同じ物とはいかなかったが、それでもやはり以前同様に飾り気の少ない靴だった。
「初めて会った日みたいですね」
リリヤさんはやはり以前と同じように履き替えたミュールを後ろ手に持ち、新しい靴で隣を歩いていた。
「あっ、やっぱり傭兵さんもそう思ってたんだ」
リリヤさんも僕と同じ様に思っていたようだ。こちらを見上げて笑う。
「此処まで重なると思い出しますよ、再現しているみたいだ」
「それじゃあ、この後は貸し倉庫?」
「その前にリリヤさんのミュールが壊れないと」
「えー、もう履き替えちゃってるのに」
他愛もない冗談で笑い合う。やはり部屋に居るよりは気が晴れて良い。
次の服屋への道中、青果市場の有る通りが見えてきた。露店の屋根が目立つ。
そこでふと有ることを思い出し、ちょうど四辻になって少し眺めが開けた場所で辺りを見渡す。記憶通り、そこにはレンガ造りの塔が有った。最初の日に、この街を見渡そうと登った塔だ。
「少し寄っていって良いですか?」
塔の有る方を指さし、リリヤさんに聞く。
「……うん、良いよ」
リリヤさんは少し考えた後、承諾してくれた。
塔の展望台は、やはり僕達以外には誰も居なかった。
オープンテラスの手摺に寄り、街を一望する。これも最初の日の再現のようになっていた。
「大通りの位置と歩いて来た方角からすると、リリヤさんのうちの屋根はアレかな?」
しかし前とは違い、今は自分の居場所が何処なのか分かっている。
「方向は多分あってると思うけど、こう遠いと流石に自分のうちでも見分けが付かないよ」
「大通り沿いの建物って殆ど橙色の屋根ですけど、ヴィーニヤヴィーナって青い屋根だから目立つんですよ。それでその3つ手前の十字路の角にちょうど肉屋が見えるので、そこを曲がるとリリヤさんの家がある裏路地に繋がる道ですね。さすがに裏路地の方は建物が混みいってて道が見えないから大体の距離で当てずっぽうですけど」
この街で暮らして一ヶ月半、生活圏の地理はもう把握している。迷うような事はもう無い。
「ここから見えてるの?」
「あっ……」
僕の強化されている視力だから見えているのであって、よくよく考えてみれば普通は見分けがつくような距離ではない。
しかしリリヤさんはその異様な視力を、別段気にする様子もなく街のあちこちを指差し、あれは見えるか、何が見えるかなど楽しそうに聞いてくる。それにつられ、つい調子に乗って得意気に答えてしまう。
こうやって長閑に、落ち着いた心持ちで彼女と時間を過ごせるのは久しぶりな気がした。
「もう、大丈夫そうだね」
会話が途切れた合間、リリヤさんは僕の方を見てそう呟いた。
「そうですね」
何がとは聞き返さない。お互いが何を思っているかは、必ずしも一致するとは限らないが、それでも今はなんとなく外れている気がしなかった。
「もう、迷わなくて済みそうです」
迷う理由は無くなった。心は追いつかずとも進む理由を得たのなら、それに拘泥しようとは思えなかった。それを強く望んでくれる人が居るのなら尚更だ。
「少し妬けちゃうな。私がそうさせてあげたかった」
「いえ、リリヤさんのお陰です。きっと言葉だけでは、僕は迷ったままだった」
昨日の晩は、シェリーさんに対して違うことを言ったような気がする。やっぱり僕はリリヤさんの前だと格好をつけ過ぎだ。
「そうかな?」
「そうですよ」
僕が断言すると、リリヤさんは嬉しそうにはにかむ。
それを見て、言うなら今だろうと意を決し、ポケットから贖いの神血を取り出す。
「……それは?」
「火傷痕を治せる薬です。飲めば古傷だろうと治るそうです」
「凄い。何でも持っているのね、傭兵さんは」
言葉とは裏腹に、その反応はいまいちで、目が笑っていない。けれどこれは半ば想像がついていた。決してリリヤさんは手放しで喜んだりはしないだろうと。
「私に飲んで欲しいの?」
「はい」
これは今の関係の延長を望んでいるであろう、リリヤさんの期待への裏切りであり、それの清算を望む僕の我儘だ。
「……やっぱり、ちょっと惜しいなぁ」
リリヤさんは僕の目を見つめながら呟いた。今なら彼女が何を惜しんでいるのか分かる。しかしそれを自覚し、口にしては傲慢が過ぎる。その思い上がりに蓋をする。
「飲むのは良いけど、お願いがあるの」
「何でしょうか?」
「今よりもっと愛して」
言葉は続く。
「それとね、傭兵さんの手で飲ませて欲しいの」
それの意味することは、
「傭兵さんが、その手でこの傷を取り去って」
精算した関係の代替え、それを彼女は望んでいる。自分にとっての唯一人になって欲しいと。
「分かりました」
それを断る理由はない、むしろ望んで居たことだ。彼女の誘惑に落ちた日から、彼女に対する独占欲は日増しに膨れていたのだ。
贖いの神血の、小瓶の蓋を開ける。
リリヤさんは僕との距離を詰め、目を閉じ、雛鳥のように顔を上げて口を開ける。そこへ小瓶の中身を注ぐ。
瓶の内容物は、口の中を満たすには足りない量だが、注ぎ切るまでの時間がやけに長く感じた。口の中に注がれた瞬間に眉を顰め、何かを我慢しているリリヤさんの表情に別の行為を連想していたせいだろうか。それとも注ぎ始めて直ぐに傷が治り始めたことに気を取られていたせいだろうか。
注ぎ終わると、リリヤさんは口をすぐに手で抑え、涙目ながらに喉を鳴らして口の中のものを嚥下する。
「んー、んー!」
リリヤさんは薬を飲み込んだ後も口を開こうとせず、眉を顰めたまま何かを訴えるように呻きながら僕の両肩を引っ張る。屈めということだろうか。
促されるままに少し屈むと、僕の首に腕を絡めてキスをしてきた。
突然の事に少し驚きながらも、口を塞がれながら一体どうしたのだろうかと考えていると、リリヤさんの舌先が僕の唇を割って入ってくる。
そこで漸く気がついた。口の中に薬を注がれたリリヤさんが何を我慢していたのかをだ。
唾液が糸引くほどの長い口づけが一頻り終わるのを待ち、唇が離れた時につい言わずにはいられなかった。
「不味い……」
彼女の口直しに応えたのは良いが、酷い味だった。
「キスの直後にそれって酷くないかな?」
そう言いながらもリリヤさんは笑っている。彼女も僕が何を不味いと言ったのか解っている。
「すみません、この薬がこんな味だとは思わなかったもので」
贖いの神血という名前の通りに血の味なのだが、舌先が僅かな痺れ、腐敗臭と硫黄臭、さらに錆びた鉄みたいな金気が濃密なのだ。直接飲んでいないのに、リリヤさんの舌先から伝わってきた分だけでも十分に、口から鼻に抜けるような異臭がする。自分で飲ませておいて、良くこんな物を吐き出さずに飲み込めたものだと感心してしまう。
「ところで眼の方は」
見える範囲の火傷痕は既に綺麗に消えているので、大丈夫だとは思うが念の為に確認する。
「大丈夫、ちゃんと治ってるみたい」
リリヤさんは眼帯を外した。
「どう?綺麗に治ってる?」
思わず息を呑む。元より美人だと解っていた筈なのだが、改めて魅了される。
「そんな風に見惚れてくれるなら、飲んだ甲斐があったかも」
今の僕はどんな顔をしているのだろうか。
「前よりもっと愛せそう?」
「……はい」
「じゃあ、その証拠を頂戴」
少し意地悪を言うような口調だった。
「あの、その前に本当に僕でいいんですか?人間じゃなかったり色々と……」
それによく考えてみたら、こんな綺麗な人と自分が釣り合うのかと今更になって気後れしてしまった。
「私はもう、傭兵さん以外は嫌よ」
きっぱりと言い切られる。ならばこれ以上僕が考えていても、彼女からしたら焦れったいだけだろう。
「分かりました」
覚悟を決める。
「では、リリヤさん。貴女を身請けさせて下さい」
「はい。喜んでお受けします」
リリヤさんの両肩に手を置く。それで察して目を閉じたリリヤさんに口付けをする。さっきのとは違う誓いの口付けだった。しかし余計なことをしない分、先程よりリリヤさんの唇の柔らかさが印象に残った。
「……下の市場で口直しになにか買いませんか?」
「そうだね」
ただ誓いの口付けまで薬のせいで血生臭くなってしまっていた。真面目にしていたつもりが、どうにも絞まらないオチがつき、それが可笑しくてお互い笑い出してしまう。
「それじゃあ、行きましょうか」
「うん」
リリヤさんの滑らかになったその手を取り塔を降りる。
彼女に僕の介添えはもう必要なくなった。けれど僕はこの手を離したくなくなってしまった。
口直しを求めて歩く青果市場の中。何時か感じた物足りなさは、やっと満たされた気がした。