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シェリーさんから受け取ったアイテム入りのショルダーバッグを抱え、急いでリリヤさんの所へと向う。念の為にあまりバッグを揺すらないように気を付けながら、それでも息と足の続く限り走り続ける。路地裏に入ると大通りとは違って街灯一つ無く、夜の暗さは一層深い。しかし暗視スキルにより視界に補正がかかっているので何も問題はない、昼と大差なく道が見える。
朝に来た道を十分の一以下の所要時間で駆け抜け、路地裏で唯一戸の前に灯りを点している場所を見つける。リリヤさんの店だ。上がった息を整えるのも忘れ、店の戸を開けた。驚き顔で身構えたオーナーが出迎えてくれる。
「く、薬を、持ってきました」
「もう来たのかい。まさか今日のうちとは」
店の置き時計を見ると、日を跨ぐ前だった。
「これで暫くは、大丈夫のはず、です、早く、リリヤさんに」
「お、おう。それより旦那も少し落ち着いた方が良い。あまりの勢いに何処のカチコミかと思ったくらいだぞ」
「…………すみません」
息を整えて謝る、確かに焦りすぎていた。
朝と同様、オーナーに連れられてリリヤさんの部屋へ向う。
「また来たのかい」
カーラさんに、睨まれる。思えば店に入ってオーナーを驚かせたところから、朝の繰り返しのようになっている。
「やめろカーラ、折角薬を持ってきてくれたのに突っかかるな」
「えっ?薬?」
「そうだ。それで早速飲ませたいんだがリリヤの様子は?」
「香が効きすぎてるみたい、目は覚めてるけど、とても自力で薬を飲めるような状態じゃないわ」
オーナーに叱られ、きまりが悪そうにカーラさんは答える。
「大丈夫です、飲ませられなくても治せます」
シェリーさんの判断は的確だった。パニックではないが、それでも飲めない状態を予想して念を入れて用意してくれたことに感謝する。
「旦那、ちょっと待ってくれ、一体何を持ってきたんだ?」
オーナーとカーラさんにバッグの中を見せる。
「まさかとは思ったが、こんな物まで手に入れてくるとは……、しかもこの数は」
カーラさんは中の妙な鈴や符に訝しんでいるようだが、オーナーはそれが何か知っているのか、驚きを隠せないようだった。しかしその反応は喜びより困惑の方が大きい。彼等にとって、これの価値は法外なものなのだろう。
「本当に、うちのリリヤに使っていいんだな?旦那」
「勿論です。これを僕に融通してくれた人もそのつもりで協力してくれました」
「分かった、其処まで言って貰えるなら」
オーナーの困惑の表情は改まったような、それでいて泣きそうな顔で深々と頭を下げられる。
「リリヤにここまでしてくれて、本当にありがとう」
「気が早いですよオーナー。それより早く部屋へ」
「おぅ、そうだったな、すまん、つい」
オーナーを促しリリヤさんの部屋入る。中は相変わらずの臭いだった。
リリヤさんは、今朝と同様にベッドに横たわっている。しかし、半眼の虚ろな目に動きがなく、僕達が部屋に入ってきたことすら気付いていない。
今はパニックは起こしていないのだから、先に香の毒の治療と、消耗した体力の補充を優先すべきだろうと考え、まずは浄血の霞と強壮結晶を使用する。
浄血の霞を使用した時点で効果は劇的だった。それだけで意識の混濁があっさりと無くなり、リリヤさんは、アイテムを使うためにベッドの横に立つ僕に直ぐに気がついた様だった。続いて強壮結晶を使用した時は少し体が重そうだったが、それでも直ぐに上体を起き上がらせることが出来た。引いていた血の気も戻り顔色も良くなっている。
「あれ?どうして此処に傭兵さんが?えっと、私、一体……」
鎮静剤も、静謐の鈴もまだ使っていない。少々の記憶の混乱は有るようだが、それでもリリヤさんは落ち着いているように見える。発作を抑えるためだったとはいえ、香の毒が最も彼女を追い詰めていたのではないだろうか。持ち直したリリヤさんの姿を見て、オーナーとカーラさんが涙を浮かべていた。
リリヤさんに現状を説明し、これから治療を続けていく旨を伝える。その間も、パニックの症状は出なかった。しかし彼女が状況を把握し、一度落ち着いたかと思った矢先に、その兆候が現れたので鎮静剤を飲ませる。パニックは兆候の段階ですら、鎮静剤で抑えられるようだった。酷くなる前だったので静謐の鈴は使わずに済んだ。そして発作が収まっている間にカーラさんが付き添いの下でリリヤさんは食事や風呂などを済ませる事となり、僕とオーナーは店の方に戻った。
朝と同じく、カウンターの奥の応接室である。今度は互いに茶が熱い内に飲む余裕があった。
「今は落ち着いていますが、鎮静剤と静謐の鈴は発作が抑えられるだけで、心の傷が治る訳ではないそうです。なので心の傷が癒えるまでは、またいつぶり返すか分からないので油断できません」
シェリーさんからの説明を、そのままオーナーにも伝える。
「そうだな。前に見たことがあるから、そこら辺は承知してるよ」
オーナーは僕が持ってきたアイテムが何かだけではなく、薬効の限界を実際に見て知っていた様だ。
「以前にも使ったことが?」
「いや、俺が使ったわけじゃないんだ……」
オーナーはそこで、一度言葉に詰まったが、改めて話しだす。
「昔、俺が見てきた心をやられちまった奴らの中にはな、元締めの頭の情婦が居たんだ。その時に一度だけ使ってるのを見たことが有る。法外な値が付いてる割りには効き目が短いってんで、その一回で使うのをやめちまってたがな」
オーナーにとって嫌な思い出なのか、今でもそれを語るのに苦しさが有るように見えた。
「旦那、さすがにアレだけの数があれば治るまでに足りるかね?」
「数の方は心配無いかと。近いうちに鎮静剤の代わりに継続的に発作を抑えこむネックレスが用意できると思うので、そうなれば焦ること無く癒えるのを待つことが出来る様になるはずです」
「そんな物まで用意できる手筈になってるのかい……、想像以上だ、本当に救ってくれるんだな。参った、ここまでされちゃ油断するなってのも難しい話だ、もう既に安心しちまってる」
オーナーは自嘲気味に、額を抑えながら笑う。
「ともあれ、ここまで尽くしていただき、本当に有難うございます」
オーナーに頭を下げられたのは、今日何度目かわからない。しかし、頭を下げられる度に息苦しさを感じている。自分はただ闇雲に走り回っただけで、実際には薬もネックレスもシェリーさんの物だ。それに別段の苦労もなく、ただのゲームアイテムを使用しただけで、一部とはいえ苦しみが簡単に取り除けてしまう、そのギャップが自身の功績とは思えなくなる原因ではないだろうか。故に、自分が感謝されるのは筋違いに思える。
「白状すると薬もネックレスも、僕が用意したって訳ではないんです。今回リリヤさんを助けられたのは、融通してくれる人が偶然知り合いに居たお陰で、その人が居なければ僕もどうして良いか分かりませんでした」
だから感謝の先を本来の相手に向けてもらおうと、素直に打ち明ける。
「そうだったのかい……、いや、しかし、その人に渡りを付けてくれたのは旦那で有ることには変わらんよ、礼を言わせてくれ。あと、その薬を融通してくれた人にもお礼を伝えてくれねぇかい。なんならうちで、出来る範囲で礼はさせて貰うつもりだ。まぁ、礼っつても、この店の何処引っくり返しても貰った薬に相当する様なもんは出てこねぇんだが」
シェリーさんはあまり恩着せがましい事は言いそうにないだろうからその辺は大丈夫だとは思う。しかしそこで、ふと思い出したことが有った。
「それでしたら、その人は入用な物が有るとかで、この街の事情に明るい人を紹介して欲しいって言ってました。その辺で力を貸して貰えると助かるかもしれません。彼女もこの街に来たばかりなので」
事件の日、リリヤさんと待ち合わせをしている時にシェリーさんがそんな事を言っていたのだ。半ば自棄気味にリリヤさんをシェリーさんに紹介しようとしたら意外な返答が返って来て少々困惑したのだ。
でも今は既に事情の説明の上で必要だったとはいえシェリーさんにもリリヤさんの身の上を話している。偏見を持っているようには見えなかったので、この店の人と関わることを拒んだりはしないのではないだろうか。
「入用なもの?たとえば何だい?」
「具体的な話は僕もまだ……」
話がリリヤさんのことから、別の方向へと逸れそうになった所で応接室の扉がノックされる。入ってきたのはカーラさんだった。
「どうした?リリヤの方は大丈夫なのか?」
「ええ、お風呂も夕食も問題無く済んで、まだ落ち着いてるし部屋に戻ってるわ。それでね、まだ傭兵さんが居るなら会いたいって……」
僕を一瞥するカーラさんの目が、少し気不味そうだった。
「そうか」
「でも大丈夫かしら……」
カーラさんは今は落ち着いているリリヤさんが、僕が原因でまたフラッシュバックを起こさないか危惧しているのだろう。
「本人が望んでるんだ、俺らが邪魔するようなことじゃないだろ」
「……そうね」
不承不承と言う感じでは有るが、カーラさんが折れる。
「旦那、どうする?会ってくかい?」
「はい」
いくら副作用なく発作を抑えられるとはいえ、闇雲に何度も辛い記憶を呼び起こさせて良いものなのだろうか。それが記憶を許容することに繋がるのか、それとも悪化させるだけなのかは、専門家ではない僕には判別がつかない。しかし、その判然としない理由だけで、彼女を避けるのは違うのではないだろうか。
カーラさんの付き添われ、リリヤさんの部屋へ向う。その途中で、カーラさんが話しかけてきた。
「今朝と、さっきの事だけど……。ごめんなさいね、当たったりして」
謝る彼女からは既に張り詰めた様な空気が消えている。ただ疲れが残っているように見えた。
「こちらこそ、遅くなってすみませんでした。もっと早く来れれば」
この一週間、苦しむリリヤさんの世話をしていたのは彼女だ、真正面から受け止め続けていたのだ。僕は事態を甘く見て後からのこのこと出てきたに過ぎない。僕がこの人を責める道理はない。
「お願いだから、あまり謙らないで頂戴。また筋違いって分かってるのに、責めたくなっちゃうから。直接の仇を自分の目で見てないせいか参ってると見当違いのことしちゃいそうになるのよ」
僕を諌めると言うより、それは弱音の吐露だった。
「やっぱ駄目ね私。ごめんなさい、謝るはずだったのに謙るなとか難癖つけちゃって」
元の気の強さの現れか、その弱音を誤魔化すように自嘲する。
「でもね」
言葉は続いた。
「貴方のあの娘に差し伸べる手の大きさに比べて、その自信の無さは似合わないわよ。あの娘を助けてくれるって言うなら、もっと自信を持って頂戴。そうでなきゃ、手を取るほうが不安になってしまうから。せめてあの娘の前だけでも強気で居てあげて」
痛いところを突かれた。確かに不安げに差し出された頼り甲斐のない手など取るほうが不安になる。
しかし今の僕は、自分の礎すら定かではない。けれど今だけでも張りぼての自信でも持つべきなのだろう。
「分かりました」
僕の答えに満足したのか、カーラさんが微笑む。笑うと今までの印象とは違う、随分と可愛らしい笑顔をする人なのだと初めて気付かされた。
しかし、それも直ぐに切り替わり。
「謝った直後に即小言、ほんと歳はとりたくないわ……」
何やら深刻そうな困り顔で独り言を呟いているが、その内容までは聞き取れなかった。
話は其処までで、すぐにリリヤさんの部屋についた。
カーラさんと共にリリヤさんの部屋に入る。リリヤさんはベッドの上で上半身を起こし待っていたようだ。今朝とは違い顔色も悪くなく、眼帯もしている。その憂いげな表情以外は既に何時もの彼女と変わらないように見える。
部屋に着くなり、僕の方からリリヤさんに何用かと尋ねたのだがリリヤさんはそれに答えず、二人きりにして欲しいと言い、カーラさんを追い出してしまった。
そしてリリヤさんに座るように促され、ベッドの横の椅子に腰を掛ける。しかし今度は違うと言われ、ベッドの上を軽く叩きこっちに座ってと言われた。いつもと違う調子の彼女に少し戸惑いながらも、言われたままにベッドに腰を掛ける。それでもまだ不満だったらしく、もっとこっちと言われ、ちょうど彼女が叩いた辺りまで移動する事になった。
とても距離が近い。しかしベッドに腰を掛ける関係上、僕はリリヤさんにどうしても背を向けるような形になる。彼女の方を向くには少し腰をひねらなければならない。
「何か用ですか?」
部屋に入った時と同じ問いを、もう一度する。しかし彼女は無言だった。ただ返答代わりのように、しなだれる形で額を僕の左肩に当ててくる。
自分から来ておきながら、どうしたものかと悩む。リリヤさんは何時もと違い口数が少なく、まだ本調子ではない事は明らかなので話題に困る。それに彼女は手をつないだ時に指を絡めてくることはあっても、こうやって寄り掛かって距離を縮めるようなことは今までしてこなかった。
「助けてくれてありがとうね、傭兵さん」
暫くして、そうポツリと彼女が呟いた。彼女らしくない沈んだ声。
「傭兵さんって、やっぱり凄い人だったんだね」
彼女は僕の何を指して凄いと言っているのだろうか。助ける時に見せた身体能力か、薬を用意した事か。それを推し量りかねていると、彼女が言葉を続ける。
「あの時は、もう駄目かと思ってたから、今もこうしていられるのが不思議なくらい」
「投げたりしてすみませんでした、ああしないと―――」
わざわざ嫌な記憶を呼び起こさせそうな話題を続けるのは躊躇われたが、急に話題を変えるのも不自然かと思い、話を続けてしまう。
「アレはかなりビックリしたかな、自分の体があんなに飛ぶとは思わなかったもの」
彼女も気にする様子もなく、こちらの話を継いだ。
「一応僕の知り合いが受け止めてくれていたと思うんですけど、大丈夫でしたか?」
話題を変えるタイミングが見つけられない。
「うん、投げられた時は目が回るかと思ったけど、その後は全然痛くなかったから大丈夫」
シェリーさんの気配がする所まで届くようにと、かなりの勢いを付けて投げてしまった筈だが、それを難なく受け止めていた彼女の器用さに今更ながら驚かされた。
「傷は残りませんでしたか?」
「うん、それも大丈夫」
「……靴、もう一度買い直しましょう」
「うん」
「……服も」
「……うん」
「……」
「……」
こういう時、自分の口下手を呪いたくなる。再度、降りる沈黙の中、何か適した話題は無いかと頭の中を巡らせるが、中身が揮発してしまったかのように何一つ気の利いた話題が湧いてこない。
「私ね、間違えたの」
また沈黙を破るのは彼女の方からだった。しかし間違いとは一体何の事だろうか。
「友達を、ニィナを止められなかったの。私が……」
「それは」
ニィナという子はリリヤさんに言い寄る通り魔との間に割って入って斬られたとオーナーから聞いた。リリヤさんは目の前で、友達が殺されたことの切っ掛けが自分だと思っているのだろうか。
「私があの時、間違わなければ」
「それは違います」
そんな無理筋な自責で心を擦り減らしてはいけない。
「人を身勝手に斬り捨てる事の他に悪い事なんて有りはしません」
「でも……」
「ならば、あの日に貴女と約束を取り付けた僕が悪いんですか?僕と待ち合わせをしなければ、貴女とニィナさんはそもそも、あの通り魔と出くわすことなんて無かったはずだ」
卑怯な言い方だ。
「恨むべくを間違えちゃいけない。お願いですから、自分を責めないで下さい」
それでも何の慰めにもならない自責など、止めなければいけない。
「うん、分かった」
静かな、終始変わらぬ沈んだ声だが、素直な返事だった。
「でもね…………、どうしても恐いの」
言葉とは裏腹に冷静な声が続く。その静かな声に混じり、ぽたぽたとシーツの上に水滴が落ちる音が聞こえる。
「バラバラになったニィナが、頭に焼き付いて、ニィナの肩を落としちゃう感触が、まだ手に残ってて……、それを何回も思い出して、その度に恐くなって……」
鎮静剤に慟哭を消されたまま、泣いている。こればかりは慰めの言葉が見つけられない。忘れろと言うには無情が過ぎ、耐えろと言うには傷が深すぎる。シェリーさんは支えてやれと言ったが、正しい手の差し伸べ方が僕には分からない。
沈黙が三度降り、涙が落ちる音も消える。この部屋には時間を刻む音すら無い、その静けさが時折、互いの浅い呼吸を部屋に響かせる。
言葉さえままならない焦りに、どれだけの時間が経過したのか良く分からなくなってしまった。そんな中で、何かを仕切り直されるかのように肩により掛かっていた重みが消える。
「傭兵さん」
今の主導権は彼女にあるように思えた。
「こっちを見て」
言われがままに彼女の方を振り返る。
涙の跡の残るその青い瞳で、見つめられる。けれど、それも直ぐに止め、顔を少し俯向かせ、両手で自身の後頭部の辺りをさぐりだした。
はらりと眼帯が落ちる。
リリヤさんは顔を上げる際に右側頭部の髪をかきあげ、火傷痕に覆われた肌、欠けた耳、不揃いな頭髪、白く濁り血走った瞳、引き攣り歪んだ瞼、その一切を隠さず露わにする。
もう一度その貌で、表情無く僕を見つめる。
ここまであからさまなのは初めてだったが、彼女は今までも時折、僕を試していた。しかし自分が試されているのだと気付いたのは何時だっただろうか。彼女が僕に一体何を求めているのか知りたくなったのは何時からだろうか。
しかし僕は未だに、試す時の彼女が僕に何を求めているのか解らずにいる。なのに何時も彼女は満足気に、僕を置いてけぼりにして一人で答えを得てしまうのだ。それが僅かに不服では有った。互いに何を求めているかも知らずに、勝手に相手の内側から好きな所だけを摘み食いするだけで、通じ合えたと思える瞬間というのは、ただの勝手な勘違いでしか無いように思えた。
今も彼女は、僕の中から僕の与り知らぬ何かを見出し、満ち足りたように微かに笑った。何時もどおりとはいかないが、それでもやっと笑ってくれたのだから、今はそれで良しとするべきなのだろう。
リリヤさんは、そのまま僕の左手を取り、何時もは眼帯で覆い隠していた右頬に触れさせ、泣き笑いの顔で一層嬉しそうにする。
顔の火傷痕の手触りは、手の火傷痕よりも荒々しい。それが、こちらから彼女の頬を撫でる事を躊躇わせる。立ち入っても、引いても傷付けてしまう気がして留まることを選んだ。
彼女の望むままに、彼女の気が済むまで手を預ける。
「ねぇ、傭兵さん――、貴方は何処から来たの?」
リリヤさんは脈絡も無く唐突に問う。それは出会った時以来の問いだった。あの時は僕が黙し、話がたまたま途切れ、そのままだった。得体が知れないままなのに、彼女は僕の正体を問うような事はしなかったのだ。
「何処へ行きたいの?」
意図は汲めないが、嫌な記憶を呼び起こさせるような話よりは、こちらのほうが幾分かマシだろうと思い、答えようとする。
「僕は」
僕は二の句が告げない。あの時と同じように、どう答えるべきか、考え倦ねる。シェリーさんに教えてもらった御使いという、この世界での僕の設定を答えれば良いのだろうか。
「僕は、この世界の人間じゃないんです」
けれど無理矢理にでも自分の中から引きずりだした答えは、借り物の設定ではなく、自分の中にあった答えその物だった。今の僕は明らかに冷静さを欠いている。そもそも僕はこの人と一緒に居る時に冷静で居れたことが有っただろうか。何時も浮ついてぼろを出している気がする。
「元の世界に帰れないんです……、帰り方が分からない、帰れるのかすら分からない。それに今の僕は、仮初で、本物じゃなくて」
彼女の容態を慮るのも忘れ、上辺を捨てて地を晒してしまう。その癖に少しでも彼女に聞いて欲しくて、言葉を選び辿々しくなる。
「この世界がいくら本物でも僕は偽物で、だから………、だから、僕には行き先なんて」
語る程に不安が蘇ってくる。張りぼての自信すら取り繕えなくなっていく。
その不安が加速しきる前に、リリヤさんに預けていた左手首の内側に、微温く湿った刺激が走り、引き戻された。手首への感触は、彼女の啄むような浅い口付けだった。
「やっぱり、そうだったんだね」
意味が通じないはずの僕の告白に、彼女は何かの確信を得たようだった。もう一度、手首へ口付けされる。今度は舌先が微かに手首に浮く健をくすぐり、唇が食むように押し付けられた。
「私じゃ、駄目かな?」
この段に至り、漸く誘われているのだと気付く。
捕られたままの左手は、彼女の誘いで頬から首へ滑り、更にその先へと下げられた。
僕は明確な答えを持てないまま、その誘いに落ちる。