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残念ながら、まだ無題。

 僕は他人と競うのが苦手だ。

 自分より才能のある人なんて沢山いる。勝ちと負けしかない世界は、僕にはちょっと荷が重過ぎる。

 僕はいつも、追いかけるだけ。

追いつくこともできず。あるいは、どんどん引き離されていって。誰かの背中を見つめながら進む。いつも。いつもそう。

 それでも最後まで走り続けるのは何故だろうか。ただの意地か。それとも、惰性に足の動くまま任せているだけ?

 周囲から「最後までやれ」と言われるから、とりあえず途中で投げ出す事をしないだけ。


 僕は他人と競い合うのは苦手だ。

 だって、本気でやったって勝てっこないから。

 僕はいつも追いかけるだけ。

 いつの間にか、誰かの背中を見つめるのが当たり前になってしまった……。



――――



 僕はとある中学校の陸上部に所属していた。学校も部活も特に有名というわけではない。ありきたりな社会の、普遍的な集団の一部だったんだ。


 成績はというと、大体は上の方。あくまでも中くらいの集団の中での話。

 要するに鳴かず飛ばずってこと。ビリッけつということはないけれど、トップにも立てない半端者。それが僕。

 当然、学業だって大したことは無い。赤点なんてとったことはないけど、クラスで一位になったことも無い。そんな程度。

 絵は描くよ。落書きだけどね。

 歌だって歌うさ。人に聞かせるほどもないけど。

 友達と話をあわせるためにゲームをやって、テレビを見て、ネットを開く。休み時間と放課後を楽しく過ごすためだけに、他の時間を懸命に費やす。そういう毎日。

 ……見た目の話なんてどうでもいいだろう? このお話は僕の主観で進むのだから。



 そんな僕にとって、「普通」という言葉はよく、コンプレックスになったりする。

 他人に言わせてみれば、「ヨーくんは苦手なことがなくていいよね」ってことらしい。僕自身からしてみれば、それは「つまらない」ってことだ。だって他に言う事ないんだもの。

 僕の意見を言わせてもらえば、何か特技や才能を持っている奴の方がずっと幸せだと思う。その方が将来性あるし、夢に迷わず生きていける。なにより他人から応援だってしてもらえるじゃないか。

 仮に何かを失敗したって、もしくは苦手なことがあったって。特技がある奴は、誰かが手を貸してくれる。僕は大抵なんでもこなしてしまうから、手伝ってもらえることもない。例え手伝ってもらえたとしても、そいつは僕より才能があるってことだから、まざまざと力の差を見せ付けられる結果に終わる。

 残念ながら、こういう理想や願望ってものはいつも、お互いに無い物ねだりだ。隣の芝は青く見える、なんて、昔の人はよくいったもの。僕の庭には明らかに、緑色に塗った枯れ草が生えているわけなのに。



――――



 ある日の放課後。

「ああ、船越陽輔! 俺の大親友!」

 僕の名を呼びながら、両手を広げて近付いてくる人影があった。

「今日も部活が始まるぞ、心の準備はできてるかぁっ?」

 演劇でもするかのように、大袈裟な仕草と口調で僕に抱きついてきた。彼は大河内伸一。クラスメイトであり、部活仲間であり、小学生からの数少ない友人。まあ、俗世間一般的に言うならば、幼馴染だ。

「やめてよシン。気持ち悪い」

「そういうなよ、ヨウスケ。男同士じゃないか?」

「男同士だから気持ち悪いって言ってんの。くっつくなよっ」

 伸一を押しのけながら、教科書やノートを机からバッグに移す。

「じゃあお前、女の子に抱きつきたいのか? この変態めっ。おまわりさーん、ここに変質者ガーっ」

「ちっ、違うだろ。そういう話をしてるんじゃないよ!」

 照れ隠しに怒ってみせると、伸一はカカカと笑って、今度は肩を組んできた。

「わかってるよぉ。ムキになんなって、お前がムッツリなのはみーんな知ってっから」

「保健体育の授業だけ満点を取る君に言われたくない」

「この前、エロ本拾ってたもんな? まだ家に隠してあんのか?」

「拾ってきたのは君だしっ、勝手に僕んちに置いてったのも君だろう!」

「あるぇー、ソウダッケー? それってあれじゃね、別次元軸の俺じゃね? お前、とうとう平衡世界を行き来できる特異点になったのかっ?」

「何言ってんのこの人。誰かー、通訳呼んでー。この宇宙人、シンイチ語しか話せないみたーい」

 近くのクラスメイトに話題を振ると、クラスがいくらかの笑いに包まれた。

「ハハハ。よし、じゃあ部活いこうぜヨウスケ」

 うん、そうだね。と、相槌を打ちながら、足元においてあるバッグを手に取った。

 その刹那。

「……部室まで競争なっ」

 そういい残して、教室から飛び出していく伸一。

「あっ。ちょっ。待ってよ、それはずるい!」

 僕は口を尖らせながら追いかけた。教室を出ると、少し先で待っていた伸一に笑いかけられる。

「ほら来いよ。たまには俺を追い抜いてみろっ」

「もう、待ってってばーっ」

 彼が再び走り出すのを確認してから、僕はその後に続いて走っていた。

 そう。僕はまた、知らず知らずの内に誰かの背中を追いかけていたんだ。その立ち位置に甘んじて。先に出ることを最初から諦めていた。

「廊下を走るなァーッ!」

 先生の怒号が聞こえて、しょんぼりした伸一がこちらへと戻ってきた。こうしてその場は、友と並び立つことができたのだった。



――――



 部活はウォーミングアップから始まる。面倒だから僕はいつも適当に済ませた。手をぶらぶらさせてみたり、ちょっとだけ走ってみたり。他の皆を見様見真似。

 一方で、才能ある伸一はいつも念入りにストレッチをしていた。真剣な眼差しで、気合を入れるようにどこか一点を見つめている。

 そんな姿を傍からぼけっと見つめていると、彼はすぐに僕の視線に気付いてこっちを向き、にかっと歯を見せて笑ったりする。あのメリハリある切り替えがうらやましい。大抵はいつも傍にいるのに、時々、彼がとても遠い存在のように思えてならない。


 ウォーミングアップが終われば、次は実技、本番だ。競争心を掻き立てるためか、はたまた個々のやる気や能力を測っているのか。部活の顧問は僕たちを並べて競争させる。

 部活仲間の全員が、四列ほどに分かれて並んでいく。最初に走るのは緊張するし、最後に走って注目を浴びるのも嫌だから、僕はちょうど中間になるくらいを見計らって、列に入り込んだ。

「おい親友、一緒に走ろうぜ。すんません先輩、ちょっと順番譲ってもらえます?」

「ん。おお、いいけど」

 伸一が列に割り込んで、隣に並んだ。

「そういえばさぁヨウスケ、見たかよ昨日の特番。やっぱミナミナは可愛かったぁ」

「そうだね。シンはほんとアイドル好きだな」

「当然。お前も少しは流行に乗れよ。彼女達が輝いてるのは今だけなんだぜ? 応援してやんないとさ」

 僕は鬱々とした気分で、「そうだね」と、同じような相槌を繰り返す。

「でさぁー。やっぱ新曲のダンスは、もうちょっとこう、腰の具合を……」

「おい大河内」

「うい?」

 突然、部活顧問が伸一の隣に立って、彼の言葉を遮りながら言った。

「腕の振りだぞ。前じゃなくて上に登っていくんだ」

「うっす、わっかりましたぁー」

 適当な返事を返す伸一だったが、その表情はまた少しだけきりっと強張った。もう軽口も冗談も言わない。テレビの話題も振ってこない。

 僕は安堵とも退屈とも取れないため息をついていた。

 そうこうしている間に僕たちの順番がやってくる。彼は前だけを見て、隣に立つ僕のことなど、忘れ去っているようだった。

 憂鬱な気分はさらに深まる。頭の中には、「早く終わらないかな」という淡い願望だけが残っていて。僕も伸一の方を見るのをやめた。

 どうしてこんなに暗い気分なのかというと。

「位置についてー。ようい――」

 彼は今現在の陸上部で、一二を争う実力を持つ……エースだから。

〈ピッ〉

 短く笛が鳴ると、僕も伸一も、その他に並んでいる二人の部活仲間も一斉に走り出した。


 最初の数歩。息をフッと強く吐き出し終わるまでの間くらい。すでに伸一の背中が視界の隅に見えていた。フライングじゃないかと疑いたくなるほど遠くに。でも、一緒にスタートを切った僕だからこそわかる。ちょっとだけ早く踏み出して、ズルをしてしまったのは僕の方。

 運動場の砂を踏む音が、ちゃっちゃかちゃっちゃかとテンポ良く響いた。その砂の音は前と、真下と、すぐ後ろから二つ聞こえてくる。

 まだ走り終わらないのか。半ばを過ぎ、ダレてきた頃。後ろから迫ってきた足音に肩ひとつ分追い抜かれる。伸一の背姿は、たった今僕を追い抜いた先輩の三歩先を走っていた。

 そりゃあ、走っている途中はちょっと悔しい。僕だって適当にやっているわけじゃない。本気を出していないわけでも、努力を怠っているわけでもないんだ。一所懸命に足を動かして、なんとか距離を離されないように食らい付いているつもり。

 だけど。

 伸一の背中はどんどん遠ざかっていって。前を走る先輩も少しずつ離れていく。

 首を横に向けて確認する余裕なんて微塵もないけれど、隣を走っているとなんとなくわかるのだ。すぐ隣から、自分の前を行く風を感じるから。

 後ろから迫ってくる足音が少しだけ近くで聞こえ、僕は最後の力を振り絞ってさらに突き進む。前を行く先輩が失速して、もしかしたら追いつけるかもなんて淡い期待も抱いた。夢のまた夢。

 そして。後ろ三人が必死に自分と戦っているその頃には、伸一はもうゴールを超えて、膝に手をつきながら息を切らし、こっちをじいっと見つめているのだ。

 結局その場は三位。そのままの順位でゴールした。やはり半端な僕だった。


 ゴールにたどり着いてから感じるのは、全力を出した達成感でもなければ、圧倒的な実力差を見せ付けられた敗北感でもない。

 ああ、なんでこんなことをしているんだろう、という虚無感。結果への圧倒的な無関心。

 短距離走なんて所詮才能の世界。技術で補える部分はあっても、そこから越えられない壁という物が存在する。骨格や筋肉量、持久力、加速力。どれも生まれ持った肉体から算出される絶対的な能力。

 そもそも部活なんて入っていると、毎日のようにタイムを計っているわけで。そこから自己ベストや成長速度、自分がたどり着ける速さの限界なんてものは簡単に割り出せる。

 僕と伸一には、走る速度も、成長のスピードも、体調によるタイムのブレにさえ、絶対的な格差があった。埋めることはできない、大きくて根本的な違いが。

 なんて無意味な時間なんだ。もう伸一や先輩たちに競争で負けるのは慣れてしまって、走り終えた後は、悔しさなんて微塵も湧き上がってこない。ただ、自分の非力を再認識するだけ。

 僕は息も絶え絶えに、次に走ってくる部活仲間たちの邪魔にならないよう、脇にはけた。



――――



 長距離とか、ハードル跳びとか、諸々の練習をこなし、そろそろ疲れと気だるさに全身を包まれた頃。

「よし。また明日もいつもの時間に集まれ。じゃあ、解散!」

「ありがとうございましたー」

ようやく部活が終わった。

「あー。疲れた」

 誰に聞いてもらうわけでもなく、校庭に備え付けられたベンチに腰掛けながら呟いてみる。

 ふと見ると、少し離れた場所で汗を拭う伸一が目に入った。彼のもとには、可愛いマネージャーや部活仲間たちが集まって、きゃーきゃーとはしゃいで盛り上がっていた。

 物事の中心にいるのは、決まって伸一の方。目立つことが苦手な僕は、傍観者くらいがちょうど良い。

 伸一の所に集まった人々の中には、僕の憧れ……まぁなんていうか、初恋の人もいたりする。髪が長くて細身で物静かな、ひとつ上の先輩なんだけど……。

 僕はまた、背中を見ているだけ。こっちを振り返ってくれないかな、なんて想いを視線に乗せてぶつけるが……ああ、見つめているだけじゃ願いは叶わない。みんなに別れを告げてから、こちらには見向きもせず、ああ帰っちゃった。

「ふぅむ……」

 なんにも上手くいかない。そんなもんか。納得するような、諦めきれないような、とにかく半端な吐息で嘆息すると。

「お疲れさまぁーっ」

 急に後ろから声をかけられた。

ちょっと耳に残る鼻声に、「またこいつか」と、再びため息が漏れてしまう。

「はい、お水でーすっ」

「ああ、うん。高岡さん、ありがとう」

 ベンチの後ろから手を伸ばして僕の水筒を渡してくれたのは、マネージャーの高岡美奈子さん。ちょっと小太りで、そばかすがあって、元気だけど馴れ馴れしすぎる。そんな同級生の女の子。

 きっと、恐らく、もしかすると、僕が自意識過剰なだけかもしれないけど、たぶん……彼女は僕に気がある。伸一を取り囲むマネージャー達と同じ表情をして、どうしてだか毎回、最初に僕へと声をかけてくれるから。廊下ですれ違っても、前を歩く伸一には目もくれず、僕にだけ笑顔で挨拶してくれたりするし。

 彼女にはちょっと、いや、かなり失礼かもしれないけど。僕としては痩せている女性が好みだから、正直勘弁してほしい。彼女に惚れられているくらいなら、僕が自意識過剰なだけであってくれた方がずっといい。

 まあ、ひとまず。受け取った物に手をつけないような、露骨な嫌悪を示したくなかったので。僕は水を飲んで一息ついた。

「今日も頑張ったね。最初の競争も惜しかったと思うよ、うんっ」

 高岡さんが笑顔で僕の顔を覗きこんできた。

「そう? 走ってるほうからしてみれば、絶望的に遠かったよ。だって離れていくんだもん。一生かかったって追いつけるわけ無い」

 せめてもの反抗心というか、僕の気持ちに気付いてほしいという思いを込めて。僕は無表情のまま、少し冷めた事を口にした。

「頑張り続けたら、きっといつか追いつけるって。ガンバガンバ!」

 高岡さんは笑顔のままで、僕の肩を優しく叩いた。

 心にも無い事を。また僕は憂鬱な気分になった。その言葉がただのお世辞だというのは、僕自身が一番よくわかっている。伸一との差は絶対に、何があっても縮まらない。きっと僕の気を引こうとして、あざとく接しているだけだろう。

 なんて。捻くれた事を考えてしまっていた。そんな卑屈な自分に嫌気がさす。

「おい、親友。なーにバテてんだよっ」

 どうしようもなく落ち込んでいると、伸一がいつもの笑顔で会話に割り込んできた。ナイスだ伸一、今のタイミングはとても助かった。これ以上話題を広げられなくて困っていたところだ。

「よ、高岡。調子どう?」

「あー、うん。普通だよ」

「ああ、そう?」

 高岡さんと社交辞令的なそっけない会話を交わした後、伸一は少しだけ目を泳がせてから僕を見た。

「なあヨウスケ、帰りにゲーセン寄ろうぜ」

「ああ、うん。そうだね、行こうか」

「今日こそはあの格ゲーで勝ってやるからな、覚悟しろっ」

「無駄無駄。シン、ガードが甘いんだもん」

「先に倒せば勝ちなんだからまずは攻撃だろ?」

「逆だよ、なんども言ってるじゃないか。先にやられたら負けなんだから、まずはやられないように戦わないと」

 ベンチから立ち上がり、自分たちの荷物の方に向かいながら会話を続ける。高岡さんが後ろからついてきて、僕の荷物を取って渡してくれた。

「ありがと」

「あ、あのさっ。二人ともっ」

 一応お礼を言うと、高岡さんが遠慮がちに口を開く。

「今度、一緒に……」

「だぁから。ダメージ受けたり攻撃した方が必殺技ゲージも溜まるじゃん? だったら逆転狙え――」

 高岡さんの言葉は、ムキになった伸一の言葉に遮られてしまった。

「――あ、悪い高岡。今、なんか言いかけたか?」

「う、ううん。ただ、その」

 話の腰を折られてしどろもどろになった高岡さんは、困ったような笑みを浮かべながら手を広げてこちらに見せる。

「さよならーって、言おうとしただけ」

 そしてそのまま、開かれた手を左右に振った。

「ああ、そうか?」

「う、うん」

 珍しく、苦笑いを浮かべた高岡さん。伸一は少し戸惑ったように、頭の後ろをぽりぽりと掻いた。

「ならよかった。じゃあ、えっと。その、なんだ」

「バイバイ、高岡さん」

 口ごもっている伸一の代わりに、僕から別れを切り出す。

「お、おお。そうだ。じゃあ、また明日な、高岡」

「うん。バイバーイ」

 高岡さんに背を向けてその場を去る――のだが。

数歩進んでから、不思議な違和感を覚えた。何かがいつもと違う。この開けた景色がとても新鮮に思える。見慣れたはずの運動場なのに。

 ああ、そうだ。違和感の元にたどり着く。今、僕は誰の背中も見てないんだ。

 伸一はどうしたんだろうと、数歩進んでから振り返る。伸一は去っていく高岡さんの背を見つめていた。

 そして僕は、その背中を見つめている。

 なんだか寂しい隙間風が心を吹きぬけていった気がするが……。きっと深い意味などないのだろう。



――――



 数日後。驚くべきことが起こった。部活は休みだというのに、放課後、高岡さんに呼び出されたのだ。

 まさかとは思った。でも、そのまさかだ。

 僕は。僕は――

「船越君のこと、好きデスっ」

 ――告白された。

「え……」

 当然、対応に困る。僕には僕の恋する相手がいる。確かに高値の花だが、諦めろといわれて諦められるほど簡単な問題じゃない。それに正直言って、彼女は僕の好みではないわけだし。こんなドラマやラブコメみたいな出来事は、僕の人生設計には全く想定されていなかった。どうすればいいんだ。なんと言えばいい? こういう時……。

 必死に考えをめぐらせる。ほんの数分、もしかすると数秒の間。とてつもなく居心地が悪くて、本当に長く感じる一瞬の沈黙。

 この場は答えを濁して逃げてしまおうか。いや、でもそれでは解決しない。先延ばしにして、なにも良いことなんてないじゃないか。それに勇気を振り絞って言ってくれた相手に失礼だ。だから僕も、勇気を持って心の声を届けてあげなきゃ。

「……。あの、高岡さん」

「な、なあに?」

「ごめん」

 僕は心が導くままに声を放った。

「……ごめん」

 自分がなんと言ったか確認するように、もう一度同じ言葉を唱える。ああ、そうか。これが僕の本心か。二度目を自分の耳で聞いてから、納得と言うか、安心を得られた。

「……あ……」

 高岡さんの表情が固まった。

「僕、ぼく……。他に、好きな人がいて。でも、高岡さんのことが嫌いとか、そういうことじゃなくて、その……」

 泣かれでもしたら大変だと思って、なんとか言い訳になりそうな言葉をつむぎ出していく。全力で保身の道を走る、僕は所詮、ただの卑怯者。

「い、いいのいいの。言い訳なんかしなくて。船越君、痩せてる人が好きなんだよね? わかってる。そうかなって、思ってた」

 高岡さんは急に笑顔になって、軽い口調でおどけてみせた。

「わたし、デブだからダメだよね。うん、ちょっと、もしかしたらと思って言ってみただけだから。そんなに大袈裟に受け取らないで、ね? ねっ?」

 いつもより大袈裟に。さも傷ついていないかのように振舞う彼女は、いつもよりちょっとだけ、縮こまって見えた。

「あ、うん」

 思ったよりも強い人なんだなと思って、僕は呆気に取られた表情で立ち尽くす。

「……。実は、さ」

 まただ。また、あの遠慮がちな顔。眉をひそめて、口元を隠す仕草。真っ直ぐで元気で、馴れ馴れしい高岡さんにはどこか似合わない。躊躇いと悲しさの表情。

「どうしたの?」

 告白を断った罪悪感に突き動かされ、顔を覗きこみながら聞き返してしまった。中途半端な優しさは他人を傷つけるだけだと、どこかの歌手が歌っていたけど。どうしても、僕はその優しさを捨て切れなかった。

「わたし、親の事情で転校することになったんだ」

「え……。いつ?」

「来月」

「そう、なんだ。もうすぐだね」

 いきなりのこと。これまでの表情も、そして今回の出来事も。少しだけ、納得できた気がした。

「だからさ。もやもやしたままでいたくないって思って。だから、思い切って告白してみることにしたの。その程度の動機だから、ホント、あんまり気にしないでいいよ」

「う、うん」

「……。それで、もしさ。もしも、なんだけど」

「うん?」

「わたしが痩せたら、もっかいアタックしてもいい?」

「まあ、そりゃあ」

 そんな事、僕に聞かれても困る。そもそも引っ越すと言っているのに、次があるとも思えないんだけど。

「って。こんなこと聞かれても、困るよね。ごめんごめん」

 高岡さんはなんとも複雑な表情で笑った。困ったように眉をひそめ、でも目元口元は優しげで。やりきったような、後悔しているような、今にも消えてしまいそうな。そんな笑顔だ。

「じゃあ、わたし引越し先でもガンバルから。船越君も頑張ってね! バイバイ、ヨウスケ!」

「え、ああ、うん」

 高岡さんは去ってしまった。

 誰かの背中を見るのは慣れているはずだけど。逃げ去るようにして丸まった彼女の背中は、どうしても見つめ続けることができなかった。


 次の部活からも、高岡さんは今まで通りに接してくれた。

 特に噂がたったり、仲が疎遠になったりすることもなく。何事も起きないまま日々は過ぎ去っていく。

 翌月。確か、中旬だったかと思う。彼女は宣言通り、県外へと引っ越していった。クラスも違うから、僕の周囲で話題になることも特になかった。


 その後も、虚無感に包まれた部活動は続いていく。

 どうしてだろう。特に大きな失敗をしたわけでも、大切な人がいなくなったわけでもないのに。僕の心にはぽっかりと、大きな空白だけが残り続けた。


 いつの間にか月日が進み、気付けば中学を卒業する時期になっていた。



――――


 友達との仲って、そんなに長くは続かないものだな。過去を振り返ると、そんなことばかり考えてしまう。

 僕は高校生になっていた。家から通いやすい場所にある高校を適当に選んで進学した。

 伸一は陸上の才能を買われ、推薦を受けて県外の高校に通っている。高校生活始まってすぐは連絡をちょくちょく取り合っていたのだが、いつからか急に疎遠になって、最近は声すら聞いていない。親友と呼ばれていたのに……人の縁なんて所詮その程度のものらしい。

 縁と言えば、面白いこともある。同じ中学に通っていた男子と、高校でばったり会ったのだ。友達の友達、くらいの感覚で何度か言葉を交わしたのを覚えている。

 新生活が始まった時に出会う同郷の人というのは、随分と心強い。そこから、なぜだか途端に仲良くなって。最近では一緒に映画を見たり、お互いの家に泊まったりする仲になった。

 一方で。僕は陸上をやめてしまった。特に深い意味はない。ただ、今までとは違うことがしたいなぁと思っただけ。

 今はクラスで仲良くなった友人と一緒に、写真同好会に所属している。カメラの知識なんてまるでなかったが、同好会なので人数も少なくて、気楽にやれて楽しかった。


 そして。特別なことが起こることもなく、早一年が過ぎた。


 夏休み間近のクラスでは、高校総体(インターハイ)の話題が挙がっていた。文科系の部活に入った僕には関係の無い話だったが、以前陸上部だったこともあって、少しだけ興味を引かれた。

 陸上競技がネットで中継されていると友人から連絡をもらい、せっかくだから見てみようと、おもむろにパソコンの電源を付ける。もしかしたら伸一が出ているかもしれない、なんて、淡い期待を抱いていた。

 だが。

「ああ、なんだ。男子短距離はもう終わったのか。残念」

 こういうものさ。欲しているものがタイミングよく訪れることなんてそうそうない。結局、縁が無かったんだ。そう思うことにした。

 せっかくつけたので今日の分くらいは最後まで見るか。

 どうやら次は女子中距離走の予選らしい。

『第一レーン、田中聖子さん。第二レーン、松岡……』

 選手の名前が読み上げられていく。

『第八レーン――』

 ぱっと見たところ知ってる人はいないみたいだ。当然か。通っていた中学の陸上部は、部員数こそ多かったけど、そんなに有名ってわけでもなかったし。ましてや決勝に残るほどの選手なんているわけがない。

 ジュースでも飲むかと席を立った。

 その時。

『――高岡美奈子さん』

「……。え?」

 一瞬、自分の耳を疑った。あんなことがあったから、その名前はしっかりと記憶に残っていた。

 まさかね。ありきたりな名前だ。同姓同名なんて世の中沢山いるし。そう思ったのだが、確認せずにはいられなかった。

 すぐに振り返って画面を見る。そこには。

「あ」

 アップで映る選手の顔。以前よりずっと細身で、顔つきも大人びているが。言われてみれば彼女、高岡さんの面影がある。中学で僕に告白して、途中で転校していった同級生。脳内に白い一線が閃くように、多くの記憶が呼び起こされた。

「……。マジか」

 もしかして、運動を始めてみたらセンスがあったってことなのだろうか? 陸上中距離と言えば、短距離の瞬発力と長距離の持続力が必要な、最もハードな種目なのに。まさかあの小太りな高岡さんが。へぇ。

 世の中何が起こるかわからないもんだと感心しながら、レースの様子を見守ろうと席に戻る。

『第一コーナーを回って、X学高校の高岡がトップ』

 速い。全体を通してみれば一位にはなれないだろうが、走りはトップクラスだ。もしかしたら上位入賞くらいには食い込むのではないだろうか。

 なかば呆然としながら競技が進むのを見つめた。結局、その日の最後の競技まで見続けてしまった。

 予想通り、彼女は決勝まで走り、結果は七位。表彰台こそ遠いものの、全国大会での順位と考えればかなりの好成績だ。

「……。はぁー。メールアドレスくらい聞いとけばよかったな。そうすれば、お祝いのひと言でも言えたのに」

 後の祭り。交友関係は大事にすべきだったと、少なからず後悔した。

 その程度の後悔など、夕飯を頬張る頃にはもう忘れていた。


――――


 さらにその数日後。

 暑い暑いと虚空に文句を垂れながら自室でぐーたらしていると、突然家のチャイムが鳴った。

「はいはーい。新聞の勧誘なら結構ですよー」

 と、扉を開ける。

「よっ」

 そこには、見覚えのある女性が立っていた。髪は短くて、痩せ型で、そばかすがあって、元気そうな、同年代くらいの女の子だ。

 ええと、誰だっけ? つい最近、どこかで見たような。

「……はあ?」

「あー。やっぱりわかんないかぁ。無理もないよねぇ、わたし、結構変わったはずだし」

「えっと」

 わけもわからず口ごもっていると、女性は首をかしげて悪戯っぽく笑う。

「中学校時代の同級生でーす。誰かわかるかなぁ?」

「……。え」

 まさかと思った。ああ、そのまさかだ。

 中学時代の同級生の中で、僕の家を知っている女子は限られている。それは陸上部のマネージャー。その中で、僕の近辺をよく担当してくれていた女の子。

 それは。

「高岡、さん?」

 最近どこかで見たなんて、なにをおかしなことを言っていたんだ僕は。つい先日、高校総体のネット中継で彼女を見たばかりじゃないか。あの時はすぐに思い出せたのに。実際に会うと想像していたよりもはるかに大人になっていたから、気付けなかったのかもしれない。

「ハイ正解! 約束通り、痩せてきましたぁ~。ははは、どーだ参ったか!」

 胸を張ってふんぞり返る高岡さん。以前にも増して元気で明るくて、それでいて馴れ馴れしく感じる。しかし、その馴れ馴れしさが、少しだけ成長した僕には心地よく思えた。

「ど、どうして? 県外に引っ越したんじゃ?」

「うん。おばあちゃんちがこっちにあってね。夏休みだから、遊びに来たの。んで、船越君元気かなぁと思って。様子を見に来たんだ」

「なんで僕がまだこっちにいるってわかったの? 県外の高校に通ってたかもしれないじゃないか」

「この前ぇ、インハイで大河内君に会ってさぁ。あ、わたしインハイ出てたんだけどね。そんで、船越君、こっちの高校に通ってるはずって話を聞いたから」

 やはり伸一も出ていたのか、高校総体。みんな凄いな。少しだけ世の中が狭く感じる瞬間だった。

「ケータイなくしたとかぶっ壊れたとか、それが連続したとかなんとかで。電話番号が変わって、尚且つ電話帳の記録も消えちゃって、連絡取れなくなってたみたい。「親友の番号を忘れるなんて! 俺と! したことが!」て、相変わらずのオーバーリアクションで悔しがってたよぉー」

 なるほど、そうだったのか。なんと……数奇な巡り会わせなのだろうか。切っても切り離せない縁ってあるものなんだな。僕はひとつ、人生において大切なことを学んだ気がした。

「はい、これ。大河内君の新しい電話番号及びメルアド。確かに、届けたからねっ」

「うん。ちゃんと連絡しとく。あ、えっと。外、暑いし。あがってく?」

「ううん、いい。それよりさ、せっかくだから一緒にどっか遊び行かない?」

「え?」

「いいじゃんいいじゃん。久しぶりなんだから、町、案内してよ」

「え、っと。じゃあ、着替えてきていい?」

「いいからいいから。いっくぞー!」

「ああ、ちょっと待って。つっかけにジャージじゃイヤだってばっ。ぬわーっ」

 僕は半ば拉致られるような形で、町中へと駆り出された。


 案内と言っても、もとより高岡さんはこの町に住んでいたわけで。

「わー。なっつかしいなぁ、小学生の頃はこの道を登校してたんだ」

 彼女は僕が知らないような脇道を、どんどん一人で突き進んで行った。僕が連れ立つ意味があるのか甚だ疑問であったが、駆り出されたからには何かわけがあるのだろうと後をついていった。

 知らない道のはずなのに、僕もなんだか、懐かしい気分に浸る。それは、誰かの背中を追いかけて歩いているからだろう。

「あー」

 高岡さんが立ち止まり、どこかを見つめながら残念そうな声を出した。

「どうしたの?」

 高岡さんの視線を追う。そこは新たにビルが建設予定となっている空き地のようだった。

「ここ、小さい頃よく遊んでた公園があったんだ」

「へぇ、そうなんだ」

「うん。数年しか経ってないのに、いろいろ変わったね」

「そうだね。最近は……なんだか世の中、せわしないよね」

「うっわ。何、その悟ったような口ぶり。まだ中二病治ってないの?」

「ち、違うよ。……変わってないものだってあるって、言いたかっただけだよ」

 茶化されてなんだか恥ずかしかったので、照れ隠しにふて腐れてみせる。そんな子どもっぽい僕を見て、高岡さんは「あはは」と笑った。

「拗ねるな拗ねるな。冗談だってば」

 そう言ってまだ笑う高岡さんも、どこか子どものように無邪気に笑っていた。

 つられて僕も笑顔になった。


 その後、ぐるっと町内を回ってから、中学校にも顔を出そうという話になった。といっても、僕が意見を出したわけじゃなく、高岡さんが一方的に決めたわけだが。

 夏休みだしいいかと思って校門を抜けると、かつての陸上部顧問とばったり会って、少し立ち話をした。先生の方がテンション上がっちゃって、昔話に花が咲く。

「あ、せんせー。ちょっと運動場、使ってもいいですかぁー?」

 突然。高岡さんがそんな言葉を切り出した。

「ん? んー……」

 考える素振りを見せた顧問の先生。

「まあ、よかろう。顔見せに来てくれたから、特別な。部活やってる生徒の邪魔はしないように」

「はーい。あっざっまーす」

「じゃあ、先生は用事があるからこれで。今日は会いにきてくれてありがとな」

 別に、先生に合いに来たわけじゃないのだけど。まあ、喜んでくれているようだし、そういうことにしておこうか。

 失礼しまーす。と二人で会釈をすると、先生はいなくなってしまった。

「さて、わたし達はれっつらごー、だよ」

 高岡さんは僕に背を向け、運動場の方に向かっていく。

「え、なにするの?」

「そりゃ、当然でしょう?」

 意味がわからず様子を見ていると、高岡さんはストレッチを始めてしまう。

「走るのよっ」

「え……」

「だってお互い陸上部じゃない?」

 さも当然だろうとでも言いた気に、高岡さんは首をかしげた。

「でも。……僕はもう、走ってないし」

「いいからいいから」

「勝てるわけないよ。だから、やめよう」

「はいはいわかったわかった。ほら、位置について。走るよー」

 結局彼女に押し切られ、走ることになった。相手は高校総体の入賞者。女子とは言え、生半可な僕では相手になるまい。

「五〇にしよ。それなら走れるでしょ?」

「ああ、うん」

 僕は他人と競い合うのは苦手だ。中学の頃、嫌と言うほど負けを経験したから。だからこそ、高校では運動部に入らなかったのに。過去というのは残酷なもので、いつまでもいつまでも、僕を後ろから追いかけてくる。絶対に追い越そうとしないくせに、後ろからずっとはやし立ててくるのだ。

「じゃあ、いくよ?」

 僕はいつも、追いかけるだけ。積極性もなく、自分の意見も持たないから。誰かに引っ張ってもらわないと、何も行動できない小心者。自力で踏み出す勇気のない、ただの意気地なしだ。

「ようい――」

 高岡さんがクラウチングスタートの構えを取る。仕方が無いので、僕もそれにならった。

「――あ、そうだ。勝った方がひとつ、負けた方に命令できる権利賭けよっ」

「は?」

「よーうい」

「ちょ、今なんて――」

「どーん!」

 ほとんど不意打ちに近かった。彼女が走り始め、僕は出遅れる形で、それを追いかけた。また背中をみることになるのか。女の子にすら勝てないのか。そもそも僕は、なんのために走っているのか。どうしようもなく寂しく、そして虚しくなった。


 だが。しかし。それでも。だけど。

 何故だろう。熱い何かを感じる。

 なんなのだろう。この湧き上がってくる感情は。

 彼女の背中がとても近くに思えた。なんてことはない。実際に、手を伸ばせば届くくらいの距離だ。

 ふと考える。不思議と体は勝手に動き、頭はクリアになって、考える余裕がうまれていた。過去と向き合う力が湧きあがっていた。


 どうして僕は、陸上部をやめなかったのだろうか。競い合うのは嫌いになったはずなのに。

 どうして僕は、最後まで走り続けていたのだろうか。勝つことはできないと、諦めていたはずなのに。

 五〇メートルのゴールが間近に迫る。

 もう終わりか。少し残念に思う。そして。

 ああ、そうか。ようやく気付く。つまり。

 そうだった。今になって思い出した。僕は。

 僕は――。


 走るのが、ただ好きだっただけじゃないか。


「わーい、わたしの勝……」

「やっぱり一〇〇にしよう!」

「え?」

 五〇メートルを走りきり、減速し始めていた高岡さんの横をそのまま走り過ぎる僕。走りながらつっかけを脱ぎ捨て、柔らかい砂の地面を、はだしで駆け抜けた。

「ちょ、それずるい!」

 高岡さんが追いかけてくる音がする。

「お互い様っ」

 目の前には誰の背中もない。ただ、運動場に石灰で引かれた白いラインが続いているだけ。

 これは僕の道だ。この道を進む限り、僕の前は誰も走らない。スタートラインからゴールまで。僕のためだけに伸びている(レーン)

「じゃあ二〇〇! 二〇〇にしよ!」

「なんなら四〇〇だっていいよ!」

「言ったなぁっ。中距離はわたしの土俵だぞーっ。全国七位な・め・ん・なーーーっ!」

 高岡さんが急にスピードを上げて、ちんたら走る僕を颯爽と追い抜いていく。

 そんなもの。僕の知ったこっちゃなかった。

 自分で決めたゴールに向けて。ただひたすらに、がむしゃらに走るだけ。

 それが楽しかったんだ。

 踏み出せば跳ね返ってくる地面の感触。耳元をくすぐる風の音。確実に自分の足で前に進んでいるという実感。

 それが嬉しかったんだ。

 誰と比べるわけじゃない。何と戦うわけでもない。

 ただ無心になって走るのが好きだった。自分の足を突き動かして、風を感じるのが好きだった。前に進んで。後ろを振り返ることも、横を見ることもせず。

 ただ純粋に、ゴールへと近付いていく道中が、これ以上になく幸せだった。

 それだけなんだ!


 ゴールを超えると、どこか気持ちの良い疲労感に包まれていた。世間のしがらみとか、他愛無い自己嫌悪とか、そういったネガティブから、一瞬だけ開放されたような満足感があった。

「はあ、はあ」

「ぜー、ぜー」

 二人分の吐息が、だだっ広い運動場に吸い込まれる。沢山の涙と汗と、生徒たちの足跡を記憶する運動場に。

「光よりも早く、はぁ、走った気がする。ぜー……」

「そう? ふー。まあ、ブランクあるわりには、結構速かったんじゃないかな」

 しばらくの間、お互い無言になった。でも。今日共に過ごした中で一番、多くの言葉を伝え合った気がする。目を合わせたり、意味もなく笑ったりしただけで。言葉なんて要らないほど、十分に意思疎通ができた。

 そんな気がしただけだけど。僕は納得できたし、満足だった。

「はぁ。……ねえ、約束、覚えてる?」

 高岡さんが先に口を開いた。

「ああ、うん。勝った方が命令するって? 実現可能な範囲にしてよね」

「ううん、そっちじゃなくて」

 ふと顔を上げると、高岡さんは困ったような、悟ったような、あの不思議な笑顔を見せていた。

「うん。覚えてるよ。中学の頃の約束でしょう?」

 高岡さんはこくんと頷いた。それから、僕と目を合わせてくれなくなった。

 僕は急かしても悪いと思って口をつぐむ。この無言の間が、何よりも大切な瞬間だと感じた。

「あの――」

高岡さんが口を開く。どこか赤面している気もするが、それは暑さ故か、それとも……。

 おっと。悪いけど、ここでフェードアウト。

 ちょっとプライベートなお話なんでね。



――――



 その日の夜。

 僕はある人に電話をかけていた。

「もしもし? ああ、うん。僕。ヨウスケ。うん、うん、聞いたよ。相変わらず、大事なとこが抜けてるよね、君って。ははは、いや、そうでもないよ。うん。あーね、そっか……」

 古き友との一年ぶりの会話。話は弾み、楽しかった。伝えたいことは沢山あったし、聞きたいことも山ほどあった。

「実はね。ちょっとお知らせしたいことがあるんだ。実は……」

 僕は多くを語った。今日の出来事。僕の気持ちや、考えていたこと、感じたこと。とにかく、伝えたかったことを全部だ。

彼はとても驚き、そして認めてくれた。全部を聞いてくれた後、今度は彼自身の気持ちを語ってくれた。

「えっ。君が? 彼女を? 嘘だぁ、全然気がつかなかった。はは、悪いね。今回は、先を行かせてもらったみたいだ。そっちは? へえ、いいじゃない! 凄いよ、やったぁ!」

 部屋に響くのは笑い声。スピーカーから聞こえてくるのも笑い声。たった二人の間。どうしようもなく狭くて小さい世界だけど。僕の周りは、笑顔で溢れていた。



――――





 僕は他人と競うのが苦手だ。

 自分より才能のある人なんて沢山いる。勝ちと負けしかない世界は、僕にはちょっと荷が重過ぎる。

 僕はいつも、追いかけるだけ。

 追いつくこともできず。あるいは、どんどん引き離されていって。誰かの背中を見つめながら進む。でも、たまには――。

 勝てなくても。力の差を見せ付けられても。最後まで走り続ける。決して途中でやめることはない。

 それは、何故だろうか?

 答えは簡単。

 僕が走りたいと願うから。誰かと同じ場所で。誰かと並んでゴールしたいと想うから。ただ、それだけ。


 この物語は――残念ながら、まだ無題。


 だって僕は、自分の人生(ものがたり)を、終幕(ゴール)まで走りきっていないのだから。


このような未熟な作品に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


もし感想や評価などをいただけたら、今後の励みになりますのでどうぞよろしくお願いします。

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