師匠と弟子
ヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロ。
エリア24における魔学者であり、無性体。エリア11からの異世界人リエ・サカキにとっては師匠であり雇用主。そして、気に食わないことにリエ・サカキの異世界物在住登録証明の後見人でもある。
「ヴィクトール!魔力の定着に5年もかかるってどういうこと!」
「そうだぞ。しかしお前、読書だけは速いな」
「読書だけは、って何よ!それよりもどうして5年も!」
「うるせぇ。仕方ないだろ。この世界とリエは元々、関わりのなかった存在だ。この世界がリエを認識するにはとにかく時間が必要なんだよ」
「…定着しないと、どうなるのよ?」
「他の並行世界に飛ばされるか、存在自体が消滅する」
「そ、そう…」
「ああ。だからそうならんように、在留登録のときにその首環をつけただろうが」
「効果あるの、これ?」
絶妙な間隔で配置された美貌を台無しなほどに顔をしかめたヴィクトールに指摘され、リエは自らの首にぴったりと張り付くように巻かれている黒い首環を撫でた。この首環は異世界物在住登録をした際につけたものである。魔学者が開発した特別な機能が備わっているらしい…というのも、リエがこのように推測したのではなく異世界物在住登録を受け付けた女性の話とヴィクトールの話からそう判断した。
エリア24に馴染んでいない異世界人をエリア24にとどめておく効果があるとのことだが、実感していないだけにリエにとって信憑性は薄かった。
「ふん、珍しく弱気だな。魔学者が設計した制御首環だ。効果あるぞ。現に30年以上、定着しない異世界人がいてな。奴はその首環があるおかげでエリア24に存在し続けている」
「30年?」
「気にするな。30年ってのが異常なんだ。魔学者の俺から見てもリエは5年ってとこだろ」
「分かるのね」
「魔学者だからな。リエの場合は体がこの世界を拒否していない。エリア11で何があったか知らんが、エリア24に来る際に体が変質して無性体になっている。魔学者が現時点で把握している50の並行世界で無性体が生まれるのはエリア24だけだ」
「順応しようとしてるってこと?」
「そういうことだろうな。お前がこっちに来るときにそう願ったのか、そうなるしかなかったのか、元々の魔力保有量の高さに体が適応したのか、魔学者としては気になるぜ」
ほんの一瞬、赤髪の魔学者は研究対象を見るかのように興味深げに青髪の異世界人を見るが、目が合う前に視線を外す。魔学者にとって無生体に体の仕組みが変質した異世界人など滅多にない研究対象だ。だが、異世界人が故郷でのことを話したがらないことに気が付いており、時間だけは有り余るほどにある研究者は急かすつもりはなかった。
「そうなんだ。色々気になるけど…分かったわ」
「そうしておけ。俺だって全部が全部の事象を説明できないからな。お前は魔学者見習いなんだし、気になることは自分で調べるか、研究しろ」
「むかつく」
ヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロ。エリア24における魔学者であり、無性体。エリア11からの異世界人リエ・サカキにとっては師匠であり雇用主。そして、気に食わないことにリエ・サカキの異世界物在住登録証明の後見人でもある。
ヴィクトールは“無性体”。
無性体とは雄雌の性別を生物学的に区別する基準が何もない体のことである。性器がない。
前例はかなり少ないが、リエはエリア24に来た時には無性体になっていた。エリア11では生物学上は雌、女性という判断ができたのだが、その判断がつかなくなっていたのである。このことにリエは衝撃を受けたが、幸い性別にこだわりがなかったため、現在はあまり気にしていない。結果として、リエは元女性体の無性体になったのだ。
無性体が持つ特性はひとえに長寿が挙げられる。
エリア24で最初の無性体と言われるヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロは現存する最古の文献や建築物よりも長き時を生きている、らしい。というのも、本人が多くを語らないため、実際に彼がどれほどの時を生きてきたかについては本人以外は知らない。
一般的に、無性体が生まれるには条件があると言われており、その中でも魔力の保有率がある。ある一定の魔力保有率を超えると人間は成長が緩やかになり、一般の平均的な魔力保有者より長生きをすることが研究により分かっている。
その研究結果から推測して成長が緩やかになる現象を、より特化したものが無性体ではないか、と言われている。無性体はこぞって長寿で魔力保有量も尋常ではないほど高いのである。これはヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロ、リエ・サカキにも当てはまる事実であった。
「いいこと考えたぜ。お前のことは大いに気に食わんが、お前の考える理論には大いに興味を持つ。俺は創造物を作り出す魔法が得意だから、その点においてはお前と相性が良い。これを活用しない手があるか?」
「…私は魔力による万物に対する理解力が高いけど、何かを作り出すことは不得意。魔法の相性は理想的ね」
「だろう?恐らく、お前は今年の首環解除で今までの魔学者見習いとしての実績を鑑みられれば、魔学者として認定されるだろうしな。さあ、俺と組め!」
ヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロは悪戯を思いついた子どものような笑みをその神に愛されたかの如く優美な顔に浮かべ、リエ・サカキに提案した。提案、と言えば聞こえは良いが、これは提案という名の決定事項だ。現時点でリエ・サカキがエリア24に来てから首環解除の年、5年の月日が経過していた。ヴィクトールがこういった顔を浮かべるときには、リエの話を聞くまでもなく様々な事柄が決まりきっていることをこの数年間でリエは学んでいる。
「ほんっと、腹立つ…。そうなると私とあなたは師弟関係ではなく、共同研究者という関係になるけどそれについてはいいの?」
「はっ、そこが変わったところで俺に影響はないね。そもそも、お前は弟子だっつってんのに師匠である俺にへりくだる様子もないし?意味ねぇ関係だったからな。構わん」
「ヴィクトール、あなただって私に特別何か指導する気が更々なかったくせに!」
リエはいくらか憤慨した。まるで自分だけ悪いように言われているが、弟子に知識を与える気が薄い師からではなく屋敷に大量に眠っていた学識本を端から端まで読破し、独自の論理を作り出したのだ。むしろ褒めてもらいたいぐらいである。
「うるせぇ。とにかくお前は俺の相方ってことだ。逃げんなよ」
「はいはい。研究のね」
長きに渡りひとりきりで生きてきたヴィクトール・エドゥルアルト・ヴィクトロにとって最初で最後の対等な関係であったのだが、エリア11出身のリエ・サカキが全く知らないことであったのは無理もなかった。
そもそも、人との付き合いを忌避する最古の無性体が長いこと住処にしているこの屋敷の近くで拾い物をしたことでさえ変節であり、世界に激震が起こったことも、生まれたばかりの無知なる最も新しい無生体は知るよしがない。