貧乏少年と裏口入学3
「ふぅ……」
緊張の糸がほどけたため息は、予想以上に大きかった。
管理人室を後にし、廊下に出たマヒルは何をするでもなく学生寮の外に出た。
太陽は頭上越えてやや斜めになっているが、厭に蒸し暑いコンクリートジャングルとは空気の違う島である。
「……ここが天国への階段になるか……地獄への門になるか……」
海上学園都市、第五白波学園。
その片隅で雛由マヒルは呟き、体の芯に刻む。
目指せ国家認定魔術師、借金完済。
滲み出る気合いのままにぐっと拳を突き上げた。
「目指すは15位以内っ!」
「さすが、その辺の連中とは根性が違ェな?貧乏人の鑑だぜ。」
背筋が跳ねた。
振り返ってみると、そこにいたのは頭の後ろで腕を組むジンヤだった。
「あ……ああジンヤさん」
「よォ」
こうやってマヒルが対処できたのも、彼が本気でマヒルを卑下している訳ではないと分かったからだ。
むしろ、何処か親しみさえ感じる口ぶりだった。
「たぶんお前もここで暮らすんだろ?白葉寮。」
「仲良くしようぜ」と、そういうことらしい。
「……さあ、まだよくわかりませんけど」
するとジンヤはマヒルの肩を小突きながら笑った。
「わからない?ハハッ、いやいやわかるだろ。お前やシラハが拒否したってアユムが無理にでもここに住まわせるぜ、絶対。」
「そ……そうなんですか」
よくわからないが、偉く気に入られているようだ。
「僕、何かしましたかね?」
「お前が知らなくて誰が知ってるってんだよ。」
鼻から息を抜くように笑うと、ジンヤはマヒルの横に並んだ。
「……。」
「……。」
二人して、何をするでもなく青い地平線を眺める。
いくら先へと目を凝らしても、慣れ親しんだ列島は塵ほどにも確認できない。
今更ながら、偉く遠い場所に行き着いた物である。
距離的にも、次元的にも。
「なんだか……」
「ん?」
しみじみとしたものは、短いため息で吐き出した。
「いいえ。で、これからジンヤさんは……」
「ジンでいい。発音がメンド臭いだろ、ジンヤって。それに、噛んだら『爺や』っぽく聞こえるし。」
「ジンさん。」
「……やっぱり『さん』か。」
「すみません……生まれてこのかたの癖ですから。」
別段と気にする様子も見せず、ジンヤはマヒルの頭を軽くかき回した。
「で、ジンさんはこれから予定とかは?」
「ねェよ。今日は一日お前を観察しようと思ってたトコだ。面白そうだしなお前。」
「暇なんですね……ていうか僕なんて見てて面白いもんなんですか?」
「自覚ないんだな……お前。ま、娯楽っつーもんに欠けてんだよ、この島は。」
少し頬を掻くマヒル。
ジンヤに予定があったのならそれに付き合うついでに見学もできただろうが、無いとなればいちいち頼むのも悪い。
「おっまたせー!」
そんなことを考えていると、後ろからパタパタとアユムが駆け寄ってきた。
どうやら白葉からの用事は済ませたらしい。
「あ、アユムさん」
二人で振り向くと、件の笑みを惜しげもなく展開するアユム。
「入学おめでと、マヒル!今日はお祝いだね。」
「お祝いなんて悪いですよ。ていうか、僕なんて押し掛けてきただけですから。」
正確には強制連行、所謂『拉致』されたのだが。
「まあまあ。」
その点も踏まえてか、ニヤニヤとマヒルの肩を揉むとそのまま寮の一階玄関へと進める。
「え、何か用事でも?」
不思議そうな顔をするマヒルに、アユムは大きく頷く。
「そりゃあまあ、いっぱいあるよ。
まさか手ぶらじゃ講義にならないし、本来なら事前に魔法やこの学校にについてある程度知識つけてなきゃいけないからね。」
「うわ……」
国数英社理と、勉強は苦手でなかったが、それが魔法となればさっぱりなのだ。
しかしアユムはにこにこ肩を叩く。
「大丈夫!私成績いいし、ていうか卒業に必要な単位は全部とってあるから教える時間もたっぷりあるよ。」
この学園においての単位システムが分からないので何とも言えないが、その点は心配しなくてもよいということらしい。
「じゃあ、地下室いこうか」
「地下室って……そんなものあるんですか、このアパート。」
「寮なんだって。」
後ろに続くジンヤの指摘を聞きながら、マヒルは寮一階にある階段を下った。
掃除が行き届いていないのか、空気が少し埃っぽい。
この寮には掃除好きはいないらしい。
「暗いですね」
「明かりついてないからね。大丈夫、もうすぐ部屋だから。」
言っているうちに、本当に扉へと行き着いた。
しかし、ノブを捻ったアユムが首を傾げる。
「……あれ、鍵かかってる。ユウキちゃんいないのかな?珍しい。」
そんなことを呟きながら、扉の横にあった電卓みたいなパネルを操作して解錠した。
扉を開くと、アユムが手探りで壁のスイッチを探し当てる。
パチパチと壁を弾くようにスイッチを入れると、部屋の電灯が点った。
「わあ……」
ちなみに、今マヒルの口から出た『わあ……』の感心ベクトルは限りなく負の方向を向いている。
ごちゃごちゃと工具やら金属片やら分からないものが散乱した部屋が、そこに広がっていた。
更にその奥には、作業台や資料の詰まった棚、デスクトップパソコンからその他見慣れない機器までがところ狭しと設置されている。
一言で言えば『散らかしっぱなしの倉庫』だった。
アユムが部屋の中央に躍り出て、くるりと回って見せた。
「ようこそ、白葉寮地下室へ~!」
マヒル一人がパチパチと拍手すると、後ろからジンヤが「気にせず入れと」背中を押した。
ジンヤが倒れていた椅子を立たせ、ぎしりと腰を下ろす。
それにならってマヒルも転がっていた椅子へ座ると、アユムが何処からともなくホワイトボードを転がしてきた。
「授業する気満々みたいですけど、ジンさんも受けるんですか?」
「暇だしな。」
「はいはい、そこおしゃべりしない!」
一言二言交わしていると、白板をカンカン叩く音。
これまた何処から出したか、眼鏡をかけたアユムが水性ペンのキャップを外していた。
「アユム先生の魔法学基礎講座~!」
今回は拍手の音が無かった。
気にせず、アユムはペンを握る。
マヒルは隣に耳打ち。
「あれ……伊達ですかね。」
「ああ。あいつ、視力2.0だとよ。」
「え、なんかとってもいい方……。」
随分機嫌が良さそうなアユムが白板に向かったところで互いに耳を寄せう。
白板の左上に何かを書いたアユムが、振り向き様に言う。
「まずは、これ!」
『魔法』というその文字へ、赤いペンで下線を引いた。
「魔法っていうのが、そもそも何か。基礎概念から説明しますっ」
まずは、白板に大きく『天の公式』と書く。
「この世の全てには『天の公式』というものが働いています。
天の公式とは、この世に存在する物全ての根元に存在する法則であり、まあ、物理法則とかその他もろもろを含めたものを示す、魔法学用語です。
この世にある物質、現象はひとつ残らず、この公式から外れることはてできません。」
その文字の周りに簡略化した人や花や炎、星まで書き込み、ぐるりと黒い線の円で覆った。
「つまり、この世界のルールみたいなものだよ。
……ところが、」
その外にキュッキュと『魔力』という文字を書き加え、赤いペンでぐるりと囲う。
「魔力、このエネルギーだけが唯一その干渉を受けることがありません。
魔力っていうのは、植物や動物、私たち人間とか『生命体』の内部でのみ生み出される力だよ。この世の法則が全く通用しないぶんまだ謎が多いんだけどね。
それを利用するのが……」
赤いペンの囲いから黒い囲いへ太い矢印を伸ばし、その矢印に『魔法』と書き込んだ。
「魔法。魔力を利用して、天の公式に干渉されない超現象をこの世に具現化する。それが魔法だよ。」
「はい……」
何となく頷くマヒル。
ちなみにジンヤは、部屋の天井の一番端の方にある蛍光灯が晩年を迎えつつあるのをぼおっと眺めていた。
「さて、ここまで理解できたら。実際に魔法とはどんなものかについて説明するよ?」
白板を反転させると、赤、青、黒の三色のペンを持つ。
「『魔力を利用する』って言ったけどね。
具体的にどうやって利用するかというと……まあ、たぶんマヒルが想像してることと同じかな?」
「呪文を唱えたり……印を結んだり……怪しげな薬を煮詰めたり……ですか?」
「そう!
文字、文章や特定の印を使ったり、供物を使って、魔力に形を持たせるんだよ。こういう行程を『儀式』と言います。
『儀式』を行い、その型に魔力を流し込み具現化する……それが主な魔法発動の手順。」
説明しながら、白板へと黒いペンで書き込む。
白板の中央にたて線を引き、右側へ『古典魔法』と書いた。
「ちなみに、今マヒルが言ったような行程を踏む昔ながらの魔法を『古典魔法』って言うんだよ?」
「古典魔法……ですか」
「うん。
でもね、この『儀式』っていうのが凄く面倒なんだよね。例えば……」
アユムはポケットから携帯端末を取り出すと、その画面を見ながら白板に何かを書き写し始めた。
見慣れない文字の列と、奇妙な円やその他の図形を重ねたような物を苦労して書き終えると、トンと白板をつついた。
「これは簡単な『発火魔法』。拳大の火の玉を出す魔法の儀式。
全四百六発音と、魔法発動の基点となる印を発動地点に書き込む必要があるの。ちなみにもっと大きい火の玉にしたかったら、あと三百五文字の追加と、印にも少し書き換えの必要が出てくる。持続させるには更に四百文字前後の補助式を唱えなきゃいけないの。」
「……それって……」
「うん。拳銃の引き金を引く方が遥かに簡単で強力。
だから先人は考えました。『もっと楽に魔法が使えないか……』ってね。そこで誕生したのが……」
『現代魔法』
アユムは白板の左側にそう書き込んだ。
「展開が面倒くさいとは言え、魔法にはかなり強力なものがちらほら存在していたからね。
当時はそんな強力な魔法を演算機、要はコンピュータの中で再現することでデータを取ってたんだって。だからこの時期には魔法と共にデジタル処理技術もかなり向上してたらしいよ。
そこで誰かが思い付きました、『そうだ、魔法の儀式だってコンピュータにやってもらえばいい!』って。そこで誕生したのが現代魔法。科学と魔法の融合だよ。」
「魔法と科学……ですか?」
マヒルの脳内に浮かんだのは、黒い魔女帽を被った不思議なポッケの某家庭用猫型ロボットだった。
いや、まさか。
我ながら苦笑い物の発想だ。
「……コンピュータにやってもらうって言っても具体的には?」
「そこだよ。では問題!そのコンピュータの得意技とは何?……ジンヤくん!」
「……っ、んあ?」
こくりこくりと船を漕いでいたジンヤが背筋を跳ねさせた。
「……ふぁ……んな言うまでもねェ。演算機なんだから、計算に決まってんだろ。」
「そう、その通り!」
アユムは現代魔法の枠に『数式』と書き込んだ。
「コンピュータは考えるのは苦手でも、記憶と数式処理に関しては天才です!だから、儀式を数式化して覚え込ませれば、ほんのコンマ数秒で仕事をこなしてしまいます。」
「それがこれ!」と、アユムは何かを取り出した。
「え?」
一瞬何を出されたのか分からなかった。
アユムが手のひらを差し出しているが、ただそれだけで何も見えない。
「えと……実は実体がありませんとかですか?」
「違う違う、ほら、寄ってきてよく見て、ね?ね?」
言われるままに顔を寄せると、その手の中には米粒サイズの黒っぽい立方体が乗っていた。
「……時々砂の中に混じってる黒くてキラキラした鉱石っぽいのが見えます。」
「いや、砂場遊び楽しかったねとかじゃないよ……確かにちっちゃい頃『宝石の欠片だ!』とか騒いで拾う男子いたけど……。
これが、現代魔法を支える重要アイテムのひとつ『デバイス』、魔術式記録媒体。」
「まじゅつしき……えと何ですって?」
「面倒だよね?でもテストに出るから、きちんと覚えなきゃ」
『魔術式記録媒体』
アユムが漢文めいた厳めしい名称を白板に書く。
「宝石の欠片なんかよりずっと高価なんだよ?
分解、数式化した魔法の儀式を高速で再構築、展開。使用者に代わって儀式を超高速で行ってくれる電子機器。まあ使って見せれば早いかな」
そう言うと、手のひらの上のデバイスに向かって指を向けた。
「音声認識、再構築」
すると、手のひらの上に青白い魔方陣が展開された。
「わ……」
「これに魔力を注げば……?」
ぼっ
アユムの手の中に小さな火の玉が現れた。
その火の玉はアユムの手のひらの上でゆらゆら揺れると十秒程で消失した。
「再構築、展開、充填、発動、終了。この一連の流れがデバイスには記録されてるの。
発動命令の入力があると、この流れが自動的に始まるって訳。」
「へえ……」
「ちなみにこれもテストに出るから。」
ノートを持参してくるべきだったと思うマヒルだった。
「ただ、このデバイスには弱点があります。」
「細かいから紛失しやすいとかですか?」
「……まあ、それもあるけど……。」
アユムは思い出した様にデバイスを確認し、ポケットから取り出した保管ケースに仕舞った。
「『一連の流れが記録されてる』って言ったよね。それは便利である一方で、融通が利かないっていう面もあるんだよ。」
「融通が利かない……。」
マヒルの思考に再び件の青狸が乱入してくる。
「例えば、今のデバイスだけど。
あのデバイスで発動出来るのはあの魔法だけなんだよ。
あの火力で、あの効果時間。それが記録内容であるから、それ以上のこともそれ以下のこともできない。要は、『引き金を引いたら真っ直ぐ弾が飛び出す』っていう銃とそうそう変わらないんだよ。所詮、デバイスも機械でしかないから。」
「確かに……。」
それなら、訓練すれば誰にだって操作できる戦車や戦闘機や核ミサイルだってあるのだから魔法にこだわる理由は無くなる。
「やっぱり機械と人間との間の壁は高いんだよね。
人間は自由だけど遅い、機械は早いけど融通が利かない。そこである人が思い付きました。
『機械と人間を繋ぐ物を作れはしないか』と。そこで……」
また何かを取り出すアユム。
今度は指環のようだった。
白い二つの指環をチェーンの様な物で繋いだ装飾品だ。
「可愛いですね」
「えへへ……じゃなくて。
これぞ人類の英知の結晶!今や魔法のみならずあらゆる分野への応用が期待される、電子機器と人類を繋ぐ架け橋!脳波による直感的入力を可能にした夢の装置なのだ!」
「ああ……」
何となく聞いたことのある話だ。
「人体を流れてる微弱な電流とかをどうだか……っていうアレですよね?えと……なんとかギア?」
「『ホワイトギア・システム』……白い歯車」
「そう、それです!確か、実験段階を終えて、もうしばらくすれば一般使用も可能になるっていう。」
「うん。だけど、現代魔法においては一足先に取り入れちゃってるんだ。ていうか、ここでの使用データを基に一般化を目指してるんだけどね。」
その指環を装着しながらアユムは言う。
「これはそのホワイトギア・システムを使用した『ドライバ』って呼ばれる装置だよ。正式名称、魔術式記録媒体操作補助装置。」
「……生麦生米生卵?」
舌は回るが目も回る。
「書いとくから覚えてね?」
「これもテストに……」
「出るよ。」
「……はい」
指環を着けた手で白板に向かいながら説明を進めるアユム。
「『人の意思を電気信号化する』。その技術を応用することで、魔法は進化を遂げました。
こんな感じで……」
指をパチンとならすと、その手もとに印が現れ、あのビルで使っていた魔動機、白塗りの短機関銃が飛び出してきた。
「『フラッシュ』連鎖発動『マイン』!」
頭上に向かってその引き金を引くと、魔力の弾丸が放たれ、中空で印に変化した。
その印が強く光ったと思うと、小規模な花火の様にパンっと炸裂した。
「今のは、熱エネルギーを撃ち出す魔動機から、相手の目を眩ませる光を放つ『閃光魔法』と対象を炸裂される『爆破魔法』を重ねた印を威力を調節して射出、頭の上で発動したんだよ。
メカニズム的には、私の意思をドライバが感知して、組み込まれた各デバイスに伝達。それぞれのデバイスが処理した儀式をドライバが用途に合った物へと自動的に書き換えて展開したの。」
「つまり?」
「デバイスをより複雑に、状況に合ったように使用することを可能にしたの。」
アユムが指環を外すと、魔動機の銃は消えた。
「とにかく、デバイスを搭載したドライバは現代魔法、特に私たちの『実戦魔法学部』では必需品ってこと。
たぶんマヒルもこの学部になるだろうから、一緒に用意しようね?私が手伝ってあげる!」
「はい……たすかります。」
熱心に板書を見つめながら、マヒルは半分空返事で頷いていた。
どうやら今回の授業の内容を頭に詰め込むのに必死な様だ。
少し面白くないといった様子のアユム。
「ま、細かい操作とか、魔法の種類とかもあるけど、それはこれからだね。」
「……この段階ですでに不安なのですが。」
「大丈夫大丈夫!マヒルならできるできる!」
頭上で消えかかる蛍光灯が何処か不安げである。
アユムの根拠のない確信に満ちた励ましと、その屈託のない笑顔に頭を掻くマヒルだった。
「ふわぁ~……。」
そこでジンヤが自分に注意を引くように大きく欠伸して見せる。
アユムがペンを置くと、彼は目を擦った。
「アユ、話はもう終わりでいいだろ。
今日で済ませること色々あんじゃねェのか?」
「あ、そか。」
ホワイトボードを部屋のすみに片付けると、ポンと手を打った。
急々と壁際のデスクトップパソコンを起動させ、その間に端々から色々な道具を集めてくる。
そんな姿を見ながら、マヒルはまばたきをする。
「今更ですけど、なんだか凄く散らかってますね。」
「ああ。この部屋の住人、変人だかんな。」
「え、ここに住んでるんですか?誰かが?」
「まあな」
「まあな、って……」
薄く埃の被った床、天井のはしっこには古くなって垂れ下がった蜘蛛の巣、いつ交換したか分からない所々切れている蛍光灯。
どうしても人が頻繁に出入りしている様には見えない。
「……古から伝わる蔵妖怪だったりするんですか、その方は?」
「ああ間違いはねェ。」
「本当に何でもいますね、この島には。」
驚くのも疲れてただただ呆れる雛由マヒル。
「はい、オッケー。」
と、そこにアユムが何かを持って現れた。
「いや……こうも散らかってると探すのも一苦労だよ。その内大掃除とかしなきゃだね。」
腕を通すと思われる穴が空いたその機械は、病院で見掛ける旧式の血圧計にも見える。
埃が薄く積もって膜になっているのが不気味だ。
「……僕、別に病気持ってたりしませんよ?」
「違う違う。まあ腕を通してこれ握って。大きく深呼吸して、リラックス……。」
「……はい」
少々不安だ。
得体の知れない機器に腕を通すのは、まるで蛇の巣穴に手を突っ込むようで、汗を吸ったシャツが胸に貼り付く。
小児科の待合室で予防接種の順番を待っている五歳児のような顔で深呼吸をすると、機械に腕を通した。
「オッケー。じゃあ行くよ?ビリってしても驚かないでね?」
「ビリっ、て……え?」
聞き捨てならない擬音。
「ちょ……何するんですか?ねえ?」
「まあまあ。」
アユムは笑顔でマヒルの肩を叩くと、謎の機械をパソコンに繋いだ。
そして、キーボードを叩く。
「せーの」
「わっ!?」
腕に電気が走ったかなような微弱な痺れがして、一瞬で止んだ。
それが終わると、機械がピピピピと細かい音を発する。
「な、何したんですか、すっごい鳴ってますよ?ものすごく不安なんですけど?」
「大丈夫、ちょっとした魔力値検査だから。」
「まりょ……って言われても更にわからないんですが」
言っている内に、機械からピーという長い音が吐き出して、それっきりうんともすんとも言わなくなった。
「いいよ、もう」
「……。」
とにかく体に害を為すようなことではないらしいことは分かった。
マヒルはさっさと腕を機械から外すと、痺れた箇所を摩る。
外傷も無ければ違和感もないのが気になる所だ。
「はいはい、大丈夫だからもう次行こう!」
そんなマヒルの背中をアユムがくいぐいと押した。
まるでおもちゃ屋に来た五歳児だ。
「は、はい。ていうか次は何処に?」
「うーんそうだな……。」
忙しく階段を上らせて、寮から押し出す様にして誘導するアユム。
再び夏の日の下に出でると、早口言葉の如く捲し立てた。
「本校舎の事務室で教科書発注してもらって、ついでに制服の採寸と注文も済ませて、寮に入れてもらう手続きもして、それからそれから……」
「あの……」
暑さのせいか、はたまた全く別の理由があってか、汗まみれのマヒルが小さく挙手していた。
「それ、全部今日で済ませるんですか?」
すると、アユムはにっこり笑った。
このタイミングが酷く嫌である。
「of course !」
少女はマヒルの手を取り、駆け出した。
車通り皆無の道をエネルギッシュに蹴るスニーカー。
整備不良感満載の雑木林の疎らな景色が吹っ飛んでいく。
「……っ」
ため息は疾走中の呼吸に掻き消された。
これは嫌でも見学を強いられることになりそうだ。
初日からの消費カロリーの多さに驚く暇もない貧乏少年、雛由マヒル。
だが、それでも、日はまだ高いのである。