貧乏少年の裏口入学1
「……」
現金を引き出すコンビニATMの前で、少年は固まっていた。
残高を示す枠に収まる空白の中で、『0』の数字が異様な存在感を放っている。
「……え?……いや、そんな……まさかまさか」
少年は目を擦ると、再び画面を見つめる。
だが、無情にも『0』は『0』のままであり、目を擦った所で変わることはない。
まさか、悪い冗談か?
しかし、残念ながら日本の現金自動預け払い機にそんな小生意気な機能は備わっていない。
常日頃お世話になっている分の安心と信頼が寒気を誘った。
今月の生活費。
それどころか全財産が消えていた。
びた一文残らず『消えていた』のである。
「う、嘘だ……」
迫り来る混乱、混沌。
それに対する防衛本能。
目がぐるぐると渦を巻いて、少年はパタンと倒れた。
詐欺であった。
かなりたちの悪い詐欺であった。
その人柄故に、心当たりがひとつふたつなどでは済まない少年だったが、恐らくと思い当たった物が幾つかある。
ひとつが、『奨学金返済』の肩代わりをしてくれるらしいどこかの慈善団体(自称)。
思えば、この『(自称)』の部分が恐ろしく怪しかったのだが、嘆いても遅い。
色々あったが故に児童養護施設で育ち、色々あったが故に高校入学と共に施設を出て奨学金を借り、色々あったが故に即退学を食らってしまった彼。
夢の高校生活は一瞬で夏の夜の夢と化したが、借りた金は返す他あるまい。
ということで、ハンデを抱えつつも持ち前のスキルで奨学金完済を目指していた。
だが、この『奨学金返済』の手続きというものが世を知らない少年にとっては少々小難しく、不安だ。
そんな事で頭を掻いていた少年だったが、ここで救世主が現れる。
今になってはそれはただの張りぼて、寧ろ悪魔の仕掛けたブービートラップだったのだが。
前記の通り、奨学金の返済手続きを引き受けてくれるという連中が現れたのである。
人を疑うことを知らない少年は、迷いなく、いっそ清々しくなるほどに引っ掛かった。
見事に少ない懐を晒し、仕舞いには銀行口座の情報までも漏らしてしまった。
その結果がこれ、文無しである。
否、これがただの文無しで済んだのならまだ良かった。
後日、すっからかんの少年の元に、ある者が訪ねてきた。
当時借りていたアパートの一室に押し入ってきたのは、見るからに危険臭漂う派手なスーツの男たち。
何でも「おたくに金を借してる者」だとか。
どうやら口座を空にされた処か、こんな危なそうな連中とも契約させられていたらしい。
いや、他にも心当たりがあるので全く別口という線も十分考えられるのだが。
話を聞くには、彼らは返済期限ぎりぎりの借用書を叩きつけてくるではないか。
その場で返せる訳もなく焦っていると、彼らは別の融資機関を紹介してきた。
彼らが言うには『ここでもう一度金を借りて、ここへ返せ』ということらしい。
『妙な提案だ』とも思ったが、細かい内容を見て少年は納得する。
これがまた酷い高利子なのである。
しかし、他に金を用意できる伝もなく、今している借金の返済期限を切ってしまえばその金額は民法アウトゾーンレベルまではねあがるという狙い済ましたようなシステム。
こうなると、やむを得ない。
少年は新たな契約書にサインをした。
かくして、借金が借金を増やし、そしてまた借金。
終わらない負のスパイラルが始まったのだ。
齢にして当時十六の少年に、容赦という言葉を知らない世の中である。
結果、奨学金返済どころか目が飛び出すような額の借金と、謎の『生命保険』まで背負うことになった少年は、件の危ない連中から逃げ回りつつバイトに明け暮れていたのである。
減らないどころか、なぜか増える負債。
借金取りから逃げるために定期的に移動しなければならないため、決まった仕事は持てない。
そもそも児童養護施設出身で中卒などと言う、見るからにアブノーマルなプロフィールのやつを雇いたがる職も希だ。
雛由マヒルでなければ、確実に野垂れ死んでいたような人生を、他でもない雛由マヒルは歩んできたのである。
そして本日、その雛由マヒルは一番給料の良かった自転車便のバイトをクビになるような、そんな馬鹿な真似をやらかした次第であり……
「はっ……!?」
頭の上をもぞもぞ這う違和感で目が覚めた。
不愉快だ。
非常に不愉快だ。
その違和感に対しての感情というよりも、先程まで見ていたと思われる嫌に具体的な悪夢が原因だろう。
思わずむくれっ面になると、ちょうど自分の顔を覗き込んでいた誰かが目に入った。
「……あ」
お人形のような可愛らしい美少女。
一言でいうと、それだった。
緩やかにカーブした亜麻色の髪が肩から溢れ、その甘い香りがマヒルの鼻先をくすぐっている。
目尻の角度が少々垂れ目がちな気弱そうな大きな瞳が、興味津々でこちらをじっと見つめていた。
新雪の如く白く透き通るような頬は、人形などではなく本物の人間であると主張するようにほんのり血色を称えている。
「……。」
年齢はマヒルよりも一つ二つ下か、もしくはもっとか、という程に見える。
そんな子が、マヒルのきれいな銀髪を指に取り、非常に興味深そうに遊ばせていた。
「……きれい」
どうやら、マヒルが目覚めていることには気がついていないらしい。
髪を弄られたまま、どうしようもなくそのままでいるマヒル。
はてさて、どうしたものか。
「……あ、あのー」
困ったマヒルは声をかける。
すると、少女の背筋がビクンと跳ねた。
「ふゆっ……!?」
「イタッ!?」
お陰で髪の毛を数本、ぶちぶち持って行かれた。
それに気が付いたのか、少女は両手をわなわなと握り会わせて後ずさる。
「ごごご……ごめんなさい!……その……今のは……ああっあの……!」
舌が絡まってしまったような声で言いながら後ずさり続けて、コツンと後ろの壁に激突。
それに驚いてまた飛び上がる。
「ひゆううう!?」
「あ……あー。」
まるで森の中で狼と遭遇した兎だ。
「え……いや……」
「ちちがうですちがうんです!これは……遊んでたんじゃなくて……はわわっ!!」
大きな目いっぱいに涙を溜めると、完全なパニック状態で「ごめんなさーい!」と言いながら部屋のドアに向かって飛んでいってしまった。
バタンとドアが閉まり、跡には彼女の温もりと香りだけが残された。
「……。」
あまり急展開すぎて、寝起きの頭では処理しきれていない部分が多い。
なんというか、その雰囲気といい退場の素早さといい、穏やかでいて儚げな春風のような子だった。
だとすれば、追うのはまた不粋。
「……うん……んん」
無理矢理な解釈の後、大きく伸びをして身体中の筋肉を解した。
血行が良くなると、脳みそも少しはましな働きを見せる。
空調がかかっているのか、心地よい室温。
体にかけられたシーツが落ちて、自分の物ではない肌着が見えた。
借り物のようだが。
更に辺りを見渡す。
広さにして目測六畳そこらの部屋。
その隅にあるふかふかのベッド上。
薄いピンク色の枕。
壁沿いの棚に入ったたくさんの本やらファイルやらノートの類い。
先程の少女が座っていたキャスター椅子が側にあり、元の配置場所と思われる机も見える。
その上には起動したまま画面が落とされているデスクトップパソコンが乗っていて、外部接続用のコードが何本か伸びていた。
他にも、その横には別のノートパソコンまで置かれている。
設備から見るに、IT系の内職でもしているのかと想像される。
そんな内装を眺めながら、マヒルは思った。
『ああ、女の子の部屋か。』と。
インテリアやその他の配置から考えた部分もあるが、それ抜きでも直ぐに分かる。
匂いだ。
別に、芳香剤や香水の類いが酷使されている訳でもなく、どちらかといえば無臭とも言える空間。
だが、生まれつき五感が鋭いマヒルの鼻にかかれば大体分かるのだ。
それに、空気を嗅がずとも、ここには『枕』という情報の宝庫も有るわけでーー
そこで思考を中断。
これ以上はマナーに関わる。
だとしたら、ここはさっき逃げて行った彼女の部屋かと考えるマヒル。
だが、その考えも数秒で消えた。
寝起きだったがあの子の匂いは鮮明に覚えている。
どちらもまた男子としては魅惑の香りに違いないが、確かに違った。
では、一体誰の部屋だろうか。
何処か記憶の端々をつつくような匂いだが
そこで突然、ドアが開いた。
「コマちゃんごめーん!黒ごまプリン売り切れちゃってて、普通のしかなかったよぉ……でも、まあコマちゃん普通のも好きでしょ?
じゃあ、交代してプリンタイム……ってあれ?」
ビニール袋片手に入ってきたのは、先程の少女とは別の少女。
その顔には見覚えがあった。
「あ……あのビルの?」
そう、あの爆発したビルでお世話になったあの魔術師である。
部屋をキョロキョロと見回していたその少女は、体を起こしたマヒルを見つけると瞬きをした。
「あれ、マヒル……マヒル!?」
「はい雛由マヒルです……って!?」
神速だった。
恐らくプリンが入っているのであろうビニール袋を放り出した彼女は、ベッドに横たわるマヒル目掛けて突っ込んできたのだ。
「まっひるーーん!!」
「うぐぇぇ!?」
突然の熱い抱擁など、受け身になれば、加えてそこまで親密な間柄でもなければもはや攻撃である。
その場合、防御反応として出るのはやはり奇声である。
「うぅぅーんっ、よかったよかった!」
気を失っている内にずいぶんと距離が縮んだもんである。
首へとがっちり腕を回されて、容赦なく頬擦りをされた。
「もうっ!?心配したんだから私っ!でも許すっ、許しちゃうもんね!こうやって起きてくれるだけでも十分!まひるまひるっ!」
「あ……ハイ、マヒルですけど……首が……」
「もう、そんないけずしないっ!据え膳食わぬはなんとやら!」
「……食う前に食われてるんですが……ッ!?
……ていうか……た、タップ!タップ!」
そんな風に、少女の攻撃に耐えること数分。
やっと治まった少女は「ふう」と一息ついてキャスター椅子に座った。
「改めて……。おはよ、マヒル」
「お、おはようございマス……」
そんな意識はなくとも、返事に警戒色が滲むのは不可抗力であると弁明したい。
それでも気にしていない様子で、少女はにこにこと、言い換えるならニタニタと微笑んでいる。
「あれからもう丸一日は寝てたんだよ?体、平気?」
『あれ』というのは、恐らくあのビル爆発騒ぎの下りだろう。
マヒルは肩を回す。
「ハイ。軽くお腹が空いてたりしますけど、特に異常ないみたいです。」
「そう、よかった」
少女は容器のなかで粉砕したプリンと共にビニール袋に入っていたミネラルウォーターを取り出すと、こちらに差し出してきた。
「たぶん常温に戻ってるから、ゆっくり飲んでね?」
「ありがとうございます……」
言葉通り、本当にありがたかった。
適度にひんやりとした水分は、渇いた体に染み渡るようだ。
目を細めるマヒルの顔を見ながら、彼女は自己紹介を始めた。
「私はアユム。愛沢アユムだよ。よろしく」
少女はにこりと笑った。
随分と元気に笑う少女である。
「愛沢さん……助けてくれてありがとうございます。」
「ア・ユ・ム」
「え?」
マヒルが首を傾げると、アユムはその鼻先にちょんと人差し指を乗せた。
「『アユム』って、下の名前で呼んで欲しいな。
ほら、私たちたぶん同い年だし。私だって『マヒル』でしょ?」
「じゃあ、アユムさん」
「さん付けか……まだ壁が高いなぁ……。」
「え?」
「ううん、こっちの話。」
首を振ると、アユムは座った膝の上に手を置いた。
「でも、キミも運が悪いね。まさかあんな事件に巻き込まれるなんて」
「『事件』……って、結局あれは何だったんですか?ただのガス漏れとかってレベルじゃないですよね、やっぱり。」
「うん、テロだよ。」
その二文字に、マヒルは凍結する。
「テロ……テロって……あのテロですか?」
「うん、たぶんそのテロ。」
「……うそぉ……」
今更ながら寒気が走った。
それの様子に少々驚くアユム。
「知らないで入ってきたんだ……。
あのビルに、雑誌を出版してる会社が入ってたみたいなんだけど……けっこう有名な雑誌のね。その記事に腹を立てた組織があったらしくて。」
『組織』
この場合の指す組織とは、恐らく非公認魔術師によって構成された反社会的組織の事だろう。
「そういう組織のすることと言ったら、やっぱりひとつだよね。
問答無用でゴーレムを放ったってわけ。」
「……そんなところに僕はのこのこ顔出しに言ったわけですか。」
「うん……まあ、人助けはイイコトだよ……?」
同情するように言うアユム。
少女は、その後の事を淡々と話していった。
自分はあの現場でアユムともども魔力切れを起こして倒れたということ。
ちょうどその時到着したアユムの仲間に助けられたこと。
本来なら病院に運び込まれるはずだったマヒルを、アユムが独断で自らの部屋に運んだこと。
「じゃあ、ここは?」
「私の部屋だよ。」
マヒルは改めて部屋を見渡す。
「いいお部屋ですね」
「またまたお世辞をー……。もっと女の子らしい部屋とか期待してたんじゃない?」
「いえいえ。きちんと機能してるじゃないですか。ほら、冷房もきちんと効きますし。窓もきっちり閉まるじゃないですか。雨漏りとかすきま風とか気にしなくて良いなんて、理想郷だと思います。」
平和な笑顔で言ったマヒルに、アユムの表情がひきつった。
「ああ……そういえば、そうだったね……」
「え?……ああ、はい。まあ、お恥ずかしながら……。」
どうやら、こちらの事情に対しては調べが進んでいたらしい。
「ところで、マヒル。ご両親とかは?親戚とか、兄弟とかはいるの?」
「いえ。いつぞや死んだとは聞きましたが、真偽のほどは」
「真偽のほどは、って……?」
「さあ?こんなご時世ですから……まあ子供が養えなくて逃げ出す親だっていますよ。別に珍しくもなければ、恨もうとも思ってません。」
「あ……なんかまずいこと聞いちゃったかな……?」
「いえいえ、気にしたことありませんから」
言葉通り、愛想の良い笑顔は全く動じなかった。
「少しは気にしろよ」とは言われなかった。
「じゃあ、マヒルは一人で暮らしてるの?」
「他に身寄りもありませんから……各地を転々とその日暮らしで。そもそも今の状態じゃ、血縁者がいても名乗り出てくれませんよ?きっと。」
「え?」
「あ、いや、実はかなり負債を抱えてて……」
アユムはきょとんとした顔になった。
どうやら、『負債』という単語に引っ掛かったようだ。
「フサイ?」
「はい。」
「フサイって……借金だよね?」
どうやら、この年の少年の口から出たこの言葉に違和感を覚えているらしい。
「そうですね……若い内から酷いもんですよ、えへへ」
自嘲するマヒルに、アユムはまだ分からないような顔で質問を重ねた。
「いくらなの?その借金。まさか、キミぐらいの年で借りれるお金なんてたかが知れてるだろうし。」
「ええと……ごにょごにょ」
うんうん、と頷いていたアユムだったが、その表情が一気に凍った。
「……え、それ……冗談だよね……」
「冗談だったら簀巻で港に沈んでやっても良いですよ。」
「……う、うそ……」
冗談で切り抜けようと思ったが、流石に額が額だったため不発、それどころか反ってドン退かれた。
「そ……それは大変だね……あはは」
「あの、じゃあ、僕から質問してもいいですか?」
この話を引きずるのも居心地が悪かったので、マヒルは敢えて挙手する。
「なに?」
「ここって、どこですか?」
「私の部屋だよ?」
「いや、それは分かるんですけど……正確にはニホンのどの辺ですかね……?」
すると、アユムは意地悪でもするようににたりと笑った。
どうやら、何か特殊な場所であることは確かな様だ。
「う……ん。国有地ではあるから……所在は首都かな?」
「首都?」
マヒルは、カーテンの開いた窓の外を見た。
舗装された道路や手がつけられていない林がまばらに見えるが、その向こうにはかなり近い距離に青い海が見える。
首都部で海の近く。
しかもこの緑と合わせ、こんなにきれいに見えるとなればかなり絞られるはずだ。
地理には詳しい自信のあるマヒルだが、該当する土地名が上がらない。
「えっと……これ、本当に列島に属してるんですかね?」
「ん?うーん……」
何処か芝居じみた仕草で唇を尖らせると、顎に指を当てた。
「属してませーん」
「え?」
雛由マヒル、海を跨いだ模様。
悪い汗が背中を流れるのが分かる。
「あの……そろそろ教えてもらっていいですか?」
「うん、いいよ」
アユムはすっきりした笑みを浮かべると、やっと言った。
「太平洋沖に浮かぶは、政府所有の大型人工島!
魔力の才能が有る者のみがその門を潜れる超難関!みんなの憧れ国家認定魔術師への第一歩、全国四つの国家認定魔術師育成機関、通称『魔法学園』のうちの一つ!!
海上学園都市『第五白波学園』なのだーー!!」
エコー
エコー
最初は顎が外れるかと思うほどびっくりしたが、成る程、数秒で合点がいった。
『魔法学園』
一般教育科とは別物であり、中等部を卒業した魔力の才能のある少年少女、つまりは魔法の使える見込みのある者のみが入学を許される国立の教育機関。
現在全国に四校存在し、『魔法』という技術の研究、教育を目的としている。
生徒を育成する教育機関としては、最終的に公的に魔法及びそれに属する技術の使用が許可される『国家認定魔術師』としてのライセンス取得目指している。
聞くところによれば、ここはその四校の内の『第五白波学園』。
『海上学園都市』とも呼ばれる人工島だ。
なぜ四校しか存在しないのに第五があるのかはマヒルは知らないし、そもそも何処かのチラシで見た知識程度しか持ち合わせていないのも事実だ。
だが、一つ分かることがある。
国内においての魔法技術を扱う教育機関の中では、ここ『海上学園都市』が最もレベルが高い。
「実際にライセンスを持ってる魔術師の教員はもちろん、実戦で使うような魔動機や魔力人形も、古典魔術で使う魔導器も、あと実験で使う魔法金属やレーティングの低い魔獣とかも。魔法関係ならだいたいなんでもある夢いっぱいの島だね。」
「本当、いっぱいありすぎて悪夢も混じってますね……」
冗談まじりに笑うアユムだが、正直ゴーレム絡みの件に関してはトラウマになりつつある少年である。
「まあ……つまりは、僕が思ってた『魔法の学校』からはそうそう離れてないと言うわけですよね……。」
どこか疲れたようにため息をついたが、すんなりと状況を飲み込んでしまった。
この脅かしがいの無さは、生まれつきの素直さゆえでありどうしようもない。
「へー……案外なんでも受け入れちゃうんだね……」
「長生きの秘訣ですよ」
「……あ、うん」
「いえいえ冗談ですって……確かに壮絶な人生送ってきた自覚はありますけど。
でも、また何でたって僕はこんな所に?」
「はいはい、よくぞ聞いてくれました!」
まってましたと笑顔満開で身を乗り出すアユム。
一体何事かと身構えるマヒルの鼻先に、ぴっと人差し指を当てる。
「マヒルをここに入学させるためだよ!」
この場合の『!』はハートマークとも置き換えが可能だろう。
突然の爆弾発言に、マヒルは固まる。
「入学って……あの、入れるに学ぶの入学ですか?この教育機関に生徒として所属するという……」
「そうだよ、やったネ!」
「ネ!って……えええ!?」
「そうそう、そのリアクションが見たかった!」
満足そうに両手をわきわき。
それに対して雛由マヒルは首をぶんぶんと振り回す。
「いや、あの、僕ですよ?
つい先日まで今晩の食事にだって宛のなかった僕ですよ?ちなみにお昼は高確率で抜きですし。
中卒無職、しかも借金まみれのスーパードロッパーですし、それこそ社会的人間的とは程遠い生活のなかで赤貧を洗う暇さえなく居酒屋で皿を洗っていたような……」
「……あのさ、聞いてる私はすごく辛いけど……キミ、よく平気だね。」
「……黙った瞬間からジワジワと惨めさが押し寄せてきました」
今にも目元に隈が浮いてきそうな顔になった貧乏少年の肩をアユムが撫でた。
「とにかくさ、一緒に来てよ。私もここまで連行して来たからにはそう簡単に諦めたりはしないよ?」
「でも……」
「まあまあ、なんなら見学だけでもいいから!」
「ね?」と人懐っこい猫のような笑顔で、少女はマヒルの手を取った。
「ま、そうと決まれば動く他ないよね。
行こ、マヒル!」
「あ……あのー」
ベッドから引きずり落とすような勢いで手を引くアユムに、マヒルは頭を掻いた。
「着替えてもいいですかね……」
「あ。」
「あ……あっち向いててくださいって言ってるじゃないですか……もう」
「まあまあ……ぐひひひひ」
窓から差し込む日を受けて立つ、上半身裸の雛由マヒル。
着替えの真っ最中だ。
そのはりのある肌といい、しなやかな背筋のラインといい、きれいな肩甲骨といい、アユムの唾液分泌は止まらない。
これがマヒルとしては居心地が悪い。
「ぐひひひひって……もうそれ女の子の口から出る笑い方じゃないですよ……」
と言っても、マヒルはそれ以上になにかをするわけではない。
そもそも彼は男なのであえて隠すほどものはない。
だからと言って見せびらかす気もなければ、見られて気分が良くなることもないのだが。
部屋の隅でこそこそと服を着込むマヒルに、アユムは少し頬を膨らませた。
「もう、男なんだからケチケチすることないじゃん?
だいたいジンなんて私が居ようが容赦なく脱ぐよ?この前なんてね、パンツ一枚で頭から水被りながら歩いてたし!もう最悪!アホジン!頭爆発して死ねばいいのに!」
「この島には露出狂までいるんですか……?」
冷や汗の湿り気を頬に感じながら、マヒルはシャツに袖を通した。
ありがたいことに着替えとして出されたのは、前日にマヒルが着ていたものを洗濯した物だった。
あのビルでの騒ぎのなかで、奇跡的に損傷を免れていたらしい。
「でもさ、マヒル」
「はい?」
「なんか……作業着っぽいっていうか……アクション映画の主人公……。」
「……まあ……自分でも時々そう思います。」
肌を守るが、動きを制限しない丈夫なシャツ。
下は、作業着感満載のカーゴパンツである。
「体使う仕事も結構しますし、元々持ってる服も多くはないので雑な洗濯とかハードワークにも耐えうる物ばっかりが残った結果こうなりました。」
「なるほど……。」
見映えなどが削られ、実用性が残った結果らしい。
故に滲み出る謎の玄人感。
「じゃあ、行こうか?」
「行くって、何処にですか?」
マヒルの質問に、アユムは親指を立てた。
「えらい人のトコ。ほら、行こ行こ」
今度こそ手を引かれて、マヒルは部屋を出た。
そのとたんに、外の風がふわりと髪を靡かせる。
扉を出ると長い一本の廊下になっており、自分達が出てきた扉の横にもまた扉が並んでいた。
夏の昼間だが、吹いてくる海風が涼しい。
「昔住んでたアパートに似てます。」
「アパート……ではないかな?学生寮って言うべきかも。」
「学生寮……ですか」
「うん、ここ全寮制だし。ま、学校からは距離あるけど。」
何が楽しいのかにこにこ笑いながら手を引くアユム。
「三階建てで、二階と三階が個人の部屋。今、三階はほぼ無人だけどね。一階には管理人の部屋とか、食堂とか、浴場とかの共用スペースがあるよ。」
「魔法がどうこうって言っても……この辺は普通と同じですね。」
「まあね。ていうか、ここ島で一番ちっちゃいし。本当、他と比べたらボロっちい犬小屋寮だけど。」
マヒルはその言葉にぐるりと辺りを見回す。
景色は抜群だし、手すりはがたつかないし、床は抜けない。
恐らく借金取りの強襲も、気にしなくて済むだろう。
「じゃあ僕が住んでたのは蚤の巣アパートです。」
アユムは聞こえなかったらしく、マヒルの手を引いた。
「さて、じゃあ下に行こっか。」
「下……ですか?」
「うん、管理人室」
床を指差すようにしながら言うアユムに、マヒルは首を傾げた。
「えらい人……ですよね?」
てっきりこの学園の責任者か、そうでないにしろもっと格上な風の人間に会わされるとばかり思っていた。
拍子抜け、とまでは行かないものの、少々残念だ。
それに、そもそも雛由マヒルが寮の管理人なぞに会って何をせいと言うのだろう。
だからと言って、断ることも憚られるためおとなしくついていくマヒルだったのだが、下へと降りる階段に差し掛かった所だった。
「ふい~……あぁ、あぢぃあぢぃ……。」
遭遇した。
頭の上で逆さにしたミネラルウォーターのペットボトル。
流れ落ちる水が染み込み額に張り付いた髪の毛。
そして、裸体。
「……ん?……おう、バカアユ……と、昨日のぽぽげか。」
こちらに気がついた彼は、空のペットボトルをその辺に放り、水を垂らす髪の毛をかき上げた。
びたびたとトランクス一枚で歩くその姿。
いた。
こいつか、露出狂は。