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首都圏最速のバイト1

『人類が魔力という存在に触れてから2世紀半。

 我々はその全容を測り支配するべく、その膨大かつ複雑なエネルギーを数式化、計算することを余儀なくされた。


 云わば、数式処理技術(デジタル)と魔法技術は、共に成長し互いを支え会う兄弟なのである。《現代魔法学》冒頭より抜粋ー』




『魔術師』

 この世にはそう呼ばれる集団が存在する。

 無形のエネルギーである『魔力』を操る術に長け、それを『魔法』として利用する技術を持つ者。

 凡そ何百人に一人、それほどの割合で現れる彼らは、人類社会を瞬く間に発展へと導いた。


 しかし、その力は常に恩恵だけには留まるものではなかった。

 その技量によってはどんな兵器にも劣らない戦力になる。それが『魔法』であり、一人の魔術師の為に滅んだ国も一つや二つでは収まらない。


 故に、彼らの生きる道はいつでも二つに一つだった。


 正義か、悪か。


 その構造は『魔法』という認識が常識と化した現在でも変わりない。

『国家認定魔術師』として国に尽くす身となるか、『魔術犯罪者』として法に裁かれる反逆者となるか。


 だからこそ、彼らの存在は一般人たちにとっては羨望の的であり、時には崇拝の対象であり、畏怖や恐怖の対象でもあった。


 そして同時に、その存在はどこか遠くの世界の話であり、自分達には関係ないものだという認識が強かったのも事実だった。

 いうならば、テレビの中のアイドルか、若しくはそれよりももっと遠くか。

 誰もがそう思っていた。


 無論、当世界にての主人公も例外ではなく、その思想を人並みに抱いていた。



 本日、夏の暑さの鬱陶しい昼、その段階では。


 



 無意味に唸っている職務放棄しかけの空調に腹が立ってくる八月の店内。

 蒸し暑さと、酒臭さと、人体の嫌な熱気。


 恐らく雰囲気作りのために暗く設定されているのかもしれない照明は、こんななかでは小汚なさをさらに主張するだけだ。

 そもそも店内も小汚なければ客はもっと小汚ない。


 流れているBGMはノイズ混じりでどの年代のどのジャンルの曲なのかすら分からず、聞こうにも周りの酔っ払いがうるさくて鼓膜で音の存在を把握するのがやっとだ。


 ここが魔法と科学の融合した世界の物語の主人公の勤め先という事実だけで十分項垂れることが出来るが、重ねて残念ながら、ここはなんと片隅の片隅とはいえばっちり昼間の首都圏なのである。


「はあ……」


 店員の青年は一人、カウンターの向こうでため息をついていた。

 清潔感とは無縁の無精髭と、水槽に腹を見せて浮かんでる金魚みたいな目。そんな風体にこの店のユニフォームであるエプロンが悲劇的に噛み合っていない。


 なんでこんな時間帯からこんなうるさいんだろうか、この店は。

 

「面倒くさ……」


 店の繁盛に対して、お勤めの人間とは思えない思想が頭のなかでぐるぐると行ったり来たりしている。


 もう少し洒落た感じの、微少な危険の香りと大人の色気の味わえる酒場なら、まあ趣味ではなくともこんな気分にはならないだろう。

 だが、違うのである。

 たしかに大人の臭いがむんむんしているではあるが、違うのである。

 これは中年男性の臭いであって、違うのである。


 見ての通り、ここは昼間から成りの悪い酔っ払いどもが押し掛けてくる汚い居酒屋だ。


 都市圏のはしっこ。

 仕事を求めて来たのはいいが、この就職難だ。

 フレッシュな若者ならいいが、再就職を狙う成りの悪いリストラ被害者面なんて誰が欲しがるだろうか。


 現になかなか悪くない大学を出たつもりの青年自身でさえも、この就職難を前に掛け持ちのバイトで食いつないでいるのだから、尚更だ。


 酷な時代である。


 そんなこんなで、今日もこの店は嬉しくない賑わいに溢れている。

 敗者たちが昼間からアルコールの救いを求めて。


「オイ、コラ!」


 そんな声で、青年の回想は終わった。


「あぁ……また始まった。」


 人知れず口から漏れる。


 カウンターの向こうでは、自分と同じ格好、要はバイトと、それにフラフラと絡むビール腹の中年男。


 細かい説明はいらない、癖の悪い酔っ払いの癇癪だ。


 青年は頭を掻く。

 別に珍しい事でもないし、慣れない事もない。

 だが慣れたからといって面倒くさいのに変わりはない。


 止めに入るのも面倒なので、知らないふりを決め込みながらチラリと横目でその様子を見る。

 まあ、見るだけなら暇潰しにもなろう。


 絡まれたバイトはかなり面倒くさそうに一つ二つ言葉を吐くと「すんません」と足早に裏方に下がって行った。


「は?」


 今の「は?」は青年である。


 オイオイ、待て。

 野郎、放置とかないだろ。これ処理するのハショって暴れられたら困るの俺なんだけど。


 だが、こうなってはもう遅い。

 既に脳みそがアルコールでとろけきった男は、怒りに任せて空のジョッキでカウンターを叩く。

 これが異常にうるさいのだ。


 だめだ、このままじゃ他の客まで騒ぐ。

 そうなったらもう俺じゃどうしようもなくなるし。


 諦めてその男をなだめにいこうとしたその時だった。



「お客さまっ、申し訳ありません!」



 どこかの少年合唱団みたいな澄んだ声がフロアに響いた。


「っ?」


 騒ぎを聞き付けたのか、裏方から誰かが飛び出してきた。

 その姿は他に見間違いようもない。


 その辺の安い脱色などではないぞ、と主張する、重さと艶のある銀髪。

 線が細く、綺麗に整った角の張らない顔立ちはまるで少女のそれにも似ている。

 大きな瞳とどこかあどけない表情が、湧き水のごとく愛嬌を振り撒くと同時に、相手の本能の奥底に眠った庇護欲をつつく。


 その容貌はどこか現実離れしているが、不快さは感じなく、寧ろ居るだけで心が洗われて和やかになる。


 白くてふわふわ。


 そんな少年だった。


 急いで着直したようなユニフォームのその少年は、カウンターに不毛な怒りをぶつける男の元へ駆け寄ると、ぺこぺこと頭を下げた。


「す、すみません!うちの者がご迷惑をおかけしました。

 あの……どうか落ち着いてください!ごめんなさいすみません!」


 この慌てっぷりが誠意であるのは、傍目から見れば疑いようはない。

 普通の客なら、彼が登場した時点で治まり、後に彼のどこで身に付けたとも知れない接客技術によって気持ちよく酒を飲んで帰ってくれるという具合に進むのだが。


「あぁ!?」


 今回はそういかなかったようだ。

 男は少年の胸ぐらを掴んでぐいっと引き寄せる。


「うわぁっ……!?」

「なんだお前!?」


 もともと大柄とは言えない少年は成す術なく捕まる。

 目を白黒させる少年に、男は唾を飛ばす。


「何ださっきのふざけた奴は!?何べんも何べんもオーダー聞き直しやがって、耳ついてんのか!?」


「す、すみません……!」


 横から見ている青年はその散々な言いように呆れる。

 元より酔っ払いの滑舌なんて相手できたもんじゃない。

 ふっかけられた方もたまったもんじゃないだろう。

 まあ、謝りに入ってきた少年はもっとたまらないだろうが。


 とは思っても、助けにいこうとは思わない。

 確かにあの少年なら助けてやってもいいが、この状態の酔っ払いに数の攻撃は逆効果だ。

 青年ははらはらどきどき、固唾を飲んで見守る。


「おお、お客さま……落ち着いて……」

「はあ!?んだよ、お前も俺をバカにしてんのか!?」


 ついに酔っ払いは腕を振り上げた。


 不味い。


 青年は目を剥いた。

 彼は知っている。

 あの少年を殴ろうとしたらどうなるかを。

 青年は身を乗り出す。


「お客さんっ、ちょっと!」


 青年が、無意識的に届くはずもない手を伸ばす。

 だが、これが少々遅かった。


「……っ」


 それは、まさに一瞬だった。

 少年の脚が少し動き、酔っ払いの膝裏を踵でトンと小突いた。

 バランスを崩した重い体へ、少年は腕を回す。


「おっとと……」


 ふわり


 それはまるで、よろけた客を店員が支えたように見えた。

 当の酔っぱらいもそう錯覚したのだろう。


 バランスを崩した所を支えられた男は、目を見開いて少年を見つめた。


「あぶなかった……。大丈夫ですか?」

「……あ……」


 その目に何を見たのか分からないが、男の顔が驚きの顔のままで固まっていた。


「……っ」


 息を飲んだのは、その様子を見ていた青年である。


 青年は、一ヶ月程まえに目撃している。

 その時も、今回のように一人の酔っぱらいが迷惑を働き始めたのだが、それに釣られるようにして更に二人の客が騒ぎ始めた。

 最終的には三人の悪酔い男が口論を始めたのだが、そこで今のように少年が割って入ったのだ。

 それでも治まらなかった三人だが、殴りあいに発展した瞬間に事態は一変した。

 一人は足が縺れて倒れこみ、カウンターに側頭部からつっこんで白目を剥いた。

 一人はよろめいて壁に後頭部を強打して動かなくなった。

 最後の一人は、何が起こったか泡を食って這うようにして店を出ていった。


 さて、これがただの偶然と言えるのだろうか。


「平気みたいですね?よかった。」


 少年は微笑むと、もともと座っていた席へ男を座らせた。

 最後にまた笑顔になると、ハキハキとした声で言った。


「今、お冷やお持ちします。」




 彼こそ、この物語の主人公。


 雛由(ヒナヨリ)マヒルである。

 年齢は16歳、本人いわく高校中退で、生活費を稼ぐためここでバイトをしているという。


 学歴に難があるとはいえ、かなり優秀な奴だ。

 それがこんなあまり待遇も良くない、むしろ労働基準法すれすれのこの店を何故選んだのかは不明だが、深く聞くのも野暮だろうと誰も口出しはしない。


 青年はそんなマヒルの後を追って店の裏へ早足で向かった。


「雛由!」

「あ、センパイ。どうも。」


 あんなに絡まれておいて、声をかけてみればいつも通りにケロリとしていた。


「大丈夫かお前?ていうか、定時過ぎてるだろ?」


 そう言われた彼はチラリと壁の時計を見た。

 そして一つに頷く。


「そうですね。」

「そうですね……って」


 青年は頭を掻いた。

 定時でも少しなら折り合いがつくまで働く奴はいるが、時計のはりはそろそろ一時間以上の経過を示している。

 そもそもこの店の連中は、店長にどやされでもしない限りは十分たりとも残ろうとしない。

 そんな中でこいつときたらとんでもない奴だ。


 そんな事を思う青年の表情を『心配』と受け取ったのか、少年は筋違いな笑みを浮かべた。


「ああ、大丈夫です。カードは切っときましたから。」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「え?」


「じゃあ他になにか?」と目が尋ねてくる。

『他ならともかくこんな店で律儀に働く必要はないだろ』とか『そもそもその様子じゃ誰かに頼まれた訳でもないだろ』など言いたいことは山ほど出てきたが。


「ああ、もういいや。」


 またあの「そうですね。」の笑顔ひとつで済まされそうなので、飲み込んだ。


「……え?」


 青年の呆れ顔に、マヒル後輩は不思議そうに、或いは先輩に何かしらの迷惑をかけたのかという心配を滲ませつつ小首を傾げていた。


「いや、なんでもない。」


 他の連中がいかに切り上げようかと常に考えているなかで、こいつときたらこの顔である。

 まるで『労働こそが生き甲斐』と主張するような生き様だ。

 今時若いうちからとんでもない奴もいたものだ。


 自分の年齢を棚にあげて思うのだった。


「まあ、とにかく。さっきは助かった。ありがとな?」

「えへへ、どうも」


 少年は照れたように頬を掻いた。

 褒めると直ぐに喜ぶので、こちらも褒めがいがある。


 ということで今回の一連の働きを褒めていると、マヒルは思い出したような顔をした。


「あ、センパイ」

「ん?」

「今日は、これから暇なんで……」


『終わったら食事とかどうですか?』とかを予想した。

 青年は破顔する。


「そうか、なんなら今日こそは奢らせろよな?」


 有能でいてそれを鼻に掛けない、ちょいちょい抜けていてそこを指摘する余地も残してくれるカワイイ後輩の体現のごとき彼を、青年は肘でちょんとつついた。


「ああ、いえ!お礼でお腹一杯ですよ。違うんです。」

「ん、ならどうした?」

「もう少しお手伝いしようかなって思って。」


 冗談だろ。

 いや、こいつに限って冗談はないか。


 たまげた。

 まだ働く気なのかこいつは。


「今日はお客さん多いですからね。」

「いやいやいやいや、いいって!いいって!」


 青年は慌てて彼の両肩を叩いた。


「そんなことしても、ウチのオーナー鬼だから給料とか増えたりしないぜ?」

「え?いえ、どっち道タイムカード……」

「なおさらじゃん。お前なに考えてんだよ?」


 ここまで言っても少年は理解していないらしく、表情が煮えきらない。


 ここまでくると優秀ではなく馬鹿である。

 確かに彼がいてくれれば並みのバイト五人分くらいは役にたちそうだ。

 だが流石にこれ以上働かれると見ているこっちが辛いのだ。

 どうにか雛由マヒルを言いくるめると、青年はまっすぐ帰るように少年へ言いつけた。






「えーと」


 さて、困った。

 あの居酒屋から追い出された雛由マヒルは、移動用のママチャリで路地を滑りながら考えた。


「今日はコンビニのバイトも入ってないし……クリーニング屋も定休日で……メッセンジャーも……」


 その口からポロポロと溢れるのは、掛け持ちに掛け持ちを重ねた時間が被らないぎりぎりのバイトの数々である。

 もはや綿密とも言えるスケジュールの全てを納めた脳みそが今後の予定を練っている。


「ううん」


 だが、これが結構慣れない作業なのだ。


 何時もならひとつこなしてもまた次へ、というように、練る前からスケジュールはパンパンなので考える必要はなかった。

 だが、今日は半年に一度あるかないか、『余暇』が生まれているのである。

 つまり、何もない空白の時間割だ。

『余暇』と言っても、現在午後三時から就寝までという短時間だが、それでもやはり何もない時間というのには不馴れだ。


「ううん」


 また唸る。


 とりあえず自宅のアパートへ向かう道を走る。

 角を曲がった所で、ふとひらめいた。


「あ、大家さんのお手伝い。」


 決まれば早い。

 善は急げだ。

 マヒルは自転車の速度を上げた。



 雛由マヒルは貧乏である。

 この齢にして頼る宛もなく、赤貧洗うがごとし、頭に超がつくほどの貧乏人である。

 財布の中の千円札数枚と小銭少々以外に財産を持ち合わせない、現代日本においてはにわかに信じがたい規模の貧困である。


 その上、借金まである。

 数字で言えば、桁が9つだ。

 しかも、この齢にして明確な連体保証人無しで謎の民間生命保険への加入が条件、おまけに何がどうしてか日単位で増額していくという、細かい民法においてはアウトコースど真ん中、かなり凶悪なタイプの借金である。


 故に、雛由マヒルはバイトに明け暮れている。

 このご時世で、高校中退、しかも暴力沙汰によるもので、幾度となく警察の御世話寸前にもなっているという経歴の持ち主。

 加えて、未成年にも関わらず明確な保護者も名乗りを上げないというハンディーキャップは大きい。

 しかも、この生まれてよりの日本人離れした風貌も面接となれば限りなくマイナス点である。


 まともな職につける訳もなく、こうやっていつ首を飛ばされるともしれないアルバイトを掛け持ちしているのだ。


 だが、マヒルは屈しない。

 どんな困難であれ、彼は持ち前の頑丈さと誠意、そしてそのスキルで潜り抜けてきた。


『健気であれ、すれば花開かん』


 それが彼の恩師の言葉だった。

 何があっても、ただ健気に尽くすのだ。

 そうすればきっと救われる。


 復唱しているうちに、自転車は築三十年過ぎのアパートに到着した。


 あって無いような自転車駐めにスイスイと愛車をとめる。

 鍵をかけると、マヒルは一階の大家の住む部屋へ向かった。


 古くなって表札が掠れた扉。


「ヨシダさん!」


 インターホンの調子が悪いので、こっちの方がよく通る。

 扉の前から声をかけると、ガチャリと鍵が開いた。


「あら、マヒルちゃん。今日は早いのね」


 出てきたのは小柄な初老の女性だった。

 このアパートの大家の吉田さんである。


「はい、今日は他にバイトないので。」

「じゃあ久しぶりのお休みってこと?」

「はい」


「そうそう」と大家は笑顔で頷くと、マヒルを部屋に招き入れた。


「どうも」

「いいのよ、そんな他人行儀に。ここはマヒルちゃんの家みたいなもんじゃない。」

「そんな、居候が大きな態度とれませんよ」


 本人の言う通り、マヒルは大家の部屋に寝床を借りている身だ。

 ほぼ文無しに等しい上、件の凶悪な借金の事もあり、一時は路頭で寝過ごした事もあったが、そんなときに拾っていただいたのだ。


 もちろん、ただという訳にはいかず、この婦人にとっては難しい力仕事などを引き受けたりすることは条件だが、それでもありがたすぎるくらいだとマヒルは思っている。


「ふう……」


 狭い居間でお茶を貰ったマヒルは一息ついた。


「すみません、早く帰ってきたから気を遣わせちゃったみたいで……」

「いいのよ。マヒルちゃんいつもおそいでしょ?たまにはゆっくりしなさい。」

「でも……」

「こんな老い先知れたおばあちゃん一人だとどうしてもさびしいからね。孤独死なんて笑えないでしょ?」

「いえいえ、まだお元気じゃないですか」


 冗談を交えて笑う彼女に、マヒルは申し訳なさそうに笑い返した。


 湯飲みを空にすると、マヒルは早速立ち上がる。

 流し台で湯飲みを洗いながら大家に声をかける。


「ヨシダさん、今日は何をお手伝いしましょうか?」

「あら、またそんな……」

「あ、三階の通路の掃除がまだでしたね?やってきますっ。」


 彼女が「そんなに頑張らなくていいのに……」と言う声を聞きつつも、マヒルは既に玄関で靴を履いていた。




 さて、雛由マヒルがここまで運命に嫌われながらも生き長らえているのには理由がある。

 運ではない。むしろ運にはとことん見放されている。故の現状である。


 シンプルに、本人の人の好さとスキルである。


「ふう」


 三十分後、マヒルは箒とごみ袋を手に息をついた。

 満足な仕上がりだ。


 もちろん、元が古いため『ぴかぴか』という形容表現とはまた違うが、その古さがアンティークのそれに見えるような仕上がりである。


 階段の手すりが一部破損していたのを修復し、軽い掃除した。それだけだ。


 彼が来た当初は文字通りのおんぼろアパートだったが、初日からマヒル自身が修繕を開始し、今では外観こそ少し片付いた程度のものの、確実に暮らしやすいものになっていた。

 彼の手際に住人はそろって驚いたが、彼いわく「昔、そういうバイトしてたので。」とのことらしい。

「どういうバイトだよ。」と問う住人もいたが、笑って誤魔化された。


 というふうに、マヒルが来て以来このアパートはどんどん良い方向に転がっている。


 有能で人柄も良好、おまけに幸運まで運んでくる。

 そのプロフィールのミステリアスさもあって、住人の間では「大家のヨシダが座敷わらし拾ってきたぞ」などと半ば本気で語られていたらしい。


 そんな彼雛由マヒルだが、やはり弱点が存在する。


 ーールルルルル


「あ。」


 中古のガラケーがポケットで震えた。

 電話だ。


「はい、雛由です。」

「雛由くんか!すまないけど、今すぐ来てほしい!」

「え?」


 この声は、確かアルバイトでやっている自転車便(メッセンジャー)の自分の担当者だ。

 嫌な予感がする。


「どうかしました?」

「実は、大事な仕事が入ってたんだが、今日に限って任せるはずだった子が病欠で」

「……。」


 重ね重ねだが、雛由マヒル()()()運がとことん悪いのである。


 マヒルは電話を繋いだまま走る。

 だが、そこで思い出した。

 仕事用に借り受けているロードバイクを、今日に限って本社に置いてきてしまったのだ。


 どうしようかと迷う暇もなく鍵を外したママチャリに股がると、前輪を持ち上げてターンした。


「で、どこに何を届けるんですか?」

「複数たまってるんだが……」

「複数っ!?」

「……すまない」


 素早く蹴り出すと、片手にハンドルで自転車を漕ぐ。


 急で仕事が入るのは珍しくないのだが、流石に複数同時は希だ。


「いくつですか?」

「5つ……」

「5つ!?」

「……けど、流石に無理そうなら一つずつ分けても……」

「……出ますか?」

「は?」


 マヒルの温厚な口調が変わった。

 怒っている訳でもなく、喜んでいる訳でもなく。

 ただ、肉でできた機械のように。


「お給料、出ますか?」

「それは出るだろう!出す!僕のポケットからでも出すよ!

 そりゃあ勤務外なのにいきなり呼び出すんだから……それにこんなに難しい仕事を。

 倍近くでも出すよ!」

「了解です……準備はお願いします」


 電話を切り、両手をハンドルにかけるのだった。




 担当者は、ロッカーにあったマヒルのリュックサックに荷物である書類複数と伝票を積めていた。

 雛由マヒルが言うには、「すぐに僕の鞄に必要な物を積めて、メットと一緒に出口で待っててください」だそうだ。


「まさか……あのこ、家からここまで駅いくつあると思ってるんだ……」


 そう漏らしつつも、待ち合わせの出口に立った。


 まさか、こんなに早く着くわけもないのに。


 そんな事を思っていた矢先、目の前を風を孕んだなにかが通りすぎた。


「危なっ!?」


 尻餅を着くと、通りすぎていった何かへ叫ぶ。


「こら!危ないだろ!」


 と、そこで気がついた。

 手に持っていたリュックサックとヘルメットがない。

 まさか引ったくりか、とも思ったが、遠くなる後ろ姿には見覚えがあった。


 手元から拐っていったヘルメットを被り、リュックサックを器用に背負うママチャリの後ろ姿。


 あの白髪は間違い様がない

 雛由マヒルその人だった。


「ひっ、雛由くん!?ちょっと……自転車乗り換えなくて……」


 その頃にはもう、彼の姿は歩道とも車道ともつかない場所に消えていた。

 そこで彼は気がつく。


 マヒルは荷物の手配は頼んだが、仕事用に貸し出しているロードバイクの手配は頼んでいなかった。


「ま……まさか……」


 ママチャリは、およそ常識の範疇を逸脱した速度で車道を滑走していた。

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