初めまして 俺たちの 非日常
夜中に閉め忘れたカーテンから、眩い、しかし、心が洗われる様な朝日が、今はまだ、開け放たれていない窓から、屈折して差し込んでくる。
その光が向かう先は、この部屋の主が寝転んでいるベッド。
この部屋の主ともいうべき青年は、ゆっくりとその瞼を開き、眩しそうに眼を細めた後、むくりとベッドから起き上がった。
床に足をつき、そこから伝わってくる冷たさに、青年は少し身震いをしてから、窓に寄り、外と中を遮断している窓を開け放った。
そこから見えるのは、澄み切った青い空。遠くに見える赤い太陽。上から見える色とりどりの家の屋根。朝の時間を知らせようとする銀色に光る大きな時計塔。
――――青年の横の壁を、欠伸しながら突っ切る、生霊達。
青年の朝は、いつも通りに始まった。臆病者の彼が、いつも見ているはずの生霊達に驚き、悲鳴を上げ、それと同時に、朝の時間を知らせる、鐘の音が響く所まで。いつも通りに。
***
あーー……。驚いた……。毎回毎回、向こうが透けて見えない生霊の人達が、俺の家の壁を突き抜けて歩いてくると、正直心臓に悪いんだよ。
そもそも!俺は生霊が見える様になって数日しかたって……なくはないな。うん。この状況になって数年は確実にたってる。要は俺がビビりなだけか。一生治せないだろうけどな!!
どこかの誰かに、なんかの宣言をしたところで、いつも通りに俺は、朝食の時間までの間を、どうしてこんなことになるのか……もとい、どうして生霊が俺に見えるのかという経緯を考え始めた。
俺の家系は、光の精霊の眷属だ。眷属っていうのは、自分が仕えている人を守ったり、力になったり……いわゆる、従者とか配下とか、そういう奴の事だ。
他にも、家族っていう意味もあるらしいけど……あんな奴と家族だなんて、俺は絶対認めない!兄さんだって言ってたし。……まあ、兄さんの場合は、光の精霊様自身も嫌いだけど、それ以上に、光の眷属に囚われているこの家系が大嫌いだったから、その影響もあるんだろうけど。
ま、その事は考えると長くなるから置いといて……。
俺に生霊が見えるのは、光の精霊が司るのは『生』。だから、その眷属である俺にも、生霊が見える。ちなみに、生霊ってのは、本人の意識がないときに、その魂が外に出て行ったものだ。眠っている時とかに出る場合が多いな。
話によく聞く幽体離脱は、生霊になっている時に見た光景だ。普通は、生霊の時と人間の時じゃあ、記憶は別々だから、覚えていないんだけど。ま、それは特殊なケースって奴だ。
……そうか。俺が、この家に生まれたから見えるのか……。……あっ、だったら、縁切ればいいんじゃないか?いや、でも、現在学生だが、不登校児で、実質無職でコミュニティ障害の俺が家の縁切ったら、路上で干からびて死ぬぞ……。
「ご飯よーー!起きてるんでしょー!降りてきなさーい!!」
そういう母さんの声に、部屋の扉を少し開け、廊下の先に続く階段まで届くように、普通の声より少し大きめの声で「今いく!」と言ってから、昨日の夜に、枕元にいつものように用意した服に、できるだけ素早く袖を通す。
いつもの格好になったところで、階段を駆け下りる。早くしないと、お腹を空かせた俺の妹様が、俺にタックルをかましてくるからな。……あれ、高さがちょうど鳩尾の所だから、結構痛いんだよなー……。
リビングの扉を開け、母さんが経営している、パン屋へと通じる扉の横に置かれた、新聞を置くスタンドから、いつものように今日の新聞を抜き取り、自分の席へと座った。
新聞を見て、何かニュースがないかを確認するのは、真面目な父さんの。父さんが死んでからは自由気儘な兄さんの。兄さんが旅に出てからは俺の仕事だ。
目の前の、誰もいない椅子を見て、妙な気分になっていると、右隣に座る妹が、俺の服の袖を引っ張った。
「早くご飯、たべよー!!」
今年で六歳になる、妹のふわふわした髪の上に手を置き、「はいはい」と言いながら宥める。その間に母さんがキッチンから戻ってきて、席についた。
家族三人が全員席につき、全員で一斉に手を合わせて「いただきます」といった後、朝の食事を開始した。
のんびりと、焼き立てのトーストを咥えながら新聞を眺めていると、妹がスープを口から零しながら食べていたため、それをついでとばかりに拭いてやる。
嫌そうにする妹に、「髪の毛、縛ってやらんぞー」というと、急に姿勢を正した。それに母さんが笑いを零し、俺が少し笑みを零す。
……いつもの光景。いつもの日常だ。もう、父さんがいなくなったときや、兄さんがいなくなったときのようには、ならない。……それでも、その時の“非日常”の恐怖が消えるわけじゃないんだけど……。
だが、俺の視界に入ってくる、新聞の『街の人々が、謎の失踪!?』という文字が、俺の不安を、少しだが駆り立てていた……。
***
俺が縛った、二つの髪の毛を揺らしながら、妹は母さんに連れられて、出かけて行った。それを、コーヒーを飲みながら見送り、玄関がバタンと閉まるとともに、コップを洗い場においてから、自分の部屋へと向かった。
ポーチを腰に取り付け、その中に財布を入れ、いつもと同じ時間に、俺は家を出た。
8時という時間のためか、俺が上から見たときより、人通りが多くなった通りを、のんびりと見ながら歩く。
この時間が、なんだか一番楽だ。皆、自分の事に手いっぱいで、俺の事なんか見向きもしない。俺は普通の人間なんだと、思い込む事が出来るから。
周りを見ながら歩いていると、前方から、見かけない顔が歩いてくるのが見えた。
金髪に近い茶色いボブカットが、歩くたびに風と振動によって揺れ、少々俯き加減な顔を綺麗に彩っている。俯き加減の顔は、よく見えないが、整っているように見えた。
綺麗な子だなー……。と思っていると、その子の周りから黄色く発光する粒子があるのに、気が付いた。……生霊の証だ。
あんな子が、こんな時間帯に生霊かー……。変なの。
そう思いつつ、前方から俺に向かって歩いてくる少女を、俺は何の気もなしに避けた。……まあ、いくら生霊で通れるからって、できるならしたくないし。……あの通る感覚、気持ち悪いし。
そのまま真っ直ぐ歩く。その途中、新しい店が出来ていたから、ふとそっちに目をやった。
その時、視界に入る、後ろから必死に追ってくる、さっき見た生霊の少女。
「…………っ!?」
思わず逃げようとするが、そこでふと思いとどまる。
もしかしたら、少女が目指しているのは俺じゃないかもしれない。というか、咄嗟に俺に向かってきてると思うなんて、どんだけ自意識過剰なんだ。俺は。学校の事があってから、過剰反応し過ぎだな……。
そう思いながら、いつの間にか張っていた肩の力を抜く。
俺が安堵の表情を浮かべながら、気を取り直してさっきの道を歩こうと前を向きかけたとき……、俺の右手を、前にも感じたことのある感覚が包んだ。
「ひょっ!?」
驚きで、素っ頓狂な声を出す俺が振り返ると、そこにはさっきの生霊の子。その子は、人に手を握られたことで固まっている俺にも構わず、俺の手を両手で包み込み、少々うるんだ瞳で俺を見上げながら、少女は言った。
「私を、たすけてください……!!」
女の子に免疫のない俺が、そんな風に頼まれて断れるはずもなかった。もちろん、赤面付で。
***
「―――だから、お願いです……!どうか私を、たすけてください!」
今いるのは、俺の家のパン屋の、従業員休憩場所だ。普通の人には、今俺の目の前にいる彼女の姿は見えないから、どこか人目につかないような場所で……と、移動したんだが、ここしか思いつかなかった。
まあ、今は皆出払っているから、見られることはないし、ちょうどいいだろ。
さて、ここに移動して、大分時間がたった。もちろん、その間は、目の前の彼女が、何故俺に助けを求めたのかのわけを聞いていた。
昨日、目覚めたら生霊の姿になっていたらしい。生身の体には戻れないし、自分の存在がどんどん消えかけているのも、なんとなくわかる。けれど、助けを求めようにも、自分が見える人はいない。そんな時に現れたのが、生霊が見える俺。もしかしたら、元に戻る方法を知っているかも……!という事で、俺に助けを求めたらしい。
要約すると、こんな感じだ。
ちなみに、彼女の名前は知らない。まあ、生霊と生身の体の記憶は、共有されてないから、自分の名前を知らなくて当たり前なんだけど……。
俺に、一生懸命「お願いします……!!」と言ってくる彼女。助けてあげたいのはやまやまだけど、それが難しいのも事実。だって、彼女の存在は、今まさに消えようとしている。生身の体がもうすぐ息絶えるんだろう。場所がわからなくても、生霊がいれば体の場所は辿れる。けど、ここまで存在が希薄だと、辿れるかどうかもわからない。しかもこれ、失敗すると暴走する可能性があるから……。
……うん。断ろう。彼女の命も大切だが、俺が暴走すると、彼女以上の命が消える可能性がある。そんなリスクが高い可能性に欠けるわけにはいかない。
「おっ!!おこ……「よぉ」!?」
会話が苦手……俗にいうコミュニティ障害の俺が、上ずった声で断ろうとした所に、下の方の窓から顔を覗かせて、俺のよく知る声が耳に届いた。
俺の幼馴染でもあり、悪友でもある奴だ。俺が家族以外で、唯一まともにしゃべれる相手でもある。
「お?なんだなんだ?ようやくお前にも春が来たか?」
「ちっ、ちげぇよ!」
ニヤニヤと、嫌な笑みを浮かべる悪友に、自分でも赤くなっていると理解できる程赤面しながら、否定の言葉を叫び、何故彼女がここにいるかの理由を話す。
それを話した途端、彼の顔から笑みが消えた。
どうしたのだろう。そう思ったとき、彼がこちらに向けて手招きをしていた。「……ご、ごめんなさい……」と、裏返った声で小さく謝りながら席を外し、彼の近くへと寄る。
俺が近くに寄ると、彼は、小さな声で、彼女に聞こえないくらいの音量で、俺に言った。
「……あの子、死霊の気配が漂ってるぞ」
「え!?」
余りの事に思わず驚くと、彼は「しーっ!声がでかい……!」と、小声で言いながら、俺の口を塞いだ。
ちらりと後ろを見ると、彼女は何も聞いていなかったみたいで、俺と目線を合わせても、頭に疑問符を浮かべて、首を傾げるだけだった。
目線があってしまったことに赤面しながらも、彼女が聞いていなかったことにホッとした。
俺の反応を、過激だと思う奴もいるだろうが、それは違う。
そもそも、彼女は生霊だ。体が生きており、そこから魂が抜けた状態。死霊は、体が死んでおり、そこから魂が抜けた状態。彼女の今の状態とは、真逆と言っていいだろう。
だが、彼……闇の眷属であり、死霊を感じ取れる俺の悪友は、死霊の気配が漂っていると言っていた。それは、彼女が死霊になりかけている……ということではない。そんなことは、俺が一番わかると、あいつなら知っているからだ。
死霊の気配が漂っている……つまり、彼女の生身の肉体の周りに、死体があるということだ。
あいつは闇の眷属だから、光の眷属の俺が、彼女の生霊の力をたどり、生身の肉体の場所を見つけられるように、彼は死霊の力をたどり、死した肉体の場所を見つけられる。もちろん、死霊となりかけている彼女の力をたどり、肉体を見つけ、その周囲の死霊に気づくことも。
「……死霊の数は……。……ヤバイ。結構多いんだけど」
そう、目を閉じて呟く彼の顔には、出さない様にしつつも、わずかながらに、焦りのような色が見えた。
こいつがここまで焦るって事は、相当な数だ。
なんせ、こいつは闇の眷族。修行だと言われて戦場に行かされ、たくさんの死体と死霊を見てきたやつだ。そんなやつが言うんだから。
だが、こいつが焦るくらい人が死んでるなら、死んだとは載らないものの、行方不明くらい載るはずなんだけどな……。
と、そこで、ふと頭を過ったものがあった。
朝の新聞に載っていた、「謎の失踪」という記事。もしかしたらそれは、このことに関わっているのかもしれない。それに、たくさんいるということから、他の町の住人も。
もしこれが彼女一人ではなく、町の住人も巻き込まれているとしたら、彼女の頼みを断ることはできない。
……まあ、彼女の頼みを断るのは、ちょっと気が引けたから、ちょうどいいな。
そう思い、彼女の方へ顔を向ける。彼女は、椅子に座っているせいか、さっきよりも首を上にあげ、俺を見上げている。その姿に顔を赤くしながらも、俺は、彼女に言った。
「そのっ!!……お願い、受けます……!」
声にすら、情緒不安定なのが出ている俺の言葉に、彼女は目を輝かせながら立ち上がり、45度の最敬礼をし、体を起こしてから、満面の笑みで、わずかに震える声で、呟くように言った。
「ありがとう……ございます……!」
後に悪友は語る。その姿は、告白した人と、告白された人にしか見えなかったと。そういうのが一番苦手な俺が、悶えるのを知りつつ、後に悪友は語る。
***
太陽の光さえも、全てを吸い込んでしまいそうな、鬱蒼とした森の中。しかし、所々に差し込む光が、鬱蒼とした森を、鮮やかな緑へと変えている。
葉はキラキラと太陽光を浴び、美しく。木は暗い影の中でドッシリと、構える。そんな、光と影が共存した森の中、俺はいた。
暴走するかもしれないのが怖くて、オタオタしていた俺の代わりに探してくれた悪友が言うには、この森の、昼でも暗い所に彼女の体と、死霊がいるらしい。
……でも、こんなところに、本当にあるのか?昼でも暗いところなんて、限られているだろうし、木の影って言っても、微妙に光が差し込んでるから、違うだろー……?
どこだろうと、当てもなく探している所に、何か、後ろから光の隷属(妖精みたいな奴)がざわざわしながら、こちらに逃げてくるのを感じた。それとともに、一匹の光の隷属の、ないはずの声が頭の中に響いた気がした。
―――避けてッ!!
その声に反応して、半身になると、頬を掠めて何かが飛んでいく。
その先を確認する余裕もなく、また、後ろの敵を見る余裕もなく、運動不足の足をせいいっぱい動かし、俺は前へと走る。
咄嗟の事で何も頭に浮かばず、ただただ前へと意識を向ける。俺が目指しているのはただ一つ。肌に感じる光の隷属達の道だけ。
ピリピリとした、隷属達の道を辿り、走る……と、突然目の前が開けた。
「……っ!あった……!!」
何も見えていなかった俺の視線が、全てそこ……森が開けた所にある、不気味な洞窟の入り口へと、吸い込まれるように集まる。
だが、俺が歩みを止めただからだろうか。突如、俺の足に何かが巻き付いた。
そのまま俺は、驚きの声を上げる暇もなく前のめりに倒れ、地面に引きずられ、足が何かに包まれたかと思った瞬間、何かに飲み込まれた感覚がして、俺の意識は暗転した。
***
ほんのりとあったかくて、まるで、羊水の中にいるみたいだ。
閉じている目を、絶対に開けたくない。このまま一生、ここで眠っていたい。そんな気持ちにさせるような場所だった。
ピリピリと、ここの外側から、目覚まし時計のような、煩わしい感覚がどこからか直接、肌に響いてくる。その感覚は、何かを焦っているようだった。
うるさい。
そう思いつつ俺は目を開ける。開けなければ、ずっとこの感覚が響いているような気がしたから。
閉じていた目を、苛立ちと共に開ける。だが、開けた後は、苛立ちは欠片もなくなり、代わりに驚きが写った。
俺が羊水だと思っていたのは、緑色の液体。だが、俺は息ができる。ということは、選択肢は一つしかない。とある食人植物の体液の中だ。
そして、周りのなめくじのような体に分厚い、人間を丸ごと飲み込めそうな大きな口を持った、不思議な生物。光が差し込まない場所。
どうやら、俺はあの洞窟に入ったらしい。目の前のなめくじの様な生物の仕業で。
だが、あいつらはどうして、俺をこの植物の中に入れたんだ?こいつは雑食だから、食べるなら自分で食べるだろうに。
……もしやこいつ、キングじゃなくて、このなめくじみたいな奴らの天敵である、クイーンか?それなら、辻褄があう。
クイーンとは、この食人植物の種類で、一番上の格の奴だ。まあ、蟻みたいなものだと思ってくれればいい。
このクイーンは、一度に子供をたくさん産む。そのためには、栄養が必要だ。そのため、人を見つけたら襲い掛かる単細胞なキングと違い、群れで行動するモンスターを襲い、見せしめに数匹殺し、こいつらのようになりたくなかったら。と、餌となる人間を運ばせるのだ。
ちくしょー……。最近は、クイーンの噂なんて全然聞かなかったから、油断してた……。
頭を抱えながら、後悔の言葉を叫びたいのを我慢しつつ、ここから脱出するために、光魔法の一つである、光の刃を出そうとする。
この体液は、透明な葉っぱで覆われている為、その葉っぱの境目をつけば、簡単に逃れられる。不登校になるまえに学校で習ったことだ。
光の刃を出そう……として、はたと気が付いた。
…………この体液の中、魔法無効化されるんだった。
どうしよう。出られないことも問題だけど、自信満々に「簡単に逃れられる(キリッ」とか思ったのが、誰に見られてなくても一番恥ずかしい……。
ほんのり赤みを帯びているであろう頬を押さえつつ、誤魔化しのために周りを見渡すと……見知った髪色が、この体液の中を漂っているのに気が付いた。
この発端となった、彼女の体だ。
思わず体液の中を泳いで、彼女に近づく。彼女の姿は、ボロボロだった。衣服は所々溶け、手首やひざなどの皮膚が薄いところは、骨が見えることもある。そして、きれいな金髪に近い茶髪のボブカットは、溶けてショートカットくらいに短くなっている。
だいぶ長い時間、体液に浸かっていたからだろう。ボロボロなのはしょうがないとも言えた。けれど、今目の前を漂っている、誰かの頭蓋骨のようにならなくてよかったと、心底安堵した。
そんなことを思いつつ、骨や肉が見えてる所を避けるように抱え(お姫様抱っことも言う)葉っぱのそばまで近づく。
コンコンと軽く蹴り、強度を確かめながら、さて、いったいどうしたものかと、再度悩む。
と、そこで、彼女が左の手のひらを強く、強く、大事に握りしめているのが見えた。
わずかな好奇心と、打開策が浮かぶかもしれない期待を込めて、失礼ながらに、その手のひらを開かせてもらった。
中にあったのは、普通のヘアピン。
なんだー……。と思いつつ、ピッキングの要領で、こう……なんとか!とか、無理やり押し込めて見たりするが、結局無駄。むしろ、葉っぱの隙間に刺さって、抜けなくなってしまった。
……どうしよう。このヘアピンが大切な……親の形見とかだったら、俺、今すっごい悪いことをしてるんじゃ……。
懺悔でもしようかと本気で悩んでいた時、コツンと、何かが当たる音がした。
目の前の透明な葉っぱが、真っ二つに裂け、緑色の体液が外へと流れ出す。
それに伴い、なめくじ達は離れ、俺は久しぶりに息を吸ったような気がして、一気に空気を吸い込み、(あれ?息って……どうやって吸うんだっけ……?)とか思いながら、せき込む。
「……ッ!ゲホッ!……うえぇー……」
せき込み過ぎて涙目になりながら、下の方に視線を移すと、ヘアピンがあった場所には、誰かのどこかの骨と、ヘアピンの面影が薄らと残るナイフ。
どうやらあれは、スイッチを押すだけで魔力が発動に必要な分だけ吸い取られ、それと共に元々決められた形にその物が変形するという、今ちまたで大人気の魔道具だったらしい。……魔道具が大丈夫なら、俺も使えばよかった……。
少々後悔しつつも、ナイフについている小さなスイッチを押し、ヘアピンに戻し、彼女の前髪につける。
光の隷属達を呼び、彼女を預けてから、体液があるため、一定以上は近寄ってこないなめくじ達に、にやりと笑う。
「人外だと人が豹変すると言われた俺の力……舐めんなよ?」
魔法の核となる、小さな人魂の様な塊を右手で包み込み、周りにたくさんの光で出来た剣を浮遊させる。
そして俺は、俺の一番得意な魔法を、いつも通りに唱える。
「光の刃」
一瞬にして、地面や壁などが光で満たされ、その光の隙間に、緑色の血液となめくじの皮膚や肉の切れ端が見える。
どうやら、ここには他の体液の入れ物もあったようで、緑色の体液も、それこそ洞窟の地面を埋め尽くすかのように広がっている。
……あれ?そういえば、この体液っていわゆる胃袋みたいな奴で、この体液がなくなったり、入れ物のなかの人間が全員いなくなったら、暴れまわるんじゃ……。
あっ、やば。と思うと同時に、俺は光の隷属に、他の体液に浸かっていた人たちを町へ連れて行くように命令し、背中に彼女を背負い、出口に向けて走り出した。もちろん、死んでしまった人間たちの死体や、遺骨も光の隷属に持って行ってもらっている。
ぐちゃぐちゃ、びちゃびちゃと、気持ち悪い音を立てる地面を気にしない風にしながら、今まで走ったことがない以上の速さで走る。
すると、後ろでクイーンの叫び声が。
そして、クイーンの怒りで暴れる音が。
さらに、走ってくるクイーンの足音が。
蔓が伸びてきて、俺を捕まえようとするのを、魔法の太陽光で焼き切りながら、走り続ける。
洞窟の光が見えてきた。
やっと……逃げ切れる!!そう思ったとき。足に蔓が巻き付き、俺を奥に引き込もうとする。
前のめりになって転びそうな時、咄嗟に奥の方に手のひらを向け、呪文を唱える。
「光の爆発!!!!」
光の弾が蔓を焼き切り、奥へと向かって飛んでいく。
転びそうになりながら外へ走り、後ろから来る熱風を浴びせない様に、彼女を抱きかかえ、滑り込むように外へと蹴りだした。
とてつもない轟音。爆発音。クイーンの最後の怒りの咆哮。とてつもない熱さを持つ風。奥から迫り、なんとか足元で止まった炎。
ガラガラと洞窟の入り口は崩れ落ち、長く続いていたクイーンの咆哮も、次第に消えた。
***
魔力が無くなり、転移ができないので、昼よりもさらに影を濃くした森の中を、月光だけを頼りに、とぼとぼと彼女を背負いながら歩く。
背中に感じる人間の体温と、耳にあたる吐息が、ああ、俺はこの人を救えたんだと実感できる。
俺は、いつものことではない……非日常というものが大嫌いだ。
非日常は、俺からたくさんの物を奪って行ったからだ。
父さんを奪った。兄さんをどこかへ行かせた。母さんを悲しませた。妹に理解する時間を与えなかった。
そんな非日常が、俺は大嫌いだ。それが日常になってしまうのが、もっと嫌いだ。
だから、こんなことをするのは、今回だけだ。それに、今この背中にいる彼女とかかわっていると、俺は、非日常に巻き込まれていく気がする。
ただ、今だけは……俺の背中の、非日常の「生」という奴に、少しだけ、心を寄り掛からせてもいいだろうか…………。
***
いつものように、コーヒーを飲みながら、母さんと妹を見送る。すると、母さんがいつもとは違うことを言い出した。
「あっ、店番、頼むわねー」
驚きでコーヒーを落としそうになりながら、台所にコップを置き、カウンターに座る。
しばらくのんびりとしていると、カランコロンと、ベルの音が鳴った。
客が来た合図だ。
「い、いいぃいぃぃい、いらっしゃいませっっ!?」
コミュ障だから。それもあるが、それ以上に驚いた。彼女がこの店に来たのだ。あの時は生霊だったから、覚えていないはずなのに。
髪の毛はショートカット。服は新しく新調されたもの。だが、服から見える素肌にまいてある包帯が、痛々しくて目を反らしたくなるくらいだった。
「チョココロネを二つ、貰えますか?」
「はいぃ!!」
声が裏返っているのにも気が付かないくらい、俺は彼女の存在に驚きっぱなしだった。
そして俺は、何故彼女がここに来たのか。それが気になり、コミュ障であるにも関わらず、聞いた。
「えっと、どうして、ここ、に…………」
俺が言葉に躓きながらも聞くと、彼女は不思議そうに首を傾げながら
「それが、私にもわからないの。ただ、ここに何かあるなって思って」
そういう彼女は微笑んだ。そして、何を思ったのか満面の笑みになって、俺に手を差し伸べた。
「せっかくだから、自己紹介しましょ。私の名前はシイナ。あなたのお名前は?」
俺は、その手を見つめた。その手をとったら、俺は、日常に別れを告げなければいけない気がする。昨日のように。
しかし俺は、その手を手に取った。その手は暖かく。光のようだった。
「……ルカ……です」
俺は小さく呟いた。
さようなら。俺の日常。 初めまして。俺たちの、非日常。