4 狼さんと一緒
ここはとある異世界。獣人達が住むアニマラーナという大陸国家の国王が住処、つまり王城の一室。
紺色の部屋の中、青系で纏められた調度品に囲まれ、布団に埋もれるように少女が眠っている。
服は上等そうなものだが、顔立ちはさして可愛らしくも美しくもなく、平凡。見れない顔ではないのだが、好みは分かれそうだ。
こんななりの少女が近い未来に国王となる男の伴侶(予定・ほぼ確定)なのだから、人生とは分からないものである。
――彼女の名前は城崎有馬という。
すうすうと寝息を立てる彼女が、不意に目を開けた。
枕元の、水の入ったグラスに時計を閉じ込めたようなそれが、朝5時42分を指している。
有馬はいつもこのくらいの時間帯に起きていた。早起きは勉強のためではなく、PCや携帯を弄るためだが、健康な生活と言えよう。
「んぁ?」
そして普段寝ている固いベッドとへたっとした布団とは違う感触に、疑問を隠せない目をまた閉じようとする。
そういえば体が全く痛くないし、いい匂いがするし、寝汗の匂いすらしないほど清潔。
これはおかしい、と有馬は体を起こした。
「あ」
そして思い出す。先日この国の王子に召喚され、伴侶となる、というある種の契約を交わしたことを。
コンコンと扉がノックされ、有馬が「うい」と返事をすると開く。
入ってきたのは銀髪を方のあたりで内側にくるりと巻いた、見目麗しい女性。
明らかに有馬より高貴だが、身に纏うのはメイド服。
シックな紺と白のそれがよく似合う。彼女は有馬の専属侍女、クレイアだ。
「おはようございます、アリマ様」
「おはよう、クレイアさん」
眠たげに目を擦る有馬の目じりが少しだけ、赤い。
「アリマ様、こちらに背を向けてくださいませ。髪を梳かしますので」
「あ、うん……」
徹底的に洗って乾かしたためか、いつもより寝癖は無い。
アリマが背を向け、クレイアはドレッサーの上にあった櫛を取って、その黒髪を頭の頂点から丁寧に漉く。
何時もより艶のある髪は、容易く櫛の歯を通した。
「すげー……」
「アリマ様、そのような言葉遣いは人前ではなさらないでくださいましね」
「う、うん。分かってる」
有馬はそのまま身を任せ、うつらうつらとし始める。
元々髪を触られるのは苦手だった筈だが、クレイアの手にかかれば有馬は子猫も同然であった。
昨日もそうだ。風呂では抵抗したものの、結局その白魚のような手に負けた。
されるがままに洗われ、整えられ、マッサージされ、最早高級エステの域である。
有馬は鏡を見る。色んな意味で、未だかつてなく輝いていた。
「ではお顔を洗いましょう。こちらを向いていただけますか」
「あ、うん」
「失礼いたします」
この過保護な侍女は有馬の手を使わせない。
どこから現れたのやら不明な盥から、半透明の寒天のようなものを掬い上げて有馬の顔を撫でる。
額から鼻、瞼から頬、そして唇、顎へと降りてゆく手。
有馬には一体何をしているのか分からない様子だが、終わってみると顔がさっぱりしていた。
「何これ?」
「半固形にした洗顔水にございますわ」
「え、あ、うん?」
つまり洗顔ジェルだろうか、と検討を付けていると柔らかなタオルに顔を拭かれる。
その手付きはどこまでも優しく、有馬は文句を付けようにも出来ない。
「……ねぇ、あたし顔洗うくらい出来るよ」
「駄目です」
(断言しただと……)
心の中で慄く。どうやらこの侍女、徹底して世話を焼くらしい。
次に有馬は、着替えという新たなる難関に突き当たる。
当然のようにクレイアは自らの手による着替えをさせず、そればかりか脱ぐ事すら許さない。
「ちょ――ちょっと! 着替えくらい!」
「駄目です」
「ちょっと――っ!!」
あれよあれよという間に、脱がされる。ついでに今度は先ほどとは違うジェルを塗られ、異様にさらさらする肌に驚愕しつつも服を着せられる。
ドレスではなく、紺色のワンピース。丈は膝下ほどで、ドレスを着せられるのかと密かにビビっていた有馬は安堵した。
元の世界では私服にスカートは全く着なかったものだが、これなら違和感も無い。色もなんとなく制服に似ている。
「こっちの人って、普段はこういう服なの?」
「はい。とはいえいつでもドレスを着用なされる方もいらっしゃいますが、有馬様は御嫌でしょう?」
「嫌だ」
「そうおっしゃると思いまして。ですが、最高級の服を揃えておりますわ」
どうやらこの世界の王族や貴族は、案外庶民派らしい。
そういう印象を抱きつつ、フォルテと朝食を取るために有馬は部屋を出た。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
朝のフォルテは昨日のきっちりした様子とは違い、なんとなく眠たげで色気がある。
無造作に開いたワイシャツの第一ボタンに、有馬は軽く視線を送った。
(イケメン怖ぇ)
覗いた鎖骨がまたエロティックで思わずときめいたが、妻となるからにはあれ以上に刺激的なものを見ねばなるまい。
有馬は朝から考えてしまった事に少し恥ずかしくなりつつ、椅子に腰掛けた。
「ねえ、あたしって何かすることあるの?」
「そうだな……ひとまずは、守護者殿からこの世界について学んでもらうことになる。あとはクレイアに、振る舞いや礼儀を学んでくれ」
「ふーん……あ、ねえ、魔法も教えてよ」
「魔法か……。俺も午後には暇が出来るから、その時にな」
なんとなく兄妹のやり取りのようである。
大分気まずいところもなくなった2人は、極普通に朝食を食べ終え、フォルテは公務のために部屋を出て行った。
午前中は、自室で勉強の時間である。
狼が有馬の部屋のソファを大きくし、端に寝そべる。
「今日はまだ疲れておろう。勉強は明日からだ」
「うん、ありがと」
狼の腹の上に頭を乗せ、ソファに横向きに寝そべる。
恐らく現時点で、有馬が一番気を許しているのが狼であった。
彼女は動物が好きだ。しかしあまり動物に好かれない。
それ故に、自ら歩み寄ってきた狼にはとことん懐く。
「守護者さんって、名前ないんだよね?」
「……はて、昔はあったんじゃが。忘れてしもうたわ」
「つけていい?」
きらりと目が輝く。狼は寝そべったまま、有馬の方を見て言う。
「……ふむ。貰おうか」
有馬は寝転がったまま、うーんうーんと考え始めた。
悩み通して数分、決めた、と呟く。
「ロボ、ね」
「ロボか」
けしてロボットのロボではなく、由来は狼王ロボだ。
有馬は読書好きであり、シートン動物記は小学校の頃に読んでいる。
ちなみに後の候補は、モロとホロ。由来はまあ、言わないでおく。
「わかった」
実を言うと、この世界において名を与える行為は、有馬が思うよりずっと重い。
原始魔法による契約の第一段階でもある。
「ロボー」
「……有馬よ」
「ん?」
原始魔法による契約は、名を与える、血を交換する、誓う、の三段階が必要だ。
狼――ロボは、有馬を気に入っていた。契約しても良い、と思うほどに執着を持っている。
契約する、しかも名を貰う。つまりは相手に従うという事である。
ロボは有馬の首元に鼻を寄せながら、不思議そうに言う。
「ぬしは不思議じゃのう。けして美しくないというのに、心を掴む」
「そんなことないよ」
二重の意味で。
ロボは少し姿勢を変えると、まっすぐに有馬を見る。
有馬は嬉しげに抱きついて、ロボの顔にすりつき、ついでに眉間に口元を近づけ――
もふ、と毛の中に唇を埋めた。
「……」
流石にロボも呆れたが、有馬的には別段おかしくはない。
何せロボは、動物であり、狼であるのだから。
有馬は動物に甘い。というかむしろ人間に厳しい。自分には甘いが。
「有馬、約束をしよう」
「んー?」
呆れはしたが嫌がるでもなく、ロボは顔を有馬に摺り寄せる。
人間の姿になったらどんな顔をするだろう、と思いつつ。
「我はぬしを守る。ぬしは……うむ、我を撫でる。約束じゃ」
「うん、いいよ」
軽く言ったが、これは立派な誓いとなる。
魔物や悪魔が契約を結ぶ場合、大抵は魔力だとか定期的な血の供給を求める。
ロボに対する報酬は撫でる事。明らかに破格である。
「有馬、この世界では強い約束をする時、血を交換するのじゃ」
「血を?」
「うむ。嫌ならばよいが……」
「んにゃ、別にいいよ。でも指噛み千切るとか無理だよ、あたし」
犬歯尖ってないし、と有馬が言う。
「手を」
「ん」
(血を交換って、なんか怪しい契約っぽいよね……ま、こっちじゃ約束程度の意味なのか)
微妙に核心を突いた事を考えつつ、左手を差し出す。
ロボはその指を口に含むと、指の腹に軽く牙を突き立てる。
ぷつり、と肌が破れて血が出た。
「これでよい。有馬、我の血を」
「うい」
指を離すと、既に血は止まり傷もない。
ロボは更に、自らの鼻の上あたりを爪で傷つける。
「舐めればいいの?」
「ああ」
有馬は抵抗なく、ぺろ、とそこを舐めた。
一度では血が拭いきれず、二度、三度と舐める。
「……契約は成立した」
そして口を離した後、ロボが低い声で言う。
有馬は驚いたように目を瞬かせた。
「契約?」
「“ブランカ”よ、永久に忠誠を誓い、守護する事を誓う」
「いや、……え?」
ブランカとは、古代語で“我が君”のような意味合いを持つ。
「な、何? 契約? ブランカって何?」
ついでに言うと狼王ロボの伴侶、白い雌の狼はブランカという名である。
「“我が君”という意味の古代語じゃよ」
「わ、わがきみ?」
「ぬしは我をロボと、我はぬしをブランカと呼ぶ。他の者に呼ぶ事は許されぬ、2人だけの契約名じゃ」
「け、契約って何?」
有馬としては、守護者殿、とどこか他人行儀な呼ばれ方をするロボに名前があったら、と思っただけなのである。
その方が自分も呼びやすい、それだけだった。
「主を守る。我を撫でる。それだけじゃが」
「だ、だけって」
「ふむ。契約の事から説明せねばならんか?」
有馬ははぁ、とかうぅ、とか妙な声を漏らしていたが、こくこくと頷いた。
「まずこの世界の魔法じゃが、数千年前に大成された現代魔法。これに対比し、それ以前の原始的な魔法をそのまま原始魔法と呼ぶ」
「は、はあ、げんしまほー」
分かっているのかいないのか微妙な顔だが、有馬は頷く。
「原始魔法による契約、その内でも守護者と主の契約というものを結んだ。これは多くの場合、魔物や神獣が、守護者や使い魔として契約する際に使用する」
「う、うん?」
「手順は簡単、名を与え血を交換し宣誓する。どちらかが死ぬまで契約はけして解けない」
「……うん?」
「契約すれば、相手の位置が分かる。意識すれば感覚や知識の共有が可能となるし、声も伝わる」
「その心は?」
「我らは一心同体という事じゃ」
面白そうに笑うロボに、有馬は溜息を吐いた。
(つまり……使い魔じゃん。いや、でもロボって何なんだろう……)
考え始めた有馬だが、体がなんとなく暖かくなり、何故だか眠くなる。
「ロ……ボ……」
あっさりと眠りに落ちた有馬の中で、変化が起こりつつあった。
「ふむ、……始まったか」
契約を行うと、体が世界に合わせて変質することがある。他世界から召喚した使い魔は、しばしばこちらの世界と体質が合わない事があるのだ。
「興味深い。魔法を使う機能が生まれておるのか」
異世界人は基本的に魔法を使えない。
何故なら、そもそも異世界人の体には魔法を使う機能が無いのである。
この世界の人が当たり前に持つ、魔力を使う素養が無いのだ。
魔力自体はあれど、それを感知する事が出来ない。
そして有馬の体は今、魔法を使える体に変化しようとしていた。
「次からの召喚者は、守護者と契約させる事にするか? いや、伴侶自身と契約させても良いか」
ぶつぶつと呟きながら、ずるりと落ちそうになった有馬の体を魔法で引き寄せる。
「魔法を使えればある程度の自衛も可能、契約者もある程度の力を持つ者にすれば更に危険は無くなるであろうし」
そこまで言うと、ロボはくああと大きく欠伸をした。
「後でフォルテの奴に言うておくか」
考えはしたが、あくまで彼は国政に口を出さない存在である。助言のみで終わらせるだろう。
――ロボは、始祖の実兄だ。
ロボの父は狼、母は人間であった。しかし神が母に呪いをかけ、それは子に受け継がれ、そして今でも残っている。
その呪いとは――5代ごとに伴侶を人間とせねば、その子を異形とするというもの。
王家の血が安定しないのは、この呪いの所為である。
怒り狂ったロボが神の喉笛を噛み千切ったが、呪いはとけなかった。
「我も寝るか」
神の血を浴びたせいでロボは不死の存在となり、始祖の子らを見守る事に決めた。
それから更に紆余曲折を経て、城の守護者としてここに居る。
――尤も、先ほどからは有馬の守護者だが。
永い時を過ごしてきたロボは、初めて拠所を持った。
彼は守護者であったが、けして王を主として崇めていた訳ではない。
ただ守りながら、弟の子孫達を一歩引いたところで慈しむ、そんな存在だった。
「全く。可笑しな事じゃの」
有馬に対する気持ちは違った。恋人に対するような甘い気持ちでは無いが、とにかく大切に思う。言葉に出来ない感情は、“気に入っている”としか言いようがない。
「眠るがいい、ブランカ」
有馬が眠った気配を察してか、毛布を持ったクレイアが静かに部屋に入る。
ロボが呟いた名は、彼女の耳には“有馬”と聞こえていた。
獣に甘い。ただし獣には鬱陶しがられる人