11 寝る子は育つ
『元気してるか』
夢の中で、なんとなく懐かしくなった兄の顔を見た。
有馬はうん、と頷く。
『そりゃ良かった』
たったそれだけの、夢だった。
有馬は何時も通り柔らかな寝具の中で目を覚ました。
頭が痛い。はっきりしない意識の中で、のろのろと気だるい体を動かす。
「……ぅ……」
体が凄まじい倦怠感に包まれている。
有馬はぼんやりする頭を働かせて、寝すぎたか、と思い至った。
――昨日、どうやら泣き疲れたらしく、フォルテの腕の中でそのまま眠ってしまった。
そこからの記憶は無いが、夕食も食べずに寝たのは確かである。
体は清潔のようだから、恐らく寝ている間に風呂に入れられたのだろう。
午前中を寝て過ごしておいてよく目が覚めなかったな、と有馬は感心する。
起きて1時間で寝て、また起きて1時間と少しで寝て。結局昨日起きていた時間はたった2時間と少し。
そこまで寝れば頭痛もするし、だるくて当然だろう。
コンコン、と扉がノックされる。
「……ん」
静かに開いたドアから、美しく微笑みを湛えたクレイアが入室してくる。
「おはようございます、アリマ様。お体はどうですか?」
「あ、たま、いたい……だるい」
声も掠れている。有馬はゆっくりと手を動かし、目を擦る。
「った」
結局、泣きはらした目は痛かった。寝ている間にもまた泣いたらしく、涙が固まって開きづらい。
クレイアはそっと有馬の手を顔から引き剥がすと、有馬をゆっくり抱き起こした。
正直だるさで体が起こし辛かったので、有り難い。
「お顔を洗わせていただきます。よろしいですね?」
「……うぃ」
この時ばかりは、有馬も異論はなかった。もはや指先を動かすのも億劫だ。
有馬は従順に顔を洗われ、服を剥がされ、体も軽く拭かれる。
更に朦朧とし始めた思考のせいか、一切の抵抗を見せない。
というかまた目を閉じてうつらうつらとし始めた所を、クレイアに何度も起こされる。
「お辛いかもしれませんが、起きていてくださいまし」
「う……ぃ」
「寝てしまうと、もっと酷くなりますわ。あとで頭痛のお薬はお持ちしますけれど」
着せられた服は柔らかい綿のワンピースで、体を締め付けない。
けれど地味すぎる訳ではなく、紺色の布地の所々が黒いレースで飾られて優美に見える。
襟元や裾に金のラインが入っていて、有馬にとっても比較的好みなタイプである。
「朝食はどうなさいますか? こちらへお持ちしましょうか」
「……や、あっちで……」
「かしこまりました。立てますか?」
有馬は力なく頭を横に振る。
クレイアはくすくすと笑って、有馬の背中と膝の裏に腕を入れる。
「っ!?」
軽々と持ち上げられ、有馬は体を強張らせた。
「く、クレイアさん」
「大丈夫ですわ。私の種族をお忘れですか?」
獣人族は力や感覚に優れた種族だ。
体格や防御力では竜人に劣るものの、膂力や瞬発力は竜人族を凌ぐ。
尤も獣人族の中でも種族が数多くあるため、全部が全部そのタイプという訳では無いが。
ちなみに獣、といっても哺乳類だけではなく、鳥類や爬虫類、両生類の獣人も多い。
ようするに獣とは毛のある四足動物というより、動物全般を示しているのだ。
「……獣人」
「はい。これでも力は強いのですわ」
有馬はふと、3人の獣人らしい姿を見ていない事に気づいた。
イメージとしては獣の耳や尻尾のついた人間か、顔だけ獣か、服を着て歩く獣。
結局だるさに負けてそのまま抱かれ、連れていかれる。
居間のテーブルと椅子は、何時もと配置や形が違った。
「……?」
半月型のテーブルに、緩やかな弧を描く大きな椅子が、1つ。
「では、朝食をお持ちいたしますので」
丁寧に下ろされ、有馬は背凭れに体を預けてぼーっとする。
(……ま、いいか)
隣に座るくらい、何でもない。
痛む頭を背凭れに乗せて、有馬は静かにフォルテを待った。
フォルテが居間に入ると、有馬は既に船を漕いでいた。
「まだ寝るのか……?」
思わず呟く。昨日は何故か寝ながら服を掴んでくる有馬を引き剥がせず、夕方まであのままだった。
夕方になると流石にクレイアが来て起こそうとしたが、起きない。
仕方ないので引き離して風呂に入れさせてベッドに寝かせ、そして今に至る。
「有馬」
とりあえず肩を軽く揺らす。有馬は頭を不安定にゆらゆらとさせた後、ずるりと右側に向かって――フォルテに向かって倒れこんでくる。
「……」
無言でその肩を受け止め、とりあえず隣に座ったフォルテは溜息を吐く。
「起きろ」
そして暫くの間、ゆらゆらと揺すり続けた。
「おはよ」
五分ほども経った頃。
有馬はようやく目が覚めたといった感じで、欠伸をする。
隣にフォルテが居る事に関しては特に何も言わず、テーブルの上に置かれたポットから自分で紅茶を注ぐ。
「大丈夫か?」
「なにが?」
物凄く危なっかしい手付きにフォルテははらはらしたが、とりあえずは見守る。
底に刻まれた魔法陣で保温・保護されているポットは冷めないし、落としたとしても中身は一滴も零れず、割れる事も無い。
とはいえ落とせば音はするし、もし足の上なんかに落としたら当然痛い。
「1日近く寝ていただろう。だるくはないか?」
「だるい。頭いたい」
ちびちびと紅茶を飲む。猫舌の有馬は、時折ふうふうと息を吹きかけている。
「そうか。もう寝るな」
「寝れないって」
熱いまま飲む事を諦めたのかカップを置いて、おかしそうに笑う。
フォルテは呆れたように「寝てたじゃないか」と言った。
曖昧に笑って、有馬はだるい体を目覚めさせようと体を動かし始める。
ふらふらと足を彷徨わせる姿はお世辞にも行儀が良いとは言えないが、フォルテは特に文句は言わなかった。
朝食が運ばれてくる。有馬は昨日昼も夜も食事を摂っていないため、物凄く空腹だった。
とはいえ寝すぎのせいか口が何となく渋い感じがして、眉を顰める。
「有馬、食べられるか?」
気遣うような言葉に、生返事を返す。
有馬は生野菜や果物ばかりピラに詰め込んで食べる。
正直言って肉やら魚が食べられる気はしなかった。
「アリマ様、これならどうでしょう。魚なのですが、あっさりしていますわ」
「……? あ!」
クレイアに勧められたものを見て、有馬は目を輝かせる。
そこにあったのは確かに、シーチキンだった。
有馬はサラダを詰め込んだ上からそれを乗せて、はぐはぐと頬張る。
「いかがでしょう? 海辺の方で、つい最近考案されたそうですの」
「うまい」
「それは結構にございますわ。また仕入れましょうか?」
「ん!」
有馬は左手の親指を立てる。
彼女は食事を摂るのが面倒な時、大抵はシーチキンを白米やらパンに合わせて食べていた。
まさかこちらに来てから食べられるとは思っていなかったらしく、嬉しげだ。
「食事が終わりましたら、こちらを水で。お体に合えばよいのですけれど……」
「ん、ありがと」
薬包紙らしき四角い包みを乗せた小皿を置く。
有馬はもう1つピラを取ると、中にサラダとシーチキンを詰め込んで食べた。
「昨日は、ごめんね」
食べ終わって薬を飲んだ有馬は、思い出したように謝った。
「何がだ?」
「ずっと抱っこしてもらったまま寝てたみたいだし」
「……抱っこ、ってな」
妙に子供じみた物言いに、フォルテが苦笑する。
「俺は一応、抱っこじゃなくて抱き締めたつもりだったんだが」
「へぇ、そう?」
有馬はにやにや笑いながらフォルテの腕をつつく。
「随分と女慣れしてらっしゃるよーで」
「……お前な……俺にそういう経験は一切無いからな」
「へぇー?」
「小さい頃から、伴侶以外の女は絶対に手を出すな、と言われてきたんだ」
「男は?」
「阿呆か」
溜息を吐いて、フォルテの手が有馬の頭を軽く押さえる。
阿呆、と言われたにも関わらず有馬は目をぱちぱちと瞬かせ、笑顔を浮かべた。
「もう一回言って」
「……阿呆」
「うわ、何か……良い! フォルテもアホとか言うんだ」
有馬はほんのりと頬を紅潮させてフォルテを見つめている。
思い掛けないタイミングでそんな目を向けられ、フォルテは狼狽した。
「……そういう趣味か?」
「さあ?」
首を傾げる。実の所、有馬は自分が何をされて嬉しく思うのか、あまり知らない。
というか、される事よりもしてくる相手の方が重要なのだろう。
「フォルテ、仕事は?」
「ああ……そうだな」
フォルテは何故か、意を決したように真面目な表情で立ち上がる。
「? がんばってね」
「ああ」
有馬は知らないが、彼はこれから――昨日休んだツケを支払う必要があるのだ。
積み上げられた書類の量を見て、珍しくも彼が逃げ出したい気持ちになったのは言うまでもない。
◆
「あ、ロボ。どこ行ってたの?」
部屋に戻った有馬は、先ほどは居なかった筈のロボを見つけた。
ソファの足元に伏せているロボは、くい、と鼻先を上げる。
「少々出歩いておっただけじゃ」
「ふーん」
有馬はソファに座り、足まで乗せる。
「ベル」
今日のスカートは胡坐を掻きにくいため、足を揃えて斜めに座っている。
杖からきらきらと光る精霊が現れ、有馬は溜息を吐いた。
「……いつ帰ってきたの?」
『昨日だけど』
「昨日のいつ?」
『昼』
思い切りニヤニヤしているベル。――昨日も杖は、このテーブルに置かれていた。
つまり、全て見られていた訳だ。
「……まあ、いいや。観賞代」
『じゃ、自然魔法を教えるって事で』
「よろしい」
有馬は満足げに笑う。
そういう訳で、今日は自然魔法の練習を始める事となった。
――自然魔法とは、文字通り自然魔力を操る魔法の事だ。
本来マナを扱えるのは精霊や神獣のみだが、他の生物にも時折扱える者が生まれる。
とはいえ適性があっても、使い方を知らないまま一生を終える事が多い。
しかし運良く師を得たならば、一騎当千の大魔法使いにもなり得る。
『マナの流れは掴める?』
「んー」
マナの流れを掴むのは、魔力の流れを掴むよりは簡単に思えた。
血流よりも風の方が分かりやすい、という事だろう。
『そう、そんな感じ。最初は風からだね』
「風ねぇ」
『一番簡単なんだ。風が空気の流れだって理解できればね』
「それくらい分かるけど」
『ま、ぶっちゃけ感覚だからねえ。そうそう、《精霊眼》使ってみるといいよ』
有馬は頷くと、渋々と言った顔でゆっくり瞬きをする。
「っう」
瞬時に視界が色とりどりの靄に包まれる。
自分から立ち上る金、ロボから染み出す銀、ベルから漂う白金。
体表から数センチで解けて消えるそれは、魔力とマナの輝き。
『無色の所がマナだよ。場所の影響とかで色つきになるマナもあるけど』
「これを動かせばいいんだよね」
『うん。頑張ってー』
へらへらと笑うベルを横目に睨んで、有馬は気合を入れた。
有馬はとりあえず、感じているマナの流れを引き寄せた。
まるで手足を動かすようにあっさりと流れてきて、しかし髪をそよがせる事のないそれ。
触れる感覚は曖昧で、温度も感じないのにそこにある事が分かる。
「……えい」
おもむろに右手を上げ、つい、と指を振る。
そこにあったマナが感じられなくなると同時に、室内にふわりと風が吹いた。
『おお、すごい』
確かに、感覚で操るとしか言いようが無かった。
今やった事を説明しろ、と言われても出来ないだろう。
「次は?」
『じゃ、水。そこのコップに水を満たして』
やる事だけを提示し、丸投げする。
有馬としてはもう少しコツを教えてもらいたいが、先ほどの感覚からして言葉に表し辛いのだろう。
黙ってコップを握り、とりあえず中にマナを集める。
――つい最近分かった事だが、空気中のマナの量にはムラがある。
どうやら多い場所と少ない場所が存在しているのだ。
「水、ね」
水――酸素と水素、H2O。有馬はそんな事を思い出しつつ、コップの中のマナを操る。
人差し指を差し入れて、マドラーのようにくるりと回す。
一周する時には既にコップは清涼な水で満たされていた。
『よくできました。はい飲んで飲んで』
「……うまい!」
水の味など分からないが、冷たくて喉に染みる。
有馬は「これで放り出されても生きていける」とシビアな事を呟きつつ、魔法の便利さに感心するのであった。
一晩寝たら忘れる図太さ。