イチゴ と聞いた種
肥料を探しに行ったのに、七海は種を持って帰ってきた。
上着の内側に、小さな紙袋がある。
歩いても音はしない。何度か胸へ手を当てて、落としていないことを確かめた。
イチゴの種だという。
地上から物を持ち帰るハンターが、ピアノを直す老人へ渡した。老人は弦と交換に、青い看板の店へ置いていった。
そこから先を、七海が引き受けた。
店に置いてきたジャガイモの重さは、まだ腕に残っている。
代わりに得たものは、袋ごと掌へ載せても、持っている気がしないほど軽かった。
*
重力が反転して五年。
東京の地下鉄や地下施設をつないだ街、メトロジェイルで、七海は野菜を育てる仕事をしていた。
ヤオヤ、と呼ばれている。
仕事場は、地下神殿と呼ばれる大きな空間の一角にあった。高い柱の間に人工灯が並び、その光の下で、葉が何列にも重なっている。
ここでは、朝が来たから明るくなるわけではない。人が灯りを点け、水を運び、土を整えなければ、次の食事は育たなかった。
七海は上着を脱ぐ前に、紙袋を作業台へ置いた。
その隣には、今日運ばれてきた肥料の袋がある。
中は、思ったより少なかった。
「おかえりなさい」
木箱を抱えたユラが、通路から入ってきた。
居住区画や炊事場を回り、土へ戻せるものを集めている若い女だった。
「そっちは、どう?」
七海が訊くと、ユラは箱を作業台へ載せた。
葉の切れ端。
硬い茎。
薄く剥かれた皮。
箱の底が、ところどころ見えていた。
「今日は、これだけ」
「少ないね」
「皮もスープに入れたって」
七海は箱の中を見たまま頷いた。
「食べられたんなら、よかった」
そう答えたあとで、肥料の袋をもう一度見た。
ユラが集めたものは、このまますぐ根元へ撒けるわけではない。選り分け、手をかけ、使える状態になるまで待つ必要がある。
今日足りないものは、今日の屑では埋まらなかった。
「三番の葉箱、見た?」
「さっき。先のほうが、少し」
ユラが指先を曲げた。
七海は上着を脱ぎ、作業台へ畳んで置いた。
*
三番の葉箱は、共同炊事場へ渡す葉を育てている。
七海は膝をつき、葉の裏を見た。根元へ指を入れ、土の具合を確かめる。
収穫まで、もう少しかかる。ここで弱らせれば、次に渡せる量が減る。
ユラが後ろで待っていた。
「今ある肥料、どこへ回す?」
七海は立ち上がりかけて、作業台を見た。
小さな紙袋。
畳んだ上着の隣に、白い角だけがのぞいている。
店先でマコに訊かれた。
イチゴって、どんな味だったっけ。
甘くて、酸っぱい。
そう答えた。
けれど、思い出していたのは味だけではなかった。
指でつまむと、思ったより柔らかかったこと。
洗ったあとに残る水の粒。
いちばん赤いものを取ったつもりなのに、隣の人のほうが甘そうに見えたこと。
「七海?」
呼ばれて、葉箱へ目を戻した。
「三番へ。量を見ながら入れよう」
ユラは頷き、肥料の袋を取りに行った。
七海は傷んだ葉先を指でつまんだ。
そっと、葉の表面を撫でる。
まだ茎には張りがあった。
作業を終えると、袋の底には土が薄く残るだけになった。ユラが袋を逆さにし端を叩くと、最後の少しが、葉箱へ落ちた。
「市場には、なかった?」
「肥料はね」
ユラは空になった袋を畳みながら、七海を見た。
「何かは、あったんだ」
*
紙袋の口を開くと、ユラが顔を近づけてきた。
「これ、種?」
「イチゴだって」
「へえ」
ユラは、掌を出しかけて引っ込めた。指に土が付いている。
「本当に?」
「そう聞いてる。古いものらしいから、芽が出るかは分からない」
七海は少しだけ袋を傾けた。
小さな粒が折り目のところへ集まる。
「植えるの?」
「そのつもり」
言ってから、七海は袋を立て直した。
ユラは空の肥料袋を見た。
何も言わずに折り畳み、決まった場所へしまった。
その仕草が、七海にはありがたかった。
植えたらいいとも、やめたらいいとも、言われなかった。
「肥料、また探してくるね」
「無理に残してもらわなくていいよ。食べられるものは、食べてもらって」
「分かってる」
ユラは木箱を抱え直し、選り分けの作業場へ戻っていった。
七海は紙袋を閉じた。
しまう場所なら、ある。
水のかからない棚へ置いておけばいい。
今日の仕事は、あと少しで終えられる。
七海は、袋の口をもう一度しっかりと折って、それを上着の下にしまった。
*
収穫した葉を包み、使った道具を片づけても、七海は帰らなかった。
栽培箱の端に、小さな空き箱があった。
苗を移したあと、使わずに置いてあったものだ。底の傷みを確かめ、作業台へ運ぶ。
箱は軽かった。
これなら、抱えて場所を変えられる。
七海は棚から、種まき用に取り分けてあった土を出した。
残りは少ない。箱いっぱいに使うには足りないが、小さな区画なら作れた。
いつもの葉の種袋を、その隣へ並べる。
イチゴと書かれた種だけをまいても、芽が出なかったときに理由が分からない。
古すぎたのか。土や置き場所が合わなかったのか。
全部を一度に使うのは、やめようと思った。
七海は紙袋から、少しずつ種を出した。
指に付いた一粒を落とさないよう、白い紙の上で数える。
小さな箱の一方に、いつもの葉。
もう一方に、持ち帰った種を置いた。
残りは紙袋へ戻す。
袋の口を折り、今度は棚へしまった。
「何してるの?」
食堂車へ出かける前に、ユラが入口で足を止めた。
「試す分だけ」
七海は空いている場所を示した。
「いつもの葉も一緒に。比べられるようにしておく」
ユラは作業台へ近づき、まだ何も生えていない箱を見た。
「小さいね」
「最初は、これくらいでいい」
口に出してから、七海は箱の幅をもう一度確かめた。
実がなったとしても、街じゅうへ配れる量ではない。
苗を増やすには時間も場所も要る。明日の食卓に足せるものではない。
それでも、この箱を今日から見ていく。
「印、付けないの?」
ユラに言われ、七海は作業台を探った。
使い古した札が二枚あった。
裏返すと、片方には薄く文字が残っている。七海は布で拭き、ペンを取った。
いつもの葉の名前を書き、箱の左側へ挿す。
もう一枚には、『イチゴ』と書いた。
しばらく見てから、その下へ小さく付け足す。
『と聞いた種』
ユラが横から読んだ。
「長い名前」
「ホントのことだもん」
七海は右側へ札を挿した。
*
水を与え終え、箱を持ち上げる。
灯りの届く場所へ運び、ほかの作業の邪魔にならないところへ置いた。
離れて見ると、二本の札ばかりが目立った。
ユラが隣へ来た。
「イチゴって、先に花が咲くんだよね」
「うん」
「白い花?」
「そう。真ん中が黄色い」
七海は指先で、小さく丸を描いた。
「実より、ずっと小さいよ」
「じゃあ、赤くなる前にも見に来よう」
七海は答えかけて、箱を見た。
花まで行けるかどうか、まだ分からない。
ユラはしゃがみ、土の表面を眺めている。
「芽、出たら教えて」
「うん」
それなら、答えられた。
*
ユラが帰ったあと、七海は栽培箱の間をもう一度歩いた。
三番の葉箱で足を止める。
さっき肥料を入れたばかりで、見た目はまだ変わらない。指先で葉をよけ、土の様子を確かめた。
次に、小さな試しの箱を見る。
こちらにも、変化はなかった。
作業台へ戻り、記録の紙を広げる。
水を与えた時刻と、使った土、置いた場所を書いた。
最後に、試した種の数を書き込む。
鉛筆を置くと、上着の内側が空になっていることに気づいた。
市場から戻る間、何度も確かめた紙袋は、もうそこにはない。
七海は棚を見た。
残りの種は、ちゃんとしまってある。
上着を着て、入口へ向かった。
途中で振り返る。
人工灯の下に、小さな札が二本立っていた。
右の札が、少し左へ傾いていた。
七海は戻って、まっすぐに直した。




