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イチゴ と聞いた種

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/06



 肥料を探しに行ったのに、七海は種を持って帰ってきた。


 上着の内側に、小さな紙袋がある。

 歩いても音はしない。何度か胸へ手を当てて、落としていないことを確かめた。


 イチゴの種だという。


 地上から物を持ち帰るハンターが、ピアノを直す老人へ渡した。老人は弦と交換に、青い看板の店へ置いていった。

 そこから先を、七海が引き受けた。


 店に置いてきたジャガイモの重さは、まだ腕に残っている。

 代わりに得たものは、袋ごと掌へ載せても、持っている気がしないほど軽かった。


     *


 重力が反転して五年。

 東京の地下鉄や地下施設をつないだ街、メトロジェイルで、七海は野菜を育てる仕事をしていた。


 ヤオヤ、と呼ばれている。


 仕事場は、地下神殿と呼ばれる大きな空間の一角にあった。高い柱の間に人工灯が並び、その光の下で、葉が何列にも重なっている。

 ここでは、朝が来たから明るくなるわけではない。人が灯りを点け、水を運び、土を整えなければ、次の食事は育たなかった。


 七海は上着を脱ぐ前に、紙袋を作業台へ置いた。

 その隣には、今日運ばれてきた肥料の袋がある。


 中は、思ったより少なかった。

 

「おかえりなさい」


 木箱を抱えたユラが、通路から入ってきた。

 居住区画や炊事場を回り、土へ戻せるものを集めている若い女だった。


「そっちは、どう?」


 七海が訊くと、ユラは箱を作業台へ載せた。


 葉の切れ端。

 硬い茎。

 薄く剥かれた皮。


 箱の底が、ところどころ見えていた。


「今日は、これだけ」

「少ないね」

「皮もスープに入れたって」


 七海は箱の中を見たまま頷いた。


「食べられたんなら、よかった」


 そう答えたあとで、肥料の袋をもう一度見た。


 ユラが集めたものは、このまますぐ根元へ撒けるわけではない。選り分け、手をかけ、使える状態になるまで待つ必要がある。

 今日足りないものは、今日の屑では埋まらなかった。


「三番の葉箱、見た?」

「さっき。先のほうが、少し」


 ユラが指先を曲げた。

 七海は上着を脱ぎ、作業台へ畳んで置いた。


     *


 三番の葉箱は、共同炊事場へ渡す葉を育てている。


 七海は膝をつき、葉の裏を見た。根元へ指を入れ、土の具合を確かめる。

 収穫まで、もう少しかかる。ここで弱らせれば、次に渡せる量が減る。


 ユラが後ろで待っていた。


「今ある肥料、どこへ回す?」


 七海は立ち上がりかけて、作業台を見た。

 小さな紙袋。

 畳んだ上着の隣に、白い角だけがのぞいている。


 店先でマコに訊かれた。


 イチゴって、どんな味だったっけ。


 甘くて、酸っぱい。

 そう答えた。


 けれど、思い出していたのは味だけではなかった。


 指でつまむと、思ったより柔らかかったこと。

 洗ったあとに残る水の粒。

 いちばん赤いものを取ったつもりなのに、隣の人のほうが甘そうに見えたこと。


「七海?」


 呼ばれて、葉箱へ目を戻した。


「三番へ。量を見ながら入れよう」


 ユラは頷き、肥料の袋を取りに行った。


 七海は傷んだ葉先を指でつまんだ。

 そっと、葉の表面を撫でる。

 まだ茎には張りがあった。


 作業を終えると、袋の底には土が薄く残るだけになった。ユラが袋を逆さにし端を叩くと、最後の少しが、葉箱へ落ちた。


「市場には、なかった?」

「肥料はね」


 ユラは空になった袋を畳みながら、七海を見た。


「何かは、あったんだ」


     *


 紙袋の口を開くと、ユラが顔を近づけてきた。


「これ、種?」

「イチゴだって」

「へえ」


 ユラは、掌を出しかけて引っ込めた。指に土が付いている。


「本当に?」

「そう聞いてる。古いものらしいから、芽が出るかは分からない」


 七海は少しだけ袋を傾けた。

 小さな粒が折り目のところへ集まる。


「植えるの?」

「そのつもり」


 言ってから、七海は袋を立て直した。


 ユラは空の肥料袋を見た。

 何も言わずに折り畳み、決まった場所へしまった。


 その仕草が、七海にはありがたかった。

 植えたらいいとも、やめたらいいとも、言われなかった。


「肥料、また探してくるね」

「無理に残してもらわなくていいよ。食べられるものは、食べてもらって」

「分かってる」


 ユラは木箱を抱え直し、選り分けの作業場へ戻っていった。


 七海は紙袋を閉じた。


 しまう場所なら、ある。

 水のかからない棚へ置いておけばいい。


 今日の仕事は、あと少しで終えられる。

 七海は、袋の口をもう一度しっかりと折って、それを上着の下にしまった。


     *


 収穫した葉を包み、使った道具を片づけても、七海は帰らなかった。


 栽培箱の端に、小さな空き箱があった。

 苗を移したあと、使わずに置いてあったものだ。底の傷みを確かめ、作業台へ運ぶ。


 箱は軽かった。

 これなら、抱えて場所を変えられる。


 七海は棚から、種まき用に取り分けてあった土を出した。

 残りは少ない。箱いっぱいに使うには足りないが、小さな区画なら作れた。


 いつもの葉の種袋を、その隣へ並べる。


 イチゴと書かれた種だけをまいても、芽が出なかったときに理由が分からない。

 古すぎたのか。土や置き場所が合わなかったのか。


 全部を一度に使うのは、やめようと思った。


 七海は紙袋から、少しずつ種を出した。

 指に付いた一粒を落とさないよう、白い紙の上で数える。


 小さな箱の一方に、いつもの葉。

 もう一方に、持ち帰った種を置いた。


 残りは紙袋へ戻す。

 袋の口を折り、今度は棚へしまった。


「何してるの?」


 食堂車へ出かける前に、ユラが入口で足を止めた。


「試す分だけ」


 七海は空いている場所を示した。


「いつもの葉も一緒に。比べられるようにしておく」


 ユラは作業台へ近づき、まだ何も生えていない箱を見た。


「小さいね」

「最初は、これくらいでいい」


 口に出してから、七海は箱の幅をもう一度確かめた。


 実がなったとしても、街じゅうへ配れる量ではない。

 苗を増やすには時間も場所も要る。明日の食卓に足せるものではない。

 

 それでも、この箱を今日から見ていく。

 

「印、付けないの?」


 ユラに言われ、七海は作業台を探った。


 使い古した札が二枚あった。

 裏返すと、片方には薄く文字が残っている。七海は布で拭き、ペンを取った。


 いつもの葉の名前を書き、箱の左側へ挿す。

 

 もう一枚には、『イチゴ』と書いた。


 しばらく見てから、その下へ小さく付け足す。


『と聞いた種』


 ユラが横から読んだ。


「長い名前」

「ホントのことだもん」


 七海は右側へ札を挿した。


     *


 水を与え終え、箱を持ち上げる。

 灯りの届く場所へ運び、ほかの作業の邪魔にならないところへ置いた。


 離れて見ると、二本の札ばかりが目立った。


 ユラが隣へ来た。


「イチゴって、先に花が咲くんだよね」

「うん」

「白い花?」

「そう。真ん中が黄色い」


 七海は指先で、小さく丸を描いた。


「実より、ずっと小さいよ」

「じゃあ、赤くなる前にも見に来よう」


 七海は答えかけて、箱を見た。

 花まで行けるかどうか、まだ分からない。


 ユラはしゃがみ、土の表面を眺めている。


「芽、出たら教えて」

「うん」


 それなら、答えられた。


     *


 ユラが帰ったあと、七海は栽培箱の間をもう一度歩いた。


 三番の葉箱で足を止める。

 さっき肥料を入れたばかりで、見た目はまだ変わらない。指先で葉をよけ、土の様子を確かめた。


 次に、小さな試しの箱を見る。

 こちらにも、変化はなかった。


 作業台へ戻り、記録の紙を広げる。

 水を与えた時刻と、使った土、置いた場所を書いた。


 最後に、試した種の数を書き込む。


 鉛筆を置くと、上着の内側が空になっていることに気づいた。

 市場から戻る間、何度も確かめた紙袋は、もうそこにはない。


 七海は棚を見た。

 残りの種は、ちゃんとしまってある。


 上着を着て、入口へ向かった。


 途中で振り返る。

 人工灯の下に、小さな札が二本立っていた。


 右の札が、少し左へ傾いていた。

 

 七海は戻って、まっすぐに直した。


 

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