エレベーター
「あっ…… 当たった……」
声に出したつもりはなかった。
けれど、狭い部屋の中に、その一言だけが妙にはっきり残った。
俺はスマートフォンの画面を見たまま、しばらく動けなかった。
田舎の高校を卒業して、すぐ東京に出た。
別に夢があったわけじゃない。
俳優になりたいとか、金持ちになりたいとか、東京で何かを成し遂げたいとか、俺には才能があるとか、そんな立派なものは何ひとつなかった。
ただ、田舎から出たかった。
親から離れたかった。
それだけだった。
就職して二年目の春、職場の先輩に中山競馬場へ連れて行かれた。
最初は何が面白いのか、よく分からなかった。
新聞には数字と知らない馬の名前がびっしり並び、周りのおっさんたちは意味の分からない言葉を怒鳴っている。
ところが、買った馬が最後の直線で前に出た。
ビギナーズラック。
たった千円の馬券が15万円になった。
体が震えて、胸の奥がぞくっとした。
その感覚を、俺は覚えてしまった。
それからは早かった。
給料のほとんどを競馬に使った。
電気が止まった。
ガスも止まった。
水道まで止まりかけたことがある。
親には、
「世話になっている先輩に、どうしてもって頼まれて貸した金が戻ってこない」
と嘘をついた。
実際には、お世話になってる先輩から、金を借りていたのは俺の方だった。
心配した母親が振り込んでくれた金で電気代を払うつもりだった。
でも、その金も馬券になった。
結局、電気はしばらく止まったままだった。
こんな俺にも、彼女ができたことがある。
梅屋敷商店街の弁当屋で働いている子だった。
その店は弁当だけじゃなくて、総菜の種類も豊富で、美味しかった。
大森西に住んでいた俺は、その店によく通っていた。
俺と同じで、親元を離れたくて、東北の田舎から出てきた子だった。
そのせいか妙に馬が合った。
少し仲良くなった頃、思い切って土曜日に競馬へ誘ってみた。
今思えば、あの日の彼女は勝利の女神だったのかもしれない。
その日、俺が買った4レースは、全部当たった。
かなり得意げになっていたと思う。
勝った金で、品川にある高級店へ天ぷらを食べに行った。
普段着の俺たちは、明らかに店の中で浮いていた。
周りはきちんとした服を着た客ばかりで、少し場違いな感じもした。
最初、彼女は周囲を気にしてそわそわしていた。
けれど、料理が出てくると、そんなことはすぐにどうでもよくなったらしい。
料理好きの彼女は、一品出てくるたびに目を輝かせていた。
あのとき食べた天ぷらは、本当に美味しかった。
でも、それ以上に覚えているのは、彼女の嬉しそうな笑顔だ。
あれが、たまらなかった。
その日のうちに、俺たちは付き合うようになった。
人生で二人目の彼女。
保育園の時以来だった。
料理好きというだけあって、何でも手際よく作ってくれた。
ただ、どの料理も弁当屋の味より濃かった。
それ以外は、嫌いなところなんてなかった。
彼女ができても、俺には変わらないものがあった。
それは、競馬だ。
次の日の日曜日には、仕事の彼女を置いて、一人で競馬場へ出かけた。
そして、前の日に勝った分以上に負けた。
それからも、勝利の女神のはずの彼女を連れて行った。
けれど、負けた。
また連れて行った。
やっぱり負けた。
そのうち二人で話し合って、競馬をやめることにした。
三か月くらいだったと思う。
気がつけば、俺はまた一人で競馬場にいた。
自分でも、理由は分からない。
すぐにバレた。
1年間付き合って、別れたくなかったけど。
それが原因で、大好きだった彼女に…… フラれた。
ネットで馬券なんて買わない。
それだけは、ずっと俺の主義だった。
馬を見て、空気を吸って、ざわめきを聞いて、発走前の妙な緊張の中にいる。
そこまで含めて競馬だと思っていた。
競馬場には、ときどき驚くほど年寄りの男がいる。
腰を曲げ、杖をつき、歩くのもやっとなのに、競馬場には来る。
俺は、ああいうじいさんを見るのが好きだった。
きっとろくでもない人生だったんだろう。
勝ったり、負けたり。
家族に怒られたり捨てられたり。
友人に呆れられたり。
それでも、最後まで好きなものを手放さなかった。
勝手な想像だけど、俺にはそれが妙に格好よく見えた。
ああいう年寄りになりたいと思った。
人生なんて、楽しく、おかしく、少しくらい波乱万丈なほうがいい。
だから、ネット投票なんて味気ないと思っていた。
ただ。
便利なのは間違いない。
どこにいても買える。
寝坊で買い逃したレースが、俺の予想通りだったことなんて、一度や二度ではない。
それに、借金で頭の上がらない先輩のBBQの手伝いを、日曜日にしないといけない。
数週間後、俺はネットで馬券を買えるようになった。
そして今。
画面に表示された数字を、俺はもう一度見た。
1レース目。
当たり。
2レース目。
当たり。
3レース目。
4レース目。
5レース目。
全部、当たり。
指先が冷たくなっていた。
俺は、小さく言った。
「あっ…… 当たった……」
的中票数は1票。
つまり、俺だけだ。
払戻金は……
4億2012万7890円
「う、嘘だよな……」
信じない。
俺は、信じないぞ。
こんな金額。
当たるわけない。
「どど、どうやって、引き出すんだ?」
スマホの画面を適当に押した。
「こ、これか。しゅっ、出金指示でいいのか……」
すぐに楽天銀行の残高に、見慣れない桁の数字が現れた。
4億2013万7900円
もとからあった1万10円に足されていた。
本当に入っている。
何度見ても、消えない。
「……怖っ」
急に、そう思った。
ネット銀行なんて信用できるのか?
画面の中に4億円。
そんなもの、金を持っている実感がまるでない。
俺には、ずっと使っている地方銀行の口座があった。
給料もそこ。
家賃もそこから落ちる。
親から仕送りしてもらったときも、使っていたのはその口座だった。
東京に支店もある。
窓口もある。
何かあれば、人間に直接聞ける。
やっぱり、金を置くなら銀行はこういうところだ。
そう思った。
俺は、楽天銀行に入った金を、全額そっちへ移すことにした。
信用ならなくても。
ネットの銀行は、こういうときは便利だ。
すぐに振り込めた。
でも、今日は日曜日。
明日は仕事を休んで、記帳に行こう。
それで本当に4億円入っていたら……
仕事を辞めよう。
そして…… そして俺は。
翌朝、俺は仕事を休んで銀行へ向かった。
品川にある支店へ着くと、俺はまっすぐATMに向かい、通帳を差し込んだ。
しばらくして、機械の中から乾いた音が聞こえた。
出てきた通帳を開いた。
そこには、見慣れた数字の並びの中に、見慣れない桁が印字されていた。
4億2013万7918円。
残高の18円が加算されてた。
スマホの画面で見たときとは違った。
何年も使ってきた通帳。
その同じ通帳に、4億円と印字されている。
そこで初めて、俺は本当に金持ちになったのだと思った。
銀行を出てすぐに、職場へ電話した。
「今日で辞めます。お世話になりました」
高校を卒業してから、ずっと働いてきた会社だった。
電話の向こうで事務員が何か言っていたけれど、ほとんど耳に入らなかった。
それから俺は、銀行に戻った。
そして、現金を30万円だけ下ろした。
4億円持っているのに、30万だけ。
それ以上は、俺の薄い財布には入らないからだ。
けど、この時になって、本当に夢じゃないんだと実感した。
まずは…… そうだな。
俺はその足で、駅ビルへ向かった。
財布売り場なんて、今までまともに見たこともない。
並んでいる財布の値札を見て、最初は少しひるんだ。
3万円。
5万円。
8万円。
財布に8万円。
昨日までの俺なら、頭がおかしいと思っていた。
けれど今の俺には、4億円ある。
そう思った瞬間、値札の数字が急に小さく見えた。
結局、濃い茶色の革の財布を買った。
ついでに、18万円のバッグも買った。
トイレでさっそく、新しい財布に残った札を入れる。
スーパー、ドラッグストア、家電量販店のポイントカードに、飲食店のスタンプカード。
こんなもの、これからの俺にはもう必要ない。
古い財布と一緒に、トイレのごみ箱へ捨てた。
外に出ると、妙に気分がよかった。
俺はまた、確かめるように銀行へ向かった。
金を引き出して、行かなけりゃいけないところがあった。
金額を入力する。
確認。
しばらくして、画面に文字が出た。
お取り扱いできません。
「……は?」
もう一度やった。
同じだった。
「なんでだよ」
金額を減らした。
それでも駄目だった。
急に、心臓が速くなった。
まさか。
さっきまであったよな。
いや、あった。
通帳にも印字されていた。
でも、本当に?
俺は慌てて残高照会を押した。
数字は出ている。
4億円。
ある。
なのに、金が出てこない。
「なんでだよ……」
背中に汗がにじんだ。
もしかして、全部夢だったのか。
昨日から今まで、俺が見ていたもの全部。
競馬も。
4億も。
仕事を辞めたことも。
財布もバッグも。
全部、頭の中だけだったんじゃないか。
「どうされましたか?」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、銀行員が立っていた。
「あの、お、お金が、出ないんです」
「出金ですか?」
「はい。残高はあるんです。ちゃんとあるんですけど」
自分でも、何をそんなに必死になっているのか分からなかった。
銀行員は画面を確認して、すぐに言った。
「本日のATM出金限度額ですね」
「……限度額?」
「はい。今日はすでに30万円出金されていますので、あと20万円までしかATMではご利用いただけません」
……知らなかった。
力が、ガクッと抜けた。
「……ああ」
思わず、その場で笑ってしまった。
夢じゃない。
ちゃんとある。
4億円は、まだ俺のものだ。
「窓口なら下ろせますか?」
「はい。金額によりますが、こちらで承れます」
俺は窓口で手続きをして、追加で300万の現金を下ろした。
さっき買ったばかりのバッグが、ずしりと重かった。
今度こそ、心の底から安心した。
やっぱり夢じゃない。
俺は、本当に4億円を持っている。
平日の昼間。
街には、仕事中らしい人間がいくらでもいた。
スーツ姿で急ぎ足の男。
荷物を抱えて走る若い店員。
汗を拭きながら、工事現場へ戻っていく作業員。
昨日までなら、俺もあっち側だった。
朝になれば起きて、決まった時間に職場へ行く。
上司に頭を下げて、時計を気にして、給料日を待つ。
それを、あと何十年も続ける。
でも、俺はもう違う。
働かなくてもいい。
嫌な奴に頭を下げなくてもいい。
目覚まし時計だって、もう必要ない。
行き交う人たちを眺めながら、俺は思わず笑った。
勝ち組だ。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
競馬だけじゃない。
人生そのものに、勝ったような気がした。
そして、俺が向かった先は消費者金融だった。
三社を回った。
借りていた金は、全部で254万円。
全額、返した。
長いこと俺にまとわりついていた借金が、たった数時間で消えた。
けれど、肩の荷が下りたような感覚はなかった。
今の俺にとって、254万円は、もう重荷と呼ぶには小さすぎた。
さぁ、次はどこへ行こうか。
普通なら、どこかに遊びに行くのかもしれない。
高い酒を飲んだり、欲しかったものを買ったり。
ただ、ただ品川駅周辺を歩いていた。
ずっと、ずっと何時間も。
笑みを浮かべながら。
そして、歩き疲れたころ。
ふいに、俺の頭に、ある人が浮かんだ。
品川駅に戻って、京急線に乗った。
向かう先は、梅屋敷駅。
別れてから、一度も彼女が働く弁当屋に行ってない。
以前は、ほぼ毎日通ってたくせに……
「まもなく、梅屋敷、梅屋敷です。降り口は……」
駅を出て、商店街を歩く。
店が見えてくると、俺は少し離れたところで足を止めた。
……いた。
店の奥で、彼女が働いている。
運がよかった。
昼の忙しい時間は終わったらしく、客はいない。
しかも、どうやら一人きりのようだった。
俺はしばらく、遠くから店を眺めていた。
たった数か月来なかっただけで、ずいぶん入りづらい場所になっていた。
意を決して、店の中へ入った。
彼女が顔を上げる。
一瞬、動きが止まった。
「美咲…… 久しぶり」
「……うん」
「元気?」
「……うん。隆は?」
「うん。元気だよ」
それだけだった。
ほぼ毎日のように顔を合わせていたくせに。
こんな簡単な会話をするだけで、妙に緊張した。
「あ、あの……」
「……なに?」
「や、やり直せないかな。俺たち……」
美咲は視線を落として、何も答えなかった。
「もう、競馬はしない。約束するから。それに……」
さっきまでとは違い、美咲は俺を見つめていた。
今度は、俺が視線を落とした。
どうしよう……
言ってしまうか。
どうしよう。
「お、俺…… もう、お金の心配ないんだ……」
「……どういうこと?」
「こ、これを見てくれ」
通帳を差し出した。
美咲は、すぐには手を伸ばさなかった。
けれど、俺が差し出したままでいると、静かに通帳を受け取った。
そして、ゆっくりと開いた。
「……これ、なんの冗談?」
「いや、ち、違う。当たった」
「なにが?」
「WIN5」
「競馬の?」
「そう。当たったんだ。昨日……」
美咲は、もう一度通帳を見た。
それから静かに閉じて、俺に差し出した。
「……ごめんなさい」
「……えっ」
「ごめんなさい。もう、戻れない……」
「ど、どうして!?」
美咲は何も答えなかった。
「この金があれば、美咲だって、もうこんな弁当屋で働かなくていいんだよ? 俺と毎日、好きなところに行って、旅行して……そんな生活を送れるんだよ」
それでも美咲は何も答えず、ただ俯いていた。
「そ、そんなに……そんなに俺のことが嫌いなの?」
美咲は、俯いたままだった。
もう、何を言っても駄目なんだと思った。
「……そっか」
それだけ言って、俺は店を出た。
自動ドアが、背後で音を立てて閉まった。
数歩歩いて、なぜか振り返った。
ガラス越しに見えた美咲が、泣いていた。
俯いたまま、手の甲で何度も涙を拭っていた。
どうして……
どうして泣いているんだよ。
泣きたいのは、俺の方だよ……
この時、美咲のさっきの言葉が、頭をよぎった。
「もう、戻れない……」
たしかに、そう言っていた。
嫌いとは、言っていない。
……もしかして。
俺は踵を返して、もう一度店に入った。
自動ドアが開く音に、美咲が顔を上げた。
「さっき、もう戻れないって言ったよね」
美咲は何も言わない。
「それって…… もしこの金がなかったら」
喉が詰まった。
「俺が今日、ただここに来て、やり直したいって言ってたら…… 戻ってきてくれたの?」
美咲の顔が歪んだ。
そして、泣きながら、小さく頷いた。
「だって……」
声が震えていた。
「今、戻るって言ったら…… お金で決めたみたいじゃない……」
美咲は涙を拭いながら、何度も首を振った。
「そんなの…… 嫌だもん……」
「美咲…… ごめん! ごめんなさい! 俺が馬鹿だった。通帳なんか見せたりして。けど、けど…… どうしても美咲に戻ってきてほしくて、それで…… それで、つい……」
俺は、美咲を抱きしめた。
そして、つい言ってしまった。
「俺と…… 結婚してくれ」
プロポーズは、俺たちが出会った梅屋敷の弁当屋。
さまざまな総菜に囲まれた場所だった。
美咲は、小さな声で返事をしてくれた。
「……うん」
どうしてだろう。
4億円が当たった昨日よりも、ずっと、ずっと今の方が、幸せを感じる。
どうしてだろう……
俺は、抱きしめたまま、美咲の名を呼んだ。
「美咲……」
「……なに?」
「仕事、何時に終わるの?」
「えとね……」
「うん」
「今15時だから、あと一時間くらい」
「わかった。じゃあ、16時に迎えにくるよ」
「……うん」
俺は店を出た。
振り返ると、美咲は笑みを浮かべて俺を見送ってくれていた。
俺も大きく手を振って、梅屋敷商店街をあとにした。
俺の家は、弁当屋から歩いて三分ほどのところにある。
築55年。
家賃は月5万3千円。
2階建ての狭いワンルームのアパートだ。
その前に立って、しばらく建物を眺めた。
ここに、もう十年も住んでるのか……
新しいバッグに目をやり、それからもう一度、古びたアパートを見上げた。
住むところも、新調するか。
階段を上がろうとした、その時だった。
「おい、隆!」
後ろから声がした。
振り返ると、俺が金を借りている会社の先輩だった。
まだ仕事中の時間だというのに、俺の様子を見に来たみたいだ。
「お前、聞いたぞ。会社辞めるのか?」
「はい……」
「急すぎるだろ。辞めてどうするんだよ?」
「……実家に帰ります」
咄嗟に嘘をついた。
「実家?」
「はい。親が、戻ってきて農家の跡を継いでくれって」
これでいい。どうせ、ここも引っ越すし。
「そっかぁ…… 帰っちまうのか」
先輩は少し俯いた。
やっぱり、借金のことが気になるんだろう。
けど、大丈夫です。
「あの、田村さん。借りてる金ですけど…… ちゃんと返します。明日にでも」
「は?」
田村さんは顔を上げた。
「いや、だから…… 借りてる分」
「そんなの、いいよ」
「え?」
「実家帰るんだろ?」
「はい……」
「じゃあ、餞別だ」
「いやいや、それは駄目です。ちゃんと返しますよ」
「いいって」
田村さんは、笑った。
「引っ越しやら何かと金かかるだろ。取っとけ」
「でも……」
「いいから」
俺は何度も財布に手を伸ばした。
けれど、田村さんは頑として受け取ろうとしなかった。
「そうだ」
田村さんは、何か思いついたように言った。
「お前、ほかの連中にも借りてただろ」
「……まあ」
「俺から言っといてやるよ」
「何をですか?」
「餞別にしてやれって」
「いや、それは無理ですよ」
「いいんだよ。最後くらい気持ちよく送り出させてくれよ。送別会もやろう」
そう言って、俺の肩を叩いた。
「いや、送別会はいいです」
「なんでだよ」
「すぐ実家に戻らないといけなくて。時間がないのと、あと」
「なんだ?」
「別れがつらいので、できれば、静かに送ってもらえれば…… 申し訳ありません」
「そっか……」
田村さんは、少し残念そうに俯いた。
てっきり、貸した金の取り立てに来たんだと思っていた。
仕事を辞めると聞いて、逃げるんじゃないかと疑われたんだと思っていた。
でも、違った。
田村さんはただ、俺がいなくなるのを残念がってくれていた。
そのことが、妙に胸に刺さった。
けど、4億円当たりましたなんて、言えるはずもない。
本当に、すみません。
そう心で思いながら、遠ざかる田村さんの背中に頭を下げた。
部屋に戻ると、俺は一本だけ電話をかけた。
通帳の金額を眺めてから、時計を見る。
まだ少し早い。
落ち着かない。
結局、俺は15分も前に部屋を出た。
弁当屋の少し手前で立ち止まり、店の様子を眺めながら待った。
16時過ぎに、美咲が店から出てきた。
俺に気づいて、笑顔を見せてくれた。
「待った?」
「全然」
ほんとは、15分待った。
「じゃあ、行こうか」
「どこに?」
「川崎」
「川崎?」
「買い物に行こう」
俺たちは梅屋敷駅から京急線に乗り、川崎へ向かった。
向かった先は、ラゾーナ川崎だった。
まず、美咲の服を見た。
「こんなの高いよ」
「いいから」
「でも……」
「今日だけ。ねっ、今日だけは、遠慮しないで」
俺自身の服も買った。
靴も買った。
美咲のバッグも買った。
途中から、何を買ったのか分からなくなるくらい紙袋が増えていった。
美咲は最後まで遠慮していたけど、楽しそうに笑ってくれていた。
その顔を見ているだけで、俺は嬉しかった。
買い物を終える頃には、両手いっぱいの荷物になっていた。
一度アパートへ戻り、全部置いていくことにした。
買ったばかりの服に着替えて、また京急線に乗った。
今度は品川へ。
「ねえ、どこ行くの?」
「着けば分かるよ」
美咲は何度聞いても教えない俺を見て、呆れたように笑っていた。
品川駅を出て、しばらく歩く。
やがて、美咲の足が止まった。
「ここ……」
「覚えてる?」
「忘れるわけないじゃん」
あの日。
初めて二人で競馬に行って、四レース全部当てた日。
普段着のまま来て、二人そろって店の中で浮いていた。
あの天ぷら屋だった。
入口で店員に声をかけた。
「予約していた、木下です」
「はい。お待ちしておりました」
隣で美咲が俺を見た。
「予約してたの?」
「まあね」
部屋に戻ってかけた電話は、この店への予約だった。
案内されて店の中へ入る。
前に来たときとは違った。
俺も美咲も、今日はちゃんとした服を着ている。
美咲は少し照れくさそうに、自分の服を見下ろした。
席に着くと、美咲が呟いた。
「私たち、今日は浮いてないね」
「たぶんね」
二人で笑った。
料理が運ばれてくる。
美咲は一品出てくるたびに、あの頃と同じように目を輝かせた。
その顔を見た瞬間、俺は思った。
やっぱり、これだ。
俺が欲しかったのは。
高い財布でも、バッグでも、服でもない。
4億円という数字でもない。
この顔を、もう一度見たかったんだ。
そして、競馬のおかげで、またこの笑顔を取り戻せた。
やっぱり、競馬を辞めなかったのは間違いじゃなかった。
でも、今度こそ本当に辞めるよ。
もう、やる必要なんてないもんな。
一週間後。
引っ越しのために荷物をまとめていると、銀行から一通の封書が届いた。
開けてみると、その銀行で作っていたクレジットカードの利用限度額を引き上げられるという案内だった。
今まで、こんな手紙が届いたことは一度もない。
それから間もなく、楽天銀行からもクレジットカードの案内が届いた。
どうやら俺は、銀行にとってのお得意様になったらしい。
さらに、一か月が経った。
俺はあの日以来、一度も馬券を買っていない。
競馬場にも行っていないし、あれほど好きだったのに、テレビでレースを見ることもなくなった。
そして、美咲は仕事を辞めた。
俺みたいに、ある日突然「今日で辞めます」なんて言ったわけじゃない。
一か月前に店長へ話をして、引き継ぎもして、最後の日まできちんと働いた。
店長には、何度も引き止められたらしい。
次の店長候補として考えていた、とまで言われたそうだ。
それでも美咲は辞めた。
俺と、これからの人生を始めるために。
それと、住み慣れた大森西を離れた。
一緒に暮らすために、新しく借りたのは、高輪のタワーマンションだった。
35階建ての20階。
2LDKで家賃は月53万円。
前のアパートは、5万3千円。
ちょうど十倍。
そして、階数も。
2階から20階へ。
これもちょうど十倍だった。
別に狙ったわけじゃない。
ただの偶然だった。
リビングの大きな窓からは、東京の街が一望できた。
昼は、見渡すかぎりの建物の屋根が陽に照らされて白く光っていた。
遠くには電車が豆粒みたいに走っていて、車の流れも、ここから見ると別の世界の出来事みたいだった。
夜になると、街じゅうに灯りがともる。
道路は細い光の川みたいにつながり、高層ビルの窓は星みたいに瞬いていた。
ベランダに出ると、少しだけ風が強い。
その風に吹かれながら下を見下ろすたび、俺は自分が本当に別の場所まで来てしまったような気がした。
本当は、もっと広くて、高層階の部屋でもよかった。
けれど、美咲が嫌がった。
「これで十分だよ」
そう言って、首を横に振った。
俺が金を持っても、美咲はぜんぜん変わらなかった。
高い買い物はいまだに遠慮するし、必要のないものには金を使おうとしない。
俺が強く勧めても、
「もったいないよ」
と笑う。
そんな美咲が、唯一こだわったのが調理道具だった。
包丁、鍋、フライパン。何に使うのか、俺にはよくわからない道具まで。
どれも何度も手に取って、重さを確かめて、ずいぶん時間をかけて選んでいた。
「これだけは、こだわってもいい?」
そう言って、値札よりも使い心地の方を気にしていた。
それ以外は、4億円あっても、美咲の金銭感覚と優しさは、昔のままだった。
美咲は、あまり外食をしたがらなかった。
「せっかくキッチンも広くなって良い調理道具もそろえたんだし。それに、家で作った方が安いよ」
そう言って、ほとんど毎日のように台所に立った。
仕事を辞めて時間ができたこともあって、以前より料理の品数は増えた。
手際も相変わらずよかった。
包丁の音が小気味よく続いたかと思えば、いつの間にかコンロでは鍋が煮え、隣ではフライパンからいい匂いがしている。
俺がソファでぼんやりテレビを見ている間に、テーブルの上には何品も料理が並んだ。
金はあるんだから、毎日外で食べたって困らない。
けど、美咲が料理をしたいのなら、俺はそれで良かった。
ただ一つ。
相変わらず、味だけは濃かった。
そんなある日のことだった。
俺たちはソファーに並んで座り、次はどこへ旅行に行こうかと話していた。
本場でパスタを食べてみたい。
美咲が昔からそう言っていたのを思い出し、次の旅行先はイタリアにしようと決めたその後だった。
「ねえ」
「ん?」
「税金って…… いくらになるんだろうね?」
「税金?」
「うん。競馬で当たったお金の」
税金……
考えたこともなかった。
4億円が当たった。
借金を返した。
仕事を辞めた。
美咲とやり直した。
新しい家にも引っ越した。
その先のことばかり考えていた。
税金。
そんなものがあることを、俺はすっかり忘れていた。
まぁ、競馬で当てた税金だなんて、たいした金額じゃないだろ。
100万か、200万か。
まぁ、高くても1000万。
どうせ、その程度だろう。
「ねぇ、当たった金額は?」
「えっとね……」
俺はタンスの引き出しから通帳を取り出した。
振り込まれた金額は、4億2013万7900円。
「……いや、違う」
「え?」
「たしか、楽天銀行に1万10円残してたから……」
頭の中で引き算する。
「4億2012万7890円だよ」
金額を聞いた美咲は、スマホで何かを調べ始めた。
しばらく画面を眺めたあと、立ち上がってA4の紙とペンを持ってくる。
「ちょっと計算してみるね」
そう言って、美咲はテーブルの上に紙を広げた。
スマホの画面と通帳を交互に見ながら、数字を書き込んでいく。
「その時、WIN5いくら買ったの?」
「たしか…… 3200円」
「3200円?」
「5レース全部、2頭ずつ選んだんだよ。だから、2かける2かける2かける2かける2で、32通り」
「なるほど。3200円ね」
「それは経費になるの?」
「うん。そんな感じみたい」
美咲は紙に数字を書き込んだ。
けれど、すぐにスマホの画面を見て手を止めた。
「……あれ?」
「どうした?」
「これ、外れた分は引けないみたい」
「え?」
「当たった分だけ」
「当たった分だけ?」
「うん。だから…… 100円」
「えっ。同じWIN5に使った金なのに?」
「そうみたい」
「3200円払ってるのに?」
「うん」
俺は思わず顔をしかめた。
「なんだよ、それ……」
誰が決めたんだよ。
せこいな。
美咲は、もう一度スマホの画面に目を落とした。
「えっと…… まず、当たった金額から、当たった馬券の100円を引くんだって」
「100円だけ……」
「うん」
美咲は紙に、
4億2012万7890円
-100円
と書いた。
「それから…… 50万円引けるみたい」
「50万? なにそれ?」
「特別控除って書いてある」
「4億円なのに、たった50万」
「うん。最高50万円って決まってるみたい」
「しょぼっ!」
美咲は笑いながら、その下に数字を書き足した。
「それで、残った金額を…… 半分にする」
「……半分?」
「うん。一時所得っていうのは、全部に税金がかかるんじゃなくて、半分だけを他の所得と合わせて計算するみたい」
「じゃあ、2億くらい?」
「そう」
美咲は、スマホアプリの電卓を叩いた。
「えっと…… 4億2012万7890円から100円引いて、そこから50万円引いて……」
しばらくして、紙に大きく数字を書いた。
4億1962万7790円。
「これを半分」
さらにその下に、
2億981万3895円。
と書いた。
おいおいおいおい。
「ま、まさか、これが税金?」
「違うよ。これが、税金を計算するときに所得として加わる金額みたい」
「もうー、びっくりさせないでよ」
「ごめんごめん。ここから所得税とか住民税とかを計算するみたい」
俺は紙の上の数字を見つめた。
2億981万3895円。
「で、結局いくら払うんだろ?」
「ちょっと待って。今調べてるから」
美咲はそう言って、またスマホを指でなぞり始めた。
「ここに、その年の給料とかも足して、それから所得税を計算するみたい」
「えっ、給料まで?」
「うん。だけど今はちゃんとわからないから、それはまた今度ね」
「……なんか、だんだん嫌な話になってきたな」
美咲は返事をせず、スマホを見ながら紙に何かを書き始めた。
「所得税は…… 金額が大きくなるほど税率が上がるんだって」
「どれくらい?」
「一番上が…… 45パーセント」
「よんじゅうご?」
思わず、美咲のスマホを覗き込んだ。
「う、嘘でしょ?」
「全部に45パーセントじゃないよ。段階ごとに税率が違うみたい」
「ああ……」
少し安心した。
けれど、美咲はまだ電卓を叩いていた。
「それと、住民税もある」
「競馬と住民税って関係あるの?」
「あるみたい」
俺はソファーの背もたれに身体を沈めた。
さっきまでイタリア旅行の話をしていたはずなのに。
テーブルの上には、旅行雑誌の代わりに、4億円から始まる引き算が並んでいた。
美咲は、しばらく黙って電卓を叩いていた。
「……ねえ」
「ん?」
「これ、たぶん…… 結構すごいよ」
「いくら?」
「まだちゃんとした金額じゃないよ。隆の今年の給料とか、控除とかもあるから」
「いいよ。だいたいで」
「所得税だけで…… 9千万円くらい」
「……はっ?」
聞き間違えたと思った。
「い、いくらって?」
「9千万円くらい」
「きゅ、9千万?」
「あと、復興特別所得税っていうのもあるみたい」
「なにそれ?」
いったい何を復興するんだよ?
「それと、さっき言った住民税も」
「……」
美咲はまた電卓を叩いた。
俺は何も言わず、その指先を見ていた。
さっきまで軽快に鳴っていた電卓の音が、だんだん嫌な音に聞こえてきた。
やがて、美咲の指が止まった。
「……たぶん」
「うん」
「全部で、1億1200万円くらい」
「……いっ!?」
息が詰まって、しばらく言葉が出てこなかった。
「隆?」
「い、いちおく?」
「うん」
「1億円?」
「……うん」
「へへ、へへへへ」
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「いやいやいや。税金だろ?」
「うん」
「税金で1億?」
「たぶん……」
「家、買えるじゃん」
美咲は何も言わなかった。
俺は紙に書かれた数字を見た。
4億2012万7890円。
昨日までなら、一生かかっても手にできないと思っていた金だった。
その下に書かれた、
約1億1200万円。
税金で、そんな金額を……
「確かに凄い金額だけど、3億800万円くらい残るよ」
3億か……
それなら……
「ねぇ、贅沢しなければ、一生暮らせるよね?」
「それも計算してみるね」
美咲は、また電卓を叩いた。
「今、28歳でしょ?」
「うん」
「仮に80歳まで生きるとして、あと52年」
……長いな。
「3億800万円を52年で割ると…… 一年で約590万円」
「月だと?」
「だいたい49万円くらい」
「えっ!? 家賃だけで53万なんだけど」
「そうね……」
「駄目じゃん」
「駄目だね」
引っ越してきたばかりなのに、すぐにでも引っ越したくなっていた。
「じゃあ、この家に一生住むのは無理か」
「そもそも家賃だけで全部なくなるよ」
「じゃあ、月100万使ったら?」
美咲が電卓を叩く。
「約25年半」
「えっ」
「53歳くらいでなくなる」
「早っ!」
「だから、4億円当たっても一生遊んで暮らせるってわけじゃないんだね」
俺は少し考えた。
「じゃあ、月50万なら?」
「51年くらい」
「おお、けっこういける」
「でも、それだと……」
「そうか、ここの家賃にも足りないんだった」
4億円。
当たった時には、使っても使ってもなくならない金だと思っていた。
けれど、こうして月々の生活に置き換えてみると、急に終わりが見えてきた。
「大丈夫よ。私がしっかり節約するから」
「う、うん。そうだね……」
それにしても。
税金、取りすぎだろ。
なんだよ、1億って。
今まで競馬でいくら負けてきたと思ってるんだ。
外れた時は、国は一円だって返してくれなかったくせに。
それなのに、たった一度、大きく当たった途端に1億円。
なんなんだよ。
外れた分も少しくらい面倒見てくれよ。
負けた時は知らん顔で、勝った時だけ税金取りやがって。
ふざけんな!
「……払いたくないよ」
「え?」
美咲が顔を上げた。
「いや、だってさ。今まで散々負けてきたじゃん? それなのに、当たった時だけ1億って……」
「そうだけど、ちゃんと払わないと駄目だよ」
「でもさ…… バレないんじゃない?」
「え?」
「競馬って、誰が当てたとか公表しないだろ?」
「うーん……」
「ほら、守秘義務みたいなのあるんじゃないの? 誰が当てたとか、勝手に税務署に言ったりしないんじゃない?」
きっとそうだと、期待していた。
1億円。
黙っていれば払わなくて済むなら、誰だってそうする。
「ちょっと待って」
美咲がまたスマホを手に取った。
検索窓に何かを打ち込み、いくつかのページを開いていく。
さっきまでより、ずっと真剣な顔だった。
「……隆」
「なに?」
「これ、たぶん無理だよ」
「何が?」
「ネットで買ってるでしょ?」
「うん」
「だったら、誰が買ったか記録に残ってるよ」
くっそ……
ネットなんてやらずに、やっぱり競馬場に行くべきだった。
「で、でもさ、それを税務署に教えるとは限らないだろ?」
「法的に求められたら、情報を出すことがあるって書いてある」
「……え?」
美咲はスマホの画面を俺に向けた。
俺はそこに書かれた文章を、何度も読み返した。
「じゃあ……」
「うん」
美咲は申し訳なさそうに言った。
「バレない方に賭けるのは、やめた方がいいと思う」
「も、もし、あとからバレたら、どうなるの?」
美咲はまたスマホを見た。
「えっと…… まず、払ってなかった税金は当然払わないといけないみたい」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「……まだあるの?」
「期限までに申告してなかったら、無申告加算税っていうのがかかるみたい。それに、遅れた分の延滞税も」
「延滞税?」
「うん」
いったい、何種類あるんだよ税金って!?
美咲は画面を指でなぞりながら、眉をひそめた。
「しかも、わざと隠したって判断されたら、もっと重くなることもあるみたい」
「どれくらい?」
「重加算税っていうのがあるって」
まだあったのか……
「だから、やめようよ。黙ってるの」
「……」
「1億だけでも嫌なのに、バレてもっと増えたら、それこそもったいないよ」
たしかにそうだった。
1億円を払いたくなくて、さらに金を取られる。
そんな馬鹿な話はない。
「……わかったよ。払うよ」
「うん、そうしよう」
1億かぁ…… まぁけど。
それでも3億は残る。
あきらめるか、仕方ない。
「えーと……」
スマホを覗き込んでいた美咲が、また口を開いた。
「な、なに? ま、また新しい税金?」
「税金じゃないけど……」
「じゃあ何?」
「隆、会社辞めたから国民健康保険に切り替えたでしょ?」
「うん」
「所得がこれだけあると、保険料も上限までいくみたい」
「……いくら?」
「隆はまだ若いから、たぶん年73万円くらい」
「な、73万!?」
なんだよ、それ。
税金で1億取って、そのうえ保険まで73万?
いったい、いくら持っていけば気が済むんだよ。
本当に、ふざけんな……
「私、また働きに行くからね」
「いいよ。そんなことしなくて」
「私、働くの好きだし。それに、子供ができて、手がかからなくなったら、またすぐ働きたい」
……子供か。
結婚するってことは、そういうことだよな。
子供ができれば、もっと金もかかる。
税金で払う1億があれば、一生仕事なんかしなくて済むかもしれないのに……
あーあ。
税金の、馬鹿野郎。
「あー。まだ早いけど、寝るね」
「うん。私もキッチン片付けたら行くね」
本当になんなんだよ、この国は……
はぁ……
……そうだ。
外国に引っ越せば、払わなくて済むのかな。
明日にでも調べてみるか。
そんなことを考えながら、俺はベッドに入った。
次の日の昼。
俺は美咲と、イタリア旅行のツアーを申し込みに出かけていた。
旅行会社へ向かって歩いている途中、ポケットの中でスマホが鳴った。
「誰?」
「うん、母親」
「出なくていいの?」
「あとでいいよ」
俺は着信を切り、スマホをポケットに戻した。
両親には、4億円を当てたことも仕事を辞めたことも内緒にしていた。
どうせ、いつものように元気にしてるかとか、ちゃんと飯を食ってるかとか、そんな話だろう。
今はそれより、イタリアだ。
旅行日程は全部で二週間。
ローマ、シチリア、ミラノにフィレンツェ。
美咲はパンフレットを眺めながら、ずっと微笑んでいた。
旅行会社で説明を聞き、日程を確認して、そのまま申し込みをした。
「申込金はこちらになります」
言われた金額を、俺は迷わずクレジットカードで払った。
こんな時のために限度額も上がったんだ。
カードを差し出しながら、俺は少し得意な気分になっていた。
このあとは、家で料理をしたい美咲を説得して、外食することにした。
その場で店を予約しようと、スマホを取り出す。
画面を開いた瞬間、俺は手を止めた。
母親から、何度も着信が入っていた。
しかも、留守番電話まで残っている。
ここまで何度もしつこく電話してきたことなんて、今まで一度もない。
まさか、父親に何かあったのか……
「どうしたの?」
「うん…… 母親から何度も着信が入ってて」
「緊急なんじゃない? 折り返してあげたら?」
「そうだね……」
少し迷った。
「でも、食事のあとでいいよ」
「本当にいいの?」
このとき、俺は少し嫌な予感がしていた。
だからこそ、食事のあとでいいと思った。
もし、本当に何か大ごとだったら。
せっかくの外食を、楽しめなくなってしまう。
今はまだ、知らないままでいたかった。
二人で向かった店は、やっぱりあの天ぷら屋だった。
「ここだと思ってた」
美咲は笑った。
「いいだろ。好きなんだから」
「隆って、ほんと気に入るとそればっかりだよね」
「悪い?」
「悪くないよ。私もこの店好きだし」
そう言って、美咲はまた笑った。
ここは、俺たちの思い出の店だもんな。
毎日だって来たいくらいだ。
やっぱりここの料理は、相変わらず美味しかった。
揚げたての天ぷらが一品ずつ運ばれてくるたびに、美咲は嬉しそうに箸を伸ばした。
俺は酒を飲んで、たくさん笑った。
母親からの着信のことは、途中からほとんど頭になかった。
イタリアでは何を食べようか。
どこを歩こうか。
スリが多いみたいだから気をつけよう。
そんな話ばかりしていた。
店を出る頃には、すっかり遅い時間になっていた。
俺たちは電車で高輪のマンションへ戻った。
「先にお風呂入るね」
「うん」
美咲が着替えを持って浴室へ向かった。
しばらくして、シャワーの音が聞こえてきた。
俺はソファーに座り、スマホを取り出した。
画面には、昼間の着信履歴がまだ残っている。
母親。
母親。
母親。
その下には、留守番電話。
さっきまで忘れていた嫌な予感が、また胸の奥に戻ってきた。
「……仕方ないか」
俺は母親の番号を押した。
「隆! あんた何してたん?」
「ごめんごめん。ちょっと仕事が忙しくて。何があったの? もしかして、お父さん……」
「違う。お父さんは元気よ。それより、ニュース見た?」
ニュース?
「いや、見てないけど」
「東京では、やってないのかね」
「何のこと? どうしたの?」
母親の口から出た次の言葉は、俺の胸をえぐった。
「銀行よ、銀行」
「……え?」
「あたしたちが使ってる、あの銀行」
「銀行が…… どうしたの?」
「倒産しちゃったのよー」
……え。
倒産?
「もう、みんな困ってるよ。お金が引き出せなくてね」
どういうことなんだ。
「うちも現金なんて家に置いてないからね。ほんと困ってるよ」
銀行が、倒産した。
俺の4億円が入っている、あの銀行が……
「隆は大丈夫? お金引けなくて、困ってない?」
母親はまだ何か話していた。
けれど、もう耳に入らなかった。
俺は知らない間に、電話を切っていた。
静かになった部屋に、浴室から流れるシャワーの音だけが聞こえていた。
どういうことだ。
銀行が倒産したら、預けていた金はどうなる。
まさか。
全部、なくなるのか。
いや。
そんなわけない。
銀行だぞ。
金を預けるところだぞ。
いざとなれば、国が保証してくれる。
そうだよ。
いくら地方銀行だからって、いったいどれだけの人が利用してると思ってる。
もし預金が全部なくなるなんてことになったら、どれだけの人が大ごとになるんだ。
そんなこと、国が放っておくはずがない。
うん。
間違いない。
国が助けてくれる。
絶対そうだ。
俺は確かめようと、震える手でスマホを開いた。
そのとき、浴室の扉が開いた。
「隆ー、次入る?」
美咲がバスローブを着て、タオルで髪を拭きながら出てきた。
頬が少し赤い。
さっきまでと何も変わらない顔で、俺を見て笑顔を浮かべている。
「……隆?」
返事をしない俺を見て、美咲の笑顔が消えた。
「どうしたの?」
「い、いや…… それが……」
俺は、すぐには答えられなかった。
美咲は、俺の手に握られているスマホに目を向けた。
「お父さんかお母さんに、何かあったの?」
「いや…… 違う…… 違うんだ」
「じゃあ、どうしたの?」
美咲は濡れた髪のまま、心配そうに俺を見つめていた。
「ぎっ…… ぎん……」
「……え?」
「銀行が…… 倒産したって、母親が……」
美咲は、髪を拭いていたタオルを床に落とした。
母親が言っていたことは、本当だった。
銀行は、本当に潰れていた。
それから数時間が経った。
ようやく、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
俺はソファーに座ったまま、ぼんやりと床を見つめていた。
美咲は隣で、ずっとスマホを触っている。
銀行が破綻したら、預金はどうなるのか。
俺たちには、そんな知識なんてなかった。
だから美咲が、ひとつずつ調べてくれていた。
「……あった」
「何?」
美咲が画面を見つめたまま、小さく息を吸った。
「預金保険制度っていうのがあるみたい」
俺は顔を上げた。
「ほら!」
思わず身を乗り出した。
「やっぱりあるんじゃん。そういうの。国がちゃんと保証してくれるんだろ?」
良かったー。この国も、捨てたもんじゃない。
お金が戻って来たら、税金はちゃんと納めます。
「ちょっと待って」
美咲は画面を指で送りながら、黙って文章を読んでいる。
「……ど、どうしたの?」
「うん……」
返事が遅い。
「何?」
「全部じゃないみたい」
「……え?」
美咲が俺の方を見た。
「一つの銀行につき、一人…… 元本1000万円までと、その利息」
一瞬、意味がわからなかった。
「……1000万?」
「うん」
「よ、4億、あるんだけど」
「……うん」
「4億あるのに、1000万なの?」
美咲は何も言わなかった。
俺は頭の中で数字を並べた。
4億2013万円。
そのうち、確実に守られるのが1000万円。
「じゃあ…… 残りは?」
「銀行に残ってる財産とかによって、戻ってくることもあるみたい。でも…… 全部戻るとは限らないって」
「どれくらい戻るんだよ」
「それは、まだわからないみたい」
まだ、わからない。
さっきからそればかりだった。
俺の金なのに。
昨日まで、ちゃんと通帳に書いてあった金なのに。
それが今は、戻ってくるかどうかすらわからない。
「……ふざけんなよ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
「銀行だぞ……」
俺は頭を抱えた。
「銀行に預けてたんだぞ……」
「……」
「初めて口座作ったのも、あの銀行だったのに……」
美咲は、なにも言わなかった。
「国も…… 何もしてくれないのかよ!? ふざけんな! ふざけんな! 高い税金だけ取るくせに!」
「……」
俺は立ち上がって、東京の街を一望できるベランダに飛び出した。
「ふざけんなぁー!!」
俺の喚き声は、眼下に広がる東京の喧騒に紛れ、どこにも届かないまま消えていった。
その夜、どうやってベッドに入ったのか、いつ眠りについたのか、美咲が隣にいたのかさえ、俺は何ひとつ覚えていなかった。
朝になっても、何も変わっていなかった。
目が覚めた瞬間、昨日のことを思い出した。
夢だったらよかったのに。
全部、悪い夢だったって誰か言ってくれればいいのに。
でも、スマホを開いて地元のサイトを見れば、あの銀行のニュースが並んでいる。
夢じゃない。
本当に潰れたんだ。
何もする気が起きなかった。
それでも俺は、一人で家を出た。
向かったのは、品川にあるあの銀行の支店だった。
もしかしたら、何か説明があるかもしれない。
もしかしたら、昨日の話が何かの間違いだったのかもしれない。
そんな、ほとんど願いみたいな気持ちだった。
けれど、支店に着くと、シャッターは固く閉ざされていた。
入口には何枚もの張り紙が貼られている。
その前には、俺と同じように様子を見に来た人たちが集まっていた。
年配の男が張り紙を睨みつけ、女の人が誰かに電話をかけながらシャッターを見つめていた。。
少し離れたところには、テレビ局らしいカメラが何台も並んでいた。
記者らしい男がマイクを持ち、閉ざされたシャッターを背に何かを話している。
昨日まで、普通に人が出入りしていた銀行だった。
俺が通帳を開いて、4億円という数字を見て安心した場所だった。
その入口は今、何事もなかったみたいに閉じられていた。
家に戻ってソファーに座っていると、ぼんやりと時間だけが過ぎていく。
美咲が朝食を作ってくれたけれど、箸を持つ気にもなれなかった。
「少しでも食べた方がいいよ」
「……いらない」
せっかく作ってくれた料理にも、ほとんど手をつけなかった。
しばらくして、美咲が遠慮がちに口を開いた。
「ねえ…… イタリア、やめたほうがいいよね……」
その一言に、なぜか腹が立った。
「当たり前だろ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そんな金、どこにあるんだよ!」
美咲は何も言わず、部屋に戻っていった。
それを見て、胸の奥が少し痛んだ。
美咲は悪くない。
そんなことはわかっていた。
あたるつもりはなかったんだ。
ごめん……
俺は美咲とは口もきかず、スマホで銀行のことを調べ続けていた。
すると、まだ望みはあった。
金融危機対応措置。
過去には、経営が危なくなった銀行に対して、国が特別な措置を取ったことがあるらしい。
りそな銀行。
足利銀行。
足利銀行のときには、預金が全額保護されたと書いてあった。
俺は何度も画面を読み返した。
「美咲! ちょっとこれ見て!」
やっと、美咲に話しかけた。
部屋から出てきた美咲に、俺はスマホの画面を見せた。
「金融危機対応措置っていうのがあるんだって」
「金融危機対応措置?」
「うん。ほら、昔、足利銀行が潰れたとき、預金が全部守られたって書いてある」
今回だって、同じような措置が取られるかもしれない。
国が動いてくれれば、1000万円どころじゃない。
4億だって、全部戻ってくる可能性がある。
「こんなのあったんだね」
美咲が、久しぶりに笑顔を見せた。
俺も、少しだけ肩の力が抜けた。
きっと国が助けてくれる。
これだけ多くの人が困っているんだ。
何もしないはずがない。
でも、現実はそんなに甘くなかった。
数日後、政府が正式に発表した。
今回の銀行破綻について、金融危機対応措置は取らない。
ニュースでは、金融システム全体に与える影響は限定的だと説明されていた。
預金については、預金保険制度に基づいて対応する。
つまり、守られるのは1000万円まで。
それを超える分については、銀行の財産状況に応じて返ってくる額が決まる。
俺はテレビの前で、言葉を失った。
「……助けないってこと?」
美咲は何も答えなかった。
画面の中では、スーツ姿の男が淡々と説明を続けている。
俺の4億円の話をしているはずなのに。
まるで、俺とは何の関係もない数字について話しているみたいだった。
「……ふざけんなよ」
声が震えた。
「何もしないのかよ……」
国が助けてくれると思っていた。
過去には助けた銀行があった。
だから今回だって。
そう信じていた。
でも、その望みはたった数分の記者会見で消えた。
そして、政府の記者会見から二日後。
預金保険制度による払い戻しが始まり、俺は受取先に楽天銀行を指定した。
その日のうちに、楽天銀行の口座へ1000万円が振り込まれた。
スマホの画面には、確かに1000万円と表示されている。
4億円を預けていた銀行から戻ってきた金としては、あまりにも少なかった。
俺は、その1000万円を全部現金で引き出そうとした。
けれど、楽天銀行のATMでは一日に50万円までしか引き出せない。
仕方なく、新しく大手銀行の口座を作った。
楽天銀行にはカードの支払い分として100万円だけ残し、残りの900万円を新しい口座へ移した。
そして窓口で、900万円を全額現金で引き出した。
もう、銀行に金を預ける気にはなれなかった。
信用できるはずもない。
900万円は、全部自分の手元に置いておく。
その方が、よっぽど安心だった。
これで、しばらくは生活できる。
そう思って、少しだけ安心していた。
だけど、いつまでも家賃53万のここに住んでいられない。
それでも、すぐにこの部屋を出たわけじゃなかった。
結局、俺たちは年が明けるまで、ここで暮らし続けた。
クリスマスも、この部屋で迎えた。
美咲は、いつもより料理を頑張ってくれた。
かわいいクリマスケーキも作ってくれた。
「せっかくだから」
そう言って笑う美咲を見ていると、その日だけは銀行のことも、金のことも忘れられた。
正月も同じだった。
美咲は朝から台所に立って、立派なおせちまで作ってくれた。
弁当屋で働いていた頃のつてを頼って食材を安く仕入れ、それを工夫して、見栄えのする料理に仕上げてくれた。
リビングの窓の向こうには、冬の東京が広がっていた。
この景色を見るのも、あと少し。
そう思うようになったのは、年が明けてからだった。
そして、一月の終わり。
俺たちは、この部屋を出ることにした。
最後の夜、二人で並んで窓の外を眺めた。
遠くまで続く街の灯りを、美咲は何も言わず見つめていた。
「きれいだね」
「うん」
それだけだった。
しばらくして、美咲が俺の肩に頭を預けた。
俺は、美咲の顔を見た。
目が合うと、美咲は少し笑った。
そのまま、俺たちは静かにキスをした。
金がなくなっても、美咲は変わらず俺の隣にいてくれた。
4億円を持っていた俺じゃなくても。
高い部屋に住んでいなくても。
美咲は、俺を好きでいてくれている。
あのとき、美咲が言っていた言葉を思い出した。
お金で決めたみたいになるのが嫌だって。
あれは、本当だったんだ。
美咲が欲しかったのは、4億円じゃなかった。
俺だった。
そう思ったら、少しだけ前を向ける気がした。
またやり直せばいい。
二人なら、なんとかなる。
俺たちは、住み慣れた大森西に戻ってきた。
家賃は10万6千円。
古い建物だったけれど、間取りは2DK。
高輪の部屋から、Lが一つ消えた。
そして、また2階。
20階から2階へ。
ちょうど十分の一だった。
家賃も、53万円から10万6千円。
こっちは、ちょうど五分の一。
それでも、一人で暮らしていた頃のワンルームよりは広い。
美咲と二人で暮らすには、十分だった。
「隆は、しばらくゆっくりしてていいからね」
美咲はそう言って、俺に仕事を急かすことはなかった。
「落ち着いてから探せばいいから」
ほどなくして、美咲は以前働いていた弁当屋に戻った。
前と同じ、フルタイムのパートだった。
店の人たちも喜んで迎えてくれたらしい。
一方で、俺も就職先を探していた。
求人サイトを開いて、条件を眺める。
何社か気になるところを保存して、履歴書も途中まで書いた。
でも、その先に進めなかった。
何もする気が起きなかった。
働かなきゃいけない。
そんなことは、わかっている。
わかっているのに、体も頭もついてこなかった。
そして、そんな俺が向かった先は……
競馬場だった。
こんな精神状態の俺が、勝てるはずもなかった。
それでも、土日になると、仕事に出ている美咲に隠れて競馬場へ向かった。
行っちゃいけない。
もうやめるって決めた。
頭では、ちゃんとわかっていた。
それなのに、気がつくと電車に乗っていた。
行くたびに負けた。
少し取り戻しては、またそれ以上に負ける。
手元には、まだ500万円近く残っていた。
だから、どこかで安心していた。
これくらいなら大丈夫。
次こそ取り返せる。
そう思っているうちに、金はどんどん減っていった。
ある日、残りを数えてみた。
94万円しかなかった。
500万円あったはずなのに。
気づけば、生活費と競馬で400万円以上も消えていた。
そんなある日、美咲が血相を変えて仕事から帰ってきた。
玄関のドアが勢いよく開いた。
「隆!」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
バレた。
競馬に行っていることが、バレたんだ。
「ご、ごめん……」
「え?」
「競馬……」
俺は観念して、そうつぶやいた。
美咲は一瞬、きょとんとした顔をした。
けれど、すぐに言った。
「そう。競馬」
「……うん、ごめん」
「競馬だよ。あのWIN5」
俺は、美咲の顔を見た。
「今日ね、店で会計してたの」
美咲は息を切らしながら続けた。
「それで、お金のこと考えてたら…… 急に思い出して」
「何を?」
美咲の顔から、血の気が引いていた。
「税金」
「……税金?」
「WIN5の税金」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の頭の中から、競馬のことも、残り100万円のことも、全部吹き飛んだ。
そうだ。
税金。
4億円が当たったときに、美咲と計算した。
1億1200万円。
俺は、その数字を完全に忘れていた。
だ、だけど……
俺たちが使ったわけじゃない。
預けていた銀行が、勝手に潰れたんだ。
そうだ。
俺は被害者なんだ。
いくらなんでも、こんな目に遭った俺から、さらに1億円を超える税金まで取るわけがない。
そんなのおかしい。
そうだよな……
この国が、さすがにそこまで酷いことはしないよな。
次の日は、美咲の仕事が休みだった。
朝から二人で、大森税務署へ向かった。
俺一人でも行けたけれど、美咲が「一緒に行く」と言ってくれた。
正直、助かった。
昨日から、頭の中は税金のことでいっぱいだった。
1億1200万円。
でも、あの金はもうない。
銀行が潰れて、俺たちは被害を受けたんだ。
事情を説明すれば、きっとわかってもらえる。
そう思っていた。
税務署に着くと、受付で事情を簡単に話した。
「競馬で高額の払い戻しを受けたんですけど、そのお金を預けていた銀行が破綻してしまって……」
受付の人は少し驚いた顔をしてから、相談窓口を案内してくれた。
俺たちは番号札を受け取り、並んで椅子に座った。
美咲は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ、手の中の番号札だけを何度も見ていた。
しばらくして、俺たちの番号が呼ばれた。
案内された窓口には、50代くらいの男の職員が座っていた。
「どうされました?」
俺は、できるだけ順番に説明した。
WIN5で4億円を超える払戻金を受け取ったこと。
その金を銀行に預けたこと。
そして、その銀行が破綻したこと。
「これ、見てください」
俺は鞄から、あの銀行の通帳を取り出した。
4億円が振り込まれたページを開いて、職員の前に差し出す。
「ここです。ちゃんと入ってたんです」
職員は通帳に目を落とした。
俺はページをめくった。
「でも、そのあと銀行が潰れて…… 嘘じゃないです。調べてもらえればわかります。戻ってきたのは1000万円だけです」
「なるほど……」
「俺たちが使ったんじゃないんです。銀行が潰れたんです」
「はい」
「だから…… 税金も、払わなくていいですよね?」
職員は、もう一度通帳を見た。
「払戻金は、いったん受け取られていますよね?」
「受け取りましたけど…… でも、そのあと銀行が」
「はい。つまり、受け取ったあとに預金として銀行へ移された」
「そうです」
「その銀行が破綻した」
「そうです」
職員は、少し申し訳なさそうな顔をした。
「それですと、競馬の払戻金を受け取ったこと自体は、なくならないんです」
「……え?」
「銀行の破綻で預金を失ったことと、競馬で所得が発生したことは、税金の上では別の話になります」
意味がわからなかった。
「いや、同じ金ですよ?」
「お気持ちはわかります。ただ……」
「同じ4億なんですよ?」
「はい」
「その4億がなくなったんですよ?」
「はい」
「だったら、所得もなくなったってことじゃないんですか?」
職員は静かに首を横に振った。
「受け取ったあとに、なくなったんです」
「……同じじゃないですか」
「税金の上では、そこが違うんです」
頭の中が真っ白になった。
「じゃあ……」
声がうまく出なかった。
「じゃあ、俺…… 1億以上、払わなきゃいけないんですか?」
「実際の税額は、給与所得や控除なども含めて計算しないとわかりません。ただ、かなり大きな金額になると思います」
「でも…… 金、ないんですよ」
「はい」
「見たでしょ、その通帳」
俺は職員の前に置かれた通帳を指さした。
「4億あったんですよ。それがなくなったんです。戻ってきたのは1000万だけなんですよ」
「はい」
「その1000万だって、もう生活費とか家賃とかで……」
途中まで言って、口をつぐんだ。
競馬で減らしたことまでは、言えなかった。
「払えない場合は、どうなるんですか?」
今度は美咲が聞いた。
職員は少し間を置いて答えた。
「事情によっては、納税の猶予や、分割で納めていただく相談はできます」
「分割……」
俺はその言葉を繰り返した。
「それって…… 払わなくてよくなるわけじゃないですよね?」
「はい。税金そのものがなくなるわけではありません」
「じゃあ…… 借金みたいに、ずっと払っていくってことですか?」
「納付すべき税額が確定すれば、基本的にはそういうことになります」
「……いったい、何年払えば?」
「それは、収入や財産の状況を確認しながら相談することになります」
俺は椅子にもたれた。
「俺、まだ28ですよ」
職員は何も言わなかった。
「これから一生…… 1億の税金を払うために働くってことですか?」
誰も答えなかった。
隣で、美咲が膝の上の手をぎゅっと握っていた。
その後も、俺は何度も食い下がった。
「でも、銀行が潰れたんですよ」
「はい」
「俺が使ったわけじゃないんです」
「はい」
「それでも払うんですか?」
「先ほども申しましたが、所得が発生したこと自体は変わりませんので……」
何を聞いても、返ってくる答えは同じだった。
話は、それ以上進まなかった。
俺たちは税務署を出た。
家までの帰り道、ほとんど会話はなかった。
美咲は黙ったまま歩いていた。
俺も、何を言えばいいのかわからなかった。
家に着いてからも、しばらく二人とも口を開かなかった。
先に話したのは、美咲だった。
「……弁護士に相談してみようよ」
「弁護士?」
「税金に詳しい人。税務署の人がそう言ってるだけで、本当にどうにもならないのか、ちゃんと聞いてみよう」
俺たちはその日のうちにスマホで調べた。
税務問題を扱っている弁護士。
競馬の払戻金。
一時所得。
銀行破綻。
検索するたびに、見たくもない言葉ばかりが画面に並んだ。
その中から、税務に詳しい弁護士を見つけ、相談の予約を入れた。
美咲は、その日に合わせて仕事の休みまで調整してくれた。
数日後。
俺たちは、また二人で出かけた。
今度こそ。
今度こそ、何か方法があるかもしれない。
そう思っていた。
けれど。
弁護士の答えも、税務署とほとんど同じだった。
「競馬の払戻金を受け取った時点で、所得は発生しています」
「でも、その金は銀行の破綻でなくなったんです」
「はい」
「じゃあ、その損した分を引けないんですか?」
弁護士は静かに首を横に振った。
「今回の銀行破綻による預金の損失を、そのまま競馬の一時所得から差し引くことは難しいです」
「同じ金なんですよ?」
「わかります」
「だったら……」
「ただ、税金の計算では別の出来事として扱われます」
まただ。
また、同じことを言われた。
「じゃあ…… どうにもならないんですか?」
弁護士は少し考えてから、口を開いた。
「税金そのものをなくすのは、かなり難しいと思います」
「……」
「ただ、一括で払えない場合には、納税の猶予や分割で納める方法を税務署と相談することはできます」
「分割……」
それも……
「もう、聞きましたよ」
弁護士は少し黙ったあと、俺を見た。
「分割の話も、税務署で聞きましたよ」
「……隆」
「他にないんですか!? なにか方法がないんですか!?」
「……残念ですが、少なくとも銀行が破綻したからという理由だけで、今回の競馬の所得そのものがなかったことにはなりません」
その言葉を聞いた瞬間。
税務署を出たときよりも、ずっと深く沈んだ。
今度こそ、本当に逃げ道がない気がした。
俺たちは、家に帰ってきた。
「なんだよ、あいつ…… 高い相談料取っておきながら、言ってることは税務署の奴と同じじゃないか……」
「……ごめんね。私が行こうって言ったから」
「弁護士じゃなくて、とんだ詐欺師だったな……」
「隆……」
「もう、金がないのに……」
美咲は少し黙った。
「相談料のことは、ごめん。でも…… 行ってみないと、本当にどうにもならないのか分からなかったから」
「……」
「私も、何か方法があると思ってた」
俺は返事をしなかった。
その日を境に、美咲も少しずつ元気がなくなっていった。
前みたいに笑うことも減った。
仕事から帰ってきても、黙って料理を作り、黙って片づける。
俺たちの間には、いつも重たい空気が残っていた。
そんなある日。
美咲が、家計のために残していた現金を確認していた。
「……隆?」
「ん?」
「お金…… どうしたの?」
心臓が跳ねた。
「え?」
「もっとあったよね?」
美咲は、俺の顔を見た。
「500万円くらい、残ってたよね?」
「……」
「これ、80万円くらいしかないよ」
何も言えなかった。
「隆……」
美咲の声が、少し震えた。
「まさか…… 嘘だ……」
逃げられなかった。
「……競馬」
「……」
「競馬で…… 使った」
美咲は、しばらく何も言わなかった。
ただ、俺を見つめていた。
やがて、その目に涙がたまった。
「……こんな時に、また競馬行ってたんだ」
頬を、涙が一筋流れた。
それから数日後。
仕事から戻るはずの時間になっても、美咲は帰ってこなかった。
最初は残業だと思った。
でも、夜になっても帰ってこない。
電話をかけても出なかった。
次の日も。
その次の日も。
美咲は帰ってこなかった。
部屋を見ると、美咲の服や荷物がいくつもなくなっていた。
そこで、ようやくわかった。
美咲は、家を出たんだ。
だけど、あんなに大切にしていた、調理道具だけは、残していっていた。
俺は、弁当屋へ向かった。
けれど、美咲はいなかった。
「今日は休みです」
そう言われて帰った。
次の日も行った。
その次の日も。
それでも、美咲には会えなかった。
「美咲に会わせてください」
「困ります」
「少し話すだけでいいんです」
「もうここには来ません!」
「そんな……」
それでも俺が食い下がると、店の人の声が少し強くなった。
「これ以上来られるようでしたら、警察を呼びます」
その言葉で、ようやく足が止まった。
俺は店の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
美咲は、もう俺に会いたくない。
そこまで言われて、俺は諦めた。
家に帰ると、2DKの部屋がやけに広く感じた。
数か月後。
俺は、また引っ越した。
引っ越し先は、以前住んでいたあのアパートだった。
ただ、昔住んでいた2階の部屋には、すでに別の住人が入っていた。
空いていたのは、1階の部屋だけだった。
だから俺は、そこを借りた。
4億円が当たる前は2階。
20階まで上がって。
2階まで戻って。
今度は、1階だった。
別にそんなことは、どうでもいい……
しばらくして、税務署から税金の通知が届いた。
所得税と復興特別所得税を合わせて、約9200万円。
封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。
さらに、その年の6月には住民税の通知まで届いた。
約2100万円。
合わせて、1億1000万円を超える。
わかっていたはずなのに、実際に数字で突きつけられると、息が止まりそうになった。
その後、俺は税務署で何度か支払いについて相談した。
今の給料。
家賃。
光熱費。
食費。
残っている財産。
ひとつずつ確認された。
「生活できなくなるほど納めてもらうわけではありません」
担当者はそう言った。
「現在の収入と支出を見て、毎月納付できる金額を決めていきます」
「でも、俺…… 財産なんて何もないですよ」
「はい。それも確認しています」
今の仕事の手取りは、月に22万円ほどだった。
そこから家賃や生活費を払えば、残る金なんてたいした額じゃない。
結局、今の俺に払える範囲で、少しずつ納めていくことになった。
税金は、なくならない。
ただ、今すぐ全部取られるわけでもない。
生活を続けながら、払えるだけ払っていく。
それだけだった。
1億円を超える税金を抱えているのに、毎月払えるのはほんのわずか。
俺には、その方がかえって途方もなく感じられた。
でも、生活はできている。
そして俺は……
今でも競馬場に通っている。
今日も、杖をつきながらゆっくり歩くじいさんたちがいる。
昔の俺は、そんな姿を見るたびに思っていた。
この人たちは、いったいどんな人生を送ってきたんだろうって。
もしかしたら、俺みたいに大金を失った人もいるのかもしれない。
彼女に捨てられた人も。
借金を抱えた人も。
家族に呆れられた人も。
それでも乗り越えて、今日もここに来ている。
杖をついて。
新聞を握って。
馬が走り出せば、子供みたいな顔をして声を上げる。
そう考えると、やっぱり俺は、あの人たちが好きだった。
いや。
今でも、憧れているんだ。
人生なんて、楽しく、おかしく、少しくらい波乱万丈なほうがいい。
昔そう思っていた。
まさか、自分がこんな波乱万丈な人生を送ることになるとは、思ってもいなかった。
そう…… 思っても、いなかったよ。
『エレベーター』 完
しばらくの間、三作品の掲載をお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。
今回掲載する『エレベーター』は、以前に書いた作品をもとに、全体を見直しながら大きく手を加えたものです。
設定や流れを整理し直し、人物の心情や細かな場面も加筆しながら、ひとつの読み切り作品として仕上げました。
少し変わった題材の作品ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
また、これを機に少しずつ他の作品の掲載も再開していければと思っています。
今後とも、よろしくお願いいたします。




