心の迷路「迷宮の中心」
雨は三日三晩やまなかった。
病棟の空気は湿り、壁紙は波打ち、廊下はわずかに傾いているように感じられた。
「先生、今日が最後の日です」
村上翔は静かに言った。手の日記は、最後のページだけが空白になっている。
周は問い返す。「最後とは、何のことだ?」
「この病棟が、閉じる日です。あなたが“思い出す日”でもある」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
――白い部屋。
――ベッドに横たわる自分。
――「もう大丈夫ですよ」と誰かが言う声。
周はよろめき、廊下の壁に手をつく。視界が歪む。患者たちの部屋の扉が、次々とゆっくり開いていく。
中には、誰もいない。
だが、部屋の奥には“もう一人の自分”が立っていた。
それぞれが、違う表情をしている。
怒り、絶望、諦め、無感情――
周がこれまで押し殺してきた感情の断片だった。
「あなたが私たちを作ったんです」
どこからともなく声が響く。
最初の患者の女性――夢の中に“もう一人の私”がいると言った彼女が、廊下の奥に立っていた。
「ここは、あなたの心の病棟。私たちは、あなたが分離した感情」
雨音が突然止む。
静寂の中、周は思い出す。
数年前、彼は過労と喪失感から心を病み、入院していた。
医師を目指した理由も、誰かを救いたいという願いも、すべてが崩れた瞬間があった。
だが彼は、その記憶を“なかったこと”にした。
医師として働くことで、自分は正常だと証明し続けようとした。
村上翔の日記の最後のページが、ゆっくりと文字で埋まっていく。
《医師は、患者になることを恐れなくなったとき、迷宮の出口を見つける》
周は廊下の中央に立ち、目を閉じる。
「俺は……弱かった」
その言葉を口にした瞬間、廊下の歪みが止まり、壁の波打ちが静まる。
部屋にいた“もう一人の自分”たちは、次第に光に溶けていった。
目を開けると、そこは静かな診察室だった。
窓の外には、雨上がりの薄い青空。
机の上には、まっさらなノートが置かれている。
最初のページには、周自身の字でこう書かれていた。
《治療とは、排除ではなく、統合である》
ノックの音がする。
「先生、次の患者さんです」
看護師の声は、確かに現実のものだった。
周は深く息を吸い、穏やかに答える。
「どうぞ」
その声には、もう迷いはなかった。
これで終わりかな?とも思います。
一応、完結済みにはしないでおきますが…




