第65話:二つのリボン
「一人で……ずっと……」
リアの目が、遠くを見ていた。暗い何かを、見つめていた。
「ある日……」
リアの声が、震えた。
「温もりも……消えたの……」
俺は、息を呑んだ。胸に残っていたはずの温もり。最後の砦。それすらも。
「ここに……あったはずなのに……」
リアが、胸に手を当てた。
「気がついたら……何もなかった……」
*
「暗かった……」
リアが、呟いた。
「どこにも……何もなくて……」
「上も……下も……分からなくて……」
リアの肩が、小さく震え始めた。
「自分が……誰なのかも……」
「どこにいるのかも……」
「分からなくなった……」
俺は、黙って聞いていた。喉が、締め付けられる。
「痛いのは……我慢できた……」
リアが、小さく笑った。笑おうとして、失敗したような顔だった。
「身体が……バラバラになるみたいで……」
「でも……痛みには……終わりがあるから……」
「死ぬのも……怖くなかった……」
リアの声が、掠れた。
「一番怖かったのは——」
沈黙が、落ちた。
リアの目から、光が溢れた。
「約束を……忘れていくこと……」
心臓が、跳ねた。
「『忘れないで』って……私……言ったのに……」
リアの声が、震えた。
「私の方が……忘れていった……」
「約束した人の……名前も……」
「声も……」
「指の温もりも……」
リアの手が、自分の小指を握った。
「指切りげんまん……したのに……」
涙が、頬を伝っている。
「全部……消えていった……」
「暗い中で……一人で……」
「それが……一番……怖かった……」
*
「でも……」
リアが、顔を上げた。
「声が……聞こえた気がしたの……」
俺は、リアを見た。
「ずっと……暗い中にいて……」
「もう……何も残ってないと思った時に……」
リアの目が、光った。
「小さな声……」
「遠くて……聞き取れなくて……」
「でも……温かかった……」
リアが、胸に手を当てた。
「ここが……震えたの……」
「何も覚えてないのに……」
「ここだけが……反応した……」
リアの目から、涙が溢れた。
「誰かが……呼んでる気がした……」
「『忘れないで』って……」
「『ずっと一緒にいる』って……」
リアが、微笑んだ。泣きながら。
「誰の声か……分からなかった……」
「でも……」
「その声を頼りに……待ってたの……」
「いつか……会えるって……」
「信じて……」
*
俺は、手を伸ばした。
リアに向かって。
届きそうだった。あと少し。指先が、リアの頬に触れる。そう思った。
すり抜けた。
「……っ」
指先が、リアの輪郭を通り過ぎた。何も触れない。何も掴めない。こんなに近くにいるのに。
「リア……」
声が、震えた。
リアも、手を伸ばした。俺の手に。
すり抜けた。
リアの指が、俺の手のひらを通り抜けていく。光の粒子が、わずかに散った。
「……触れたいのに……」
リアの声が、掠れた。
「こんなに……近いのに……」
リアが、もう一度手を伸ばした。俺の頬に。ゆっくり。丁寧に。祈るように。
すり抜けた。
リアの手が、空を掴んだ。
「……」
リアの肩が、震えた。唇を噛んでいる。泣くのを堪えるように。
「あなたの顔を……触りたかった……」
リアの声が、途切れた。
「温かいって……感じたかった……」
俺は、拳を握った。爪が、掌に食い込む。こんなに近くにいるのに。声は聞こえるのに。顔が見えるのに。手が、届かない。
ここが、限界なのか。俺たちは、もう、触れ合うことすらできないのか。
その時。
左手首が、熱くなった。
「……?」
青いリボンが、光っていた。淡い光ではない。今までとは違う。強く、はっきりと。脈打つように。俺の心臓の鼓動に合わせるように。
「……リア」
リアの髪が、揺れた。赤いリボンが、光っていた。同じように。強く。はっきりと。リアの鼓動に合わせるように。
青と赤。二つの光が、暗い空間の中で呼応している。
「リボンが……」
リアが、呟いた。
光が、動き始めた。
青いリボンから、細い光の糸が伸びた。俺の手首から、リアに向かって。
赤いリボンからも、光の糸が伸びた。リアの髪から、俺に向かって。
二つの糸が、空間の真ん中で触れた。
瞬間——光が、弾けた。
*
無数の光の粒子が、二人を包み込んだ。
温かい。
手が触れたわけではない。でも、胸の奥が温かい。リアの温もりが、リボンを通して流れ込んでくる。
「あ……」
リアが、目を見開いた。
「感じる……」
「あなたの……温もり……」
俺も、感じた。リアの温もり。小さくて。柔らかくて。確かに、ここにある。
光の中に、何かが見え始めた。映像。記憶。二人の記憶。雨。小さな傘。肩を寄せ合う二人の影。
「これ……」
リアの声が、震えた。
「雨の日……」
映像が変わる。庭。走り回る二人。笑い声。転んで、泣いて、手当てをして、また笑って。
「覚えてる……」
リアが、胸を押さえた。
「身体が……覚えてる……」
映像が変わる。木漏れ日。白い花。秘密の場所。小指を絡めた。
「指の感触……」
リアの目から、光の粒が溢れた。
「約束の……温もり……」
映像が変わる。曇り空。別れの日。青いリボンを手首に巻く小さな手。涙。『忘れないで』。
「……っ」
リアが、声を詰まらせた。光が、二人を包んでいる。青と赤が混ざり合い、淡い紫になっている。温かい。優しい。懐かしい。
「ずっと……」
リアが、呟いた。
「繋がってたんだ……」
リアが、俺を見た。涙を流しながら。でも、微笑んでいた。
「離れてても……」
「暗闇の中にいても……」
「このリボンが……」
リアが、自分の赤いリボンに触れた。
「ずっと……あなたを感じてた……」
俺は、青いリボンを見た。
「俺も……」
声が、掠れた。
「名前を忘れても……顔を忘れても……」
「このリボンだけは……外さなかった……」
「理由も分からないまま……ずっと……」
光の糸が、二人の間を繋いでいる。触れられない手の代わりに。
温かい。
俺は、その温もりの中で、リアを見た。言わなければならないことがあった。
「リア……」
「……うん?」
「このリボンをくれたのは……レオに、だ」
リアが、黙って俺を見た。
「俺は……レオの記憶を持ってる」
「でも……レオそのものじゃない」
胸が、痛い。
「カイ大佐は言った。俺は記憶パターンから生まれた存在だと」
青いリボンの光が、揺れた。
「だから……俺には……」
「お前のリボンを受け取る資格が……」
「——違う」
リアの声が、遮った。静かな声だった。でも、強かった。
俺は、顔を上げた。リアが、俺を見ていた。涙を流しながら。でも、その目は真っ直ぐだった。
「違うよ……」
リアが、俺の左手首を見た。
「このリボンを……受け取ったのは……レオ……」
リアが、一歩、近づいた。
「でも……」
「守り続けたのは……レオン……」
俺は、息を呑んだ。
「記憶を消されても……外さなかった……」
リアの声が、震えた。
「名前を忘れても……守り続けた……」
リアの目から、涙が溢れた。
「それは……レオの記憶じゃない……」
リアが、自分の胸に手を当てた。
「レオンの——心だよ……」
光の糸が、強く脈打った。青と赤が、呼応する。
「あなたは……」
リアが、俺を見た。
「レオでもあり……レオンでもある……」
「どちらも……」
リアの声が、震えた。涙が、止まらない。
「私の……大切な人……」
光が、溢れた。二人を包む光が、強くなった。
「だから……」
リアが、微笑んだ。泣きながら。でも、その微笑みは、確かなものだった。
「私は……あなたを……」
「レオンと……呼ぶね……」
「レオの想いを受け継いだ……」
「私の大切な……レオン……」
*
涙が、溢れた。止まらなかった。声が、出ない。言葉が、見つからない。
胸が温かい。苦しいほどに。リアの言葉が、胸の中に沈んでいく。
レオの記憶じゃない。レオンの、心。
俺は。俺で、良かったのか。
「……ありがとう」
それしか、出てこなかった。
「ありがとう……リア……」
声が、震えた。涙が、頬を伝っていく。リアも、泣いていた。
「こっちこそ……」
リアが、微笑んだ。
「ありがとう……レオン……」
「あなたが……覚えていてくれて……」
リアの声が、途切れた。
「それだけで……」
涙が、溢れた。
「幸せだった……」
*
光の糸が、ゆっくりと細くなっていく。リボンの光も、少しずつ落ち着いていく。
でも、消えない。完全には、消えない。
淡い光が、二つのリボンに残っている。
あの日。雨の日に出会った。
あの日。傘の下で約束した。
あの日。リボンを交換した。
あの日。離れ離れになった。
あの日。暗闇の中で、声を聞いた。
そして、今。二つのリボンが、また繋がった。
手は届かない。触れられない。
でも——リボンの光が、二人を繋いでいる。
消えない光。消せない絆。
たとえ記憶が消されても。たとえ名前を忘れても。
心が覚えている。
このリボンが、その証だった。




