第64話:忘れないで
「施設を……出ることに……?」
俺は、リアを見た。
「あなたが……施設を出ることになったの……」
リアの声が、震えていた。
「里親が……見つかったって……」
その言葉と共に、記憶が動き始めた。リアと一緒に、その時間の中に沈んでいく。
*
幸せだった日々が、光のように流れていく。
庭を走る二人。笑い声。転んで泣いて、手当てをして、また笑って。秘密の場所。木漏れ日。白い花。「誰にも言わないこと」「約束」小指を絡めた。何度も、何度も。
——でも。光が、翳っていく。
記憶が、ある一日で止まった。
*
——曇り空だった。
施設の廊下。俺は十三歳になっていた。院長から話があった。里親が見つかったと。来月には、ここを出ることになる。
別棟へ走った。リアの部屋へ。
ノックする前に、扉が開いた。リアが、立っていた。十一歳。目が、赤かった。
「……知ってる」
小さな声だった。
「聞いた……レオが……いなくなるって……」
俺は、何も言えなかった。
リアの肩が、震え始めた。
「やだ……」
涙が、頬を伝っていく。
「私……また一人になっちゃう……」
リアは、俺が来る前、ずっと一人だった。別棟で、他の子供たちとも離れて。父親は忙しくて、ほとんど会えない。俺だけが、リアの友達だった。
「……ごめん」
それしか、言えなかった。
*
——別れの日。
朝から、空は灰色だった。俺の荷物は、小さな鞄一つ。玄関で、里親が待っている。
「少しだけ、時間をください」
院長に頼んで、別棟へ走った。
ノックすると、扉が開いた。
リアの目が赤い。でも、泣いてはいなかった。必死に、堪えているのが分かった。
「……レオ」
「リア……俺——」
「待って」
リアが、部屋の中に戻った。すぐに、戻ってきた。手に、リボンを持っていた。二本。青と、赤。
「……これ」
青いリボンを、差し出した。
「作ったの……あなたに……」
俺は、リボンを見た。丁寧に編まれた、青い布。
「私のと、お揃い」
自分の髪に手をやった。赤いリボンが、結ばれている。
「私は、赤。レオは、青」
リアが、俺の手を取った。左手首に、リボンを巻いていく。ゆっくりと。丁寧に。
「これで……離れても……繋がってるから……」
俺は、リアの顔を見た。涙を堪えている。唇を噛んでいる。でも、微笑もうとしている。
「ねえ、レオ」
リアが、顔を上げた。涙で濡れた、茶色の瞳。
「私……ここを出られないの……」
その声は、小さかった。
「パパが……許してくれないから……」
俺は、何も言えなかった。リアは別棟に住んでいる。他の子供たちとは違う。カイ大佐の娘だから。
「だから……」
リアが、小指を差し出した。
「大人になったら……迎えに来て……」
「迎えに……?」
「うん。私を……ここから連れ出して……」
その目が、真剣だった。涙で濡れているのに、真っ直ぐに俺を見ていた。
「……分かった」
俺は、小指を絡めた。
「絶対に、迎えに行く」
「指切りげんまん……」
リアの声が、震えた。
「嘘ついたら……針千本……」
涙が、溢れ出した。もう、堪えられなかったんだろう。俺は、リアを抱きしめた。小さな身体が、震えている。
「忘れないで……」
リアの声が、背中に届いた。
「私のこと……絶対に……忘れないでね……」
「忘れない」
「約束……」
「約束する。絶対に、忘れない」
「レオ!」
院長の声が、遠くから聞こえた。
「時間だ!」
俺は、リアから離れた。
「……行くよ」
「うん……」
リアは、俺を見上げていた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「元気でね……」
「ああ」
俺は、背を向けた。歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら、行けなくなる。
背中に——声が届いた。
「レオーーーッ!」
叫び声。泣き声。
「忘れないでーーーッ!」
俺は、歯を食いしばった。足を、止めなかった。
左手首のリボンだけが、温かかった。
*
記憶が、そこで止まった。
俺は、リアを見た。リアも、俺を見ていた。光の粒子が、頬を伝っている。
「……あなたが……行っちゃった後……」
リアの声が、震えていた。
「私……毎日……窓の外……見てた……」
映像が、浮かんだ。窓際に座る、十一歳のリア。外を見ている。ずっと、ずっと。
「あなたが……来る方……」
「来ないって……分かってたのに……」
胸が、痛かった。
「でも……」
リアの声が、途切れた。
「私も……施設を出ることになったの……」
俺は、息を呑んだ。
「パパが……迎えに来て……」
リアの目が、遠くを見ていた。
「『行かなきゃ』って……」
その言葉に、何かが引っかかった。聞いたことがある。夢の中で。何度も、何度も。
「私……手を伸ばしたの……」
リアの声が、震えていた。
「あなたがいた方に……」
「『待って、まだ——』って……」
心臓が、跳ねた。
「でも……届かなかった……」
リアの目から、光が溢れた。
「『忘れないで』……って……叫んだの……」
俺は——立ち尽くしていた。
その光景を、知っている。夢で見た。何度も、何度も。赤いリボンの少女が、連れて行かれる夢を。
あれは——本当のことだったのか。
「俺……」
声が、掠れた。
「夢で……見てた……」
リアが、俺を見た。
「お前が……連れて行かれる夢……何度も……」
リアの目が、大きく見開かれた。
「あなた……」
「顔は……思い出せなかった……名前も……」
俺は、左手首を見た。
「でも……ずっと……見てた……」
「誰かが……連れて行かれる夢を……」
リアの目から、涙が溢れた。
「覚えて……たの……?」
「分からない……でも……」
俺は、リアを見た。
「お前の声だけは……聞こえてた……」
「『忘れないで』って……」
*
沈黙が、落ちた。
リアは、静かに泣いていた。
「……ごめん」
声が、掠れた。
「迎えに……行けなくて……」
「ううん……」
リアは、首を横に振った。
「あなたのせいじゃない……」
リアが、自分の髪に触れた。赤いリボン。
「リボン……見るたびに……あなたのこと……思い出してた……」
「声とか……笑った顔とか……」
「全部……覚えてた……」
リアの姿が、わずかに揺らいだ。
「でも……少しずつ……薄れていった……」
「名前は……覚えてた……レオ……レオ……って……」
「でも……顔が……思い出せなく……なっていった……」
「声も……笑い方も……」
リアの目から、光が溢れた。
「最後には……温もりだけ……」
「温もりだけが……残ってた……」
リアが、胸に手を当てた。
「ここに……ずっと……」
「誰かが……いた……大切な……誰かが……」
「でも……誰か……分からなくて……」
俺は、左手首を見た。青いリボン。ずっと、ここにあった。俺も同じだった。リアのことを忘れていた。でも、リボンだけは外さなかった。夢だけは、見続けていた。
「そして——」
リアが、俺を見た。
「私は……あの後……」
その先を、聞きたかった。
「私は……」
リアの目が、遠くを見ていた。暗い何かを、見つめているようだった。
「一人で……ずっと……」




