第60話:アイデンティティの危機
眠れなかった。
窓の外を、ずっと見ていた。空が白んでいく。夜が終わろうとしている。でも、俺の中の暗闇は終わらない。
カイ大佐の言葉が、頭の中で繰り返されている。
『お前は、"レオ"という人間の記憶を基に、作られた。』
レオ。俺の、オリジナル。
俺は、左手首に目を落とした。青いリボン。色褪せた布。ほつれた端。何度も触れてきた。何度も見つめてきた。
このリボンを見ると、胸が締めつけられる。ずっと、そうだった。理由も分からないまま、大切に思っていた。
でも、今は分かる。
これは、リアがレオに渡したものだ。俺に渡されたんじゃない。この想いは、俺のものじゃない。レオが感じていた想いが、俺の中で再生されているだけだ。
*
エリカのことを思い出した。
罪悪感に押し潰されそうだった彼女。俺は、彼女を救いたいと思った。苦しみから解放してやりたいと思った。
あの感情は、俺のものだったのか。それとも、レオという人間が持っていた「誰かを救いたい」という性質が、俺の中で動いただけなのか。
トーマスの涙を見た時、胸が痛んだ。
エマの小さな手を握った時、守りたいと思った。
俺が感じたことだと、思っていた。全部、俺自身の感情だと。
*
ミラのことを、考えた。
初めて会った日。無表情で、機械的だった彼女。少しずつ、変わっていった。笑うようになった。怒るようになった。心配するようになった。
一緒にコーヒーを飲んだ。
一緒に街を歩いた。
一緒に、夕日を見た。
俺は、あの時間が好きだった。ミラの隣にいると、落ち着いた。
でも……その感情は、本当に俺のものなのか。
レオという人間の中にあった「誰かと繋がりたい」という欲求が、たまたまミラに向かっただけじゃないのか。
俺がミラを大切に思う気持ち。それすらも……借り物なのか。
窓の外で、鳥が鳴いた。
朝が近い。
*
足音が聞こえた。軽い足音。聞き慣れた音。
ドアが、静かに開いた。
「レオン伍長」
ミラの声だった。
俺は振り返らなかった。窓の外を見たまま、答えた。
「ああ」
「眠れませんでしたか」
「……ああ」
ミラが、部屋に入ってくる。
俺の隣に来て、座った。
*
沈黙が流れた。
ミラは、何も聞かなかった。窓の外を、一緒に見ていた。空が少しずつ明るくなっていく。薄い青。淡い橙。夜と朝の境目。
ミラは、ただ隣にいた。何も言わない。何も求めない。その存在が、不思議と落ち着いた。
どれくらい、そうしていただろう。俺は、口を開いた。
「俺は、分からないんだ」
声が、出た。自分でも驚くほど、かすれていた。
「何が、ですか」
「全部だ」
俺は、左手首を見た。
「このリボンを見ると、胸が痛む。ずっとそうだった」
「……」
「でも、それは俺の感情じゃない。レオが感じていたものが、俺の中で再生されているだけだ」
ミラは、黙って聞いていた。
「エリカを救いたいと思った。トーマスの涙を見て、胸が痛んだ。エマの手を握って、守りたいと思った」
俺は、自分の手を見た。
「全部、俺が感じたことだと思っていた。でも、違うのかもしれない」
「……」
「レオという人間の性質が、俺の中で動いているだけなのかもしれない」
俺は、ミラを見た。
「お前のことも、そうだ」
ミラの目が、わずかに揺れた。
「お前といると、落ち着く。お前の隣にいたいと思う。お前を、大切に思っている」
俺は、言葉を絞り出した。
「でも、それも借り物なのか」
ミラの表情が、一瞬曇った。傷ついた顔。でも、すぐに俺を見た。真っ直ぐな目で。
「……レオン伍長」
「……」
「少し、聞いてもらえますか」
ミラは、窓の外を見た。
「私も……生成された存在です」
静かな声だった。ミラは、自分の胸に手を当てた。
「私が感じていることは、私のものなのか。それとも、最初からプログラムされていたものなのか」
俺は、ミラを見た。
ミラも、同じだったのか。同じ恐怖を、抱えていたのか。
「レオン伍長は、レオという人から作られたと分かっています」
ミラは、俺を見た。
「一から生成されたのか、誰かの記憶から作られたのか、私には分かりません」
「……」
「でも、それでも……私は答えを見つけました」
「……最初の頃、私は何も感じませんでした」
ミラは、続けた。
「与えられた役割をこなすだけ。レオン伍長の補佐。記憶の整理。それが私の存在意義だと思っていました」
「……」
「感情というものが、よく分かりませんでした。嬉しいとか、悲しいとか。言葉としては知っていても、実感がなかった」
ミラの声は、淡々としていた。でも、どこか温かかった。
「でも、あなたと過ごすうちに、変わりました」
「……」
「初めて『嬉しい』と感じた時のこと、覚えています」
ミラは、小さく微笑んだ。
「あなたが、私にコーヒーをくれた時です」
俺は、あの日のことを思い出した。屋上。夕暮れ。二つのカップ。
「温かくて、苦くて、でも、どこか甘くて」
ミラは、自分の手を見た。
「カップを持った時、手が温かかった。それが、嬉しかった」
「……」
「あの感情は、誰かから与えられたものですか」
ミラは、俺を見た。
「違います。私があなたからコーヒーをもらったのは、私だけの経験です」
「……」
「あの瞬間に私が感じたことは、私のものです」
ミラは、続けた。
「あなたと一緒に街を歩いた時。あなたに『いい笑顔だ』と言われた時。あなたが消えかけてから戻ってきてくれた時」
ミラの目に、光が宿っていた。
「全部、私だけの経験です。誰の記憶にも、ありません」
「……」
「だから、私は答えを見つけました」
ミラは、俺を真っ直ぐ見た。
「始まりがどこであっても、私が経験したことは、私のものです」
「……」
「私が感じたことは、私のものです」
ミラの声は、静かだった。でも、確信に満ちていた。
「私は、私です」
*
沈黙が、流れた。
ミラの言葉が、胸の中に沈んでいく。
「レオン伍長」
ミラが、言った。
「はい」
「私と過ごした時間を、覚えていますか」
俺は、ミラを見た。
「……覚えている」
「一緒にコーヒーを飲んだこと」
「ああ」
ミラは、俺の目を見つめた。
「それは、レオという人の記憶ですか」
俺は、息を呑んだ。
「レオという人も、私にコーヒーをくれましたか」
俺の胸の中で、何かが動いた。
「……違う」
声が、出た。
「レオは、お前を知らない」
「……」
「俺だけが、お前を知っている」
俺は、自分の手を見た。
「俺がお前にコーヒーを渡した。俺がお前と夕日を見た」
声が、震えていた。
「それは、俺だ。レオじゃない」
「……はい」
「俺だけの経験だ。俺だけの記憶だ」
涙が、一筋流れた。
「エリカを救いたいと思った。あれは俺だ。レオはエリカを知らない」
「……」
「エマの手を握った。あれも俺だ。レオはエマを知らない」
俺は、顔を上げた。
「お前を大切に思っている。これも俺だ」
ミラの目にも、涙が浮かんでいた。
「レオはお前を知らない。俺だけが、お前を知っている」
俺は、息を吸った。
「俺は、俺だ」
ミラの手が、俺の手に触れた。温かかった。
「レオン伍長」
「……」
「私も、あなたを大切に思っています」
ミラの声が、震えていた。
「それは、誰かから与えられた感情ではありません。私の感情です」
「……ああ」
「私だけの、気持ちです」
俺は、ミラの手を握り返した。
「ありがとう、ミラ」
「……」
「お前のおかげで、分かった」
ミラは、涙を流しながら微笑んだ。
*
窓の外を見た。
朝日が、昇っていた。街が、光に包まれていく。建物の輪郭が、金色に縁取られる。
俺は、左手首を見た。青いリボン。このリボンへの想いが、俺のものなのか、レオのものなのか。まだ分からない。
リアとの関係。この世界の未来。答えの出ていない問いが、まだある。
でも。
俺は、立ち上がった。
ミラも、立ち上がった。
朝の光が、部屋を満たしていく。
俺たちは、窓の外を見つめていた。




