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忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第4章:世界の真実

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第60話:アイデンティティの危機


眠れなかった。


窓の外を、ずっと見ていた。空が白んでいく。夜が終わろうとしている。でも、俺の中の暗闇は終わらない。


カイ大佐の言葉が、頭の中で繰り返されている。


『お前は、"レオ"という人間の記憶を基に、作られた。』


レオ。俺の、オリジナル。


俺は、左手首に目を落とした。青いリボン。色褪せた布。ほつれた端。何度も触れてきた。何度も見つめてきた。


このリボンを見ると、胸が締めつけられる。ずっと、そうだった。理由も分からないまま、大切に思っていた。


でも、今は分かる。


これは、リアがレオに渡したものだ。俺に渡されたんじゃない。この想いは、俺のものじゃない。レオが感じていた想いが、俺の中で再生されているだけだ。


  *


エリカのことを思い出した。


罪悪感に押し潰されそうだった彼女。俺は、彼女を救いたいと思った。苦しみから解放してやりたいと思った。


あの感情は、俺のものだったのか。それとも、レオという人間が持っていた「誰かを救いたい」という性質が、俺の中で動いただけなのか。


トーマスの涙を見た時、胸が痛んだ。


エマの小さな手を握った時、守りたいと思った。


俺が感じたことだと、思っていた。全部、俺自身の感情だと。


  *


ミラのことを、考えた。


初めて会った日。無表情で、機械的だった彼女。少しずつ、変わっていった。笑うようになった。怒るようになった。心配するようになった。


一緒にコーヒーを飲んだ。

一緒に街を歩いた。

一緒に、夕日を見た。


俺は、あの時間が好きだった。ミラの隣にいると、落ち着いた。


でも……その感情は、本当に俺のものなのか。


レオという人間の中にあった「誰かと繋がりたい」という欲求が、たまたまミラに向かっただけじゃないのか。


俺がミラを大切に思う気持ち。それすらも……借り物なのか。


窓の外で、鳥が鳴いた。


朝が近い。


  *


足音が聞こえた。軽い足音。聞き慣れた音。


ドアが、静かに開いた。


「レオン伍長」


ミラの声だった。


俺は振り返らなかった。窓の外を見たまま、答えた。


「ああ」

「眠れませんでしたか」

「……ああ」


ミラが、部屋に入ってくる。


俺の隣に来て、座った。


  *


沈黙が流れた。


ミラは、何も聞かなかった。窓の外を、一緒に見ていた。空が少しずつ明るくなっていく。薄い青。淡い橙。夜と朝の境目。


ミラは、ただ隣にいた。何も言わない。何も求めない。その存在が、不思議と落ち着いた。


どれくらい、そうしていただろう。俺は、口を開いた。


「俺は、分からないんだ」


声が、出た。自分でも驚くほど、かすれていた。


「何が、ですか」

「全部だ」


俺は、左手首を見た。


「このリボンを見ると、胸が痛む。ずっとそうだった」

「……」

「でも、それは俺の感情じゃない。レオが感じていたものが、俺の中で再生されているだけだ」


ミラは、黙って聞いていた。


「エリカを救いたいと思った。トーマスの涙を見て、胸が痛んだ。エマの手を握って、守りたいと思った」


俺は、自分の手を見た。


「全部、俺が感じたことだと思っていた。でも、違うのかもしれない」

「……」

「レオという人間の性質が、俺の中で動いているだけなのかもしれない」


俺は、ミラを見た。


「お前のことも、そうだ」


ミラの目が、わずかに揺れた。


「お前といると、落ち着く。お前の隣にいたいと思う。お前を、大切に思っている」


俺は、言葉を絞り出した。


「でも、それも借り物なのか」


ミラの表情が、一瞬曇った。傷ついた顔。でも、すぐに俺を見た。真っ直ぐな目で。


「……レオン伍長」

「……」

「少し、聞いてもらえますか」


ミラは、窓の外を見た。


「私も……生成された存在です」


静かな声だった。ミラは、自分の胸に手を当てた。


「私が感じていることは、私のものなのか。それとも、最初からプログラムされていたものなのか」


俺は、ミラを見た。


ミラも、同じだったのか。同じ恐怖を、抱えていたのか。


「レオン伍長は、レオという人から作られたと分かっています」


ミラは、俺を見た。


「一から生成されたのか、誰かの記憶から作られたのか、私には分かりません」

「……」

「でも、それでも……私は答えを見つけました」

「……最初の頃、私は何も感じませんでした」


ミラは、続けた。


「与えられた役割をこなすだけ。レオン伍長の補佐。記憶の整理。それが私の存在意義だと思っていました」

「……」

「感情というものが、よく分かりませんでした。嬉しいとか、悲しいとか。言葉としては知っていても、実感がなかった」


ミラの声は、淡々としていた。でも、どこか温かかった。


「でも、あなたと過ごすうちに、変わりました」

「……」

「初めて『嬉しい』と感じた時のこと、覚えています」


ミラは、小さく微笑んだ。


「あなたが、私にコーヒーをくれた時です」


俺は、あの日のことを思い出した。屋上。夕暮れ。二つのカップ。


「温かくて、苦くて、でも、どこか甘くて」


ミラは、自分の手を見た。


「カップを持った時、手が温かかった。それが、嬉しかった」

「……」

「あの感情は、誰かから与えられたものですか」


ミラは、俺を見た。


「違います。私があなたからコーヒーをもらったのは、私だけの経験です」

「……」

「あの瞬間に私が感じたことは、私のものです」


ミラは、続けた。


「あなたと一緒に街を歩いた時。あなたに『いい笑顔だ』と言われた時。あなたが消えかけてから戻ってきてくれた時」


ミラの目に、光が宿っていた。


「全部、私だけの経験です。誰の記憶にも、ありません」

「……」

「だから、私は答えを見つけました」


ミラは、俺を真っ直ぐ見た。


「始まりがどこであっても、私が経験したことは、私のものです」

「……」

「私が感じたことは、私のものです」


ミラの声は、静かだった。でも、確信に満ちていた。


「私は、私です」


  *


沈黙が、流れた。


ミラの言葉が、胸の中に沈んでいく。


「レオン伍長」


ミラが、言った。


「はい」

「私と過ごした時間を、覚えていますか」


俺は、ミラを見た。


「……覚えている」

「一緒にコーヒーを飲んだこと」

「ああ」


ミラは、俺の目を見つめた。


「それは、レオという人の記憶ですか」


俺は、息を呑んだ。


「レオという人も、私にコーヒーをくれましたか」


俺の胸の中で、何かが動いた。


「……違う」


声が、出た。


「レオは、お前を知らない」

「……」

「俺だけが、お前を知っている」


俺は、自分の手を見た。


「俺がお前にコーヒーを渡した。俺がお前と夕日を見た」


声が、震えていた。


「それは、俺だ。レオじゃない」

「……はい」

「俺だけの経験だ。俺だけの記憶だ」


涙が、一筋流れた。


「エリカを救いたいと思った。あれは俺だ。レオはエリカを知らない」

「……」

「エマの手を握った。あれも俺だ。レオはエマを知らない」


俺は、顔を上げた。


「お前を大切に思っている。これも俺だ」


ミラの目にも、涙が浮かんでいた。


「レオはお前を知らない。俺だけが、お前を知っている」


俺は、息を吸った。


「俺は、俺だ」


ミラの手が、俺の手に触れた。温かかった。


「レオン伍長」

「……」

「私も、あなたを大切に思っています」


ミラの声が、震えていた。


「それは、誰かから与えられた感情ではありません。私の感情です」

「……ああ」

「私だけの、気持ちです」


俺は、ミラの手を握り返した。


「ありがとう、ミラ」

「……」

「お前のおかげで、分かった」


ミラは、涙を流しながら微笑んだ。


  *


窓の外を見た。


朝日が、昇っていた。街が、光に包まれていく。建物の輪郭が、金色に縁取られる。


俺は、左手首を見た。青いリボン。このリボンへの想いが、俺のものなのか、レオのものなのか。まだ分からない。


リアとの関係。この世界の未来。答えの出ていない問いが、まだある。


でも。


俺は、立ち上がった。


ミラも、立ち上がった。


朝の光が、部屋を満たしていく。


俺たちは、窓の外を見つめていた。

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