第54話:決意
昼過ぎ。
俺は、ミラと忘却堂へ向かっていた。今朝、マルコから連絡があった。『客が来てる。お前に用があるらしい』と。
心当たりは、一人しかいない。
*
路地裏を歩く。入り組んだ道。何度も来ているから、もう迷わない。
古びた扉が見えた。蔦の絡まる外壁。忘却堂。
扉を開ける。カウベルが、静かに鳴った。
「来たか」
カウンターの奥から、マルコの声。そして——奥のテーブルに、大柄な影が座っていた。
「遅いぞ」
低い声。鋭い灰色の瞳。ガロウだった。
「すまない」
「いや、俺が早く来すぎた」
ガロウは、コーヒーのカップを置いた。
「座れ。話がある」
俺は、向かいの椅子に座った。ミラも、隣に腰を下ろす。マルコが、黙ってお茶を運んできた。何も聞かない。いつも通りだ。
「調べたんだな」
俺は、ガロウを見た。
「ああ」
ガロウは、頷いた。
「軍の中で噂になってる」
「カイ大佐が、最近やたらとタワーの最深部に通っているらしい」
「最深部……」
「ああ。管理者以外、誰も入れない場所だ」
俺は、眉をひそめた。
「頻度は」
「ここ数週間、ほぼ毎日だ」
「毎日……」
「異常だろう。あの男は忙しい。なのに、毎日あそこに通っている」
ガロウは、テーブルに身を乗り出した。
「しかも、時期が気になる」
「時期?」
「お前が言ってた——ノイズだ」
俺は、息を呑んだ。
「ノイズが激しくなり始めた時期と、重なってる」
沈黙が、落ちた。ノイズ。世界に走る、あの歪み。数字の羅列。『OBLIVION』という文字。
「何があるのかは分からない」
ガロウは、言った。
「でも、何かがある。それは確かだ」
「お前の過去も、俺の消された記憶も、あそこに関係しているかもしれない」
*
俺は、黙って考えていた。
カイ大佐は言った。『いずれ、全てを話す時が来る』と。待てば話してくれるかもしれない。
でも。
「いつになるか、分からない」
俺は、呟いた。
「カイ大佐は『いずれ話す』と言った。でも、いつだ」
「俺の存在率は、62%まで下がっている」
ガロウの目が、少し見開かれた。
「62%……」
「ああ。時間が、ない」
俺は、左手首のリボンを見た。
「それに——リアが待っている」
「リア……カイ大佐の娘か」
「ああ。俺の幼なじみだった」
俺は、リボンを握りしめた。
「あいつは、ずっと一人で待っていた。俺のことを、覚えていてくれた」
「なのに俺は、名前すら忘れていた」
胸が、痛い。
「もう、待たせたくない」
*
「だが」
ガロウの声が、低くなった。
「簡単じゃないぞ」
「……分かってる」
「最深部への立ち入りは、厳重に禁じられている」
「許可なく侵入すれば、国への反逆と見なされる」
反逆。その言葉の重さが、胸に落ちた。
「見つかれば、削除だ」
「……ああ」
俺は、ガロウを見た。
「カイ大佐から聞いた」
「前に記憶を消されたのも、上からの削除命令を回避するためだったと」
「……そうか」
「そもそも待たないと啖呵を切ってきたしな……もう、期待できないだろう」
沈黙が、重く流れた。ミラが、俺の横で息を呑んだのが分かった。
「それでも——」
俺は、言った。
「俺は行く」
声が、響いた。
「もう、カイ大佐が話してくれるのを待てない。自分で、確かめる」
*
長い沈黙。
ガロウが、笑った。
「そうか」
低い声。でも、どこか嬉しそうだった。
「なら、俺も行く」
「ガロウ……」
「お前のためじゃない」
ガロウは、俺を真っ直ぐ見た。
「俺も、納得がいかないんだ」
「……」
「俺も記憶を消された。理由も聞かされてない」
「最近は監視までつけられてる」
ガロウの声に、怒りが滲んだ。
「俺はただの一介の軍人だ。なのに、なぜ監視される」
「俺の人生を、勝手にいじられてる」
「誰が、何の権限で、俺の記憶を消した」
ガロウは、拳を握りしめた。
「それを知りたい」
「黙って従ってるのは、もう限界だ」
俺は頷いた。
「ああ。一緒に行こう」
*
「——聞かなかったことにするよ」
マルコの声が、カウンターの奥から聞こえた。
振り返る。マルコは、グラスを磨いていた。こちらを見ていない。
「反逆だの削除だの、物騒な話だ」
「マルコ……」
「俺は何も聞いてない。お前たちは、ただお茶を飲みに来ただけだ」
マルコは、ちらりとこちらを見た。
「気をつけな」
短い言葉。でも、その目は。真剣だった。
「……ああ」
俺は、立ち上がった。
「行こう」
ガロウも、立ち上がる。
「明日の朝、タワーの前で落ち合おう」
「分かった」
「遅れるなよ」
「お前こそ」
ガロウは、先に店を出た。カウベルが鳴る。
俺とミラも、扉に向かった。
「レオン」
マルコの声。振り返る。
「戻ってこいよ」
飄々とした口調。でも、その目は笑っていなかった。
「……ああ」
俺は、頷いた。
「必ず」
*
忘却堂を出た。
夕暮れが近い。オレンジ色の光が、路地裏を染めている。
「レオン伍長」
ミラの声。俺は、立ち止まった。
「私も、行きます」
振り返る。ミラが、俺を真っ直ぐ見ていた。
「……ミラ」
「明日。タワーの最深部に。私も一緒に行きます」
俺は、首を横に振った。
「ダメだ」
「なぜですか」
「聞いていただろう。見つかれば、削除される」
「……」
「お前まで巻き込めない」
ミラは、黙っていた。
「お前は——ここに残れ」
長い沈黙。
「嫌です」
静かな声。でも、強い。
「嫌です。レオン伍長」
ミラは、一歩近づいた。
「私には——言えないことがあります」
「……」
「ずっと、言いたかった。でも、言葉が出なかった」
ミラの声が、震えている。
「この世界のこと。あなたのこと。私が知っていることを——伝えたかった」
「でも、言えなかった」
俺は、黙っていた。ミラが何かを知っている。それは、前から感じていた。
ミラの目に、光るものがあった。
「だから——」
「私の口からは言えなくても」
「あなた自身が真実を見つけるなら——私は、それを見届けたい」
俺は、黙っていた。
「一緒にいさせてください」
「……」
「お願いです」
ミラの目。青い、透明な瞳。涙が、滲んでいる。俺は——迷っていた。ミラを守りたい。危険な場所に連れて行きたくない。
でも——ミラの目は、揺るがない。
「……本気か」
「はい」
「削除されるかもしれないんだぞ」
「分かっています」
「それでも、来るのか」
「はい」
真っ直ぐな声。俺は——折れた。
「……分かった」
ミラの表情が、緩んだ。
「一緒に行こう。三人で」
「はい」
ミラが——微笑んだ。涙を浮かべながら。
「ありがとう、ございます」
俺は、ミラの頭にそっと手を置いた。
「礼はいい」
「……」
「お前がいてくれて——心強い」
ミラの目から、涙が一筋流れた。
*
夜。部屋で、一人。
窓の外を見る。星空。そして——遠くに見えるメモリアルタワー。青白い光を放つ、巨大な塔。
明日、あそこに行く。最深部に、侵入する。国への反逆。見つかれば、削除。
——覚悟は、できている。
俺は、左手首のリボンを見た。青い、色褪せたリボン。
「リア」
小さく、呟いた。
「明日——会いに行く」
リボンを、握りしめる。
「全ての真実を知って——お前のところに行く」
「もう——待たせない」
窓の外。タワーを見る。
その時——タワー全体が、一瞬だけ揺らいだ。
「……」
青白い光が、微かに明滅した。そして——元に戻った。同時に——俺の左手が、揺らいだ。
「……っ」
指先が、一瞬だけ透けた。すぐに戻る。でも——確かに、揺らいだ。存在率が、また下がっている。
「……時間が、ないな」
小さく、呟いた。明日——全てが決まる。
俺は、目を閉じた。
ガロウの顔が浮かぶ。ミラの顔が浮かぶ。そして——リアの顔。
待っていてくれ……リア。




