第53話:トムとミラ
翌日。
俺は、ミラと街を歩いていた。昨日、カイ大佐から聞いた話が、頭から離れない。
リア。カイ大佐の娘。俺の幼なじみ。青いリボンをくれた少女。
『忘れないで』
その言葉を、俺は——忘れてしまっていた。
「レオン伍長」
ミラの声で、我に返った。
「少し、休みませんか」
俺は、頷いた。
「……ああ」
*
広場のベンチに座った。
昼下がりの穏やかな時間。人通りはまばらだった。空は青く、風は柔らかい。
「いい天気ですね」
ミラが言った。
「……ああ」
俺は、空を見上げた。こんな穏やかな日なのに。胸の奥が、重い。リアのこと。カイ大佐のこと。消された記憶のこと。考えることが、多すぎる。
「ミラ姉ちゃん!」
突然、声が聞こえた。振り返ると、茶色の短髪の少年が走ってきた。トムだった。
「おじさんも!」
「……おじさんじゃない」
「でも薄いじゃん」
「……」
トムは、俺たちの前で立ち止まった。息を切らしている。
「やっと見つけた!」
「見つけた?」
「うん。探してたんだ」
トムは、にっと笑った。
「トム君、こんにちは」
ミラが、柔らかい表情で言った。
「お母様の具合はいかがですか」
「最近、調子いい日が続いてるよ」
トムは、明るく答えた。
「この前なんか、久しぶりに一緒に買い物行けたんだ」
「良かったですね」
「うん! 父ちゃんもすごく喜んでた」
トムは、俺を見た。じっと、見た。
「……なんだ」
「おじさん、なんか暗いね」
「……そうか」
「うん。いつもより、すごく暗い」
ミラが、俺を見た。俺は、黙っていた。
「なんかあった?」
トムが、真っ直ぐ聞いてきた。遠慮がない。いつも通りだ。
「……まあな」
「ふーん」
トムは、少し考えた。
「じゃあさ、クリームパン食べようよ」
「……クリームパン?」
「うん。前も一緒に食べたじゃん。美味しかったでしょ」
「いいですね」
ミラが、立ち上がった。
「買ってきます」
「俺も行く!」
トムが、ミラの後を追いかけた。俺は、ベンチに残された。
*
……リア。
その名前を、心の中で呟いた。カイ大佐の娘。俺の幼なじみ。青いリボンをくれた少女。
『忘れないで』
忘れていた。全て、忘れていた。なのに、彼女はずっと待っていた。一人で。あの暗い場所で。俺は——
「おじさん!」
トムの声で、我に返った。
「買ってきたよ!」
トムが、紙袋を持って走ってきた。ミラが、その後ろを歩いている。
「焼きたてだって!」
トムが、嬉しそうに言った。
三人で、ベンチに並んで座った。トムが真ん中。俺とミラが両側。
「はい、どうぞ」
ミラが、パンを配った。トムが、クリームパンを頬張った。
「……うまい」
「美味しいですね」
ミラも、小さく頷いた。俺も、一口齧った。甘かった。温かかった。
「……ああ」
「やっぱり誰かと一緒だと美味しいね」
トムが言った。俺は、トムを見た。前にも、同じことを言っていた。三人でクリームパンを食べた時。
「今日、いい天気だね」
トムは、空を見上げた。
「こういう日は、なんかいいことありそうな気がする」
トムは、にっと笑った。俺は、その笑顔を見ていた。十歳の子供。家のことを手伝いながら、明るく笑っている。
「……」
少しだけ、胸の重さが軽くなった気がした。
*
パンを食べ終えると、トムが、俺を見ていた。
「ねえ、おじさん」
「おじさんじゃない」
「おじさん」
「……何だ」
「約束、覚えてる?」
「……約束?」
「困った時は話しに来いって。一人で抱え込むなって」
俺は、黙った。前に、トムに言った言葉だ。
「おじさんが言ったんだよ」
トムは、足をぶらぶらさせながら続けた。
「俺、ちゃんと覚えてる。約束したから」
「……」
「だから今日も、探してたの。おじさんのこと」
トムが、俺を見た。
「薄くて見つけにくいけど、探してたから分かった」
「……そうか」
「うん」
トムは、にっと笑った。
「だからさ、おじさんも来ていいんだよ」
「……何がだ」
「困った時。話しに来ていいってこと」
トムは、立ち上がった。
「俺とミラ姉ちゃんがいるから。一人じゃないでしょ」
俺は、トムを見た。十歳の子供に、言われている。自分が言った言葉を、そのまま返されている。
「……生意気だな」
「本当のことだもん」
トムは、買い物袋を持ち上げた。
「そろそろ帰る。母ちゃんの手伝いあるから」
「そうですか」
ミラが言った。
「また遊ぼうね、ミラ姉ちゃん!」
「はい、また」
「おじさんも!」
「……ああ」
トムは、走り出した。途中で振り返って、手を振った。
「元気出してね、おじさん! 薄くなっちゃうよ!」
「……もう薄い」
俺の声は、届いていなかった。トムは、そのまま走り去っていった。
*
広場に、俺とミラが残された。
「……」
しばらく、黙っていた。
「トム君は、いつも元気ですね」
ミラが言った。
「ああ」
「レオン伍長のこと、気にかけているようです」
「……そうか」
俺は、空を見上げた。青い空。白い雲。穏やかな風。
「一人じゃない、か」
小さく、呟いた。昨日から、ずっと考えていた。リアのこと。カイ大佐のこと。失われた記憶のこと。一人で、抱え込んでいた。でも——
「レオン伍長」
ミラが、俺を見た。
「私も、います」
「……ああ」
俺は、ミラを見た。
「分かってる」
ミラは、小さく微笑んだ。俺は、立ち上がった。
「帰るか」
「はい」
二人で、歩き出した。胸の奥は、まだ重い。考えなければならないことは、山ほどある。リアに会う方法。カイ大佐が隠していること。俺の失われた過去。
でも——
俺は、空を見上げた。青い空。白い雲。夕暮れが近づいている。……悪くない。こういう日も、悪くない。
『一人じゃない。』
トムの言葉が、胸に残っていた。ミラがいる。トムがいる。マルコも、アリアも。
一人で抱え込まなくていい。
少しだけ——心が、軽くなった気がした。
夕暮れの街を、二人で歩いた。
オレンジ色の光が、全てを包んでいた。




