第50話:シャドウの記憶
夜。
部屋に戻ってから、ずっと眠れずにいた。
ベッドに横たわっても、目を閉じても、胸の奥が騒がしい。ニナの言葉が、繰り返し響く。
「あなたは、冷たかった」
「感情がないみたいだった」
「あの日から、あなたは変わった」
俺は——いつから変わったんだ。
左手首の青いリボンに、触れた。熱い。いつもより、ずっと熱い。脈打つように、温かさが伝わってくる。まるで、何かを思い出させようとしているみたいに。
「……」
息が、苦しい。胸が、締め付けられる。何かが、蘇ろうとしている。
目を閉じた。
その瞬間——頭の中で、何かが弾けた。
*
断片的な映像が、流れ始めた。
これは、俺の記憶。いや、違う。誰かの記憶だ。
冷たい。感情がない。ただ、命令に従う。機械のように。
これが——俺だったのか。
*
暗い路地。
足音が、規則正しく響いている。隊列を組んで、進んでいる。俺は、その中にいた。
黒い服。重い装備。仲間たち。誰も、何も言わない。ただ、無言で歩く。
「排除対象、発見」
無線の声。冷たい、機械的な声。
「了解」
俺の声。それも、冷たい。感情がない。
*
対象を追う。
路地の奥。行き止まり。若い男が、立っていた。怯えている。震えている。両手を上げている。
「待ってくれ……」
男の声が、掠れる。
「俺、何もしてない……!」
俺は、止まらなかった。感情がない。これは、任務だ。規律から外れた存在。排除すべき対象。それだけ。
「頼む……」
男が、後ずさる。壁に、背中がついた。もう、逃げ場はない。
「俺には、家族が……!」
俺は、何も感じなかった。家族。その言葉の意味は、知っている。でも、それが何だ。俺には、関係ない。手を伸ばす。
男が——倒れた。
*
報告する。
「対象、排除完了」
淡々と。感情を込めずに。
「了解。次の座標へ移動せよ」
「了解」
俺は、その場を離れた。倒れた男を、見ることもなく。何も、感じなかった。
何も。
*
また別の日。
排除任務。今度は、女だった。長い髪。泣いている。
「お願い……」
女が、叫んだ。
「子供がいるの……!」
「待ってる……!」
俺は、止まらなかった。命令だから。任務だから。女の声が、遠くなる。そして——静かになった。
*
「任務、完了」
「了解」
仲間たちが、頷く。誰も、何も言わない。次の任務へ。また次の任務へ。それが、日常だった。
削除。報告。移動。削除。報告。移動。
繰り返し。繰り返し。
俺は——何人、排除したんだ。分からない。数えていない。数える必要もない。
ただの、任務だから。
*
ある日。
いつもと同じ任務。対象を追っている。老人だった。杖をついている。逃げられない。
「……」
老人が、俺を見た。諦めたような目。でも——悲しそうな目。
「若いのに……」
老人が、呟いた。
「こんなこと、させられて……」
俺は、何も答えなかった。感情がない。老人の言葉の意味も、分からない。手を——
*
また、報告する。
「任務、完了」
「了解」
いつもと同じ。
でも、その日から——何かが、変わり始めた。
任務の最中。ふとした瞬間。左手首が、熱くなる。青いリボン。なぜ、これを身につけているのか。分からない。
外そうとした。でも——外せなかった。何かが、俺を止める。
見つめる。青い、リボン。少し、古びている。でも、大切にされてきた痕跡がある。
これは——何だ。
誰が、くれたんだ。思い出せない。
でも——温かい。
*
その日以降。
任務中、何度も左手首が熱くなる。青いリボンを、見つめる。その度に——頭の中に、何かが引っかかる。
何だ。
何を、忘れているんだ。
*
ある夜。
眠れなかった。青いリボンが、ずっと熱い。
目を閉じると——断片的な映像が、見える。
......赤い、何か。
何だ、これは。
......リボン、かもしれない。
......優しい、笑顔。
誰だ。顔が——見えない。ぼやけている。霧がかかったように。
......温かい、声。
何か、言っている。でも——聞こえない。
音が、途切れる。
......『——わす——ないで』
何と言っている?
......『——っと、——緒——よ』
......誰だ。
お前は、誰だ。
......大切な、誰か。
......守りたかった、誰か。
......一緒にいた、誰か。
でも——名前が、出てこない。顔も、はっきりしない。ただ——温もりだけが、残っている。
懐かしい、温もり。失ってはいけなかった、温もり。でも——失った。
何だ、この記憶は。俺のものじゃない。でも——確かに、俺のものだ。
青いリボンが、さらに熱を持つ。
胸が、痛い。
苦しい。
でも——温かい。
何だ、この感覚は。
*
翌日の任務。
いつもと同じ、排除任務。対象を追う。捕まえる。
でも——手が、止まった。
なぜだ。任務だ。排除しろ。でも......この人にも、誰かがいるんじゃないか。
何を考えているんだ、俺は。関係ない。任務だ。でも......家族が、待っているんじゃないか。......帰りを、待っているんじゃないか。
手が、震えた。
*
その任務は——仲間が代わりに完了した。
「どうした」
仲間の声。
「……何でもない」
俺は、答えた。でも——何でもなくなかった。何かが、変わっていた。
*
それから、任務中、何度も躊躇するようになった。
対象の前で——一瞬、手が止まる。
......この人を、本当に排除していいのか。
......これは、正しいのか。
分からない。命令だから、やる。でも——心が、痛む。
心?俺に、そんなものがあるのか。
*
そして——あの日が来た。
排除任務。対象を追っている。仲間たちと共に。
しかし、路地の奥で——罠だった。待ち伏せされていた。
攻撃を受ける。散開しろ、という命令。対象を逃がすな、という命令。
仲間たちは、先を急ぐ。
*
その時——
倒れている人影が、見えた。ニナだった。仲間だ。
いや——仲間という概念すら、俺には希薄だった。ただの、同じ部隊の構成員。負傷している。動けない。
「……」
他の隊員たちは、既に行ってしまった。対象を追って。
俺も、行くべきだ。それが、任務だ。優先順位は、明確だ。対象の排除が最優先。負傷した仲間は——後回し。
それが、規律だ。
*
俺は、ニナを見下ろした。
苦しそうにしている。血が、流れている。このままでは——死ぬかもしれない。
でも、それが何だ。任務だ。行け。
対象を追え。
*
......待て。
何だ、今の声は。
......この人を、見捨てるのか。
俺の中の、誰かが言った。任務だ。優先順位は——
......いや。
......違う。
青いリボンが、熱い。激しく、熱を持つ。
......守りたい。
何を言っているんだ。
......この人を。
......誰かを、守りたかった。
......いつも、そうだった。
そうだった?いつの話だ。
......ずっと、昔。
......俺が——
頭の中に、映像が流れ込んでくる。
*
......誰かが、いた。
大切な、誰か。でも——顔が見えない。ぼやけている。霧がかかったように。
......赤い、何か。
リボン、かもしれない。
......優しい、笑顔。
......温かい、声。
何か、言っている。でも——聞こえない。
......『——わす——ないで』
何と言っている?音が、途切れる。
......『——っと、——緒——よ』
......誰だ。
お前は、誰だ。
......大切な、人。
......守りたかった、人。
......一緒にいた、人。
でも——名前が、出てこない。顔も、はっきりしない。
ただ——温もりだけが、残っている。懐かしい、温もり。失ってはいけなかった、温もり。
でも——失った。
......お前は——
......誰だったんだ。
*
......守りたかった。
......でも、守れなかった。
......だから——
......今度は。
何を言っているんだ。任務だ。行け。
......いや。行くな。
任務を優先しろ。
......人を優先しろ。
それは規律違反だ。
......それが、人間だ。
人間?俺は——
......お前は、人間だ。
......機械じゃない。
......心がある。
......選べる。
任務を——
......守りたいものを、守れる。
でも——
......あの時、守れなかった。
......でも——
......今度は。
......今度こそ。
青いリボンが——熱い。燃えるように、熱い。頭の中で、二つの声が戦っている。
任務だ。
......人だ。
規律だ。
......心だ。
機械だ。
......人間だ。
俺は——
俺は——
*
選んだ。
「……っ!」
俺は、ニナに駆け寄った。
「レオン……?」
ニナが、驚いた顔で俺を見る。いつもの俺なら——こんなことは、しない。任務を優先する。感情を見せない。でも——
「大丈夫か」
声が、震えた。なぜだ。なぜ、震える。
「お前を……」
言葉が、続かない。胸が、苦しい。でも——温かい。
「置いていけない」
ニナの目が、大きく見開かれた。
「でも……任務……」
「知らない」
俺は、答えた。
「そんなこと、知らない」
ニラを、抱え上げた。
「レオン……!」
その時——攻撃が来た。俺は、ニナを庇った。背中に、衝撃。熱い。痛い。でも——構わない。
「……っ」
走る。ニナを抱えたまま、走る。背中が、痛い。血が、流れている。でも——止まらない。止まれない。
この人を——守らなきゃいけない。
*
安全な場所まで、辿り着いた。ニナを、下ろす。
「もう……」
俺は、言った。
「大丈夫だ」
ニナが、俺を見た。涙を、流していた。
「レオン……」
「なんで……」
「なんで、私を……」
俺は——答えられなかった。分からない。なぜ、こんなことをしたのか。
任務に背いた。規律を破った。でも——後悔は、しなかった。これで、良かった。そう、思えた。
「……」
ニナが、震える手を伸ばした。俺の手を、握った。
「ありがとう……」
小さな声。でも、確かな声。
「ありがとう……レオン……」
その瞬間——青いリボンの温もりが、全身を包んだ。
*
俺は——その時、人間になった。機械じゃなく。駒じゃなく。心を持った。
選ぶことができる。守りたいものを、守れる。それが——俺だ。
*
目が覚めた。
「……っ」
汗が、びっしょりだった。息が、荒い。心臓が、激しく打っている。シーツを、握りしめていた。
夢だった。でも——夢じゃない。記憶だ。俺の、過去の記憶。
「……」
左手首の青いリボンを見た。まだ、熱い。温もりが、残っている。誰かが——俺に、これをくれた。
大切な、誰か。守りたかった、誰か。でも——思い出せない。
名前が、出てこない。顔も、見えない。ただ——この温もりだけが、確かだ。
*
部屋の中を見渡した。静かだ。朝の光が、窓から差し込んでいる。
時計を見た。朝の六時。手が、まだ震えている。でも——それは、恐怖の震えじゃなかった。何かを——取り戻した震え。
俺は、あの時、ニナを、救った。任務に背いて。命令に背いて。でも——それは、正しかった。
初めて、自分の意志で動いた。初めて、心で選んだ。それが——俺だ。
*
ノックの音が、聞こえた。
「レオン伍長、入ってもいいですか」
ミラの声だった。
「……ああ」
声が、少し掠れた。
ドアが開いた。ミラが、入ってくる。そして——止まった。
「……」
ミラが、俺を見ている。心配そうな顔。でも——それだけじゃない。何か、感じているような顔。
「顔色が、とても悪いです」
ミラが、近づいてきた。
「汗も……」
「大丈夫ですか」
「……ああ」
俺は、頷いた。
「夢を見た」
「夢……」
ミラは、静かに座った。隣に。何も言わず、ただ聞いてくれる。
*
「俺が……」
俺は、呟いた。
「選んだ夢を」
ミラが、少し首を傾げた。
「選んだ?」
「ああ」
俺は、窓の外を見た。
「命令じゃなく」
「心で」
沈黙。ミラは、何も言わなかった。ただ、待っていてくれた。俺が、続けるのを。
「俺は……兵士だった」
声が、震えた。
「命令に従う、ただの駒だった」
「感情がなかった」
「人を……排除していた」
ミラの表情が、少し曇った。でも——何も言わなかった。
「でも、ある日……」
俺は、左手首のリボンを見た。
「変わった」
「誰かを、救いたいと思った」
「任務よりも、その人を」
「……」
「それで——」
俺は、ミラを見た。
「俺は、選んだ」
「心で」
*
ミラは——微笑んだ。優しい、温かい笑顔。
「それが」
ミラの声が、静かに響いた。
「あなたです」
「……」
「命令ではなく、心で選んだ」
ミラは、俺の手を取った。温かい。
「だから、私は」
ミラの目を、見た。青い瞳。透明な、優しい瞳。
「あなたを、信じられるんです」
胸が、温かくなった。
「でも……」
ミラの声が、少し震えた。
「あなたは、消えてしまうかもしれません」
「存在率が、下がっています」
「このまま真実を追い続けたら……」
ミラの手が、俺の手を強く握った。
「それでも……行くんですか」
俺は——頷いた。
「ああ」
「なぜ……」
ミラの目に、涙が滲んだ。
「なぜ、そこまで……」
「……分からない」
正直に、答えた。
「でも、行かなきゃいけない気がする」
「俺が何者なのか」
「何を選んできたのか」
「全部、知りたい」
ミラは——泣いた。でも、微笑んでいた。
「分かりました」
「では、私も一緒に」
「あなたが消えても……」
ミラの声が、震えた。
「私は、覚えていますから」
俺は——ミラの手を、握り返した。
「ありがとう」
「ミラ」
*
窓の外を見た。曇り空。重い雲が、垂れ込めている。
でも——どこか。光が、差し込んでいる気がした。
「ニナは、言っていた」
俺は、呟いた。
「俺が『何かをして、消えた』と」
あの後——もう一度。俺は、選んだんだ。心で。
......小さな、存在。
......怯えていた。
......誰かを、逃がした。
まだ、思い出せない。誰を?何のために?でも、確かに。俺は——選んだ。
「……」
青いリボンを、握った。温かい。この温もりが、俺を導いてくれる。
誰が——くれたんだ。このリボンを。この温もりを。思い出せない。でも——
「必ず、思い出す」
小さく、呟いた。
「お前が誰なのか」
「俺が何者なのか」
「全部」
曇り空の向こうに——少しだけ、青空が見えた気がした。
ミラが、隣にいる。一人じゃない。
「行こう、ミラ」
「はい」
ミラは、涙を拭って、微笑んだ。
「どこまでも、一緒に」
俺は、立ち上がった。真実を、見つけに行く。過去を、思い出しに行く。そして——あの人に会いに行く。青いリボンをくれた、誰か。全てを、知るために。
青いリボンの温もりを、胸に。




