第49話:過去の証人
正午。俺は、ミラに書き置きを残して、一人で部屋を出た。
旧リベルタ駅。南区の外れにある、使われなくなった駅舎だった。戦争で路線が廃止され、今は誰も来ない。崩れかけたホーム。錆びた線路。雑草が生い茂っている。
駅舎の入り口に、ニナが立っていた。黒を基調とした服装。長い黒髪が、風に揺れている。
「来てくれたのね」
ニナは、微笑んだ。
「……ああ」
*
駅舎の中に入った。埃を被ったベンチ。割れた窓ガラス。光が、斜めに差し込んでいる。
俺とニナは、向かい合って座った。
「どこから話せばいいかしら」
ニナは、呟いた。
「……最初から」
俺は、答えた。
「俺が、何者だったのか。全部、教えてくれ」
ニナは、頷いた。
「あなたは——シャドウにいたの」
「特殊部隊よ。規律から外れた存在を排除する任務を持った」
ガロウも、同じことを言っていた。
「俺は……その部隊にいたのか」
「ええ」
ニナの声が、静かに響いた。
「あなたは、その中でも特別だった」
「誰よりも強くて、誰よりも正確で」
「そして——誰よりも、冷たかった」
*
「冷たい……?」
「命令に忠実だったの」
ニナは、目を伏せた。
「感情がないみたいだった。任務以外のことには、興味を示さなかった」
「仲間が傷ついても、顔色一つ変えなかった」
「……」
「私は、怖かったわ。最初は」
ニナの声が、小さくなった。
「あなたの目を見るのが、怖かった」
「何も映っていないみたいだったから」
俺は、何も言えなかった。それが、俺だったのか。冷たい。感情がない。怖い。
「でも——」
ニナの目が、俺を見た。
「あの日、あなたは変わった」
*
「あれは、排除任務中だった」
ニナは、語り始めた。
「私たちは、逃走中の対象を追っていた」
「追い詰めたと思った瞬間——罠だった」
「待ち伏せされていたの」
ニナの声が、震えた。
「私は、攻撃を受けた。動けなくなった」
「他の隊員たちは——」
ニナは、言葉を切った。
「任務を優先しろ、と言ったわ」
「私を置いていけ、と」
「対象を逃がすな、と」
俺は、拳を握った。
「誰も……助けなかったのか」
「ええ」
ニナは、頷いた。
「誰も。——あなた以外は」
*
「あなたは、戻ってきてくれた」
ニナの目に、涙が滲んだ。
「私を、助けに来てくれた」
「攻撃を、身を挺して庇ってくれた」
「あなたは、傷だらけになった」
「それでも——私を抱えて、逃げてくれた」
——光。
——悲鳴。
——誰かを、抱えている。
——熱い。背中が、熱い。
俺は——
「……っ」
意識が、揺らいだ。
何だ、今のは。断片的な映像が、頭の中を走った。
ニナが、俺を見ていた。
「……大丈夫?」
「……ああ」
思い出しかけている。
でも——掴めない。
「あなたは、私を安全な場所まで運んでくれた」
ニナは、続けた。
「そして——こう言ったの」
ニナは、俺を見た。
「『もう、大丈夫だ』と」
「たった一言。でも、それだけで——私は、救われた」
*
「あの日から、あなたは変わった」
ニナは、続けた。
「何かを思い出したみたいに」
「任務中に、時々遠くを見るようになった」
「左手首の——そのリボンを、見つめるようになった」
俺は、青いリボンに触れた。温かい。
「そして——任務中に、躊躇するようになった」
「……躊躇?」
「排除対象の前で、一瞬だけ——手が止まるようになった」
ニナの目が、俺を捉えた。
「私は、それを見ていた」
「あなたは、変わっていた」
「……」
「そして——ある時……」
ニナは、言葉を切った。
「……いえ、これは私が言うべきことじゃない」
「……何だ」
「あなた自身が、思い出すべきこと」
ニナは、首を横に振った。
「ただ——あなたは、何かをした」
「それが原因で——消えた」
「消えた……?」
「ある日、あなたはいなくなった」
「シャドウからも、どこからも」
「私は聞いて回った。でも、誰も知らなかった」
「というより——誰も、覚えていなかったの」
ニナの目が、俺を捉えた。
「あなたのことを。あなたの名前を。あなたの顔を」
「まるで、最初からいなかったみたいに」
「私だけが、覚えていた」
*
「なぜだ」
俺は、聞いた。
「なぜ、あなただけが俺を覚えている」
ニナは、少し考えた。
「分からない」
「でも——思うことはある」
「何だ」
「あなたが私を救ってくれた時——」
ニナは、胸に手を当てた。
「私は、感じたの」
「あなたの想いを」
「命をかけてでも、私を救おうとした——その想いを」
「……」
「それは、記憶よりもっと深いところに刻まれた」
「消えない。消せない」
「だから——」
ニナは、静かに言った。
「私は、あなたを忘れられなかった」
「理由は、分からない」
「でも——心が、覚えている」
俺は、その言葉を聞いていた。記憶よりもっと深いところに。心が、覚えている。
それは——何だ。
分からない。でも、何かが引っかかる。
*
「俺は……」
俺は、声を絞り出した。
「人を……殺していたのか」
「……ええ」
ニナは、静かに答えた。
「私たちの任務だった」
私たちの。ニナも——同じだったのか。
「私も……同じだった」
ニナの声が、小さくなった。
「だから——あなただけを責めることは、できない」
「何人……」
「分からない」
ニナは、首を横に振った。
「私たちは、数えなかった」
「任務だったから」
膝が、震えた。
壁に手をついた。
立っていられない。
俺が。
人を。
殺していた。
「彼らは……どんな存在だった」
「規律から外れた存在」
ニナは、答えた。
「この世界の秩序に従わなかった者たち」
「でも——」
ニナの声が、小さくなった。
「彼らも、生きていた」
「恐怖を感じていた」
「逃げようとしていた」
俺は、頭を抱えた。
分からない。
何が正しくて、何が間違っていたのか。
俺は——何だったのか。
*
「レオン」
ニナの声が、聞こえた。
「私は、あなたを責めているわけじゃない」
「……」
「あなたは——変わったの」
「私を救ってくれた」
「任務中に、躊躇するようになった」
「そして——何かをして、消えた」
ニナは、立ち上がった。
「過去は、変えられない」
「でも、今のあなたは——あの頃のあなたじゃない」
「……」
「私は、今のあなたを知っている」
「だから——」
ニナは、俺の前で立ち止まった。
「ずっと……伝えたかったの」
「でも、あなたは——誰も近づけなかった」
「話しかけようとした時には……もう、いなくなっていた」
ニナは、深く頭を下げた。
「ありがとう……ございました」
「あの時、あなたに救われた命で」
「私は、今も生きています」
俺は、何も言えなかった。
ただ——頷いた。
ニナは、顔を上げた。穏やかな、温かい表情。
「また、会える?」
「……ああ」
「よかった」
ニナは、微笑んだ。
「また会えて、嬉しい。レオン」
*
旧リベルタ駅を出た。
空を見上げた。曇り空。どこか、重い。
俺は、一人で歩いた。
シャドウ部隊。
排除任務。
俺は——人を殺していた。そして——何かをして、消えた。
ニナは、言わなかった。俺自身が、思い出すべきことだと。
左手首の青いリボンに、触れた。温かい。
この温かさは、何だ。俺は——誰だったんだ。
——光。
——悲鳴。
——誰かの手を、握っている。
——逃げろ。俺が——
「……っ」
頭が、痛い。何かが、蘇ろうとしている。俺は——思い出したいのか。それとも——このまま、忘れていたいのか。
答えは、まだ出ない。でも——過去は、待ってくれない。
忘れていた何かが、目を覚まそうとしている。




