第48話:忘れられない人
昼下がりの街を歩いていた。
考えることが、多すぎる。シャドウ部隊。エラー体の排除。女の同僚。俺は、何者だったのか。
人通りは多い。誰も、俺を見ない。誰も、俺に気づかない。いつものことだ。ミラだけが、隣にいる。
「レオン伍長、休憩しますか」
「……そうだな」
ミラが、通りの向こうを指差した。小さなカフェが見える。
「そこにしよう」
歩き出した。通りを渡ろうとした時——
「……レオン?」
*
立ち止まった。
人混みの中、誰かが、俺を呼んだ。俺の名前を。
振り返ると、女性が、立っていた。
俺を、見ていた。
周囲の人々は、俺に気づかない。素通りしていく。でも、彼女だけは——俺を、見ていた。
真っ直ぐに。迷いなく。
長い黒髪。一部が、編み込まれている。深い紫色の瞳。黒を基調とした、機能的な服装。
「やっぱり……」
女性の声が、震えた。
「レオン……だ……」
その瞳に、涙が滲んでいる。
「……誰だ」
俺が聞くと、女性の顔が一瞬曇った。
「……そう」
静かな声だった。
「やっぱり……忘れてしまったのね」
女性は、微笑んだ。悲しげな、微笑みだった。
「私よ、ニナ。ニナ・アークライト」
*
ニナ・アークライト。
その名前を聞いても、何も思い出せない。
「すまない……俺は……」
「いいの」
ニナは、首を横に振った。
「あなたが突然いなくなった後——」
ニナの声が、小さくなった。
「私も、記憶がぼんやりして……何があったのか、よく分からなくなった。でも——」
ニナの目が、俺を捉えた。
「あなたのことだけは、忘れられなかった」
「なぜかは、分からない」
「でも、覚えてる」
「あなたのこと、全部」
涙が、一筋こぼれた。ニナは、それを拭おうとしなかった。
俺には分からない。この涙の意味が。この女性が、どれだけ俺を探していたのかが。
でも——重い。その涙は、重かった。
「……ごめんなさい」
やがて、ニナは静かに涙を拭った。
「取り乱してしまったわ」
「やっと……会えたから」
*
「レオン伍長……」
ミラが、小声で言った。
「あの方、あなたをはっきり見ています。周りの人たちとは、違う」
俺は、周囲を見た。人々は、俺に気づかない。素通りしていく。でも、ニナだけは——俺を、見ている。はっきりと。
「なぜだ」
俺は、聞いた。
「俺は、一般の人には覚えられない」
「存在が薄れて……すれ違った人の記憶には残らないはずだ」
「でも、あなたは——」
ニナは、少し考えるように目を伏せた。
「私にも……分からない」
「ただ、忘れたことがないの」
「あなたの名前も、顔も、声も」
ニナは、俺を見た。深い紫色の瞳。
「まるで——心に刻まれているみたいに」
*
「どうやって俺を見つけた」
「……ガロウよ」
ニナは、短く答えた。
「ガロウ……?」
「私は、ずっとあなたを探していた」
ニナの声が、静かに響いた。
「ガロウにも聞いていたの。『レオンを知りませんか』と」
「でも、彼は覚えていなかった」
「『知らない。そもそもお前は誰だ』なんて言われたわ」
ニナは、目を伏せた。
「何度聞いても、同じだった」
「でも——数日前に連絡があったの」
ニナの目が、俺を見た。
「『思い出した。思い出すのが遅くなって、すまなかったなニナ。お前が探していたレオンかもしれない。南区を歩け』と」
ガロウ。
俺と再会して、記憶が戻り始めたと言っていた。それで——ニナが言っていた「レオン」と、繋がったのか。
*
「話したいことがあるの」
ニナの目が、真剣になった。
「あなたの……過去のこと」
心臓が、跳ねた。
「私は覚えてる
「あなたが、忘れていることを」
「俺の……過去を……」
「ええ」
ニナは、頷いた。
「あなたが……誰だったのか」
「私のことも、あの頃のことも——きっと覚えていないでしょ」
俺は、黙っていた。何も、思い出せない。
「明日、会えない?」
ニナが、聞いた。
「……ああ」
「よかった」
ニナは、周囲を見回した。目が、鋭くなった。何かを——誰かを、探しているような目。
「……ここでは、これ以上話せない」
ニナは、懐から小さな紙片とペンを取り出して、素早く、何かを書きつける。書き終えると、ニナは紙片を折り畳んで、俺の手に、押し込むように渡した。
「場所と時間」
「声には出さないで」
「……分かった」
*
ニナは、一歩下がった。
「待ってくれ」
俺は、呼び止めた。
「一つ、聞かせてくれ」
「何?」
「俺は……どんな人間だった」
ニナは、立ち止まった。しばらく、俺を見つめていた。
「……冷たい人だったわ」
静かな声だった。
「命令に忠実で、感情がないみたいだった」
「でも——」
ニナの目が、遠くを見た。
「時々、違う顔を見せることがあった」
「困っている仲間がいると、黙って手を貸していた」
「あなたは気づいていなかったと思うけど」
「そして——」
ニナの目が、柔らかくなった。
「私を、救ってくれた」
その言葉に、何かが胸の奥で疼いた。
「だから——」
ニナは、微笑んだ。
「私は、あなたを忘れられない」
穏やかな、温かい笑顔だった。
「また、明日」
そう言って、ニナは人混みの中に消えていった。
*
俺は、立ち尽くしていた。
「レオン伍長」
ミラの声が、聞こえた。
「あの人は……何者でしょう」
「分からない」
俺は、答えた。
「だが……俺の過去を知っている」
ミラは、黙っていた。
俺は、左手首を見た。青いリボン。温かい。
「俺を覚えている人間がいた」
「普通、忘れられるはずなのに」
「……」
「答えが、見つかるかもしれない」
俺は、歩き出した。ミラが、隣に並んだ。
「私も、一緒に行きます」
「……ありがとう」
*
夜。
部屋に戻り、ニナから受け取った紙片を開いた。
『明日、正午。旧リベルタ駅。一人で』
一人で。
俺は、ミラを見た。ニナは、なぜ「一人で」と書いたのか。ミラを警戒しているのか。それとも——俺にだけ、話したいことがあるのか。
左手首の青いリボンが、熱くなった。
まるで——警告するように。




