第47話:忘却堂の夜
夜の路地裏を歩いていた。
ガロウと別れてから、そのまま足が向かった場所。忘却堂。南区の路地裏。看板は色褪せ、存在感が薄い。普通の人には見つけられない店。
扉を開けると、コーヒーの香りがした。
「おや」
カウンターの向こうで、マルコが顔を上げた。白髪混じりの灰色の髪。くたびれたシャツ。
「来たか。昨夜の顔を見りゃ分かる。何かあったんだろう」
店の奥に、もう一人いた。白髪の老婆。メイだった。
「あら、レオンさん」
メイは、穏やかに微笑んだ。
「お茶を淹れたところよ。座ったら?」
俺は、カウンターの前に座った。メイが、湯気の立つカップを差し出してくれる。温かい。
「……すまない。話を聞いてほしい」
「どうせ暇だしな。聞いてやるよ」
マルコは、自分のカップを手に取った。
*
俺は、話し始めた。ガロウのこと。今日、廃倉庫で会ったこと。シャドウという部隊のこと。
「シャドウ……」
マルコが、呟いた。
「……名前だけは、聞いたことがあるな。詳しいことは知らないが」
「俺は、そこにいたらしい」
「らしい?」
「記憶がない。消されている」
俺は、続けた。カイ大佐から聞いたこと。俺の記憶が操作されていること。ガロウ隊の記憶は、作り上げられたものだったこと。
「そうか……」
マルコは、目を細めた。
「なるほどな。お前の周りで、色々なことが動いているな」
「それだけじゃない」
俺は、左手首を見た。青いリボン。
「メモリアルタワーの深部で、少女に会った」
「少女?」
「光の粒子が集まって、人の形を取った」
「赤いリボンをつけた、少女だった」
マルコの眉が、動いた。
「それは——」
「この青いリボンが、反応した」
俺は、リボンに触れた。
「温かくなった。共鳴した、としか言いようがない」
「少女は——俺を知っているようだった」
「でも、名前を聞く前に、消えてしまった」
*
沈黙が流れた。メイが、お茶を啜る音だけが聞こえる。
「……なるほど」
マルコが、口を開いた。
「カイ大佐か」
「カイ大佐のこと、何か知っているのか」
「直接は知らない。だが、昔の話なら」
マルコは、窓の外を見た。
「俺がまだ現役だった頃の話だ。当時のカイ大佐は、今とは別人だったらしい。熱心で、真面目で——人を救うことに本気だったと。今のあの冷たい目からは、想像もつかないがな」
「……」
「仕事も順調で、家のほうもうまくいってるって話だった」
マルコは、続けた。
「娘がいた、という話も」
俺の心臓が、跳ねた。
「娘……」
「ああ。軍の施設に遊びに来ることもあったらしい。ちょっとした有名人だったそうだ」
「その娘は……どうなった」
マルコは、首を横に振った。
「分からない。詳しくは聞いていない」
「ただ——」
マルコの声が、低くなった。
「戦争が激化した頃、何かがあったらしい」
「それ以来、カイ大佐は——人が変わったように冷たくなったと」
俺は、黙っていた。あの少女。メモリアルタワーの深部にいた、赤いリボンの少女。カイ大佐の、娘——?
「確証はない」
マルコが、言った。
「だが、可能性はある」
「お前が見た少女が——カイ大佐の娘だという可能性は」
*
「大切なものを失った人は」
メイの声が、静かに響いた。
「時に、間違った選択をするものよ」
俺は、メイを見た。白髪の老婆。穏やかな灰色の瞳。
「でもね、それは弱さじゃない」
メイは、カップを両手で包んだ。
「愛があるからこそ、間違えるの」
「……」
「私もね、たくさん間違えてきたわ」
メイは、微笑んだ。穏やかな、でも少し寂しげな笑顔。
「戦争で、多くのものを失った」
「夫も。子供も。孫も」
「……」
「それでも、生きてきた」
「間違えながら、傷つきながら」
メイは、俺を見た。
「あなたも、何かを失ったんでしょう」
「……ああ」
「だったら、分かるはずよ」
メイの目が、優しかった。
「カイ大佐という人のことも」
「あの少女のことも」
「そして——あなた自身のことも」
俺は、黙っていた。愛があるからこそ、間違える。
カイ大佐も、そうだったのか。娘を失いかけて、間違った選択をした。俺にも、覚えがある気がする。何かを失って、間違えた記憶。でも、思い出せない。
しばらく、沈黙が流れた。お茶が、冷めかけていた。メイが、静かに淹れ直してくれる。
「……それと、一つ頼みがある」
「何だ」
マルコが、聞いた。
「ガロウとの連絡に、この店を使いたい」
「俺から提案した」
「ガロウ……さっき話していた、元隊長か」
「ああ」
マルコは、少し考えた。
「……この店、普通の奴には見つけにくいからな」
「連絡が来たら、俺が外で迎えに出るさ」
「すまない」
「気にするな」
マルコは、肩をすくめた。
「どうせ暇だしな」
*
しばらく、静かな時間が流れた。メイがお茶を淹れ直してくれた。温かい。マルコは、窓の外を見ていた。考え込むような表情。
「……正直な話」
マルコが、口を開いた。
「嫌な予感がする」
「嫌な予感……?」
「俺が現役だった頃にも、似たような空気を感じたことがある」
マルコの目が、俺を捉えた。
「何かが動き出している。大きな何かが」
「……」
「お前の過去。カイ大佐のこと。あの少女のこと」
「シャドウ部隊。記憶操作。お前が誰かを逃がしたという話」
「全部が——繋がっている気がする」
マルコは、カップを置いた。
「レオン。一つ、聞いておきたい」
「何だ」
「真実を知る覚悟は、あるか」
俺は、マルコを見た。
「真実……」
「全てを知れば——もう、戻れないかもしれない」
「知らなかった頃には、戻れない」
「それでも、知りたいか」
俺は、しばらく黙っていた。
戻れない。知らなかった頃には、戻れない。でも——
「……ある」
俺は、答えた。
「覚悟は、ある」
「俺は、知りたい」
「俺が何者なのか」
「あの少女が誰なのか」
「カイ大佐が何を隠しているのか」
左手首の青いリボンに、触れた。
「このリボンの意味を」
「俺が忘れさせられているものを」
「全部——知りたい」
マルコは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、口元が緩んだ。
「……そうか」
「なら、進め」
マルコは、立ち上がった。
「俺たちは、味方だ。何かあれば、ここに来い。情報があれば、伝える」
「……ありがとう」
「礼はいらねえ」
マルコは、肩をすくめた。
「お前は、俺の店の常連だ。常連を助けるのは、店主の仕事だろう」
*
「お茶は、いつでも淹れてあげるわ」
メイが、微笑んだ。
「悩みごとがあっても、お茶は美味しいのよ」
「……ああ」
俺は、カップを手に取った。一口、飲んだ。温かい。
「美味いな」
「でしょう?」
メイは、嬉しそうに笑った。
窓の外は、暗かった。夜が深まっている。でも、この店の中は——温かかった。
マルコがいる。メイがいる。味方がいる。
「……そろそろ、帰る」
俺は、立ち上がった。
「無理はするなよ」
マルコが、言った。
「焦っても、いいことはない」
「……ああ」
「それと——」
マルコは、俺を見た。
「お前には、仲間がいる。忘れるな」
俺は、頷いた。扉を開ける。夜の冷たい空気が、頬を撫でた。振り返ると、マルコとメイが、手を振っていた。
「また来いよ」
「待ってるわ」
俺は、小さく頷いて、歩き出した。
夜の街を、歩く。一人じゃない。味方がいる。
それだけで——少し、心が軽くなった。




