第44話:記憶の中の少女
夜が、明けた。
窓の外が、白んでいく。俺はベッドに座ったまま、その光を見つめていた。
あまり、眠れなかった。目を閉じるたびに、ガロウの言葉が蘇る。カイ大佐の告白が蘇る。偽りの記憶。失われた過去。でも、不思議と身体は動いた。
窓の外に、メモリアルタワーが見える。朝日を受けて、静かに輝いている。
今日、あそこに行く。俺の過去を、見つけに。
*
朝食の後、ミラと共にメモリアルタワーへ向かった。
街を歩きながら、左手首の青いリボンに触れた。昨夜から、ずっと温かい気がする。
タワーの入り口で、カイ大佐の許可証を見せた。係員が確認し、頷く。
「深部へのアクセスを許可します。お気をつけて」
エレベーターに乗った。扉が閉まる。静かに、降り始めた。以前、記憶の庭園を訪れた時よりも、さらに深く。時間の感覚が、曖昧になっていく。どれくらい経っただろう。一分か。十分か。
やがて——エレベーターが、止まった。扉が、開く。
「……」
息を、呑んだ。
*
そこは、闇の中だった。
いや、闇ではない。暗いけれど、温かい。無数の光の粒子が、ゆっくりと漂っている。蛍のように。星のように。どこまでも、どこまでも。
記憶の庭園とは、違う。あそこには、糸があった。色とりどりの、記憶の糸。赤、青、金、灰色。それぞれが、はっきりとした形を持っていた。
でも、ここは違う。光の粒子には、形がない。ただ、漂っている。ゆらゆらと。温かく。天井も、壁も、見えない。境界がない。まるで、宇宙の中に浮かんでいるような。
「ここは……」
声が、震えた。
「感情共鳴ログアーカイブ層です」
ミラが、静かに言った。
「忘却術で消された記憶の……残滓が、ここに」
残滓。記憶が消えても残る、感情の痕跡。
俺は、周りを見渡した。無数の光。一つ一つが、誰かの想い。誰かの温もり。誰かの愛情。
「これが……感情共鳴ログか」
胸の奥が、温かい。悲しいのに、温かい。切ないのに、安らぐ。ここには、痛みがある。苦しみがある。でも、それだけじゃない。愛情がある。感謝がある。希望がある。全部、混ざっている。溶け合っている。
その時だった。
「……?」
一つの光が、目に留まった。他の光とは、違う。明るい。ひときわ、明るい。
そして——近づいてくる。
「レオン伍長……」
ミラの声が、緊張している。
「あれは……」
光が、俺に向かって漂ってくる。ゆっくりと。でも、確実に。
形を、取り始めた。
*
心臓が、止まった。
光が集まっていく。人の形に。少女の形に。最初は、輪郭だけだった。ぼんやりとした、シルエット。
やがて——髪が見えた。栗色の、髪。次に——瞳が見えた。優しい、茶色の瞳。そして——赤いリボン。髪に飾られた、赤いリボン。
「……っ」
左手首が、熱くなった。青いリボン。俺の青いリボンが、熱を持っている。光っている。淡く、光っている。少女の赤いリボンも、光っている。二つの光が、呼応している。共鳴している。
何も、言えなかった。
声が、出なかった。
ただ、見つめていた。
少女を。
その顔を。
その瞳を。
胸が、苦しい。息ができない。懐かしい。なぜだ。会ったことなど、ないはずなのに。この少女を見ていると、胸が締め付けられる。
*
少女が、俺を見た。茶色の瞳。透明で、儚い瞳。
「……あなたは……」
声が聞こえた。途切れ途切れの、儚い声。
「誰……?」
少女は、首を傾げた。困惑している。俺と同じように。
「私……」
少女は、自分の手を見た。揺らいでいる手を。
「名前が……思い出せない……」
その声が、震えていた。
「ずっと……ここにいたの……」
少女は、周りを見渡した。
「ずっと……一人で……」
「誰も……来なかった……」
胸が、痛んだ。この少女は、ずっと一人だったのか。この暗い場所で。誰にも会えずに。
「でも……」
少女が、俺を見た。
「あなたが……来てくれた……」
微かに、笑った。儚い、でも温かい笑顔。
「……」
俺は、一歩、近づいた。
「君は……」
声が、震えた。
「君は、誰だ……」
少女は、首を横に振った。
「分からない……私……何も……思い出せない……」
涙のような光が、少女の目から零れた。
「でも……」
少女が、俺の左手首を見た。青いリボンを。
「それ……」
「見覚えが……ある……」
*
その瞬間——
青いリボンが、強く光った。少女の赤いリボンも、強く光った。
「……っ!」
頭の奥で、何かが弾けた。記憶の断片。映像の欠片。
——幼い頃。施設。一人で遊んでいた。
——誰かが、声をかけてくれた。
——『一緒に遊ぼう!』
——赤いリボンをつけた、少女。
——笑顔。温かい笑顔。
でも——顔が見えない。名前も、聞こえない。記憶が、封印されている。
「……っ」
頭痛。激しい頭痛。
「レオン伍長!」
ミラの声が、遠くに聞こえる。
少女も、苦しそうにしていた。
「私も……見えた……」
途切れ途切れの声。
「子供の頃の……あなたと……一緒にいた……」
俺は、少女を見た。
少女も、俺を見た。
「俺たちは……会ったことが……あるのか……」
少女は、頷こうとした。でも——
「……っ」
少女の姿が、揺らいだ。激しく、揺らいだ。
そうか。俺は、この子に——
「……会いたかった」
声が、漏れた。
「ずっと……会いたかったんだ……」
なぜそう思うのか、分からない。でも、確かにそう感じた。ずっと、探していた。ずっと、会いたかった。この温かさを。この懐かしさを。
少女は、微笑んだ。涙を流しながら。
「私も……」
「会いたかった……」
*
少女の姿が、さらに揺らいだ。
「待って……!」
俺は、手を伸ばした。少女に触れようとした。でも——手は、すり抜けた。少女の身体を、すり抜けた。
「行かないでくれ……!」
世界から、音が消えた。静寂の中、少女の声だけが、かすかに聞こえる。
「怖い……」
小さな声だった。震える声だった。
「一人は……嫌……」
少女は、俺を見た。最後の力を振り絞るように。
「また……会いに来て……」
「待ってる……」
「ずっと……待ってるから……」
少女の姿が、光の粒子に戻っていく。
「待って……!」
俺は叫んだ。
「君の名前は……!」
名前を、聞いていなかった。でも、少女は答えられなかった。
光の粒子となって、闇の中に溶けていった。
静かに。
儚く。
*
俺は、立ち尽くしていた。手を伸ばしたまま。何も掴めないまま。
「……」
胸が、苦しい。息が、できない。
「レオン伍長……」
ミラの声。心配そうな声。
「あの子は……」
俺は、呟いた。
「あの子は、誰だ……」
答えは、ない。
「なぜ……こんなに……」
胸が、痛い。涙が、出そうになる。
「なぜ、こんなに……会いたかったんだ……」
左手首の青いリボンは、まだ温かかった。淡く、光っていた。
「名前も……聞けなかった……」
声が、掠れた。
「……」
分からない。あの少女が、誰なのか。俺と、どんな関係があるのか。でも——
「必ず……」
俺は、拳を握った。
「必ず、また会う」
「そして——」
青いリボンの温もりが、決意を支えてくれた。
「君を、一人にしない」
ミラは、何も言わなかった。ただ、静かに、俺の隣に立っていた。
闇の中で、無数の光が漂っている。その中に、あの少女がいる。待っていると、言った。ずっと待っていると。
「……待っていてくれ」
小さく、呟いた。
「必ず、また来る」




