第39話:影を見た
朝。
俺は、ミラと一緒に部屋を出た。
カイ大佐から指名された、特別な依頼。昨日、ノエルが伝えに来たものだ。
「今日の依頼は、どのような内容でしょうか」
ミラが聞いた。
「……詳細は、向かった先で聞くことになっている」「そうですか」
ミラは、それ以上聞かなかった。
空は、曇っていた。昨日までの青空が嘘のように、灰色の雲が広がっている。左手首が、熱かった。青いリボン。昨日から、ずっと熱い。
何かが、起きる。そんな予感が、消えなかった。
*
街を歩いていた。依頼の場所は、街の東側。広場を抜けて、しばらく歩いた先だ。
広場は、人で賑わっていた。市が立っているのだろう。露店が並び、人々が行き交っている。笑い声。呼び込みの声。子供たちの歓声。
平和な光景だ。
俺は、人混みの中を歩いていた。ミラが、少し後ろをついてくる。
——その時だった。
視界の端に、何かが映った。人混みの中。十メートルほど先。
後ろ姿だった。スキンヘッド。筋肉質の体格。広い肩幅。無骨な歩き方。
「——」
足が、止まった。
見覚えが、あった。いや——見覚えなんてものじゃない。あの後ろ姿を、俺は知っている。男が、一瞬だけ振り返った。
——右頬に、傷。
心臓が、止まった。あの傷。見覚えがある。戦場でついた、古い傷。間違いない。
記憶が、曖昧だった。仲間たちの顔は、いつの間にかぼやけていた。思い出そうとしても、霧がかかったように見えなかった。
でも——今、あの顔を見た瞬間。
霧が、晴れた。鮮明に、思い出した。あの声。あの笑い方。作戦前夜に一緒に飲んだコーヒー。
『お前のコーヒーは不味いな』
『不味いが……なぜか、落ち着く』
『明日、終わったら、お前の故郷の話を聞かせてくれ』
——ガロウ。
「レオン伍長?」
ミラの声が、遠くに聞こえた。
俺は、走り出していた。
*
人混みをかき分けた。肩がぶつかる。誰かが怒鳴る。構っていられない。
「すみません——通してくれ!」
前を見た。スキンヘッドの後ろ姿。まだ見える。見失うな。
「ガロウ!」
叫んだ。届かなかった。人混みの喧騒にかき消された。
男は、路地に入っていった。俺も、追いかけた。路地に入った。狭い道。両側に建物が並んでいる。
——いない。
振り返った。来た道。誰もいない。前を見た。路地は、二手に分かれていた。右を見た。人影はない。左を見た。人影はない。
見失った。
俺は、立ち尽くした。息が荒かった。心臓が、まだ激しく鳴っている。膝に手をついた。
「……くそ」
声が、震えた。確かに、いた。確かに、見た。なのに——
「……ガロウ」
呟いた。
間違いない。あれは、ガロウだった。ガロウ。俺の上官。俺たちの部隊の、隊長。
——死んだはずの、男。
「レオン伍長!」
後ろから、声がした。振り返ると、ミラが走ってきた。息を切らしている。
「大丈夫ですか。急に走り出して……」
「……ああ」
俺は、頷いた。でも、大丈夫じゃなかった。頭が、混乱していた。
「誰かを、追いかけていたのですか」
ミラが聞いた。
「……ああ」
「誰を」
俺は、口を開いた。でも、言葉が出なかった。
誰を。死んだはずの、仲間を。
「……昔の、知り合いだ」
それだけ言った。
ミラは、俺の顔をじっと見ていた。何か言いたそうだった。でも、何も言わなかった。
「……依頼は」
ミラが、小さく聞いた。俺は、はっとした。依頼。カイ大佐から指名された、特別な依頼。依頼人が、待っているはずだった。——すっぽかした。
分かっている。これがどれだけ重大なことか。カイ大佐の顔に泥を塗った。依頼人にも迷惑をかけた。でも——
「……明日、謝る」
それだけ言った。
今は——無理だ。頭が……整理できない。
*
帰り道。
俺は、黙って歩いていた。ミラも、黙ってついてきた。頭の中で、同じことを考え続けていた。
ガロウ。あれは、本当にガロウだったのか。見間違いかもしれない。似た人間がいただけかもしれない。
——いや。違う。あれは、ガロウだった。
あの後ろ姿。あの歩き方。あの体格。そして——右頬の傷。間違いない。
「レオン伍長」
ミラの声がした。振り返った。ミラが、立ち止まっていた。俺の顔を見ている。
「顔色が、良くありません」
「……」
「先ほどから、ずっと考え事をされています」
ミラは、俺の目を見た。
「私に、話せることはありますか」
俺は、黙った。話せること。……ある。でも——今は、まだ整理できない。
「……すまない」
俺は、首を振った。
「もう少し、考えさせてくれ」
ミラは、小さく頷いた。
「分かりました。でも——」
ミラは、俺の目を見た。
「一人で、抱え込まないでください」
俺は、何も言えなかった。
*
部屋に戻った。
窓の外を見た。空は、まだ曇っている。
俺は、ベッドに座った。左手首を見た。青いリボン。熱かった。朝から、ずっと熱い。
「……」
頭の中で、記憶を辿った。
ガロウ。俺たちの部隊の隊長。厳格で、でも仲間思いの男だった。作戦前夜、一緒に飲んだコーヒー。あの時の、ガロウの顔。今なら、はっきりと思い出せる。
なのに——なぜ、今まで思い出せなかった。なぜ、仲間たちの顔はぼやけていた。なぜ——
「……記憶が、おかしい」
呟いた。俺の記憶は、本当に正しいのか。
あの日——俺たちの部隊は、全滅したはずだ。俺だけが生き残った。そう、記憶している。でも——ガロウは生きていた。なら——他の仲間たちは……本当に、死んだのか。
「……」
分からない。何も、分からない。
でも——一つだけ、確かなことがある。
俺は、立ち上がった。窓の外を見た。灰色の空。
明日——もう一度、探す。ガロウを見つけて、聞かなければならない。何が起きたのか。なぜ生きているのか。そして——俺の記憶は、本当に正しいのか。
青いリボンに、触れた。熱かった。
あれは、ガロウだった。死んだはずの——ガロウだった。明日、必ず見つける。そして——聞く。
何が、起きたのか。




