第38話:嵐の前の静けさ
あれから、数日が経った。
穏やかな日々だった。依頼をこなし、ミラと帰り、眠る。何も変わらない日常。何も起きない毎日。
——あの夜の夢だけが、頭の片隅に残っていた。
暗い部屋。青白い光。誰かの声。でも、それも徐々に薄れていった。ノイズは、相変わらず視界の端にちらついている。でも、あの日ほど激しくはない。日常は、続いていた。
左手首が、かすかに熱かった。青いリボン。気のせいか。俺は、気にしないことにした。
*
「レオン伍長」
ミラの声がした。振り返ると、彼女が立っていた。
「今日は、依頼がありません」
「……そうか」
「何か、ご予定はありますか」
俺は、少し考えた。予定はない。でも——
「……少し、外を歩くか」
ミラは、小さく頷いた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
「ああ」
俺たちは、部屋を出た。
*
街は、穏やかだった。
空は青く、雲は白い。風は柔らかく、日差しは温かい。人々が、笑っている。子供たちが、走り回っている。店先で、老人たちが世間話をしている。
平和だ。
「……いい天気だな」
俺は、呟いた。
「はい」
ミラが、隣を歩いている。
「レオン伍長」
「なんだ」
「……何か、考え事ですか」
俺は、少し黙った。あの日のことを、考えていた。ノイズ。「OBLIVION」という文字。そして——ミラが言葉を詰まらせた瞬間。
『言おうとすると、言葉が——出ないんです』
あの時のミラの目が、頭から離れない。苦しそうだった。聞きたいことは、ある。でも……今は聞かない。ミラが話せるようになるまで、待つと決めた。
「……いや」
俺は、首を振った。
「何でもない」
ミラは、俺の顔をじっと見ていた。何か言いたそうだった。でも、何も言わなかった。俺たちは、黙って歩き続けた。
*
パン屋の前を通りかかった。小さな店だ。レンガ造りの壁。木の看板。焼きたてのパンの匂いが、漂ってくる。
「あら、ミラちゃん!」
店の奥から、ふくよかな女性が出てきた。店主だ。ミラを見て、顔を綻ばせている。
「いらっしゃい。今日も来てくれたのね」
「こんにちは」
ミラが、小さく頭を下げた。
「今日は何にする?クリームパン、焼きたてよ」
「では、クリームパンを二つ、お願いします」
「はいはい。ちょっと待ってね」
店主は、パンを袋に入れ始めた。俺は、黙って立っていた。店主は、俺の方を見なかった。以前、ミラと一緒に来た時もそうだった。あの時も、俺だけが見えなかった。
「はい、どうぞ」
店主がミラにパンを渡した。
「今日はいい天気ねえ。こんな日は、お客さんも多くて」
「そうですね」
「あら、今日は一人?いつもの男の子は?」
「トム君は、今日は一緒ではありません」
「そう。あの子、元気にしてる?お母さんの具合、良くなったって聞いたけど」
「はい。最近は、調子が良いそうです」
店主は、嬉しそうに笑った。
「良かったわねえ。あの子、いつも頑張ってるから」
ミラが代金を払い、俺たちは店を出た。
——一瞬、空が揺らいだ。
また、だ。あの日から、何度も見ている。
振り返った。でも、もう消えていた。青い空。白い雲。
「……」
見えている。確かに、見えている。でも——今は、考えないことにした。穏やかな日だ。今だけは、この時間を大切にしたかった。
ミラは、何も言わなかった。ただ、俺の隣を歩き続けた。その沈黙が、優しかった。
*
広場に差し掛かった時、声が聞こえた。
「ミラ姉ちゃん!」
振り返ると、トムが走ってきた。茶色の短髪。元気な顔。相変わらず、遠慮がない。
「トム君」
ミラが、少し表情を和らげた。笑顔、というほどではない。でも、柔らかい表情だった。
「今日も薄いおじさんと一緒?」
トムが、俺を見て言った。
「……おじさんじゃない」
「でも薄いじゃん」
「……」
言い返せなかった。事実だ。
「トム君、買い物ですか」
ミラが聞いた。
「うん。お母さんに頼まれて」
トムは、手に持った袋を見せた。野菜が入っている。
「お母さんの具合は、いかがですか」
ミラの声には、気遣いがあった。
「今日は調子いいんだ」
トムは、明るく言った。
「昨日、久しぶりに起きて、俺と一緒にご飯食べたんだよ。父ちゃんも早く帰ってきて、三人で食べたの、久しぶりだった」
「……そうですか。良かったですね」
「うん!」
トムは、本当に嬉しそうだった。
「だから今日は、俺がお使いするって言ったんだ。お母さん、ゆっくり休んでてって」
俺は、黙ってトムを見ていた。十歳の子供が、家族のために頑張っている。文句も言わず、当たり前のように。
「……偉いな」
俺は、小さく言った。
俺には、家族がいなかった。孤児施設で育った。誰かのために頑張る、という感覚が——正直、よく分からない。
でも、トムを見ていると——少しだけ、分かる気がした。
トムが、俺を見た。少し驚いた顔をしていた。
「おじさんが褒めるの、珍しい」
「おじさんじゃない」
「でも薄いし」
「……」
トムは、にっと笑った。
「でも、ありがと」
そう言って、トムは走り去った。途中で振り返って、手を振った。
「またね、ミラ姉ちゃん!おじさんも!」
「……おじさんじゃない」
俺の声は、届いていなかった。ミラが、俺を見た。
「トム君は、レオン伍長のことを気に入っているようです」
「……どこが」
「毎回、話しかけてきます」
「からかってるだけだ」
「そうでしょうか」
ミラは、少し首を傾げた。
「存在が薄い人を、普通は認識できません。でも、トム君は毎回、レオン伍長を見つけます」
「……」
「それは、気にかけているから、ではないでしょうか」
俺は、何も言えなかった。
*
広場のベンチに座った。ミラが、パンの袋を開けた。
「どうぞ」
「……ああ」
俺は、クリームパンを受け取った。一口、齧った。甘かった。
「……美味いな」
「はい」
ミラも、パンを食べていた。小さく、丁寧に。
「ミラ」
「はい」
「お前は、味が分かるのか」
ミラは、少し考えた。
「苦味と甘味は、検出できます」
「……」
「でも、それが『美味しい』という感情なのかは、まだ分かりません」
ミラは、パンを見つめた。
「でも——温かいと、安心します」
俺は、ミラを見た。あの日、メイという老婆が言っていた。『温かくて、安心できるなら。それが「美味しい」ってことよ』
「……そうか」
俺は、パンを食べ続けた。
しばらく、黙ってパンを食べていた。言葉は、なかった。でも——不思議と、心地よかった。いつの間にか、こうして一緒にいることが——当たり前になっていた。
「レオン伍長」
「なんだ」
「……いえ」
ミラは、少し首を傾げた。
「なんでもありません」
嘘だな、と思った。でも、聞かなかった。お互いに、言えないことがある。それでも、隣にいる。それで、いいと思った。
空を見上げた。青い空。白い雲。何も変わらない。でも、一瞬——視界の端が、揺らいだ。数字の断片。文字の欠片。すぐに消えた。
「……」
やはり、見える。あの日から、ずっと。
何かが、おかしい。
この穏やかな日常の中に——何かが、潜んでいる。
*
帰り道。
「レオン伍長!」
聞き覚えのある声がした。慌てた声。早口。振り返ると、ノエルが走ってきた。茶色のショートカット。事務服が少し乱れている。息を切らしている。
「ノエルさん」
ミラが言った。
「どうされましたか」
ノエルは、膝に手をついて息を整えた。
「あ、あの……伝言です……カイ大佐から……」
「……カイ大佐から?」
俺は、眉をひそめた。
「はい……えっと、メモが……」
ノエルは、ポケットを探った。上着のポケット。ズボンのポケット。
「あれ……どこに……」
「……また忘れたのか」
「忘れてません!ただ、どこに……」
ミラが、ノエルの右手を見た。
「それを、ずっと手に持っています」
「え?」
ノエルは、自分の右手を見た。メモを握りしめていた。
「……あ」
「……」
「す、すみません!走ってきたら、緊張して……!」
ノエルは、顔を赤くしながらメモを読み上げた。
「明日、特別な依頼があります。カイ大佐から直々に、とのことです」
「……特別な依頼」
「はい。詳細は、明日、現地でお伝えするそうです」
ノエルは、少し言葉を選ぶように黙った。
「あの……」
「なんだ」
「カイ大佐、最近……なんだか、忙しそうで」
ノエルは、メモを見つめていた。
「書類も増えていますし、夜遅くまで執務室にいらっしゃることも多くて。何か、大きなことを進めているような……」
「……」
「すみません、余計なことを言いました。明日、よろしくお願いします」
ノエルは、頭を下げて去っていった。途中で一度つまずいたが、何とか持ち直した。
「……相変わらずだな」
「はい」
ミラが、頷いた。
「でも、一生懸命な方です」
「……ああ」
*
夕暮れ。
俺は、窓の外を見ていた。オレンジ色の空。沈んでいく太陽。穏やかな一日だった。パン屋。トム。ノエル。何も変わらない日常。何も起きない一日。
——嵐の前の、静けさ。そんな言葉が、頭をよぎった。明日、何が待っているのか、分からない。でも、俺は行く。何があっても。
青いリボンに、触れた。熱かった。朝より、ずっと熱い。何かが、近づいている。
窓の外を見た。太陽が、沈んでいく。明日が、来る。




