第37話:揺らぐ世界
あれから、数日が経った。
マルコの言葉が、まだ胸に残っている。
『消えても、想いは残る』
左手首の青いリボンに、そっと触れた。温かい気がした。気のせいかもしれない。でも、そう感じた。
窓の外を見た。朝日が街を照らしている。穏やかな光。いつもと変わらない朝——のはずだった。
空が、揺らいだ。
一瞬だけ。景色がブレた。視界の端に、何かがよぎった。数字のような、文字のような。
「……」
また、だ。
忘却堂に行った日から、何度も見ていた。最初は、気のせいだと思った。疲れているだけだと。でも、頻度が増えている。日に日に、はっきりと。
俺は、目を擦った。視界は、元に戻っていた。
*
「レオン伍長」
ミラの声がした。振り返ると、彼女が立っていた。
「依頼が入りました」
「……ああ」
俺は、窓から目を離した。
*
依頼人の家は、街の東側にあった。
扉を開けたのは、中年の男だった。目の下に隈がある。疲れた顔。でも、どこか穏やかだった。
「来てくれて、ありがとうございます」
男は、俺たちを部屋に通した。
「妻を亡くしました。三年前に」
男は、静かに語り始めた。
「病気でした。長い闘病の末に。看取ることはできました。悔いはないと思っていた」
「……」
「でも、最近になって、急に思い出すんです。彼女の顔。声。笑い方。病室での最後の会話。全部が鮮明に蘇ってきて——胸が、苦しくなる」
男の手が、小さく震えていた。
「忘れたいわけじゃないんです。彼女のことは、ずっと覚えていたい。でも、このままじゃ、前に進めない。夜も眠れない日が続いていて……」
俺は、頷いた。
「施術を始めます。奥さんの記憶を完全に消すわけじゃありません。鮮明すぎる部分だけを、少し和らげる処置をします。奥さんのことは、覚えていられますよ」
「……お願いします」
男は、目を閉じた。俺も、目を閉じた。意識を集中する。男の記憶に触れる。
*
記憶の世界が、広がった。
妻との思い出。結婚式。新居。笑い合った日々。そして——病室。
記憶の糸が見えた。金色と灰色が複雑に絡み合っている。大切な思い出。でも、今は痛みを伴っている。鮮明すぎる映像。生々しすぎる感覚。俺は、その糸に触れようとした。
その時——視界が、歪んだ。
ノイズだ。今までとは、比べものにならない。記憶の世界が、震えている。男の思い出の風景——妻と過ごした部屋——が、端から剥がれ落ちていく。
その向こうに、何かが見えた。数字の羅列。
「01001111 01000010 01001100——」
規則的な配列。意味があるのか、ないのか。分からない。
文字のようなものも見えた。でも、読めない。見たことのない形。この街では使われていない文字だ。頭が、痛い。
「——!」
歯を食いしばった。今は、施術中だ。ここで止めるわけにはいかない。意識を集中する。ノイズを、無視する。男の記憶に、再び触れる。
金色の糸。灰色の糸。その中から、痛みの部分だけを見つける。鮮明すぎる映像。生々しすぎる感覚。そこだけを、薄くする。
「……」
糸が、少しだけ霞んだ。施術を終えた。
*
男は、穏やかな顔をしていた。
「……ありがとうございます」
「……ああ」
「妻のことは、覚えています。でも、少し——楽になった気がします」
男は、深く頭を下げた。
「これで、前に進めそうです」
俺とミラは、その家を後にした。
*
帰り道。
足が、重かった。頭の奥が、まだ痺れている。
「レオン伍長」
ミラが、俺の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか。顔色が悪いです」
「……問題ない」
嘘だった。問題しかない。
「施術中、何かありましたか」
ミラの目が、真っ直ぐに俺を見ていた。俺は、少し迷った。そして、話すことにした。
「ノイズが、増えている」
「……」
「前より激しい。施術中にも見えた。今日は特にひどかった」
ミラは、黙っていた。
「数字の羅列。それから、文字のようなもの」
「……」
「見たことのない文字だ。この街では使われていない。何なのか、分からない」
俺は、空を見上げた。
「……お前は、どうだ」
ミラは、答えなかった。俺は、彼女の顔を見た。いつもと違う表情。何かを言いたそうな。でも、言えないような。
「ミラ」
「……」
「何か、あるのか」
長い沈黙があった。
「……私にも」
ミラが、小さな声で言った。
「見えることが、あります」
「……」
「最近になって。最初は、センサーの異常だと思いました。でも、違いました」
ミラは、少し俯いた。
「あの日——存在の錨が発現した日から、少しずつ見えるようになりました」
「……」
「レオン伍長と繋がったことで、何かが変わったのかもしれません」
ミラの声は、静かだった。
「私を縛っていた何かが——少しずつ、ほどけている気がします」
*
人気のない路地に入り、俺は、立ち止まった。
「もう一度、確かめたい」
「レオン伍長?」
「ノイズを。何が見えているのか」
ミラは、少し黙った。そして、頷いた。
「分かりました。私も、一緒に」
俺は、目を閉じた。意識を集中する。ノイズは、いつも視界の端にあるが、普段は、気にしないようにしている。でも、今は——集中して見てみよう。
その時——視界が、揺らぎ始めた。数字の羅列。文字の断片。前より、鮮明に見える。
じっと、見つめた。同じ文字列が、繰り返されている。何度も。何度も。七つの文字。
「O B L I V I O N」
同じ配列が、何度も現れる。偶然じゃない。意味がある。その文字を見つめていると——不思議な感覚があった。
『忘却』
その言葉が、頭に浮かんだ。俺は、その言葉を知っている。どこで知ったのか、分からない。でも、知っている。この文字列は、『忘却』を意味している。
なぜ、分かる。分からない。
気味が悪かった。
目を開けた。視界が、元に戻った。ミラが、俺を見ていた。
「見えました」
ミラが言った。
「私にも、同じものが。同じ文字列が、繰り返されていました」
「……ああ」
「あの文字は——何なのでしょうか」
俺は、首を振った。
「分からない」
正直に言った。
「でも、何度も同じ文字列が出てくる。意味があるはずだ」
「……」
「俺には、あの文字が『忘却』を意味しているように感じた。なぜ分かるのか、自分でも分からない。でも、そう感じた」
ミラは、黙っていた。
「ミラ」
俺は、彼女の目を見た。
「お前は、何か知っているのか」
ミラの表情が、苦しそうに歪んだ。口を開いた。そして——閉じた。
「……すみません」
「……」
「言おうとすると、言葉が——出ないんです」
ミラの手が、小さく震えていた。
「伝えたいのに、伝えられない。何かが、私を——」
言葉が、途切れた。俺は、黙っていた。ミラには、何か事情がある。言いたくても、言えない何かがある。それだけは、分かった。
「……無理に聞かない」
俺は言った。
「でも、いつか教えてくれ。お前が話せるようになったら」
ミラは、俯いたまま、小さく頷いた。
「……はい」
俺は、空を見上げた。
何かがおかしい。この視界の端に見えるもの。見たことのない文字。なぜか分かる意味。そして、ミラが言えない何か。分からないことだらけだ。
でも、一つだけ確かなことがある。何かが、起きている気がする。俺の知らないところで。ただ、すぐ近くで。
*
その夜、夢を見た。
暗い部屋だった。どこかで、光が点滅している。青白い光。規則的に、明滅を繰り返している。
誰かが、いる。姿は見えない。でも、気配がある。何かを操作している。指が何かを叩く音が、微かに聞こえる。
声がした。聞き取れない。低い声。何かを呟いている。
光が、赤く変わった。警告のような光。何かを示している。でも、読めない。見たことのない文字が、点滅している。
声が、少しだけ大きくなった。
「——順調——」
「——もう少し——」
断片的にしか、聞こえない。誰だ。何を言っている。俺は、近づこうとした。でも、身体が動かない。
光が、消えた。
*
目が覚めた。
暗い部屋。窓から、月明かりが差し込んでいる。
左手首が、熱かった。青いリボンを見た。月光に照らされて、淡く光っている。
「……」
夢だったのか。いや——夢だとしても、何かを見た気がする。誰かがいた。何かをしていた。
俺は、天井を見つめた。
視界に見えるノイズ。繰り返される文字列。なぜか分かる『忘却』という意味。ミラが言えない何か。そして、今の夢。
全部が、繋がっている気がする。でも、どう繋がっているのか、分からない。俺は、それを知りたい。
青いリボンに、触れた。温かかった。必ず、真実に辿り着く。
そう、心に決めた。




