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忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第2章:忘却術師と仲間と世界と

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第36話:マルコの過去


忘却堂に、足を向けた。


あの日、何が起きたのか。ミラが、俺を繋ぎ止めてくれたこと。マルコに話しておきたかった。


「レオン伍長」


ミラが、隣を歩きながら言った。


「メイさんにも、お会いできるでしょうか」

「ああ。たぶんな」


ミラは、少しだけ嬉しそうだった。


  *


いつもと同じ路地裏の道を抜けると、見えてきた。


『忘却堂』


古びた看板。扉を開けると、埃と古い紙の匂いがした。


「おう、来たか」


カウンターの奥から、マルコが顔を出した。白髪混じりの灰色の髪。くたびれたシャツ。いつもと変わらない。


「邪魔する」

「邪魔も何も、客なんて滅多に来ねえよ」


マルコは笑いながら、店の奥を指した。


「メイもいるぞ。奥に来い」


小さなテーブル。そこには既に、メイが座っていた。


「あら、いらっしゃい」


穏やかな声。小柄な老婆は、湯呑みを両手で包んでいる。


「メイさん、こんにちは」

「こんにちは。ミラちゃんも一緒ね」

「はい。また、お会いしたくて」


ミラが小さく頭を下げた。メイは嬉しそうに微笑んだ。マルコが茶を淹れてくれた。四人でテーブルを囲む。メイが、俺を見つめていた。


「あら」

「……?」

「前より、落ち着いているわね」


俺は少し驚いた。


「分かるのか」

「私も長いからね。存在が薄い人の空気は、分かるようになったの」


メイは微笑んだ。


「何かいいことがあったんでしょう?」


俺は、少し迷った。そして、話すことにした。あの日のこと。存在率が下がって、消えかけたこと。ミラの手が、俺を繋ぎ止めてくれたこと。


「……存在のいかり、ってやつか」


マルコは、茶を啜りながら呟いた。


「この店の本に書いてあった。術師の技量に関係なく、強い絆が存在を繋ぎ止めることがある。極めて稀な現象らしい」

「……何でもあるんだな、ここには」

「ああ。俺も昔から不思議に思ってる」


マルコは本棚を見た。


「この店を借りた時、既にあったんだ。誰が集めたのか、未だに分からない」

「……」

「まあ、おかげで助かってるがな」


マルコは、ミラを見た。


「大したもんだ、お嬢ちゃん」

「私は、ただ……」


ミラが言いかけた。


「レオン伍長に、消えてほしくなかっただけです」

「それでいいんだよ」


マルコは、小さく笑った。


「理屈じゃねえ。想いの強さが、存在を繋ぎ止める」


メイが、穏やかに頷いた。


「素敵ね。そういう絆があるのは」


  *


しばらく、穏やかな時間が流れた。


「なあ、レオン」


マルコが、茶を置いた。


「俺がなぜ引退したか、話したことあったか」

「いや」

「じゃあ、話しておこう。お前の参考になるかもしれない」


俺は、黙って頷いた。


マルコは、窓の外を見た。


「俺が忘却術師になったのは、三十年以上前だ。まだ階級制度もなかった頃。きっかけは、ある女だった。戦争未亡人で、夫を亡くして、毎日泣いていた」


マルコの声が、少し低くなった。


「俺はその女の隣人で、毎日様子を見に行っていた。放っておけなかったんだ。俺にも、大切な人を亡くした経験があった。だから、彼女の気持ちが少しだけ分かった」

「……」

「彼女は、辛うじて生きていた。食事は取っていたが、目に光がなかった。このままじゃ、いつか壊れると思った。そんなある日、街に忘却術師が来た。俺は頼み込んだ。彼女を救ってくれと」


マルコは、腕を組んだ。


「術師は言った。『俺は今、別の依頼を抱えている。一人に長い時間はかけられない。だが、お前には素質がある。本当に救いたいなら、自分でやれ』と」

「……」

「それから俺は修行した。そして彼女のもとに戻った」


マルコは、小さく笑った。


「彼女は少しずつ元気になった。笑うようになった。最後には再婚して、子供も生まれた。その時、思ったんだ。この仕事は、意味があるって」


マルコは、俺を見た。


「それから三十年、数え切れないほどの依頼をこなした」

「……」

「俺の力は、記憶の表面を和らげること。痛みを薄くして、日常を取り戻せるようにする。それで多くの人を救ってきた。戦争の記憶、愛する人の死、許せない過去。色んな苦しみを和らげてきた」


マルコは、窓の外を見た。


「でも、年を取ると削られる量が増えていく。回復も遅くなる。ある依頼で、限界を感じた」

「どんな依頼だ」

「戦争孤児の少年だった。両親を目の前で殺された。その記憶を消してくれと」

「……」

「施術を始めて、すぐに分かった。表面を和らげても、奥から痛みが湧き上がってくる。もっと深い場所に、消えない傷があった」


マルコの声が、静かになった。


「そこに届くには、記憶の奥に潜る力が必要だった。今で言う深層共鳴だ。俺には、その力がなかった」

「……」

「施術を終えた後、存在率は5%も下がっていた。一度の施術でこれほど削られたのは、初めてだった」


マルコは、自分の手を見つめた。


「身体は、なんとか持ちこたえた。でも、心が限界だった。あの子の痛みに触れて、俺の心も削られた。助けたいのに、届かない。その無力さが、堪えた」

「……」

「依頼人の苦しみに触れ続けると、自分の心も削られていく。存在率だけじゃない。感情も、記憶も、少しずつ薄れていくんだ」


マルコは、俺を見た。


「俺は、怖くなった。このまま続けたら、自分が自分でなくなる。誰かを救う前に、自分を見失う。だから、引退した。65%で」


マルコは、小さく笑った。


「消える前に、自分の人生を生きたかった。後悔はしてない」


  *


マルコは、窓の外を見た。


「引退して何年か経った頃、街で彼女を見かけた」

「彼女?」

「最初に救った女だ。再婚して、子供と一緒に歩いていた。幸せそうだった」

「……」

「声をかけようとした。でも、彼女は俺を見ても何も反応しなかった」

「……」

「存在が薄くなっていたからな。俺のことは、もう認識できなかったんだろう」


マルコは、少し笑った。


「でも、その後、偶然彼女の話を聞いた。友人と話していたんだ」

「……」

「『昔、誰かに助けてもらったの。誰だったか思い出せないけど、あの時感じた温かさだけは覚えている』と」

「……」

「俺のことは忘れられた。でも、俺が彼女を救いたいと思った気持ちは——残っていた」


マルコは、俺を見た。


「その時、分かったんだ。存在が消えても、想いは残る。忘れられても、感じた温かさは消えないんだって」


  *


沈黙が、流れた。メイが、穏やかに言った。


「マルコさんは、正しい選択をしたと思うわ」

「……」

「私もね、昔は怖かったの。存在が薄くなって、消えてしまうんじゃないかって」


メイは、湯呑みを見つめた。


「この店に辿り着いた時、私は存在がかなり薄くなっていた。誰にも認識されなくて、毎日が辛かった」

「……」

「マルコさんは、私を見つけてくれた。『よく来たな』って。それだけで、救われたの」


メイは、微笑んだ。


「存在が薄くても、生きていける。穏やかに、日々を過ごせる。マルコさんが、それを教えてくれたわ」


メイは、俺を見た。


「あなたが消えたら、悲しむ人がたくさんいるわ。ミラちゃんも、マルコさんも、私も。あなたが救った人たちも」

「……」

「だから、無理をしすぎないでね」


  *


マルコが、立ち上がった。


「レオン」

「……ああ」

「一つ、伝えておく」


マルコの目が、真剣だった。


「消えることを恐れるな」

「……」

「恐れると、身体が強張る。心が縮こまる。そうなると、余計に削られる」


マルコは、窓の外を見た。


「たとえ消えたとしても、想いは残る」

「想いは残る?」

「ああ。忘れられても、感じた温かさは消えない。お前が救った人たち。その人たちの中に、お前の想いは残っている」


マルコは、俺を見た。


「忘却術師は、忘れさせる仕事だ。でも、本当に大切なのは、想いを残すことなんだ」


その言葉が、胸に響いた。


「お前は俺より強い」


マルコが言った。


「深層共鳴ができる。俺が行けなかった場所に、お前は行ける。それに、ミラがいる。お前を繋ぎ止めてくれる存在が」

「……」

「でも、無理はするな。限界を超えると、戻れなくなる」


マルコの目が、一瞬だけ本気だった。


「続けるもよし、引退するもよし。どちらを選んでも、誰もお前を責めない。お前のことを知っている奴は、みんな分かってくれる。お前がどれだけ頑張ってきたか」

「……」

「だから、自分で決めろ。お前の選択を、俺は尊重する」


マルコは、小さく笑った。


「また来い。話し相手がいないと、退屈でな」


俺は、しばらく黙っていた。


「……マルコ」

「ん?」

「ありがとう」


マルコは、少し驚いた顔をした。


「……素直な奴だな、相変わらず」


  *


店を出る時、夕日が街を染めていた。


「レオン伍長」


ミラが、隣を歩きながら言った。


「マルコさんの話、心に残りました」

「……ああ」

「『消えても、想いは残る』」


ミラは、少し考えるような顔をした。


「私は、レオン伍長の想いを忘れません。たとえ何があっても」

「……」

「だから、消えないでください」


ミラの声は、静かだった。でも、真剣だった。


「……ああ」


俺は、空を見上げた。


消えても、想いは残る。マルコが三十年かけて辿り着いた答え。それを、俺に教えてくれた。引退するか、続けるか。その選択は、まだ分からない。


でも、一つだけ分かったことがある。俺が救った人たちの中に、俺の想いは残っている。それだけで、十分なのかもしれない。


そう、思った。


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