第33話:マルコの助言
翌日。
忘却堂への道は、前より分かりやすかった。
狭い路地。苔むした壁。湿った石畳。前回は何度も迷ったはずなのに、今日は迷わずに辿り着けた。俺の存在率が、また下がったということだろう。
ライラの施術の後、さらに2%ほど低下していた。今は73%。アリアに指摘された通りだった。
「レオン伍長」
後ろから、ミラの声がした。
「不思議です」
「何がだ」
「前回は、私にはこの路地が見えませんでした。レオン伍長の後を付いていくのがやっとで」
ミラは、首を傾げた。
「今日は、少しだけ見える気がします」
「……」
マルコは言っていた。存在が薄くなった者にしか、この路地は見えないと。ミラはAIだ。存在率という概念はないはずだ。なのに、なぜ——
「俺が薄くなったから、お前にも影響が出ているのかもしれない」
分からない。だが、気になった。
*
路地の奥に、古びた看板が見えてきた。
『忘却堂』
扉を開ける。埃と古い紙の匂い。相変わらず、薄暗い店内だった。
「おう、また来たか」
カウンターの奥から、マルコが顔を出した。白髪混じりの灰色の髪。くたびれたシャツ。飄々とした態度は、前と変わらない。
「……ああ」
「今日は何だ。また記憶の残響について聞きに来たか?」
「少し、違う」
マルコは、俺の顔をじっと見た。
「まあ、奥に来い。茶でも——」
言いかけて、マルコは店の隅を見た。
「おい。客だぞ」
「……?」
俺は、マルコの視線を追った。店の隅。古い本棚の影。何もない——いや。
目を凝らす。
老婆が、いた。
小柄な体。穏やかな顔。質素な服装。湯呑みを両手で包むように持ち、静かに座っている。さっきまで、全く気づかなかった。
「見えたかい」
老婆が、微笑んだ。
「嬉しいわ。最近、誰にも気づかれないのよ」
「……」
「メイだ」
マルコが言った。
「この店の常連。俺より存在が薄い」
俺より——いや、マルコより薄い。だから、俺でも気づけなかったのか。
「あら、若い人ね」
メイは、穏やかに微笑んだ。
「久しぶりに他のお客さんに会えると、嬉しいわ」
*
店の奥の、小さなテーブル。マルコが茶を淹れてくれた。メイも、同じテーブルに移ってきた。
「それで」
マルコは、自分の茶を啜りながら言った。
「何があった」
俺は、ライラのことを話した。歌えなくなった歌手。本当のトラウマは、声ではなく「歌う理由」を失ったことだったこと。恩師マエストロの死。最期の言葉を聞けなかった苦しみ。そして——
「記憶の中で、別の人間の想いを感じ取った」
マルコの目が、鋭くなった。
「別の人間?」
「ああ。依頼人の記憶の中で、マエストロという恩師の想いを感じた。声にならなかった最期の言葉を、俺は——受け取った」
沈黙。
マルコは、茶を置いた。
「深層共鳴、か」
「深層共鳴?」
「俺たちの時代には、『心読み』とも呼ばれてた」
マルコは、腕を組んだ。
「依頼人の心の奥深くに触れる技術だ。想いが強ければ、記憶に刻まれる。お前は、その刻まれた想いを読み取ったんだろう」
記憶に刻まれた、想い。
「俺も若い頃、試したことがある」
マルコの声が、少し低くなった。
「依頼人の記憶の奥に、もっと深く潜ろうとした。本当のトラウマの核心に触れようと」
「……」
「でも、途中で限界を感じた」
マルコは、窓の外を見た。
「俺には、そこまでの力がなかった」
俺は、黙って聞いていた。
「お前は——」
マルコは、俺を見た。
「俺が届かなかった場所に、届いてしまう。だから心配なんだよ」
「……」
「どうだった。マエストロの想いに触れた時」
あの時のことを、思い出す。マエストロの想いに触れた瞬間。自分がどこにいるのか、分からなくなりそうだった。他人の感情に、飲み込まれそうだった。
「……戸惑った」
俺は、正直に言った。
「なぜ、そこまで感じ取れたのか、分からなかった」
「……」
「でも——伝えなければと思った。それだけだ」
マルコは、しばらく俺を見つめていた。
「お前、その力をどう使うつもりだ」
「……分からない」
正直に答えた。
「ただ、苦しんでいる人の力になりたい。それだけだ」
マルコの表情が、少しだけ——緩んだ気がした。
「……そうか」
そして、ふっと笑った。
「お前、前より上手くなってるな」
「……」
「記憶の残響も使いこなしてる。その上、深層共鳴までできるようになった。大したもんだ」
褒められている。そう分かっても、実感がなかった。
「ただ——」
マルコの目が、真剣になった。
「深入りしすぎると、お前の存在がもたなくなる。気をつけろ」
アリアにも、同じことを言われた。
『消えちゃったら意味ないでしょ』
「消えるなよ、レオン」
マルコの目が、一瞬だけ——本気だった。
「……なんてな」
すぐに、いつもの飄々とした顔に戻る。
「年寄りの説教だ。気にするな」
気にするな、と言われても。その一瞬の真剣さは、確かに見えた。
メイが、湯呑みを置いた。
「若い人は、先のことを心配しすぎよ」
穏やかな声。
「消えるかもしれない、薄くなるかもしれない……そればかり考えて、今を楽しめないのはもったいないわ」
「……」
メイは、微笑んだ。
「私もね、昔は怖かったわ。存在が薄くなって、誰にも認識されなくなって。消えてしまうんじゃないかって」
「……」
「でもね」
メイは、湯呑みを見つめた。
「消えかけても、お茶は美味しいのよ」
その言葉が——不思議と、胸に響いた。
「毎日、この店に来て、お茶を飲んで。マルコさんとお喋りして」
メイは、窓の外を見た。
「それだけで、十分幸せなの」
存在が薄くなっても、こうして生きている人がいる。穏やかに、日々を過ごしている人がいる。
「レオン伍長」
ミラが、湯呑みを見つめながら言った。
「私にも、味は……分かります。苦味と、少しの甘み」
「……」
「でも、それが『美味しい』という感情なのかは、分かりません」
ミラは、少し考えるような顔をした。
「ただ……温かいと、安心します」
メイが、ミラを見た。そして、優しく微笑んだ。
「……それで十分よ」
「……」
「温かくて、安心できるなら。それが『美味しい』ってことよ」
ミラは、目を丸くした。
「そう……なのでしょうか」
「ええ。そうよ」
メイは、穏やかに頷いた。
ミラは、もう一度湯呑みを見つめた。そして、小さく——微笑んだ。
「……はい」
*
しばらく、穏やかな時間が流れた。
茶を飲み、本棚を眺め、時折マルコと言葉を交わす。メイは、静かに微笑んでいた。
「そういえば」
マルコが、思い出したように言った。
「最近、ノイズが増えてねえか」
「……ノイズ」
「ああ。前に話したろ。文字の羅列とか、数字の断片とか」
世界の継ぎ目が、ほつれてきている。前回、マルコはそう言っていた。
「俺も……最近、気にはなっている」
「やっぱりな」
マルコは、窓の外を見た。
「昔はこんなことなかった。引退してから十年以上経つが、最近になって急に増えた」
「……何が起きている」
「分からん」
マルコは、首を振った。
「ただ、深入りしすぎるなよ。まずは自分の足元を固めろ」
「……分かった」
マルコの忠告を、素直に受け入れた。分からないことが、増えている。それだけは、確かだった。
*
店を出る時間になった。
「マルコ」
「ん?」
俺は、少し言葉を探した。
「……お前のおかげで、少し楽になった」
「何がだ」
「分からないことだらけだ。でも、こうして話を聞いてもらえると——」
上手く言えない。
「……まあ、ありがとう」
マルコは、少し驚いた顔をした。
「……素直な奴だな」
「……」
「まあ、いい」
マルコは、笑った。
「また来い。茶くらい出してやる」
メイが、手を振った。
「また来てね。若い人が来ると、嬉しいわ」
「……ああ」
*
店を出た。
振り返ると、『忘却堂』の看板が、相変わらず薄く揺らいで見えた。
路地を抜ける。見慣れた通りに出た。人々が歩いている。日常の光景。
「レオン伍長」
ミラが、隣を歩きながら言った。
「また、マルコさんの店に行きたいです」
「……ああ」
「メイさんにも、また会いたいです」
ミラは、小さく微笑んだ。
「いい場所でした」
「……ああ」
俺も、そう思った。
「いい店だな」
「はい。私も、そう思います」
存在が薄くなっても、穏やかに生きている人がいる。消えかけても、お茶は美味しいと笑える人がいる。その姿が——少しだけ、救いになった。
空を、見上げた。青い空。白い雲。穏やかな——歪んだ。
「……」
一瞬だった。空が、ノイズのように揺らいだ気がした。文字の断片。数字の羅列。目を凝らす。何もない。いつも通りの、青い空だった。
「レオン伍長?」
ミラが、俺を見ていた。
「どうかしましたか」
「……いや」
気のせいだ。そう思いたかった。でも、確かに——何かを見た気がした。
「何でもない。帰ろう」
「はい」
ミラと並んで、歩き出す。左手首のリボンが、かすかに熱かった。
分からないことが、増えている。世界の異常。深層共鳴。俺自身の変化。でも、今は——
『消えかけても、お茶は美味しいのよ』
メイの言葉を、思い出す。今は、目の前のことに集中しよう。次の依頼。そして——隣にいるミラ。
「レオン伍長」
「ん」
「今日は、いい日でした」
ミラが、静かに微笑んだ。
「……ああ」
俺も、小さく頷いた。
「そうだな」
空は——今は、青く澄んでいた。




