第32話:歌声の在処
記憶の世界。
マエストロの想いが、流れ込んでくる。言葉ではない。感情だ。
温かくて、優しくて、強い想い。これが、マエストロの想いか。こんなにも、深い。弟子を想う気持ち。最期まで伝えようとした言葉。声にならなくても、届けたかった想い。
俺は、息を呑んだ。これほどの想いが、ライラに届いていなかったのか。……届けなければ。必ず。
だが、同時に戸惑いもあった。なぜ、ここまで分かるんだ。記憶の残響とは、違う。もっと深い。もっと鮮明だ。
……今は、それを考えている場合じゃない。
ライラに、届けなければ。
*
施術を、始める。
ライラのトラウマ。その核に、触れる。
病室の記憶。
アラームが鳴り響いた瞬間。看護師に引き離された瞬間。手を伸ばしても届かなかった感覚。マエストロの声が聞こえなかった苦しみ。これらが、ライラを苦しめていた。
俺は、その記憶だけを切り離す。
マエストロとの思い出は、全て残す。出会い。教え。厳しさ。優しさ。そして、最期にマエストロが何かを伝えようとしていたこと。穏やかな目。
全て、そのままに。消すのは、苦痛を生む記憶だけだ。
俺は、糸に触れた。丁寧に。慎重に。
赤黒い色が、ゆっくりと薄れていく。苦痛の記憶が、溶けていく。代わりに、マエストロとの絆が、光を取り戻していく。
施術を終えた瞬間、眩暈がした。体が、少し軽くなった気がする。
いや、軽くなったのではない。薄くなったのだ。
また、少し。
*
記憶の世界から、意識を戻した。目を開ける。
ライラが、目を閉じたままソファに座っている。しばらくして、ライラの瞼が震えた。ゆっくりと、目が開く。
「……」
ライラは、天井を見つめていた。ぼんやりとした目。まだ意識がはっきりしていないようだ。
「ライラさん」
俺は、静かに呼びかけた。
ライラの目が、俺を捉えた。
「……レオン、さん……」
「施術は終わりました。気分はどうですか」
ライラは、ゆっくりと体を起こし、自分の胸に、手を当てる。
「……息が、できます」
「……」
「今まで、ずっと苦しかったんです。ここが」
ライラは、胸を押さえた。
「息をするたびに、痛かった。でも、今は……」
ライラの目に、涙が浮かんだ。
「痛くない」
俺は、頷いた。
施術は、成功だ。
「ライラさん。施術の内容について、説明させてください」
「はい」
「あなたの記憶の中に入りました。そこで、苦しみの原因を見つけました」
ライラは、黙って聞いている。
「マエストロという方との記憶です」
ライラの目が、揺れた。
「あなたは、マエストロさんの最期に何かを伝えようとしていた。でも、聞くことができなかった」
「……」
「その時の記憶が、あなたを苦しめていました。アラームの音。引き離された感覚。届かなかった手」
ライラは、俯いた。
「俺は、その記憶だけを消しました」
「……」
「マエストロさんとの思い出は、全て残っています。出会いも、教えも、一緒に過ごした日々も」
ライラは、顔を上げた。
「最期に、マエストロさんが何かを伝えようとしていたことも、覚えているはずです」
「……はい」
ライラは、小さく頷いた。
「覚えています。マエストロが……最期に、何かを……」
「消したのは、その瞬間の苦痛と絶望の記憶だけです」
ライラの目から、涙がこぼれた。
「……ありがとう、ございます」
小さな声。でも、確かな感謝。俺は、少し迷った。
ここからが、本題だ。
伝えるべきか。マエストロの、最期の想いを。俺が感じ取ったものが、本当にマエストロの言葉なのか。確証はない。でも、伝えなければ、後悔する。
「ライラさん」
「はい」
「もう一つ、お伝えしたいことがあります」
ライラは、俺を見た。
「あなたの記憶の中で……マエストロさんの想いを、感じました」
「……想い……?」
「最期の瞬間、マエストロさんはあなたに何かを伝えようとしていた」
「……」
「声にはならなかった。でも、想いは残っていました。あなたの記憶の中に」
ライラは、黙っていた。その目には、戸惑いがあった。
「……本当に、そこまで分かるんですか」
「分からない」
俺は、正直に言った。
「なぜ、ここまで感じ取れたのか。俺にも分からない」
「……」
「でも、確かに感じた。マエストロさんがあなたに伝えようとしていた想いを」
ライラは、俺を見つめていた。
長い沈黙。
そして、顔を上げた。
「……聞かせてください」
「……」
「たとえ、あなたの思い違いだとしても」
ライラの目には、涙が浮かんでいた。
「聞きたいんです」
「ずっと、聞きたかったんです」
「マエストロが、最期に何を伝えようとしたのか」
俺は、頷いた。そして、口を開いた。
「お前自身のために歌え」
ライラの肩が、震えた。
「お前が歌いたいから歌え」
涙が、一筋流れた。
「それでいいんだ」
ライラは、唇を噛んだ。
「お前の歌を待っている人がいる」
嗚咽が、漏れた。
「お前の声で、幸せになる人がいる」
「……っ……」
「私がいなくなっても、お前の心の中で聴いている」
ライラは、両手で顔を覆った。
「お前が歌う限り、私はお前と一緒だ」
「マエストロ……」
「だから、歌え」
「……」
「ライラ」
「……」
「お前の歌を」
ライラは、崩れ落ちた。声を上げて、泣いた。床に手をついて、泣き続けた。
分かる。これは、マエストロの言葉だ。理屈じゃない。心が、分かる。この温かさ。この優しさ。この強さ。マエストロだ。間違いない。
「マエストロ……マエストロ……!」
ライラは、泣きながら叫んだ。
「ずっと……ずっと聞きたかった……!」
「最期に何を言おうとしたのか……ずっと……!」
俺は、黙って見守っていた。ミラも、静かに立っている。
ライラは、泣き続けた。
長い間。
やがて、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔。でも、その目には光があった。
「マエストロは……最期まで……」
「……」
「私のことを、想ってくれていたんですね……」
「ああ」
俺は、頷いた。
「ずっと、あなたの中にいたんです」
ライラは、自分の胸に手を当てた。
「ここに……ずっと……」
また、涙が溢れた。でも、今度は笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「ありがとう……ございます……」
「……」
「ありがとう……」
何度も、何度も。
ライラは、その言葉を繰り返した。
*
ライラが落ち着くまで、俺たちは待った。ミラが淹れた紅茶を、ライラは両手で包むように持っていた。
「……少し、落ち着きました」
ライラは、小さく笑った。
「すみません、取り乱してしまって」
「いえ」
ライラは、カップを置いた。
そして、立ち上がった。
「私、歌います」
「……」
「マエストロのために。そして、私自身のために」
俺は、頷いた。
「聴かせてください。いつか」
ライラは、微笑んだ。
「はい。必ず」
そして、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
*
一週間後。
俺は、王都の街を歩いていた。ミラが、隣にいる。
「レオン伍長」
「ん」
「あそこに、人だかりが」
ミラが指さした方向。広場に、人が集まっている。近づくと、人垣の向こうに、女性が立っているのが見えた。長い黒髪。白いワンピース。ライラだった。
彼女の足元には、空き缶が一つ。まるで、昔のマエストロの記憶のように。
俺は、人垣をすり抜けて近づいた。
「ライラさん」
ライラは、俺に気づいた。
「レオンさん。来てくれたんですね」
「なぜ、こんな場所で」
ライラは、空き缶を見た。そして、微笑んだ。
「ここが、始まりの場所だから」
「始まり?」
「マエストロに見つけてもらった日と、同じ」
ライラは、空を見上げた。
「また、1から始めようと思ったんです」
「……」
「大劇場じゃなくていい。名声もいらない」
ライラは、俺を見た。
「ただ、歌いたいから歌う。それだけでいいって、マエストロが教えてくれたから」
俺は、頷いた。
「そうか」
「聴いていってくれますか」
「ああ」
俺は、人垣の中に戻った。ミラが、隣に来る。
ライラは、目を閉じた。深呼吸をする。足が、震えているのが見えた。当然だ。また、声が出なかったら。そう思っているに違いない。
その時、ライラは胸に手を当てた。何かを確かめるように。マエストロが、ここにいる。そう言い聞かせているのだろうか。
そして、口を開いた。
歌声が、響いた。澄んでいて、真っ直ぐで、喜びに満ちた声。
俺は、息を呑んだ。これが、ライラの歌。苦しみを乗り越えた声。喪失を受け入れた声。そして、再び歌う喜びに満ちた声。
周りの人々が、足を止めていく。買い物帰りの女性。仕事中の商人。遊んでいた子供たち。みんなが、ライラの歌に聴き入っている。
——一曲が、終わった。
沈黙。ライラの表情に、不安がよぎったのが見えた。また、誰にも届かなかったのか。そう思っているのだろうか。
しかし、その瞬間、拍手が、聞こえた。一人。小さな女の子だった。目に涙を浮かべて、小さな手を一生懸命叩いている。
「きれい……」
女の子が、呟いた。
「おねえちゃんの歌、きれい……」
すると、二人目。三人目。
買い物帰りの女性が、涙を拭いながら拍手している。
仕事中だった商人が、荷物を置いて手を叩いている。
——拍手が、広がっていく。波のように。
やがて、広場全体を包み込んだ。
「素晴らしい……!」
「もう一曲、聴かせてくれ!」
「誰だ、この人!」
ライラの目から、涙が溢れた。届いた。歌が、届いた。
ライラは、観客を見渡した。そして、俺と目が合った。ライラは、小さく頷いた。ありがとう。その言葉が、聞こえた気がした。俺も、頷き返した。
ライラは、涙を拭った。そして、笑顔で言った。
「もう一曲、聴いてください」
歓声が、上がった。ライラは、また歌い始めた。今度は、明るい曲だった。観客が、手拍子を始める。子供たちが、踊り出す。広場が、笑顔で溢れていく。
「レオン伍長」
ミラが言った。
「ライラさん、とても幸せそうです」
「ああ」
俺も、微笑んだ。これでいい。ライラは、また歌える。マエストロの想いを胸に。自分自身のために。そして、聴いてくれる誰かのために。
*
その夜。
執務室に戻ると、アリアがいた。
「お疲れ様」
アリアは、窓際に立っていた。
「……アリアか」
「ライラって歌手の依頼、終わったんでしょ」
「ああ」
「うまくいったみたいね」
アリアは、俺を見た。
「噂で聞いたわ。広場で歌ってたって」
「……見てたのか」
「たまたまね」
アリアは、微笑んだ。
「あなた、成長してるわ」
「……」
「難しい依頼だったって聞いたわ。長く歌えなかった歌手を、一人で救ったんでしょ」
「……たまたまだ」
「謙遜しなくていいわよ」
アリアは、俺の隣に来た。
「でも、気をつけなさい」
「何をだ」
「存在率」
アリアの目が、真剣になった。
「あなた、最近少し薄くなってない?」
「……」
「私は二級だから、あなたほどは消せない。でも、だからこそ分かることもあるの」
アリアは、自分の胸に手を当てた。
「力をコントロールすること。自分を守ること。それも、大事よ」
「……」
「私みたいに、ほどほどにしなさいとは言わない。あなたは、もっと多くの人を救える」
アリアは、微笑んだ。
「でも、消えちゃったら意味ないでしょ」
俺は、黙っていた。アリアの言葉が、胸に響いた。
「……分かった」
「本当に?」
「気をつける」
「そう。ならいいわ」
アリアは、ドアに向かった。
「じゃあね。また何かあったら声かけて」
「ああ」
アリアが出て行った後、俺は窓の外を見た。夜空に、星が瞬いている。
今回の依頼は、今までと違った。なぜ、マエストロの想いまで感じ取れたのか。ライラの想いが強すぎたからか。それとも、俺の中で何かが変わったのか。
分からない。マルコに、聞いてみよう。あの人なら、何か知っているかもしれない。
「レオン伍長」
ミラが言った。
「今日は、お疲れ様でした」
「ああ」
俺は、ミラを見た。
「ミラも、お疲れ様」
ミラは、嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
窓の外で、夜風が吹いていた。どこかで、誰かが歌っている気がした。澄んだ声。真っ直ぐな声。ライラの歌が、夜空に響いているような。
そんな気がした。




