第31話:マエストロの教え
光の中へ、足を踏み入れた。
眩しさに、目を細める。
音楽が、大きくなる。ピアノの旋律。幼い歌声。
そして、記憶が流れ込んできた。今までとは、違う。ただ見ているのではない。記憶の中に、引き込まれていく。まるで、ライラ自身になったかのように。
*
広場に立っている。
足元には、空き缶。ボロボロの服。空腹で、少しふらつく。でも、歌うことだけが私の持っているもの。道行く人のために。立ち止まる人のために。誰かがコインを入れてくれることを願って。
声を張り上げる。
澄んだ声。真っ直ぐな声。
誰かが、足を止めた。
見上げる。
白髪の老人がいた。背筋が伸びている。目は穏やかだが、どこか鋭い。この街には似つかわしくない、上等な服を着た人。
老人は、黙って私の歌を聴いていた。
一曲が終わる。
「見事だ」
老人が言った。
「お前、名前は」
「……ライラ」
「ライラか。誰に歌を習った」
「……誰にも」
「独学か」
老人は、驚いたように目を見開いた。
「素晴らしい。お前には才能がある」
「……才能?」
「声だ。お前の声には、人の心を動かす力がある」
老人は、ポケットから名刺を取り出した。
「私はマエストロ。王都音楽院で教えている」
「……音楽院?」
聞いたことがある。お金持ちの子供が通う、立派な学校。私みたいな孤児には関係のない場所。
「もし興味があれば、ここに来なさい。奨学生として推薦する。学費は心配しなくていい」
名刺を受け取る。手が震えた。
「なんで」
「なんで?」
「なんで、私なんかに」
「お前の声が気に入ったからだ」
老人は、微笑んだ。穏やかで、温かい笑顔だった。
「それ以上の理由が、必要か」
*
記憶が、流れていく。
俺はライラの記憶を追体験している。彼女の目で見て、彼女の心で感じている。ライラの感情が、直接流れ込んでくる。
喜び。不安。期待。
音楽院に行くことを決めた日の、震えるような興奮。
*
マエストロのレッスンは、厳しかった。
「違う」
「もう一度」
「声が出ているだけだ。心が伝わっていない」
何度も、何度も、やり直しをさせられた。悔しい。唇を噛む。でも、負けたくない。
もう一度。もう一度。喉が痛くなっても。涙が出そうになっても。
そして。
「よし。今のは良かった」
マエストロが頷いた。
「本当ですか」
「ああ。今の歌には、心があった」
マエストロの手が、頭に触れた。大きくて、温かい手。
「お前の声は、人を幸せにする。忘れるな」
胸が熱くなった。
「……人を、幸せに」
「そうだ。歌は、自分のために歌うものじゃない。聴いてくれる誰かのために歌うんだ」
誰かのために。この人のために。マエストロのために。認めてもらいたい。この人を、幸せにしたい。
それが、私の「歌う理由」になった。
*
記憶が、次々と流れていく。
初めてのコンクール。舞台袖で、足が震えていた。
「マエストロ、怖いです」
「何が怖い」
「失敗したら、どうしよう」
「失敗したら、また練習すればいい」
マエストロは、私の肩に手を置いた。
「お前は、誰のために歌う」
「……聴いてくれる人のために」
「そうだ。客席にいる人たちを、幸せにしてこい」
深呼吸をする。
舞台に出る。
歌う。
拍手が、鳴り響いた。
袖に戻ると、マエストロが立っていた。
「よくやった」
たった一言。でも、それだけで十分だった。
*
王都大劇場でデビューした夜。満席の観客。割れるような拍手。でも、私が探したのは、客席の一角だった。
いた。
マエストロが、最前列で静かに頷いていた。
ああ、届いた。私の歌が、マエストロに届いた。
それが、何よりも嬉しかった。
*
どんなに有名になっても、私はマエストロのもとに通い続けた。
「マエストロ、今日の公演はどうでしたか」
「悪くなかった。だが、第二楽章で力みすぎだ」
「はい……」
「だが、終盤は良かった。観客の心を掴んでいた」
「ありがとうございます」
厳しい言葉の後に、必ず良かった点を言ってくれる。それがマエストロだった。どんな批評家の称賛よりも、新聞の見出しよりも、マエストロの言葉が嬉しかった。
マエストロが聴いてくれている。私の歌が、マエストロに届いている。
それが、私の全てだった。
*
記憶が、暗くなる。
病室。白い壁。消毒液の匂い。
マエストロが、ベッドに横たわっている。痩せ細った体。かつての威厳は薄れ、今は小さな老人にしか見えない。
「マエストロ……」
涙が止まらない。
「泣くな、ライラ」
掠れた声。でも、目だけは変わらない。穏やかで、鋭くて、私を見抜く目。
「私が死んでも、お前は歌い続けろ」
「……」
「お前の声は、人を幸せにする。私がいなくなっても、それは変わらない」
首を振る。
「できません」
「ライラ」
「マエストロがいなかったら……私、誰のために歌えばいいんですか」
マエストロは、黙った。
長い沈黙。
そして、口を開いた。
「ライラ。私が最期に、一つだけ教えてやる」
「……マエストロ……」
「お前が歌う理由は……」
その時。生体モニターのアラームが鳴り響いた。数値が急変している。機械が警告音を発する。
ドアが開いて、看護師たちが駆け込んできた。
「離れてください!」
ベッドから引き離される。
「待って、まだ……!」
マエストロの口が動いていた。何かを言おうとしている。必死に。でも、声が聞こえない。アラームの音が、全てをかき消している。
「マエストロ!」
手を伸ばす。マエストロも、手を伸ばしていた。私に向かって。痩せ細った手を、必死に伸ばして。
でも、看護師たちに遮られて、届かない。
マエストロの目が、私を見ていた。穏やかな目。最期まで、私を見守る目。口が、まだ動いている。伝えようとしている。最期の力を振り絞って。
「マエストロ……!」
届かない。聞こえない。
そして。マエストロの目が、静かに閉じた。伸ばしかけた手が、ゆっくりと落ちた。
「……嘘」
声が震える。
「嘘……まだ聞いてない……最期の言葉、聞いてない……」
膝から崩れ落ちる。マエストロの手は、もう動かない。
「マエストロ……マエストロ……!」
*
記憶が途切れた。
俺は、暗闇の中に立っていた。ライラの感情が、まだ体の中で渦巻いている。
悲しみ。喪失。絶望。そして、罪悪感。最期の言葉を、聞けなかった。マエストロが伝えようとしたことを、受け取れなかった。
だから、ライラは歌えない。歌う理由を、教えてもらえなかった。自分で見つけることも、できなかった。マエストロがいない世界で、ライラは迷子になっている。
俺は、記憶の残骸を見つめた。
マエストロの最期の瞬間。声にならなかった言葉。届かなかった想い。普通なら、ここで終わりだ。聞こえなかった言葉は、永遠に失われる。
でも。
俺は、立ち止まった。
何かを、感じている。記憶の残響か。いや、それとも違う。もっと深い何かだ。
ライラの感情が、強すぎるのか。マエストロへの想いが、深すぎるのか。その強さに引きずられて、俺は記憶の奥に入り込んでいた。普通なら見えないはずの場所。感じられないはずの想い。
でも、今の俺には見える。ライラの感情だけじゃない。この記憶に刻まれた、もう一つの想い。マエストロの想いが、そこにあった。俺は、手を伸ばした。その想いに、触れる。
瞬間、世界が変わった。
暗かった記憶の世界に、光が差し込む。温かい光。優しい光。流れ込んでくる。
言葉ではない。感情だ。
マエストロの感情。ライラに向けた、最期の想い。声にならなくても、届かなくても、想いは記憶に刻まれる。
ライラがマエストロを想っていたように、マエストロもライラを想っていた。その想いが、ライラの記憶の奥底に、残っていた。
俺は、その感情を受け取った。温かい。優しい。そして、強い。マエストロが、最期に伝えたかったこと。
「お前が歌う理由は……」
その続きが、感情として伝わってくる。
俺は、目を見開いた。
そうか。そういうことだったのか。マエストロは、ライラに何を伝えようとしたのか。俺は、それを理解した。
記憶の世界が、揺らぎ始める。戻る時が来た。
ライラに、伝えなければならない。
マエストロの、最期の想いを。




