第30話:歌えない歌手
—— 一年前。
王都大劇場。満席の観客。
ステージの中央に、彼女は立っていた。長い黒髪。純白のドレス。スポットライトが、彼女だけを照らしている。
オーケストラが、前奏を奏でる。観客が、息を呑む。彼女が、口を開いた。
「——」
——声が、出なかった。
「——っ」
喉が、詰まる。息ができない。
オーケストラが止まる。観客がざわめく。
「……あ……」
彼女は、自分の喉を押さえた。
声が出ない。歌えない。なぜ。どうして。頭が真っ白になる。観客の視線が、突き刺さる。
「……ぁ……」
掠れた声が、マイクに拾われた。会場に、沈黙が落ちた。
彼女は——ライラは、その場に崩れ落ちた。
*
「——というのが、一年前の出来事です」
ノエルが、書類を読み上げた。
「ライラさん、二十二歳。かつては王都で最も人気のあった歌手の一人でした」
俺は、書類に目を通した。
『ライラ。王都大劇場での定期公演、三年連続完売。新人賞、最優秀歌唱賞など受賞多数』
輝かしい経歴だ。
「一年前のコンサート以来、一度も歌っていないそうです」
「医者には?」
「体には問題ないと。心因性だろう、と」
心の問題。俺の領分だ。
「住所は」
「王都の高級住宅街です。今日、お時間があれば……」
「大丈夫だ。行ってくる」
俺は立ち上がった。
*
王都の高級住宅街。
石畳の道を歩きながら、俺は考えていた。
声が出なくなった歌手。心因性のトラウマ。一年間、歌えない。
「レオン伍長」
ミラが言った。
「どうした」
「歌手にとって、声を失うということは……」
「ああ」
俺は頷いた。
「命を失うようなものだ」
自分の一部を失う苦しみ。それがどれほど辛いことか。
俺には——分かる気がした。
存在が薄れていく感覚。誰にも認識されなくなる恐怖。形は違うが、何かを失っていく痛みは、同じだ。
「あの家です」
ミラが指さした。
白い壁。大きな窓。手入れされた庭。立派な邸宅だった。でも、どこか寂しい。かつての栄光の残骸。そんな印象を受けた。
*
玄関を入ると、廊下にポスターが並んでいた。
『ライラ・ソロコンサート 王都大劇場』
『新星歌姫ライラ 感動の歌声』
『チケット完売御礼』
どれも埃を被っている。
ポスターの中のライラは、輝くような笑顔を浮かべている。
「……こちらへ」
声がした。小さな、消え入りそうな声。
振り返ると、女性が立っていた。黒髪は変わらない。
でも、ポスターの中の彼女とは、まるで別人だった。顔色が悪い。目の下に隈。髪も艶を失っている。何より——目が、死んでいた。
「ライラさんですね」
「……はい」
案内されたリビングにも、写真やトロフィーが並んでいた。コンサートの様子。授賞式。インタビュー。全て、過去の栄光。時が止まった部屋だった。
「……座ってください」
ライラがソファを勧めた。俺とミラは、向かいに座った。
しばらく、沈黙が流れた。
ライラは、自分の膝を見つめている。何かを言おうとして、言葉が出ないようだった。
「……ゆっくりで大丈夫です」
俺は言った。
「話せる範囲で、聞かせてください」
ライラは、顔を上げた。
少しだけ、目に光が戻った気がした。
「……ありがとうございます」
小さな声。でも、さっきよりは力がある。
「一年前から、歌えなくなりました」
「伺っています。コンサートで……」
「はい」
ライラは、俯いた。
「あの日から、声が……歌おうとすると、何も出てこないんです」
「話すことはできている」
「歌だけが、駄目なんです」
ライラの手が、膝の上で震えている。
「喉が詰まって、息ができなくなって……あの日のことを思い出すと……」
声が、掠れた。
「……怖いんです。また、あんな思いをするのが」
俺は、ライラの様子を見ていた。震える手。潤んだ目。強張った肩。一年間、この苦しみを抱えてきたのだ。歌うことが全てだった人が、歌えなくなる。それは、どれほどの地獄だろう。
「あの日のことを、忘れたいんです」
ライラは、俺を見た。
「あの失敗さえ忘れれば……また歌えるようになると思うんです」
「……」
「お願いします。あの記憶を、消してください」
必死な目だった。藁にもすがる思いで、ここに来たのだろう。
「分かりました」
俺は言った。
「記憶を、見せてください」
ライラは、小さく頷いた。
俺は立ち上がり、ライラの前に移動した。
「目を閉じて、楽にしてください」
「……はい」
ライラが目を閉じる。俺は、静かに手を伸ばした。
ライラの額に、指先が触れる。意識を集中する。記憶の世界に——入っていく。
*
——暗い。
最初に感じたのは、それだった。ライラの記憶の世界は、異常なほど暗かった。
普通、記憶の世界には光がある。楽しい記憶は明るく、辛い記憶は暗い。でも、全体的には光に満ちているものだ。
しかし、ライラの世界は違った。まるで、夜の海の底にいるような暗さ。歌手として成功した記憶。コンサートの記憶。拍手喝采の記憶。どれも、色褪せている。光を失っている。
——あった。トラウマの糸を見つけた。赤黒く、脈打っている。一年前のコンサート。声が出なくなった瞬間。
俺は、その糸に近づいた。記憶が流れ込んでくる。
満席の観客。オーケストラの前奏。口を開く。声が出ない。恐怖。混乱。羞恥。確かに、トラウマだ。
でも——
俺は、立ち止まった。
何かがおかしい。糸が、細い。これだけ苦しんでいるなら、もっと太く、もっと禍々しいはずだ。一年間歌えなくなるほどのトラウマにしては、弱すぎる。
俺は、周囲を見回した。
すると、暗い世界の中に——あった。別の光。
トラウマの糸よりも、ずっと奥に。強く、激しく、脈打っている光。コンサートの記憶ではない。もっと古い。もっと深い場所にある。
あれは——何だ。
俺は、その光に向かって歩いた。近づくにつれて、何かが聞こえてきた。
音楽だ。ピアノの旋律。優しく、温かい音色。そして——歌声。幼い少女の歌声。澄んでいて、真っ直ぐで、喜びに満ちている。
これは——ライラの声だ。幼い頃のライラが、歌っている。光が、さらに強くなった。その中心に、何かがある。誰かがいる。
俺は、手を伸ばした。光に触れようとした瞬間——激しい感情が、俺を襲った。
悲しみ。喪失。罪悪感。
声が裏返った恥ずかしさなんかじゃない。これは、もっと深い傷だ。もっと大きな喪失だ。
光の中心に、人影が見えた。誰かがいる。ライラにとって、とても大切な誰かが。
「これは——」
俺は、呟いた。
ライラが本当に失ったもの。それは、声じゃない。この光の中にある——何かだ。
俺は、さらに光の奥へと進んだ。
——真実が、そこにある。




