第29話:灰色の領域
眠れなかった。
ベッドに横になっても、あの映像が消えない。記憶の世界の端。薄い膜。その向こうに流れていた数字。
「01001——」
見間違いじゃない。確かに、あった。
俺は体を起こした。窓の外は、まだ暗い。左手首のリボンに触れる。青い布が、月明かりに淡く光っている。
考える。
記憶の世界に「端」があるのは、おかしい。人間の記憶は、意識の深さに応じてどこまでも続いている。少なくとも、今まではそうだった。でも、あの膜は明らかに「境界」だった。記憶の世界を、何かが覆っていた。
そして、ミラの反応。
「この情報は、私の管轄外です」
彼女自身が、自分の言葉に困惑していた。まるで、自分の意思とは別の何かが口を動かしたかのように。
……分からない。分からないことだらけだ。
でも、一つだけ試せることがある。
*
朝。
施設の訓練室。俺は、記憶増幅器を手に取った。
「レオン伍長?」
ミラが、不思議そうに首を傾げた。
「今日は依頼がありませんが……自主訓練ですか」
「……ああ。少し、試したいことがある」
俺は、椅子に座った。記憶増幅器を、自分の額に当てる。
「……自分の記憶に、入るのですか」
ミラの声が、少し硬くなった。
「前にも入ったことがある。ミラの記憶整理の時に、自分の記憶と比較した」
「……はい。覚えています」
「もう一度、確認したいことがある」
ミラは、何か言いたそうだったが、頷いた。
「分かりました。サポートします」
*
意識を集中する。自分の記憶の世界に、入っていく。
見えた。
以前と同じ。灰色の糸が整然と並んでいる。業務の記録。日常の記録。施術の記録。ミラの記憶と似ている。整理されていて、感情の色が薄い。ただ、いくつかの糸は色を帯びていた。
金色の糸。エリカが「ありがとう」と言った瞬間。トーマスが家族の写真を見つめた時。エマがテディベアを抱きしめた時。仕事を通じて生まれた、温かい記憶。
俺は、それらの糸を過ぎて、奥に進んだ。
もっと古い記憶を探す。忘却術師になる前の記憶を。
……あった。
灰色の糸の向こう、さらに深い場所に。領域がある。灰色よりもさらに暗い、ほぼ黒に近い色。糸ではない。塊だ。のっぺりとした、平坦な壁のようなもの。
触れようとした。
弾かれた。
「……!」
物理的な衝撃ではない。意識が押し返される感覚。入れない。この先に、何かがあるのに。
もう一度、手を伸ばす。
今度は、記憶の残響を使った。マルコに教わった技術。消された記憶の「余韻」を感じ取る力。黒い壁に、意識を這わせる。
……微かに、感じた。
色が見えた。赤。鮮やかな赤。リボンの色。そして、声。誰かが、笑っている。高い声。女の子の声。
「——ん、——!」
名前を呼んでいる。誰の名前だ。俺の名前か。でも、はっきり聞こえない。壁が厚すぎる。
俺は、もっと深く入ろうとした。
その瞬間。
頭が、割れるように痛んだ。
「——っ!」
視界が白くなる。強制的に、記憶の世界から弾き出された。
*
気がつくと、訓練室の椅子に座っていた。汗が、額を流れている。息が荒い。心臓がうるさい。
「レオン伍長!」
ミラが、目の前にいた。俺の肩を支えている。顔が、真剣だった。
「大丈夫ですか。バイタルが急激に乱れました」
「……ああ。大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。頭がまだ痺れている。
「何があったのですか」
「……自分の記憶を、辿っていた」
俺は、額の汗を拭った。
「忘却術師になる前の記憶を探した」
「……」
「見つかった。でも、入れなかった」
ミラは、黙って聞いている。
「黒い壁があった。その向こうに、俺の昔の記憶があるはずだ。でも、壁が俺を弾く」
俺は、自分の手を見た。まだ、少し震えている。
「ただ、一瞬だけ感じた。赤い色。女の子の笑い声。誰かが、俺の名前を呼んでいた」
左手首のリボンが、熱い。さっきの赤い色。このリボンの色に、似ていた気がする。
「ミラ」
俺は、彼女を見た。
「俺の過去に、何があった」
「……」
「俺は、忘却術師になる前、何をしていた。誰と一緒にいた。なぜ、覚えていない」
ミラの表情が、苦しそうに歪んだ。
また、あの反応だ。言いたいのに、言えない。
「……すみません」
ミラは、俯いた。
「私には……分かりません」
嘘ではないのだろう。本当に、知らないのかもしれない。あるいは、知っていても言えないのかもしれない。どちらなのかは、今の俺には判断できない。
「……分かった」
俺は、立ち上がった。
*
昼休み。
中庭のベンチに座っていた。
アリアが、通りかかった。俺の顔を見て、足を止めた。
「あら。顔色悪いわよ」
「……問題ない」
「嘘ね。目の下、隈できてるわよ」
アリアは、俺の隣に座った。
「なあ、アリア」
「何よ、珍しい。あなたから話しかけてくるなんて」
「施術中に、おかしなものを見たことはあるか」
アリアの動きが、一瞬止まった。
「おかしなもの?」
「記憶の糸とは関係ないもの。記憶の世界の端に見える、数字のようなもの」
沈黙が、流れた。
アリアは、前を向いたまま答えた。
「……あるわ」
「……」
「何度か。でも、一瞬で消える。気のせいだと思ってた」
アリアは、俺を見た。
「あなたも見たのね」
「ああ。昨日」
「……そう」
アリアは、腕を組んだ。
「私は、深く考えないようにしてるの」
「なぜだ」
「だって、考えたところで分からないでしょ。それに……」
アリアは、声を落とした。
「あまり深入りしない方がいい気がするのよ。勘だけど」
俺は、黙っていた。
「レオン」
アリアが、真剣な目で俺を見た。
「あなた、追いかける気でしょ。あの数字の正体を」
「……」
「あなたって、そういう人よね。止めても無駄なんでしょうけど」
アリアは立ち上がった。
「気をつけてね。あなた、存在も揺らいでるんだから。無茶しないで」
アリアは、去っていった。
俺は、空を見上げた。雲が、ゆっくり流れている。
*
夕方。待機室で、報告書を書いていた。
ペンが、止まる。
記憶の中の、黒い壁。
記憶の世界の端にあった、薄い膜。
ミラの「管轄外」。
アリアの「深入りしない方がいい」。
全部が、何かを指し示している。でも、何を指し示しているのかが分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。
俺の記憶には、俺が知らない領域がある。俺が忘却術師になる前の記憶。赤い色。女の子の声。そして、この青いリボン。全部が繋がっている気がする。でも、繋がりが見えない。
「レオン伍長」
ミラが、お茶を差し出した。
「ありがとう」
受け取って、一口飲む。温かい。
「ミラ」
「はい」
「俺は、知りたい」
ミラが、俺を見た。
「俺の記憶の中にある、あの灰色の領域。あの向こうに何があるのか」
俺は、リボンに触れた。
「この世界のどこかに、答えがある。俺は、それを見つける」
ミラは、しばらく俺を見つめていた。
「……はい」
ミラは、微笑んだ。穏やかで、でも少し寂しそうな笑顔だった。
「私も、お手伝いします」
「ああ」
窓の外が、暗くなり始めている。星が、一つずつ灯っていく。
俺は、報告書に目を戻した。日常は続く。依頼は来る。施術はする。でも、俺の中で何かが変わった。
受けた依頼をこなすだけじゃない。
俺には、探さなければならないものがある。
俺自身の、記憶の真実。




