第28話:見えない綻び
その夜、眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。今日は忙しい一日だった。アリアとの共同作業。トムとの出会い。新しい顔ぶれが増えた。
でも、頭に残っているのは別のことだった。アリアが言っていた。
「存在、かなり揺らいでたわよ」
分かっている。自分でも。施術のたびに、少しずつ薄くなっていく。それは、覚悟の上だ。でも、それとは別に、最近気になることがある。
施術中に見える、あの揺らぎ。記憶の世界に入るたびに、視界の端に何かがよぎる。数字のような。文字のような。記憶の糸とは違う、別の何か。
以前は気のせいだと思っていた。疲れているだけだと。でも、頻度が増えている。
「……」
俺は、起き上がった。
*
外に出た。
夜風が、頬に冷たかった。街灯が、石畳を照らしている。人通りはほとんどない。ミラは、宿舎で休んでいる。一人で歩くのは久しぶりだ。
夜の街は、静かだった。
建物が整然と並んでいる。煉瓦の壁。木製の看板。等間隔に並ぶ街灯。いつも見ている風景。でも、夜だと少し違って見える。
「……綺麗だな」
呟いた。
綺麗だ。綺麗すぎる。街灯は一本も切れていない。壁にひび割れもない。石畳は一枚も欠けていない。この街はいつもそうだ。整っている。まるで、誰かが毎日修復しているかのように。
「……」
気のせいだろう。戦争が終わって三年。復興が進んでいるだけだ。そう思おうとした。
その時。
視界の隅で、何かが動いた。路地の壁。煉瓦の壁面が、一瞬だけ揺らいだ。テクスチャが剥がれるように、表面がちらついた。
「……?」
立ち止まった。
壁を見つめる。煉瓦。普通の煉瓦だ。手を伸ばして、触れた。固い。冷たい。確かに、そこにある。
気のせいか。
いや。今のは、はっきり見えた。壁の表面が一瞬、格子状のパターンに変わった。碁盤の目のような、規則正しい線。そしてすぐに、元の煉瓦に戻った。
心臓が、少し速く鳴っている。
「……何だ、今のは」
もう一度壁に触れた。何も起こらない。ただの壁。
俺は、手を下ろした。
歩き始める。意識が、鋭くなっている。今まで気にしていなかったものが、目につく。街灯のひとつひとつが、まったく同じ高さにある。電球の明るさも、寸分違わない。建物の窓。夜中だというのに、明かりが灯っている家と消えている家の配置が、妙に規則的だ。明、暗、明、明、暗。それが次の通りでも同じパターンで繰り返されている。
「……偶然、か」
偶然だろう。考えすぎだ。でも、一度気づくと、目が止まらなかった。
広場に出た。噴水がある。昼間は子供たちが遊んでいる場所だ。
噴水の水面に、月が映っている。水面が、揺れた。風もないのに。揺れた水面の向こうに、一瞬だけ何かが見えた。光の格子。水の下に、幾何学的な模様が浮かんでいた。
「……!」
身を乗り出した。水面を覗き込む。何もない。ただの水だ。月が映っているだけ。
「……」
俺は、しばらくその場に立ち尽くした。
見間違いじゃない。施術中に見える揺らぎと、同じものだ。記憶の世界だけじゃない。この街そのものに、何かがある。
*
宿舎に戻ると、ミラが待っていた。
「レオン伍長」
廊下に立っている。眠れなかったのか。それとも、俺が出て行ったことに気づいたのか。
「すまん。起こしたか」
「いえ。ただ、お姿が見えなかったので」
ミラの目が、俺を見ている。心配しているような。確かめているような。
「……ミラ」
「はい」
「聞きたいことがある」
俺は、言った。
「この街は、おかしくないか」
ミラの表情が、微かに変わった。目が一瞬だけ揺れた。
「おかしい、とは」
「街灯が一本も切れていない。壁にひび割れもない。石畳は一枚も欠けていない。夜中の窓の明暗が、通りごとに同じパターンで並んでいる」
「……」
「さっき、路地の壁が揺らいだ。格子状のパターンが見えた。噴水の水面にも。施術中にも、似たものが見える」
俺は、ミラの目を見た。
「お前は何か知っているか」
長い、沈黙があった。
ミラは、俯いた。口を開きかけた。閉じた。また、開きかけた。何かを言おうとしている。でも、言葉が出てこないように見えた。
「ミラ」
「……申し訳ありません」
ミラの声が、小さくなった。
「その件についてのご質問には……お答えすることが、できません」
「できない?」
「はい」
「知らないのか。それとも、言えないのか」
ミラは、俺を見た。その目に、苦しみのようなものが浮かんでいた。答えは、明らかだった。知っている。でも、言えない。
「……誰に止められている」
ミラは、答えなかった。でも、その沈黙が答えだった。
「……分かった」
俺は、それ以上追及しなかった。ミラを困らせたいわけじゃない。でも、確信した。この街には、何かがある。ミラは知っている。そして、何かの制約で、俺に伝えることができない。
「すまなかった。もう休め」
「……はい」
ミラは、小さく頷いた。
部屋に戻りかけて、立ち止まった。
「レオン伍長」
「ん?」
「……気をつけてください」
それだけ言って、ミラは自室に戻った。
気をつけてください。その言葉が、胸に残った。
何に気をつけろと言っているのか。聞き返すことはしなかった。きっと、それも答えられないのだろう。
俺はベッドに横になった。
天井を見つめる。
この街は、おかしい。ミラは何かを隠している。隠さざるを得ない。
「……」
左手首の青いリボンに、触れた。暗い部屋の中で、リボンが月光を受けてかすかに光った気がした。
答えは、まだ見えない。
でも、探さずにはいられなかった。




