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忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第2章:忘却術師と仲間と世界と

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第27話:もう一人の術師


マルコと会ってから、数日が経った。


「記憶の残響」


あの時、教えてもらった技術。消した記憶の「余韻」を感じ取る力。まだ、完全には使いこなせていない。でも、確かに何かが変わった気がする。


そんなことを考えていた、昼下がり。待機室の扉が、勢いよく開いた。


「レオン伍長!」


息を切らせた女性が、飛び込んでくる。茶色のショートカット。緑の瞳。事務服が少し乱れている。


「カイ大佐からの伝令です!」


彼女は敬礼した。が、その拍子に書類が床にばらまかれた。


「あっ」


慌てて拾おうとして、さらに散らばる。


「すみません!すみません!」


ミラが静かに立ち上がり、書類を拾い始めた。


「お手伝いします」

「あ、ありがとうございます!」


俺も屈んで、足元の紙を拾った。


「……大丈夫か」

「大丈夫です!いつものことなので!」


いつものこと。それは、大丈夫ではないのでは。


書類を全て集め終えると、彼女は改めて姿勢を正した。


「申し遅れました。先月からカイ大佐付き秘書を務めております、ノエルです」


先月から。そういえば、最近カイ大佐は忙しそうだった。秘書が必要なほど、業務が増えているのかもしれない。


「本日、レオン伍長に共同作業の任務が入りました」

「共同作業?」

「はい。二級忘却術師のアリアと、軽度の依頼を複数件処理していただきます」


アリア。初めて聞く名前だった。


「最近、軽度の依頼が溜まっておりまして。忘却術師の人員も限られていますので、手分けして対応いただきたいと」

「場所は第三応接室です。アリアは既にお待ちです」

「……分かった」


ノエルは再び敬礼し、踵を返した。


「では、私はこれで」


敷居に躓いて、よろめく。


「……気をつけろ」

「は、はい!失礼しました!」


慌ただしく去っていく背中を見送る。

ミラが、小さく首を傾げた。


「忙しい方ですね」

「……そうだな」


  *


第三応接室。

扉を開けると。


「遅いわよ」


明るい声が飛んできた。窓際のソファに、女性が座っていた。


茶色の髪を肩まで伸ばし、緩やかにウェーブしている。緑色の瞳が、好奇心に輝いていた。


「あなたがレオンね。噂は聞いてるわ」


彼女は立ち上がり、こちらに歩いてくる。


「一級忘却術師。完全忘却ができる唯一の術師」


俺の前で止まり、顔を覗き込んだ。


「無口ね。噂通り」

「……」

「私はアリア。二級よ。あなたより先にこの仕事を始めてるから、先輩ってことになるわね」

「……よろしく」

「よろしく、じゃなくて『よろしくお願いします、先輩』でしょ」

「……」

「冗談よ」


アリアは肩をすくめて笑った。

ミラに視線を向ける。


「そちらは?」

「初めまして。ミラと申します。レオン伍長の補佐を務めております」

「へえ。綺麗な銀髪ね。私、好きよ」

「……ありがとうございます」

「『さん』はいらないわ。アリアでいい」

「……では、アリア」


ミラが少し戸惑いながら呼び捨てにすると、アリアは満足そうに頷いた。


「さ、始めましょうか。依頼は四件。二件ずつ分担すれば、夕方には終わるわ」


  *


最初の依頼人は、三十代の女性だった。職場での人間関係に悩み、眠れなくなったという。軽度の対応で済む案件だ。


「私がやるわね。見ててもいいわよ」


アリアが依頼人の前に座る。


「大丈夫。少し眠くなるだけよ」


優しい声。依頼人の緊張が、少しほぐれたのが分かった。


アリアは依頼人の額に手を当てた。淡い光が灯る。俺の完全忘却とは、明らかに違う。記憶の深層に潜るのではなく、記憶に靄をかけていく。鮮明だった記憶が、ぼんやりと霞んでいく。消すのではなく、輪郭をぼかす。


数分後。依頼人は穏やかな表情で目を覚ました。


「……あれ、私……」

「もう大丈夫よ。気持ちが楽になったでしょ?」

「はい……なんだか、すっきりして……」


記憶は残っている。でも、その記憶に刺さっていた棘が抜けたような顔をしていた。


  *


二件目は、俺が担当した。


四十代の男性。数年前に交通事故を目撃し、フラッシュバックするという。アリアの案件より、少し重い。


俺は依頼人の額に手を当て、記憶の世界に入った。


赤黒く脈打つ記憶の糸。事故の瞬間。タイヤの軋む音。悲鳴。血の色。その糸に、そっと意識を向ける。


記憶の残響。マルコに教わった感覚を、思い出す。消す前に、感じ取る。


見えた。


赤黒い糸の奥に、別の色が絡まっている。青い糸。事故の被害者に、依頼人は毎年花を届けていた。その「弔いの記憶」が、トラウマと絡み合っている。これを一緒に消してしまったら、花を届けていた理由を忘れてしまう。


慎重に。赤黒い糸だけを、切り離す。青い糸は、残す。


  *


施術後、依頼人の目が少し潤んだ。


「……花を届けていたこと、覚えています。今年も、届けないと」

「そうしてください」


依頼人が去った後、アリアがじっと俺を見ていた。


「今の、すごかったわね」

「何がだ」

「トラウマと、弔いの記憶。絡み合ってたでしょ」


アリアは腕を組んだ。


「私にも記憶を消すことはできるわ。でも、部分的にしか消せないの。精度も低いから、あなたみたいに『これだけ消して、これは残す』なんて器用な真似はできない」

「もし私があれをやったら、両方消しちゃうか残滓が残るかのどっちかよ」


アリアは小さく息をついた。


「やっぱり、一級は違うわね」


  *


残りの二件も、順調に終わった。夕方には全ての依頼が完了した。第三応接室に戻り、ミラが淹れた茶を飲む。


「お疲れさま」


アリアがカップを両手で包みながら言った。


「効率よかったわね。また組んでもいいかも」

「……ああ」


しばらく、沈黙が流れた。窓の外では、夕日が街を染めている。


「ねえ、レオン」


アリアが、ふと真剣な顔になった。


「さっき、あなたの施術を見てて気づいたんだけど」


彼女は俺を見た。


「存在、かなり揺らいでたわよ」

「……」

「まだ数ヶ月しか経ってないんでしょ?このペースは、危ないわ」


俺は答えなかった。自分でも、分かっている。


「私ね」


アリアはカップを見つめた。


「怖いの。消えていくのが」

「……」

「もう何年もやってるけど、それでも怖い。だから、ほどほどにしてるの。依頼を断ることもある。冷たいって言われることもあるけど」


彼女の緑の瞳が、俺を真っ直ぐに見た。


「私は、消えたくない」


その言葉には、重みがあった。


「……分からないな……俺には」


正直に答えた。


「怖いのか、怖くないのか。自分でも、よく分からない」


俺は窓の外を見た。


「ただ、目の前に苦しんでいる人がいる。それを見過ごせない。それだけだ」


アリアは、しばらく俺を見つめていた。


「強いのね、あなた」

「強くない」

「いいえ、強いわ。私には……そんな覚悟、ないもの」


彼女は立ち上がった。


「また組むことがあったら、よろしくね」

「……ああ」

「次はもう少し喋ってよ。私ばっかり話してたわ」

「……善処する」

「善処って」


アリアは声を上げて笑った。


「じゃあね、レオン。ミラも、お疲れさま」

「お疲れさまでした、アリア」


ミラが丁寧に頭を下げる。アリアは軽く手を振って、廊下を去っていった。


  *


施設を出ると、夕日が街を赤く染めていた。


「帰るか」

「はい」


俺たちは、並んで歩き始めた。


消えたくない。アリアの言葉が、胸に残っていた。彼女は正直だ。自分の恐怖を認め、折り合いをつけながら生きている。


俺は、どうだろう。消えることを本当に恐れていないのか。それとも、考えないようにしているだけなのか。


「ミラ姉ちゃん!」


突然、声が聞こえた。高い声。子供の声。

振り返ると、茶色い髪の少年が走ってくる。


「やっぱりミラ姉ちゃんだ!」


少年は、ミラの前で止まった。息を切らせている。汚れたシャツ。擦り傷だらけの膝。元気そうな、十歳くらいの男の子。


「トム君」


ミラが、微笑んだ。


「お久しぶりです」

「久しぶりって、この前会ったじゃん!」


トム、と呼ばれた少年は、にっと笑った。


「先週、市場で会いましたね。レオン伍長が依頼で不在の時、買い出しに出たのです」

「ミラ姉ちゃん、道に迷ってたんだよ。俺が案内してあげたの」

「はい。とても助かりました」


俺が知らない間に、ミラには知り合いができていた。


「……そうか」


俺が口を開いた瞬間、トムがこちらを見た。


「……ん?」


目を細める。


「誰?」

「……」

「なんか、薄い人がいる」


直球だった。


「ミラ姉ちゃん、この人誰?」

「私の上司です。レオン伍長」

「レオン?」


トムは、改めて俺を見た。じっと。遠慮なく。


「……うーん。なんか、ぼんやりしてる」

「……」

「おじさん、薄いね」

「……おじさんじゃない」

「え、でもおじさんでしょ」

「まだ二十五だ」

「嘘だ。もっと老けて見える」

「……」

「あと暗いし」


子供は正直だ。大人なら気を遣って言わないことを、平気で口にする。


「トム君」


ミラが、少し困ったように言った。


「レオン伍長は、暗いのではありません」

「じゃあ何?」

「寡黙なのです」

「かもく?」

「静かで、落ち着いているということです」


トムは、しばらく考え込んだ。


「……同じじゃん」

「違います」


ミラが、珍しくはっきり言った。


「レオン伍長は、とても優しい方です。たくさんの人を助けています」

「優しい?優しいようには見えないけど」

「見た目で判断してはいけません」


ミラの声が、少し強くなった。俺は、少し照れくさくなった。ミラがここまで言うとは。


トムは、ミラと俺を交互に見た。


「……ふうん。ミラ姉ちゃんがそう言うなら、そうなんだろうね」


あっさり納得した。


「でも薄いのは本当でしょ」

「……それは」


ミラが言葉に詰まる。


「本当だ」

俺が答えた。


「おじさん、自分で薄いって認めるの?」

「事実だからな」

「……変なおじさん。面白いかも」


トムは、にっと笑った。

そして、ミラの袖を引っ張った。


「ねえねえ、ミラ姉ちゃん。なんで髪、銀色なの?」

「生まれつきです」

「綺麗だね。目も青くて、お人形さんみたい」


ミラの表情が、一瞬だけ固くなった。


「お人形さんではありません」


小さな声。でも、はっきりと。


「私は、人間です」


俺は、その言葉を聞いて少し驚いた。最初に会った頃の彼女なら、きっと何も感じなかっただろう。「お人形みたい」と言われても、「そうですか」と答えるだけだったはずだ。


でも、今は違う。ミラは、自分を「人間」だと言った。


トムは、不思議そうな顔をした。


「当たり前じゃん。何言ってんの」


当たり前。その言葉に、ミラが目を見開いた。


「……そうですね」


ミラは、微笑んだ。


「当たり前、ですね」


人間であることが、当たり前。トムにとっては、疑う余地もなく。ミラの笑顔が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「俺、そろそろ帰る」

「もうですか?」

「うん。夕飯の準備しないと」

「トム君が作るのですか?」

「簡単なやつだけね」


十歳の子供が、夕飯を作る。


「お母さんは……」

「大丈夫だよ。俺、料理得意だし」


その笑顔の奥に、何かがある気がした。でも、今は聞かない。


「また遊ぼうね、ミラ姉ちゃん!」

「はい、ぜひ」


トムは、俺を見た。


「……おじさんもね」

「……ああ」

「あ、でもおじさん。ミラ姉ちゃんのこと、ちゃんと守ってよ!薄くても!」


そう叫んで、トムは走り去った。

……薄くても、は余計だ。


  *


帰り道。


「楽しかったです」


ミラが言った。


「そうか」

「今日は、たくさんの方と会いました」


ミラは空を見上げた。


「アリアは明るい方でした。トム君は元気な子でした。ノエルさんは一生懸命な方でした」

「……ああ」

「レオン伍長の周りには、いろいろな方がいるのですね」

「俺の周りというか……お前の周りだろう」


ミラは、少し考え込んだ。


「……そうかもしれません」


俺は、左手首のリボンに触れた。青い布が、夕日に照らされている。


アリアの言葉が、まだ胸に残っている。消えたくない。その気持ちは、分かる。分かるはずだ。


でも、俺にはやるべきことがある。目の前の苦しみを、見過ごせない。たとえ存在が薄れていくとしても。


ただ、ふと思った。


トムは、俺のことを見ていた。「薄い」とは言ったが、確かに認識していた。話しかけてきた。名前も覚えようとした。子供は、大人より存在を認識しにくいはずなのに。


……不思議な子だ。そう、思った。


「帰るか」

「はい」


俺たちは、並んで歩いた。夕日が沈んでいく。影が長く伸びる。


存在が薄くなっても、こういう日常がある。ミラがいて、街があって、新しい仲間がいる。


悪くない。そう、思った。


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