第26話:忘却堂
「——少し、休め」
カイ大佐は、書類から目を上げずに言った。
「アレックス・ウィルソンの件は、良い結果だった。だが、お前の存在率は短期間で下がりすぎている」
数字が、頭に浮かぶ。
78%。
アレックスの施術を終えた後、さらに2%下がっていた。
「依頼は、明後日まで入れていない。今日は外に出て、気分転換でもしてこい」
「……了解しました」
執務室を出ると、ミラが待っていた。
「レオン伍長。次の依頼は——」
「ない」
「……え?」
「休めと言われた」
ミラが、目を丸くする。
珍しい。カイ大佐が「休め」と言うのは、本当に珍しいことだった。
「では……どうされますか?」
「……外に出る」
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
少し驚いた。
いつもなら、黙って付いてくるか、「ご一緒しますか」と確認するだけだ。
自分から「一緒に行きたい」と言うのは、珍しい。
「……ああ」
断る理由はなかった。
*
街は、穏やかだった。
戦争が終わって三年。
平和な光景が、すっかり当たり前になった。
人々は笑い、子供たちは走り回り、商人たちは声を張り上げている。
俺が記憶を消し続けている間にも、世界は普通に回っている。
「レオン伍長」
ミラが、隣を歩きながら言った。
「あの店、気になります」
指さした先に、小さな菓子屋があった。
ショーウィンドウに、色とりどりの焼き菓子が並んでいる。
「……入るか」
「はい」
店に入る。
甘い匂いが、鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
店員が、俺たちを見た。
俺の方を見て、一瞬だけ目を細める。
「……何名様ですか?」
「二人だ」
「え? あ、はい。二名様ですね」
聞き返された。
78%。
昨日のパン屋では、完全に無視された。今日は、聞き返される程度。
日によって、状況によって、違うらしい。
その不安定さが、余計に不安だった。
いつ完全に見えなくなるのか、分からない。
ミラがマドレーヌを二つ選び、会計を済ませた。
店員は、俺の存在を認識はしている。
ただ、印象に残らないのだ。
*
路地裏のベンチで、マドレーヌを食べた。
バターの香り。しっとりとした生地。
「……おいしい、です」
ミラが、小さく微笑んだ。
最近、ミラはよく笑うようになった。
少しずつ、変わっている。
「ああ」
俺も、頷いた。
悪くない。こういう時間も、悪くない。
食べ終わって、立ち上がる。
「帰るか」
「はい」
歩き出す。
——が。
「……?」
見覚えのない路地に、迷い込んでいた。
狭い。
暗い。
建物と建物の隙間のような、細い道。
「レオン伍長、この道は……」
「分からない」
来た道を振り返る。
さっきまでいた通りが、見えない。
おかしい。
この街は、何度も歩いている。
こんな路地、あっただろうか。
「……進もう」
戻れないなら、進むしかない。
細い路地を歩く。
壁には苔が生え、石畳は湿っている。
光が届かない。
まるで、世界から切り離されたような——
「あれは……」
ミラが、指さした。
路地の奥に、小さな店があった。
古びた木の看板。
かすれた文字で、こう書いてある。
『忘却堂』
古書店だった。
*
扉を開けると、埃の匂いがした。
狭い店内。壁一面の本棚。
古い本が、ぎっしりと詰まっている。
「……誰かいるのか」
声をかける。
返事はない。
「レオン伍長、奥に——」
ミラが言いかけた時、本棚の影から人影が現れた。
白髪混じりの灰色の髪。
くたびれたシャツ。
年齢は、五十代後半くらいだろうか。
男は、俺を見た。
——俺を、見た。
「……客か」
低い声。
「久しぶりだな、この店に誰かが来るのは」
俺を認識している。
はっきりと。
「……お前、俺が見えるのか」
「ああ」
男は、目を細めた。
「お前、忘却術師だな。それも……かなり深いところまで使える奴だ」
「なぜ分かる」
「同業者だったからな。昔の話だが」
同業者。
つまり——
「お前も、忘却術師だったのか」
「ああ。とっくに引退したがな」
男は、カウンターに寄りかかった。
「マルコだ。この店の店主をやってる」
「……レオンだ」
「レオン、か」
マルコは、俺の顔をじっと見た。
「お前……カイ大佐の下で働いてる奴か」
「……なぜ知っている」
「元術師の間でも噂になってる。完全な忘却ができる術師がいるってな」
完全な忘却。
俺のことか。
「それで最近、階級制度ができたとか聞いた。一級だの二級だの。俺がやってた頃は、調整師か忘却術師か、それだけだったんだがな」
そうだ。
カイ大佐が言っていた。
『これまでは調整師と忘却術師という分け方しかなかった』
『一級は、お前のために作った階級と言ってもいいだろう』
俺が現れてから、階級制度ができた。
マルコは、その前の時代の術師だ。
「まさか本人がこの店に来るとはな」
マルコは、ミラを見た。
「そっちは?」
「ミラと申します。レオン伍長の補佐です」
「補佐か。ご苦労なこった」
マルコは、肩をすくめた。
「それにしても、よくこの店を見つけたな」
「迷い込んだだけだ」
「迷い込んだ、ね」
マルコは、本棚に寄りかかった。
「この店は、普通の人間には見つけられない。俺の存在が薄いから、店も一緒に薄くなってる」
「……そういうものなのか」
「ああ。存在が薄くなった奴じゃないと、この路地自体が見えない。お前がここに来れたのは——」
マルコは、俺の目を見た。
「お前自身の存在が、薄くなり始めてるってことだ」
*
マルコは、茶を淹れてくれた。
古い湯呑み。温かい。
「存在率、今どれくらいだ?」
「……78」
「78か。まだ持ちこたえてるな」
「……持ちこたえている?」
「俺が引退を決めた時は、65くらいだった」
65%。
俺より、ずっと低い。
「存在希薄化ってのは、一度進むと戻らない」
マルコは、茶を啜った。
「術を使わなくても、下がり続ける。ゆっくりだがな。俺は引退してから十年以上経つが、今は50を切ってる」
戻らない。
使わなくても、下がり続ける。
「……それでも、生きていけるのか」
「ああ」
マルコは、静かに頷いた。
「消えかけても、生きていけるんだよ。俺はこうして店をやってる。本を読んで、茶を飲んで、たまに来る客と話をして。存在が薄くても、それなりに楽しくやってるぜ」
窓の外を見る。
薄暗い路地。
でも、マルコの目は穏やかだった。
「家賃の取り立ても来ねえしな」
「……なぜ」
「大家が俺のことを忘れてる。存在が薄いと、そういうこともある」
「……いいのか、それは」
「知らん。向こうが忘れてるんだから、俺のせいじゃねえ」
笑っている。
本当に、気にしていないようだった。
*
「で、お前がこんな店に来たってことは——何か、あったんじゃねえか」
マルコが、俺を見た。
「忘却術師ってのは、普通の日常を送れない。依頼をこなすたびに、何かが削られていく。お前も、そうだろ」
否定はできなかった。
「最近、何かあったか?」
アレックスのことが、頭に浮かんだ。
親友を失った少年。
あの施術の後から、何かが変わった気がする。
「……記憶を消した後、何かが残る感覚がある」
言葉にしてみる。
「消したはずなのに、余韻のようなものが……うっすらと、感じ取れる」
マルコの目が、鋭くなった。
「それは……珍しいな」
「珍しい?」
「普通の術師には起きねえ。俺も現役の頃、そんな感覚はなかった」
マルコは、本棚から古い本を取り出した。
ページをめくる。
「ここだ。『記憶の残響——消された記憶が残す、感情の余韻。深い感情共鳴を経験した術師に、稀に発現する』」
深い感情共鳴。
アレックスの施術では、確かに深く入り込んだ。
ダンの想いを、直接感じた。
「お前、相当深いところまで潜ったな。普通の術師じゃ、そこまでいけねえ」
マルコは、本を閉じた。
「悪いことじゃねえ。むしろ、いいことだ」
「……なぜ」
「消した記憶の余韻が分かるってことは、何を消すべきか、より正確に判断できるってことだ。必要な分だけ消して、残すべきものは残せる」
必要な分だけ消す。
残すべきものは残す。
「……そうか」
「お前、普通じゃねえよ。いい意味でな」
マルコは、茶を啜った。
*
しばらく、本を眺めていた。
忘却術に関する古い文献。システムの記録。
見たことのない資料が、たくさんあった。
「マルコ」
「ん?」
「……この店には、また来てもいいか」
「好きにしろ。客が来るのは久しぶりだからな、歓迎するぜ」
マルコは、窓の外を見た。
「ただ、一つ気になることがある」
「何だ」
「最近、世界が変なんだよな」
変。
どういう意味だ。
「昔は、こんなことなかったんだが……最近、たまに見えることがある。文字の羅列とか、数字の断片とか」
ノイズ。
アレックスの記憶の世界で、俺も見た。
あの、歪み。
「お前も、見たことあるか?」
「……ある」
「だろうな」
マルコは、溜息をついた。
「何なんだろうな、あれは。世界の継ぎ目が、ほつれてきてるみたいで……気持ち悪いぜ」
世界の継ぎ目。
ほつれ。
俺には、まだ分からない。
でも、いつか——分かる時が来るのかもしれない。
*
店を出た。
振り返ると、『忘却堂』の看板が、薄く揺らいで見えた。
「レオン伍長」
ミラが、隣に立った。
「マルコさんは、興味深い方でしたね」
「……ああ」
元忘却術師。存在が薄くなっても、生きている人間。
「また、来てもいいと思います」
「……そうだな」
路地を抜けると、見慣れた通りに出た。
人々が歩いている。
日常の光景。
でも、少しだけ——世界の見え方が、変わった気がした。
「帰るか」
「はい」
ミラと並んで、歩き出す。
左手首のリボンが、温かかった。
*
その夜。
夢を見た。
暗い部屋。モニターの光。誰かが、話している。
『——蓄積率は順調だ。予定より早い』
『しかし、想定外の変化が……記憶の残響、ですか』
『面白い。計画に支障はない。むしろ、良い傾向だ』
『リアの状態は——』
声が、途切れた。
目が覚める。
天井を見つめる。
リア。
また、あの名前だ。
——誰なんだ、リアは。
答えは、まだ見つからなかった。




