第22話:日常の温もり
朝だった。
窓から光が差し込んでいる。
穏やかな光。戦場の記憶とは、遠い光。
ベッドから起き上がった。
左手首のリボンに触れる。
今日も、温かい。
「おはようございます、レオン伍長」
ミラが部屋の前に立っていた。
いつものように。
「ああ、おはよう」
目が合った。今日は視線を逸らさなかった。
「……今日は、依頼がありません」
「そうか」
「他に諸用が無ければ、お休みにしていただいて構わないとのことです」
「分かった」
少し間があった。
「あの……」
ミラが、何か言いかけた。
でも、言葉が続かない。
「どうした」
「いえ……」
また、沈黙。
でも、数日前とは違う沈黙だった。
重さが、少しだけ軽くなっている。
「ミラ」
「はい」
「……腹、減ったな」
「……はい」
ミラが、小さく笑った。
久しぶりに見る笑顔だった。
*
食堂で朝食を取った。
パンとスープ。簡素だけど、温かい。
ミラが向かいに座っている。
「レオン伍長」
「ん?」
「忘却術師になって、どのくらいですか」
「……三ヶ月くらいか」
「三ヶ月で、たくさんの人を施術しましたね」
俺は、スープを口に運んだ。
たくさんの人。
そうだな。
いろんな人がいた。
*
エリカ。
幼馴染のカイルを失った女性。
「ありがとう」という言葉が、彼女を苦しめていた。でも、カイルの想いを知って、彼女は笑えるようになった。
最初の依頼人。
俺が、初めて人を救った日。
*
トーマス。
戦場で親友を失った退役軍人。
俺と同じだった。仲間を置いて、一人だけ生き残った。その罪悪感を、ずっと抱えていた。
「おかえり」「ただいま」
家族との和解を、見届けた。同じ痛みを持つ者として、俺は彼を救いたかった。
*
エマ。
父親を失った少女。親子の絆が、どれほど深いものか。あの父親は、最期まで娘を想っていた。
守りたいものがある強さ。
俺には、それがあるだろうか。
*
ハンス。
五十年連れ添った妻を亡くした老人。エルザの想いは、指輪に宿っていた。記憶を消さなくても、彼は立ち上がった。
忘却術師は、記憶を消すことだけが仕事じゃない。
それを、ハンスが教えてくれた。
*
ソフィア。
子供を失った母親。夫との関係が壊れかけていた。でも、二人は自分たちの力で、一歩を踏み出した。
リリィの想いは、最初から最後まで変わらなかった。パパとママが、大好き。その温かさが、夫婦を繋ぎ直した。
*
「レオン伍長?」
ミラの声で、現実に戻った。
「……ああ、すまない。考え事をしていた」
「何を考えていたんですか?」
「……これまでの依頼を」
ミラが、少し驚いた顔をした。
「珍しいですね。レオン伍長が、過去を振り返るなんて」
「そうか?」
「はい。いつも前だけを見ている印象でした」
前だけ。
そうだったかもしれない。
過去を見たくなかったのかもしれない。
「俺がやったことは……」
言葉が詰まった。
「無駄じゃなかった。そう思えるか?」
ミラが、俺を見た。
「無駄なわけがありません」
「……そうか」
「エリカさんも、トーマスさんも、エマちゃんも」
「ハンスさんも、ソフィアさんも」
「みんな、嬉しそうでした」
「俺は、記憶を消しただけだ」
「それだけじゃありません」
ミラの声が、少し強くなった。
「レオン伍長は、想いを伝えました」
「記憶を消すだけじゃなく、残された想いを」
「それが、みんなを救ったんです」
俺は、黙った。
想いを伝える。
そうだな。
俺がやったのは、それだったのかもしれない。
「これが……俺の道かもしれないな」
口に出してみた。
「俺には仲間がいた。たぶん」
「その仲間たちが守ってくれた命で、俺は今、ここにいる」
「だから……俺は、この命で誰かを救う」
「それが答えかどうかは、まだ分からない」
「でも——悪くない道だと思える」
ミラが、微笑んだ。
今度は、ちゃんとした笑顔だった。
「いい道だと思います」
「……そうか」
「はい」
*
夕方になった。
窓の外が、オレンジ色に染まっている。
穏やかな一日だった。依頼もなく、戦いもなく。
ミラと二人で、夕食を取った。
今日は、少しだけ話ができた。
壁は、まだある。でも、前よりは薄くなった気がする。
「ミラ」
「はい」
「いつか、話してくれるんだよな」
「……はい」
「俺が忘れていること」
「……はい」
ミラの目が、少し曇った。
「でも、今は……」
「分かってる」
「……ありがとうございます」
沈黙。でも、重くない沈黙だった。
「レオン伍長」
「ん?」
「今日みたいな日が、もっと続くといいですね」
ミラが、窓の外を見ている。
「依頼がなくて、穏やかで」
「誰も傷つかなくて、誰も苦しまなくて」
俺も、窓の外を見た。
夕日が沈んでいく。
「……幸せ、ですね」
ミラが、小さな声で言った。
「ああ」
俺は頷いた。
「悪くない」
*
夜になった。
部屋に戻り、ベッドに横になった。
左手首のリボンを見る。
温かい。
誰かの想いが、ここに宿っている。
誰が結んでくれたのか、思い出せない。
でも、温かい。
俺は、三ヶ月でいろんな人と出会った。
エリカ。トーマス。エマ。ハンス。ソフィア。
みんな、大切な人を失った人たち。
みんな、想いを抱えていた人たち。
俺は、その想いを伝えた。
記憶を消すだけじゃなく、残された想いを。
これが、俺の道かもしれない。
この道を、もう少し歩いてみよう。
目を閉じた。
*
——夢を見た。
暗い場所。
誰かが立っている。
「順調だな」
声が聞こえる。知っている声。
カイ局長の声。
「レオンは、よくやっている」
「計画通りだ」
計画?
何の計画だ。
「もう少しで、第二段階に入れる」
「彼の記憶は——」
声が途切れた。
*
目を開けた。
朝だった。
何か、夢を見た気がする。
でも、思い出せない。
窓から光が差し込んでいる。
穏やかな光。
左手首のリボンに触れた。
温かい。
今日も、温かい。
——でも、どこかで、冷たい風が吹いた気がした。




