第21話:家族の絆〜ソフィアの依頼〜
数日が過ぎた。
ハンスのことを考えていた。
あの老人は、記憶を消さなかった。
指輪に宿ったエルザの想いを受け取り、自分の力で立ち上がった。
忘却術師の仕事は、記憶を消すことだ。
でも、消さなくても救える道がある。
それを、ハンスが教えてくれた。
左手首のリボンに触れた。
温かい。
俺にも、誰かの想いが宿っているのだろうか。
「レオン伍長」
ミラの声。
振り返った。彼女が立っている。
目が合う。ミラが、すぐに視線を逸らした。
あの日から、俺たちの間には壁があった。
ミラは何かを知っている。俺が忘れていることを。
でも、今は言えないと言った。
俺は待つと約束した。
「新しい依頼です」
事務的な声。距離を置いている。
「ソフィアさん。三十五歳。一年半前に、お子さんを亡くされています」
子供を亡くした。
「夫のマルクさんとの関係が悪化しているそうです」
「……分かった」
端末を受け取った。
「行こう」
「……はい」
黙って歩き始めた。
隣にいるのに、遠い。
*
小さな一軒家だった。
窓辺に、枯れた花が残っている。
かつては手入れされていたのだろう。今は放置されている。
扉をノックした。
しばらくして、扉が開いた。
女性が立っていた。三十代半ば。痩せている。目の下に深い隈。
「忘却術師のレオンです」
「……ソフィアです。どうぞ」
*
リビングに通された。
壁に写真が飾られている。
三人の家族。父親、母親、小さな女の子。
みんな笑っている。
ソファに男性が座っていた。
三十代後半。がっしりした体格。職人の手。
夫のマルクだろう。
俺たちが入っても、顔を上げない。
廊下の奥に、閉まったままの扉があった。
子供部屋だろう。
「マルク」
ソフィアが声をかけた。
マルクは答えない。小さく首を振っただけ。
「……私だけで話すわ」
ソフィアは、俺を別の部屋へ案内した。
*
「リリィ、という名前でした」
ソフィアが語り始めた。
「四歳でした。明るい子で、よく笑って」
ソフィアの目が、遠くを見た。
*
日曜日の朝。
キッチンに、焼きたてのパンの香りが広がっている。
マルクが焼いたパン。彼はパン屋を営んでいる。
「パパのパン、世界一!」
リリィが叫ぶ。四歳の女の子。栗色の髪。大きな目。
「おいおい、外で言うなよ?」
マルクが笑う。
「でも本当だもん!」
リリィがパンを頬張る。頬にジャムがつく。
「リリィ、お口」
ソフィアがナプキンで拭いてやる。
「ママ、ありがとう」
小さな手が、ソフィアの頬に触れる。
何気ない朝。
当たり前の幸せ。
永遠に続くと思っていた。
*
ある日、リリィが絵を描いていた。
「何描いてるの?」
「パパとママ!」
クレヨンで描かれた三人の絵。
丸い顔。棒のような手足。
下手だけど、一生懸命描いている。
「パパとママ、だいすき」
リリィは絵の下にそう書いた。
まだ字を覚えたばかりで、「す」が反転している。
「リリィの宝物にする」
「ありがとう、リリィ」
ソフィアはリリィを抱きしめた。
その絵は今、リリィの部屋に飾られている。
あの扉の向こうに。
*
「一年半前の夜でした」
ソフィアの声。震えている。
「突然、高熱が出て。四十度を超えて」
「急性脳症、と後で言われました」
「脳が腫れて……」
声が詰まる。
「病院に着いた時には、もう手遅れで」
「マルクは仕事で遅くなっていて。私一人で抱えて走って」
「でも、間に合わなくて」
涙が頬を伝った。
「マルクが来た時には、もう……」
「私、言ってしまったんです」
「『あなたがいれば』って」
嗚咽。
「マルクも言い返してきました」
「『お前がもっと早く気づいていれば』って」
しばらく、泣き声だけが聞こえた。
—— ——。
「……今は全然話しません。目も合わせない」
「あの子の部屋にも、二人とも入れない」
「あの絵を見ると、思い出してしまうから」
ソフィアは俺を見た。
「この苦しみを、消してください」
「あの夜のことを思い出すたび、息ができなくなるんです」
「……マルクさんは、施術を希望されていますか」
俺は聞いた。
ソフィアは首を横に振った。
「マルクは……自分を許す気がないんです」
「『俺は忘れちゃいけない。あいつを守れなかった罰だ』って」
自分を罰している。
苦しみを手放すことを、自分に許していない。
「分かりました。まずはソフィアさんの施術を行いましょう」
俺は言った。
「リリィさんとの記憶は消えません。幸せな思い出は、残します」
「消すのは、リリィさんの最期の姿です」
「苦しむ表情。病院の光景。あなた自身の絶叫」
「それを思い出すたびに襲ってくる苦痛を、切り離します」
ソフィアは頷いた。
「リリィさんが亡くなった事実も、消えません」
「でも、あの夜を思い出すたびに息ができなくなる。その苦しみは和らぎます」
「……はい」
「ただ」
俺は言った。
「記憶を消しても、マルクさんとの関係は変わりません」
「向き合うかどうかは、お二人次第です」
ソフィアは、小さく頷いた。
「……分かっています」
俺はソフィアの額に手を当てた。
「目を閉じてください」
意識が沈んでいく。
記憶の世界へ。
*
金色の糸が広がっていた。
朝食の風景。リリィの笑い声。焼きたてのパンの香り。
絵を描くリリィ。「パパとママ、だいすき」。
温かい。
この家族には、確かに幸せがあった。
*
糸の色が変わった。
赤黒い糸。重く、絡まっている。
あの夜。
リリィの高熱。ぐったりした小さな体。
病院の白い光。医師の首が横に振られる。
絶叫。
マルクが駆けつける。遅かった。
「なんで……なんでいなかったの……!」
「お前がもっと早く……!」
責め合う声。
重い。この記憶は、重すぎる。
*
糸の奥に、かすかな光があった。
絵を描くリリィの記憶。
クレヨンを握る小さな手。真剣な顔。
一生懸命、描いている。
その記憶に、想いが宿っていた。
パパ、だいすき。
ママ、だいすき。
みんな、いっしょ。
絵を描きながら、リリィはそう思っていた。
三人で仲良く暮らしていることが、ただただ嬉しかった。
温かい。
パパとママへの、真っ直ぐな愛情。
そして——その温かさは、最後の記憶にもあった。
あの夜。病院のベッド。
苦しみの記憶。絶望の記憶。
でも、その奥に、同じ温かさがあった。
苦しみの中でも、リリィはパパとママを想っていた。
絵を描いた日も。最期の夜も。
リリィの想いは、同じだった。
パパ、だいすき。
ママ、だいすき。
四歳の子供の、単純で、真っ直ぐな想い。
最初から最後まで、変わらなかった。
*
俺はトラウマの核を切り離した。
リリィの最期の姿。苦しむ表情。病院の光景。自分の絶叫。
それを、切り離す。
事実は残る。リリィが亡くなったこと。マルクと喧嘩したこと。
幸せな思い出も残る。朝食。絵を描いた日。
リリィの想いも残る。
消えるのは、あの夜を思い出すたびに襲ってくる、息ができなくなるほどの苦痛。
*
意識が戻った。
ソフィアが目を開けた。
涙を流している。
「リリィのこと……覚えてます」
「パンが好きだったこと。絵を描いてくれたこと。全部」
ソフィアは自分の胸に手を当てた。
「あの夜のことも……覚えてます」
「マルクと喧嘩したことも」
「でも……息が、できる……」
涙が止まらない。でも、さっきまでとは違う涙だった。
「リリィさんは、お二人を愛していました」
俺が言うと、ソフィアが顔を上げた。
「絵を描いた時も。最期の夜も」
「リリィさんの想いは、ずっと同じでした」
「パパとママが大好きだという、真っ直ぐな想いが」
ソフィアの嗚咽が大きくなった。
「リリィ……」
*
しばらくして。
ソフィアは涙を拭くと、俺を見た。
「ありがとうございます」
「息が……楽になりました」
少し間があった。
「あの……」
ソフィアが俺の顔を見ている。
「さっき、リリィの想いを伝えてくれた時、あなた、少し寂しそうな顔をしていました」
俺は何も言えなかった。
「あなたも……誰かを失ったことがあるんですか」
俺は口を開きかけた。
仲間たちの顔を思い出そうとした。
ガロウ。マーク。一緒に戦った仲間たち。
……ぼやけている。
顔がはっきりしない。声も曖昧だ。
確かにいたはずなのに。
俺は言った。
「……いました。たぶん」
たぶん。
自分の言葉に、違和感があった。
なぜ「たぶん」なんだ。
大切な仲間だったはずだ。
なのに、なぜこんなに曖昧にしか答えられない。
ソフィアは不思議そうな顔をした。
でも、それ以上は聞かなかった。
「……そうですか」
*
「マルクさんを呼んでもいいですか」
俺は言った。
ソフィアが躊躇った。
でも、頷いた。
*
マルクが入ってきた。
彼は廊下で立ち止まっていた。
リリィの部屋の前。閉まったままの扉。
この男も苦しんでいる。
あの夜いなかった自分を責めている。
マルクは部屋に入っても、ソフィアと目を合わせなかった。
「マルクさん」
俺は言った。
「施術中、リリィさんの記憶も見ました」
マルクが顔を上げた。
「あの子は、お二人を愛していました。最後まで」
「パパのパンが世界一だと思っていました」
「パパとママが大好きだという想いが、最初から最後まで、ずっとありました」
「三人でいることが、あの子の幸せでした」
マルクの目が揺れた。
「……俺にできるのは、ここまでです」
俺は一歩下がった。
*
ソフィアとマルク。
二人が向き合った。
長い沈黙。
マルクが口を開いた。
「……すまなかった」
掠れた声。
「あの夜、俺がいれば……ずっとそう思ってた」
「だからお前を責めてしまった。自分が許せなかったから」
拳が震えている。
「俺が遅かったから。リリィを守れなかった」
マルクの目から涙がこぼれた。
「すまなかった……ソフィア……」
ソフィアも泣いていた。
「私も……ごめんなさい……」
「あなたのせいじゃない……誰のせいでもなかったのに」
声が震える。
「私たち、誰も責められないから」
「だからお互いを責めてた」
マルクが手を伸ばした。
震えている。
ソフィアがその手を取った。
「また……やり直せるかな」
マルクが言った。
「うん……やり直そう」
ソフィアが頷いた。
「リリィのためにも」
マルクがソフィアを抱きしめた。
しばらく、二人とも動かなかった。
やがて、マルクが言った。
「……あの部屋、開けよう」
ソフィアが顔を上げた。
「リリィの絵を見たい。あの子が描いてくれた絵を」
ソフィアが泣きながら頷いた。
「うん……」
二人は手を繋いだまま、廊下へ向かった。
閉まったままだった扉の前に立つ。
マルクが扉を開けた。
小さな部屋。
壁に、クレヨンで描かれた絵が飾られていた。
三人の家族。丸い顔。棒のような手足。
下手だけど、一生懸命描かれた絵。
「パパとママ、だいすき」
「す」の字が、反転している。
ソフィアとマルクは、その絵の前で泣いていた。
手を繋いだまま。
*
家を出た。
夕暮れだった。
ミラが隣にいる。
黙って歩いた。
「レオン伍長」
ミラが口を開いた。
「どうした?」
「さっき……ソフィアさんに聞かれていましたね」
俺は足を止めた。
「大切な人を失ったことがあるかと」
「……ああ」
「答えられませんでしたね」
ミラの声は、平坦だった。
でも、どこか苦しそうだった。
俺は空を見上げた。
「分からないんだ」
「いたはずなんだ。俺にも、大切な仲間が」
「でも、顔がぼやけてる。名前も曖昧だ」
左手首のリボンに触れた。
「俺は……誰を忘れているんだろう」
ミラは何も言わなかった。
俺を見ている。何か言いたそうな目。
でも、唇を噛んで、黙っている。
「……行こう」
俺は歩き出した。
ミラが少し遅れてついてくる。
夕日が沈んでいく。
二人の影が長く伸びる。
隣にいるのに、距離がある。
ソフィアとマルクは、自分たちでリリィの部屋を開けた。
自分たちの力で、一歩を踏み出した。
俺は、どうだろう。
忘れている誰かのために、何かできるだろうか。
答えは出ない。
でも、このリボンだけは外さない。
誰かが俺を想ってくれていた証だから。
夕暮れの街を歩いた。
ミラは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
その沈黙が、今の俺たちだった。
でも、いつか——その壁を越える日が来る気がした。




