表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第1章:透明になる忘却術師

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/66

第20話:忘れたい記憶、忘れたくない心


古い一軒家の前に立っていた。

庭には、手入れされた花壇がある。色とりどりの花が咲いている。


「ここが、ハンスさんの家です」


ミラが言った。


「昨日、私が事前に訪問して、施術の説明をしました」

「どんな様子だった」

「とても……苦しんでおられました」


ミラは、少し表情を曇らせた。


「奥様の写真を見つめて、涙を流していました。でも、棚の上の小さな箱には、一度も触れようとしませんでした」

「箱?」

「結婚指輪が入っているそうです。でも、触れられないと」


俺は、頷いた。

そういう依頼人は多い。大切な人の遺品。見るたびに、あの日を思い出す。触れるたびに、苦しみが蘇る。だから、しまい込む。見ないようにする。


「行こう」


俺は、扉をノックした。


  *


しばらくして、扉が開いた。


白髪の老人が立っていた。七十を過ぎているだろう。背は曲がっているが、目には静かな光があった。


「忘却術師のレオンです。本日の施術を担当します」


老人は、俺を見て……少し首を傾げた。


「ああ、ああ……お嬢さんから聞いておりました。どうぞ、お入りください」


  *


居間に通された。


古い家具。使い込まれたソファ。壁には、写真が飾られている。

若い頃の老人と、一人の女性。二人とも、笑っている。幸せそうに。

棚の上に、小さな箱があった。老人は、その箱を一瞬見て——すぐに目を逸らした。


「妻のエルザです」

老人が言った。

「一年前に、病気で」


写真の中のエルザは、優しそうな笑顔を浮かべていた。


「五十年、一緒でした」

老人は、写真を見つめた。

「五十年。長いようで、短かった」


  *


ソファに座った。


「改めまして、レオンです」

「ハンスです。よろしくお願いします」


ハンスは、手を握った。その手は、震えていた。


「ミラから、説明は聞いていますか」

「はい。記憶を……消していただけると」

「苦しみの記憶だけを、切り離します。奥様との思い出は、残します」

「本当に……そんなことが」

「はい」


ハンスは、俯いた。


「最後に……喧嘩をしてしまったんです」

声が震えた。

「怒鳴ってしまった。そして、謝れないまま……」

ハンスの目から、涙がこぼれた。

「もう一年も経つのに、あの日のことが……頭から離れないんです」


俺は、黙って聞いていた。

五十年連れ添った妻。その最期に、喧嘩をしてしまった後悔。謝れないまま、見送ってしまった後悔。


「ハンスさん」

「……はい」


俺は、壁の写真を見た。若い頃の二人。幸せそうに笑っている。

「五十年の思い出は、消えません。苦しみの原因となっている記憶だけを、切り離します」


ハンスは、小さく頷いた。

「始めましょう」

俺は、ハンスの額に手を当てた。

「目を閉じてください」


ハンスが目を閉じた。

意識が、沈んでいく。記憶の世界へ。


  *


映像が流れ込んできた。

金色の糸が、無数に広がっている。五十年分の、幸せな記憶。


図書館での出会い。桜の下のプロポーズ。結婚式。日常の温もり。

全てが、金色に輝いている。


俺は、その糸に軽く触れた。

温かい。深い愛情が、そこにある。


  *


映像が変わった。


病気。看病。疲労。そして——最後の日。

朝。ベッドに横たわるエルザ。ハンスが薬を差し出す。でも、エルザは首を横に振る。


「飲みたくないの」

「頼むから、飲んでくれ」


エルザの目には、諦めがあった。もう、十分だという諦め。これ以上、ハンスに迷惑をかけたくないという想い。


「……もう、いいの」

「疲れたの……ハンス、あなたも……疲れてるでしょう……」


でも、ハンスには——それが分からなかった。分かりたくなかった。

そして、疲労が苛立ちに変わった。


「どうして言うことを聞かないんだ!」


怒鳴ってしまった。エルザの目に、涙。

この記憶。赤黒い糸が、絡まっている。ハンスの罪悪感。後悔。自己嫌悪。


重い。とても、重い。


  *


ふと、ハンスの記憶の中に、指輪が見えた。

エルザの左手。結婚指輪。指輪から、金色の糸が伸びている。


俺は、その糸に触れた。

瞬間——映像が流れ込んできた。


  *


病院のベッド。


エルザは、自分の左手を見ていた。指輪が、むくんだ指に食い込んでいる。

看護師が言った。


「エルザさん、指輪を外しましょう。このままだと、指が……」


エルザは、首を横に振った。


「外さない……」

掠れた声。

「約束したから……一生、外さないって……」

でも、看護師は優しく言った。

「大丈夫です。ご主人が大切に保管してくれますよ」


エルザは、涙を流した。

「ハンス……ごめんね……」

指輪が、外された。


その瞬間——エルザは、指輪に語りかけた。心の中で。


(ありがとう……五十年……ありがとう……)


  *


そして——集中治療室。

ハンスが、エルザの手を握っている。


「ごめん。さっきは、怒鳴ってしまって」

「ごめん、エルザ」

「愛してる、エルザ」

「ずっと、愛してた」


エルザは——目を開けることはできなかった。意識も、ないように見えた。

でも。ハンスの声は——聞こえていた。

エルザの心が、震えていた。


(ハンス……聞こえてるわ)

(あなたの声が……届いてる)

(私も、愛してる。ずっと、愛してた)

(ありがとう。五十年、幸せだった)

(だから……自分を責めないで)

(私は……幸せだったから)


その想いが——指輪に、宿った。金色の光となって。


そして——。

モニターの音が、一本の線になった。


  *


俺は、息を呑んだ。

エルザは、怒っていなかった。ハンスの声は、届いていた。最期まで、愛していた。


(この記憶は……消してはいけない。消す必要がない)


ハンスが苦しんでいるのは、喧嘩の記憶そのものではない。

『エルザを怒らせたまま死なせてしまった』という思い込みだ。


なら——記憶を消すのではなく、真実を伝えるべきだ。


  *


意識が、戻ってきた。

ハンスが、目を開けた。

しばらく、何も言わなかった。深く、息を吸った。


「……まだ」

ハンスが呟いた。

「まだ、苦しい……」

胸に手を当てる。あの日の記憶が、まだそこにある。

ハンスは、俺を見た。


「記憶が……消えていない……」

「はい。消しませんでした」

「なぜ……」

俺は、ハンスを見た。


「ハンスさん。エルザさんは、怒っていませんでした」

ハンスの目が、見開かれた。

「あなたの声は、届いていました。最期まで」

「そんな……でも、エルザは……」


俺は、棚の上の箱を見た。

「指輪を、握ってみてください。エルザさんの想いが、そこにあります」


  *


ハンスは、立ち上がった。

棚の前へ。一年間、触れられなかった箱。

ハンスの手が、震えていた。


箱を取った。蓋を開けた。

指輪。五十年前、ハンスがエルザに贈った指輪。

ハンスは、指輪を見つめた。一年間、触れられなかった。触れるのが、怖かった。あの日を、思い出すから。


でも——。

ハンスは、そっと指輪を手に取った。


瞬間——温もりが、掌に広がった。

エルザの温もり。五十年間、隣にいてくれた温もり。

そして——声が、聞こえた気がした。


『愛してるわ、ハンス』

『ありがとう。幸せだった』


言葉ではない。でも、確かに——伝わってきた。


「……っ」

ハンスの顔が、歪んだ。涙が、溢れた。

「エルザ……」

ハンスは、指輪を両手で包んだ。

「お前……怒ってなかったのか……」

声が震えた。

「俺の声……聞こえてたのか……」

涙が、止まらなかった。


「ずっと……ずっと、お前を怒らせたまま死なせてしまったと……」

「謝れなかったと……」

「でも……」


ハンスは、指輪を胸に当てた。

「届いてたんだな……」

「俺の言葉が……届いてたんだな……」


嗚咽が漏れた。

「ありがとう……エルザ……」

「五十年……ありがとう……」


  *


時間が過ぎた。

ハンスの泣き声が、だんだん静かになっていった。

しばらくして。ハンスは、涙を拭った。顔を上げた。


「レオンさん」

「はい」

「ありがとうございました」


ハンスは、深く頭を下げた。


「エルザは……俺のことを、許してくれていたんですな」

「いえ」

俺は言った。

「最初から、怒っていませんでした」


ハンスは、目を見開いた。そして——笑った。涙を流しながら。


「そうですな……そうだった……」

「エルザは……そういう人だった……」


ハンスは、指輪を見つめた。

「この指輪を……エルザの写真の隣に、飾ります」


俺は、頷いた。


  *


家を出る時、ハンスが見送ってくれた。


「本当に、ありがとうございました」

「いいえ」


ハンスは、指輪の箱を手に持っていた。もう、手放さない。もう、恐れない。


「あの……」

ハンスが、少し考えた。

「お名前、何とおっしゃいましたかな」


さっき名乗ったばかりだ。ハンスの物忘れではなく、代償が進んでいる影響だった。


「レオンです」


「レオンさん」

ハンスは、俺の手を握った。

「あなたのおかげで、前を向けます」


俺は、少しだけ笑った。


「お元気で、ハンスさん」

「ええ。あなたも」


  *


夕暮れの街を歩いた。


俺の輪郭は、また少し揺らいでいるかもしれない。俺の名前は、また誰かに忘れられたかもしれない。でも、それでいい。


左手首のリボンが、夕日に照らされていた。


俺も、誰かに想われていたのかもしれない。その誰かを、俺は忘れてしまったのかもしれない。


でも、このリボンを見ると、胸が温かくなる。

いつか、思い出せる日が来る。


その日まで、俺はこの道を歩き続ける。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ