第20話:忘れたい記憶、忘れたくない心
古い一軒家の前に立っていた。
庭には、手入れされた花壇がある。色とりどりの花が咲いている。
「ここが、ハンスさんの家です」
ミラが言った。
「昨日、私が事前に訪問して、施術の説明をしました」
「どんな様子だった」
「とても……苦しんでおられました」
ミラは、少し表情を曇らせた。
「奥様の写真を見つめて、涙を流していました。でも、棚の上の小さな箱には、一度も触れようとしませんでした」
「箱?」
「結婚指輪が入っているそうです。でも、触れられないと」
俺は、頷いた。
そういう依頼人は多い。大切な人の遺品。見るたびに、あの日を思い出す。触れるたびに、苦しみが蘇る。だから、しまい込む。見ないようにする。
「行こう」
俺は、扉をノックした。
*
しばらくして、扉が開いた。
白髪の老人が立っていた。七十を過ぎているだろう。背は曲がっているが、目には静かな光があった。
「忘却術師のレオンです。本日の施術を担当します」
老人は、俺を見て……少し首を傾げた。
「ああ、ああ……お嬢さんから聞いておりました。どうぞ、お入りください」
*
居間に通された。
古い家具。使い込まれたソファ。壁には、写真が飾られている。
若い頃の老人と、一人の女性。二人とも、笑っている。幸せそうに。
棚の上に、小さな箱があった。老人は、その箱を一瞬見て——すぐに目を逸らした。
「妻のエルザです」
老人が言った。
「一年前に、病気で」
写真の中のエルザは、優しそうな笑顔を浮かべていた。
「五十年、一緒でした」
老人は、写真を見つめた。
「五十年。長いようで、短かった」
*
ソファに座った。
「改めまして、レオンです」
「ハンスです。よろしくお願いします」
ハンスは、手を握った。その手は、震えていた。
「ミラから、説明は聞いていますか」
「はい。記憶を……消していただけると」
「苦しみの記憶だけを、切り離します。奥様との思い出は、残します」
「本当に……そんなことが」
「はい」
ハンスは、俯いた。
「最後に……喧嘩をしてしまったんです」
声が震えた。
「怒鳴ってしまった。そして、謝れないまま……」
ハンスの目から、涙がこぼれた。
「もう一年も経つのに、あの日のことが……頭から離れないんです」
俺は、黙って聞いていた。
五十年連れ添った妻。その最期に、喧嘩をしてしまった後悔。謝れないまま、見送ってしまった後悔。
「ハンスさん」
「……はい」
俺は、壁の写真を見た。若い頃の二人。幸せそうに笑っている。
「五十年の思い出は、消えません。苦しみの原因となっている記憶だけを、切り離します」
ハンスは、小さく頷いた。
「始めましょう」
俺は、ハンスの額に手を当てた。
「目を閉じてください」
ハンスが目を閉じた。
意識が、沈んでいく。記憶の世界へ。
*
映像が流れ込んできた。
金色の糸が、無数に広がっている。五十年分の、幸せな記憶。
図書館での出会い。桜の下のプロポーズ。結婚式。日常の温もり。
全てが、金色に輝いている。
俺は、その糸に軽く触れた。
温かい。深い愛情が、そこにある。
*
映像が変わった。
病気。看病。疲労。そして——最後の日。
朝。ベッドに横たわるエルザ。ハンスが薬を差し出す。でも、エルザは首を横に振る。
「飲みたくないの」
「頼むから、飲んでくれ」
エルザの目には、諦めがあった。もう、十分だという諦め。これ以上、ハンスに迷惑をかけたくないという想い。
「……もう、いいの」
「疲れたの……ハンス、あなたも……疲れてるでしょう……」
でも、ハンスには——それが分からなかった。分かりたくなかった。
そして、疲労が苛立ちに変わった。
「どうして言うことを聞かないんだ!」
怒鳴ってしまった。エルザの目に、涙。
この記憶。赤黒い糸が、絡まっている。ハンスの罪悪感。後悔。自己嫌悪。
重い。とても、重い。
*
ふと、ハンスの記憶の中に、指輪が見えた。
エルザの左手。結婚指輪。指輪から、金色の糸が伸びている。
俺は、その糸に触れた。
瞬間——映像が流れ込んできた。
*
病院のベッド。
エルザは、自分の左手を見ていた。指輪が、むくんだ指に食い込んでいる。
看護師が言った。
「エルザさん、指輪を外しましょう。このままだと、指が……」
エルザは、首を横に振った。
「外さない……」
掠れた声。
「約束したから……一生、外さないって……」
でも、看護師は優しく言った。
「大丈夫です。ご主人が大切に保管してくれますよ」
エルザは、涙を流した。
「ハンス……ごめんね……」
指輪が、外された。
その瞬間——エルザは、指輪に語りかけた。心の中で。
(ありがとう……五十年……ありがとう……)
*
そして——集中治療室。
ハンスが、エルザの手を握っている。
「ごめん。さっきは、怒鳴ってしまって」
「ごめん、エルザ」
「愛してる、エルザ」
「ずっと、愛してた」
エルザは——目を開けることはできなかった。意識も、ないように見えた。
でも。ハンスの声は——聞こえていた。
エルザの心が、震えていた。
(ハンス……聞こえてるわ)
(あなたの声が……届いてる)
(私も、愛してる。ずっと、愛してた)
(ありがとう。五十年、幸せだった)
(だから……自分を責めないで)
(私は……幸せだったから)
その想いが——指輪に、宿った。金色の光となって。
そして——。
モニターの音が、一本の線になった。
*
俺は、息を呑んだ。
エルザは、怒っていなかった。ハンスの声は、届いていた。最期まで、愛していた。
(この記憶は……消してはいけない。消す必要がない)
ハンスが苦しんでいるのは、喧嘩の記憶そのものではない。
『エルザを怒らせたまま死なせてしまった』という思い込みだ。
なら——記憶を消すのではなく、真実を伝えるべきだ。
*
意識が、戻ってきた。
ハンスが、目を開けた。
しばらく、何も言わなかった。深く、息を吸った。
「……まだ」
ハンスが呟いた。
「まだ、苦しい……」
胸に手を当てる。あの日の記憶が、まだそこにある。
ハンスは、俺を見た。
「記憶が……消えていない……」
「はい。消しませんでした」
「なぜ……」
俺は、ハンスを見た。
「ハンスさん。エルザさんは、怒っていませんでした」
ハンスの目が、見開かれた。
「あなたの声は、届いていました。最期まで」
「そんな……でも、エルザは……」
俺は、棚の上の箱を見た。
「指輪を、握ってみてください。エルザさんの想いが、そこにあります」
*
ハンスは、立ち上がった。
棚の前へ。一年間、触れられなかった箱。
ハンスの手が、震えていた。
箱を取った。蓋を開けた。
指輪。五十年前、ハンスがエルザに贈った指輪。
ハンスは、指輪を見つめた。一年間、触れられなかった。触れるのが、怖かった。あの日を、思い出すから。
でも——。
ハンスは、そっと指輪を手に取った。
瞬間——温もりが、掌に広がった。
エルザの温もり。五十年間、隣にいてくれた温もり。
そして——声が、聞こえた気がした。
『愛してるわ、ハンス』
『ありがとう。幸せだった』
言葉ではない。でも、確かに——伝わってきた。
「……っ」
ハンスの顔が、歪んだ。涙が、溢れた。
「エルザ……」
ハンスは、指輪を両手で包んだ。
「お前……怒ってなかったのか……」
声が震えた。
「俺の声……聞こえてたのか……」
涙が、止まらなかった。
「ずっと……ずっと、お前を怒らせたまま死なせてしまったと……」
「謝れなかったと……」
「でも……」
ハンスは、指輪を胸に当てた。
「届いてたんだな……」
「俺の言葉が……届いてたんだな……」
嗚咽が漏れた。
「ありがとう……エルザ……」
「五十年……ありがとう……」
*
時間が過ぎた。
ハンスの泣き声が、だんだん静かになっていった。
しばらくして。ハンスは、涙を拭った。顔を上げた。
「レオンさん」
「はい」
「ありがとうございました」
ハンスは、深く頭を下げた。
「エルザは……俺のことを、許してくれていたんですな」
「いえ」
俺は言った。
「最初から、怒っていませんでした」
ハンスは、目を見開いた。そして——笑った。涙を流しながら。
「そうですな……そうだった……」
「エルザは……そういう人だった……」
ハンスは、指輪を見つめた。
「この指輪を……エルザの写真の隣に、飾ります」
俺は、頷いた。
*
家を出る時、ハンスが見送ってくれた。
「本当に、ありがとうございました」
「いいえ」
ハンスは、指輪の箱を手に持っていた。もう、手放さない。もう、恐れない。
「あの……」
ハンスが、少し考えた。
「お名前、何とおっしゃいましたかな」
さっき名乗ったばかりだ。ハンスの物忘れではなく、代償が進んでいる影響だった。
「レオンです」
「レオンさん」
ハンスは、俺の手を握った。
「あなたのおかげで、前を向けます」
俺は、少しだけ笑った。
「お元気で、ハンスさん」
「ええ。あなたも」
*
夕暮れの街を歩いた。
俺の輪郭は、また少し揺らいでいるかもしれない。俺の名前は、また誰かに忘れられたかもしれない。でも、それでいい。
左手首のリボンが、夕日に照らされていた。
俺も、誰かに想われていたのかもしれない。その誰かを、俺は忘れてしまったのかもしれない。
でも、このリボンを見ると、胸が温かくなる。
いつか、思い出せる日が来る。
その日まで、俺はこの道を歩き続ける。




