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忘却術師は透明になる 〜記憶を消して人を救う代わりに、俺は誰からも忘れられる〜  作者: 黄昏
第1章:透明になる忘却術師

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第19話:五十年の約束


ハンスは棚の前に立ち、小さな箱を見つめていた。

手を伸ばしかけて——止まる。

触れられない。一年前から、ずっと。


中には、指輪が入っている。エルザの結婚指輪。

この箱を開けると、あの日を思い出す。

喧嘩をした日。謝れなかった日。エルザが——逝った日。


窓の外を見た。庭の花壇に、エルザが育てていた花が咲いている。娘が時々手入れに来てくれる。


「お父さん、ちゃんと食べてる?」

心配そうな顔で尋ねられる。

「ああ、大丈夫だ」


と答えるが、嘘だった。

食欲がない。夜も眠れない。夢を見る。エルザが泣いている夢を。


ハンスは深く息を吸った。このままじゃ、駄目だ。

エルザとの五十年を、忘れたくない。

でも、あの日の記憶だけが——胸を締め付ける。


テーブルの上の新聞。小さな広告が目に入った。


『忘却術師 トラウマ除去 秘密厳守』


ハンスは受話器を取った。



----------------------------------------------------------------------



五十年前。図書館で本を探していた時だった。


ハンスは二十二歳。大学生。歴史学を専攻していた。

高い棚の前で、誰かが背伸びをしている栗色の髪の女性。本に手が届かず、つま先立ちになっている。


「取りましょうか」


ハンスは声をかけた。

女性が振り返った——その瞬間、ハンスの心臓が跳ねた。

大きな目。優しそうな笑顔。頬に、小さなそばかす。


「ありがとうございます。あの、『星の王子さま』を」


ハンスは本を取って渡した。

女性は本を受け取り、ページをめくった。


「好きなんです、この本。『大切なものは、目に見えない』って」

「いい言葉ですね」

「ええ」

女性は微笑んだ。

「私、エルザです」

「ハンスです」


二人は手を握った。エルザの手は、温かかった。


  *


それから、図書館でよく会うようになった。

エルザは文学が好きだった。ハンスは歴史が好きだった。でも、二人でいると何時間でも話せた。


半年後のある日、エルザが言った。


「ねえ、ハンス。いつか、二人でパリに行きたいわね」

「パリ?」

「ええ。セーヌ川のほとりで、一緒に本を読むの」


エルザは夢見るように言った。


「朝はカフェでクロワッサンを食べて、午後は美術館を巡って、夜は——」

「夜は?」

「星を見ながら、散歩するの」

ハンスは笑った。

「いいな。じゃあ、いつか必ず」

「約束よ」

エルザは小指を差し出しかけて——すぐに引っ込めた。

「ごめんなさい、子供っぽいわね」

「いや」

ハンスは彼女の手を取った。

「約束する。君と、必ずパリに行く」


  *


二年後。公園のベンチ。桜が咲いていた。


「エルザ」

ハンスは深呼吸した。

「俺と……結婚してくれないか」

エルザの目が大きく見開かれた。

「……本気?」

「本気だ」


ハンスは小さな箱を取り出した。

開けると、指輪が入っていた。


「エルザ。君がいない人生なんて、考えられない。君と一緒に、人生を歩みたい」


エルザの目から、涙がこぼれた。


「……バカ」

エルザは笑いながら泣いていた。

「もっと、ロマンチックに言ってよ」

「ごめん。これが俺の精一杯だ」


「……うん」

エルザは頷いた。

「うん。結婚する」


ハンスがエルザの左手に指輪をはめた。

少しきつかった。


「サイズ、合ってないわね」

「すまない」

「いいの」

エルザは指輪を見つめた。

「一生、外さないから」

風が吹いて、桜の花びらが舞った。二人は抱き合った。ハンスの胸の中で、エルザが小さく呟いた。


「ありがとう、ハンス」

「こちらこそ」

「あなたと出会えて、幸せよ」


  *


結婚式。小さな教会。家族と親しい友人だけ。

エルザは白いドレスを着ていた。ベールの向こうの顔が、緊張で少し強張っている。


「誓いますか」

牧師が尋ねた。

「誓います」

二人は声を揃えた。

「病める時も、健やかなる時も。富める時も、貧しい時も。死が二人を分かつまで」


指輪の交換。

ハンスは、エルザの指に新しい指輪をはめた。

今度は、サイズもぴったりだった。


「キスを」


ハンスは、エルザにキスをした。彼女の唇は震えていた。緊張しているのか、それとも——。

拍手。笑顔。祝福の言葉。


「幸せになってね、エルザ」

友人が言った。

「ええ」

エルザは微笑んだ。


「もう、幸せよ」


  *


四十七年後。結婚記念日。

レストランで、二人は向かい合って座っていた。

ハンスの髪は白くなり、エルザの顔には皺が刻まれていた。でも、彼女の笑顔は、五十年前と変わらなかった。


「ハンス」

「ん?」

「覚えてる? 図書館で初めて会った日」

「もちろん」

ハンスは笑った。

「『星の王子さま』を取ってあげた日だ」

「そう」

エルザは嬉しそうに頷いた。

「あの時、あなたを見て思ったの。この人と一緒にいたいって」

「俺もだ」

「本当?」

「ああ。一目惚れだった」


エルザは頬を染めた。七十歳近い女性が、まるで少女のように。


「あなたと結婚して、後悔してないわよ」

「突然、何だ」

「ただ、伝えたかったの」

エルザは真剣な顔になった。

「幸せだったって。四十七年、ずっと」


ハンスは、エルザの手を握った。皺だらけの手。

でも、温かい。


「俺もだ。エルザと一緒で、幸せだった」

「これからも?」

「ああ。これからも」


二人は、グラスを合わせた。

その時、ハンスは気づかなかった。エルザの手が、少し震えていたことに。彼女の笑顔の奥に、小さな不安が隠れていたことに。


  *


三年前。エルザが言った。


「ハンス、最近、疲れやすいの」

ハンスの胸に、不安が広がった。

「病院に行こう」


検査。また検査。医師の表情が、曇っていた。

「奥さんの病気は……進行性です。治療法はありますが、完治は難しい」

言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「どのくらい……」

「個人差があります。でも……」

医師は目を逸らした。

「数年でしょう」


  *


帰りの車の中。エルザは窓の外を見ていた。


「ねえ、ハンス」

「……ああ」

「パリ、行けなかったわね」


ハンスの胸が、締め付けられた。


「すまない」

「謝らないで」

エルザは微笑んだ。でも、その目には涙が浮かんでいた。

「あなたのせいじゃないわ」

「でも、俺は——」

「いいの」

エルザはハンスの手を握った。

「あなたと一緒にいられただけで、十分幸せだったから」


  *


看病が始まった。


最初は、エルザも元気だった。

一緒に散歩できた。一緒に食事ができた。

でも、半年後。エルザは、ほとんど寝たきりになった。


ハンスは仕事を辞めた。エルザの側にいたかった。

毎日、同じことの繰り返し。

薬を飲ませる。体を拭く。食事を作る。シーツを替える。


娘のアンナが時々来てくれた。


「お父さん、少し休んで。私が看るから」

優しい声。でも、ハンスは首を横に振った。

「大丈夫だ。俺がやる」


「……ハンス、ごめんね」

エルザが言った。

「何を言っているんだ」

ハンスは笑顔を作った。

「謝ることなんかない」

「迷惑をかけて」

「迷惑なんかじゃない」

ハンスはエルザの手を握った。

「君といられるだけで、幸せなんだ」


嘘じゃなかった。エルザと一緒にいられる。

それだけで、幸せだった。


でも——一年が過ぎた頃。ハンスの顔にも、疲労が見えた。夜中に何度も起きる。眠れない。食欲もない。鏡を見ると、自分が老け込んでいた。


ある夜。エルザが眠っている。

ハンスは窓の外を見ていた。星が出ていた。


(いつまで、続くんだろう)

思った瞬間、自分を呪った。

(何を考えているんだ、俺は)

でも、頭の中で、声が響く。

(早く、楽になってほしい)

ハンスは、自分の頭を叩いた。

違う。そうじゃない。エルザに楽になってほしい。エルザが苦しんでいるのを見るのが、辛い。

でも——本当は。


(俺が、楽になりたいだけだ)


ハンスは顔を覆った。最低だ。最低な夫だ。


  *


二年目。エルザは、ほとんど話せなくなった。目も、開けられない日が多かった。


そして——最後の日が来た。


朝。エルザが、珍しく目を開けていた。


「おはよう」

ハンスが言った。

「今日は、調子がいいのか」

エルザは、小さく頷いた。


「薬、飲もうか」

ハンスは薬を用意した。

でも、エルザは首を横に振った。

「飲みたくないの」

掠れた声。

「飲まないと駄目だ。医者がそう言っている」

「でも……」

「エルザ」

ハンスの声が強くなった。

「頼むから、飲んでくれ」


エルザは、ハンスを見た。その目には——諦めがあった。もう、十分だという諦め。これ以上、ハンスに迷惑をかけたくないという想い。


「……もう、いいの」

エルザが言った。

「疲れたの……ハンス、あなたも……疲れてるでしょう……」


ハンスの胸が、締め付けられた。でも、言葉が出なかった。疲労が、苛立ちに変わった。

なぜだ。なぜ、そんなことを言う。俺は、君のために——。こんなに看病しているのに。こんなに頑張っているのに。


「どうして言うことを聞かないんだ!」


声を荒げてしまった。

エルザの目に、涙が浮かんだ。

ハンスは、はっとした。何を言っているんだ、俺は。


「エルザ、すまない。俺は——」

エルザは、何も言わなかった。ただ、顔を背けた。


「エルザ……」

「……一人にして」

小さな声。

「エルザ」

「お願い……」


ハンスは部屋を出た。廊下で壁に手をついた。何をしているんだ、俺は。謝らなければ。すぐに謝らなければ。

でも、足が動かなかった。何と言えばいい。どう謝ればいい。

リビングのソファに座った。時計の音だけが聞こえる。一時間が過ぎた。二時間が過ぎた。


(謝らなければ)


そう思いながら、疲労が襲ってきた。目を閉じた。


  *


ふと、気がつくと眠っていた。

時計を見ると、午前二時。

その時——エルザの部屋から、かすかな音が聞こえた。

何か、違う。いつもと違う音。


「エルザ?」


ハンスは慌てて部屋に入った。

エルザが、苦しそうに呼吸をしていた。顔色が悪い。額に汗。唇が青白い。


「エルザ!」

呼びかけても、反応がない。

ハンスは電話を取った。手が震えている。

「救急車を……妻が……呼吸が……」

次に、娘に電話した。

「アンナ、すぐ来てくれ……お母さんが……お母さんの様子が……」


——サイレンの音。玄関を開ける。救急隊員が入ってくる。

「奥さん、意識がありません」

「すぐに病院へ」


担架。酸素マスク。ハンスも救急車に乗り込んだ。エルザの手を握った。冷たい。


「エルザ、頑張ってくれ」

「頼む」

「俺が悪かった。さっきは、怒鳴ってしまって」

「だから、頑張ってくれ……!」


でも、エルザは動かなかった。


  *


病院。集中治療室。

娘のアンナが駆けつけてきた。髪を乱して、息を切らして。


「お父さん!」

「アンナ……」

「お母さんは……」

「意識がない」

ハンスは言った。

「医師が、もう……」

言葉を続けられなかった。

アンナが、泣いていた。

医師が出てきた。


「ご家族の方ですね。面会できます。ただ……」

医師は言葉を選んだ。

「覚悟を、しておいてください」


ハンスは、部屋に入った。

ベッドに、エルザが横たわっていた。機械が音を立てている。点滴。モニター。冷たい光。

「エルザ……」


ハンスはエルザの手を握った。冷たい。

「エルザ、俺だ。ハンスだ」

返事がない。

「ごめん。さっきは、怒鳴ってしまって」

「ごめん、エルザ」

涙が止まらなかった。

「許してくれ」

「頼むから、目を開けてくれ」

「俺の声を、聞いてくれ」


でも、エルザは動かなかった。呼吸だけが、機械の音に合わせて続いていた。

ハンスは、エルザの手を両手で包んだ。


「エルザ。覚えてるか。図書館で初めて会った日」

「君は『星の王子さま』を探していた」

「俺が本を取ってあげたら、君は笑ってくれた」

「あの笑顔を見た瞬間、俺は——君を好きになったんだ」


エルザの顔は、動かない。


「プロポーズの日。公園のベンチ。桜が咲いていた」

「君は『もっとロマンチックに言って』って笑った」

「でも、結婚してくれた」

「ありがとう、エルザ」


ハンスの声が震えた。


「四十七年間。いや、五十年間」

「君と一緒にいられて、幸せだった」

「パリには行けなかったけど」

「君といられただけで、十分だった」

「だから——」


ハンスは、エルザの手に顔を押し当てた。


「だから、許してくれ」

「最後に怒鳴ってしまって、ごめん」

「君は、俺のことを思って言ってくれたんだよな」

「『疲れてるでしょう』って」

「なのに、俺は——」


涙が、エルザの手を濡らした。


「愛してる、エルザ」

「ずっと、愛してた」

「君と出会えて、本当に良かった」


モニターの音が、変わった。

医師が入ってきた。アンナも入ってきた。

ハンスは、エルザの手を握り続けた。


「エルザ……」

モニターの音が、一本の線になった。

長い、電子音。


「——午前三時二十七分、ご臨終です」


医師が言った。

アンナが、泣き崩れた。

ハンスは——何も言えなかった。

ただ、エルザの手を握っていた。

まだ、温かい。

でも、だんだん冷たくなっていく。


「エルザ……」

「すまなかった……」


  *


葬儀の日。多くの人が来てくれた。


「奥さんは、いい人でしたね」

「ハンスさんも、よく看病されましたね」


言葉が、耳に入らなかった。全てが、遠かった。

葬儀が終わった。家に戻った。アンナがエルザの遺品を整理していた。


「お父さん、これ」

小さな箱。

「お母さんの、結婚指輪。病院で外されたの」

ハンスは箱を受け取った。開けた。指輪。五十年前、ハンスがエルザにはめた指輪。

『一生、外さない』

エルザは言っていた。

でも、外された。


ハンスは指輪を見つめた。胸が苦しい。あの日の記憶が蘇ってくる。怒鳴った自分。謝れなかった自分。

ハンスは箱を閉じた。


それから、一年。ハンスは一度も箱を開けていない。開けられない。開けると、あの日を思い出す。


  *


現在。ハンスは棚の前に立っていた。


(このままじゃ、駄目だ)

(エルザを、忘れたくない)

(五十年の思い出を、忘れたくない)

(でも、あの日の記憶だけが……)


テーブルの上の新聞。


『忘却術師 トラウマ除去 秘密厳守』


ハンスは受話器を取った。


  *


数日後。午前十時。扉をノックする音がした。

ハンスは扉を開けた。若い男が立っていた。黒髪。灰色の瞳。左手首に、青いリボン。隣に、銀髪の女性。


「忘却術師のレオンです。本日の施術を担当します」


ハンスは二人を見た。


(この人たちが……)

(俺を、救ってくれるのだろうか)

(エルザとの思い出を、守ってくれるのだろうか)

「どうぞ、お入りください」


ハンスは扉を開けた。

新しい一歩を、踏み出すために。


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