第17話:忘れられた約束
三日前の感覚が、忘れられなかった。
リボンが温かくなった。
誰かに呼ばれているような感覚。
……確かめなければ。
カイに許可を取り、俺は再び記憶の庭園へ向かった。
*
記憶の庭園。
三日前と同じ光景。無数の糸が、宙を漂っている。
でも、今日は違う目的がある。
俺は、庭園の奥へ向かった。
「レオン伍長、どこへ」
「分からない。でも、あっちに何かがある気がする」
引き寄せられるように、歩いていた。
奥へ。もっと奥へ。糸の数が増えていく。
古い記憶が多いのかもしれない。
色褪せた糸が、静かに漂っている。
*
左手首が、熱くなった。
「っ……」
立ち止まった。
青いリボン。熱い。三日前よりも、ずっと熱い。
「レオン伍長?」
ミラの声が聞こえる。
周囲を見回した。
無数の糸の中に、一本だけ違う糸があった。
他の糸より大きい。そして、強く光っている。
淡い青と、深い赤が、絡み合っている。
まるで、二人の人間の記憶が一つになっているような。
リボンがさらに熱くなる。
「あの糸……」
足が動いていた。
引き寄せられている。
理屈じゃない。体が、あの糸を求めている。
「レオン伍長、待ってください」
ミラの声。でも、止まれなかった。
糸の前に立った。
青と赤の糸。すぐ目の前で、ゆっくりと揺れている。
手を伸ばした。
「レオン伍長!」
ミラが叫んだ。
でも、もう止められなかった。
指先が、糸に触れた。
瞬間——視界が、白く弾けた。
*
映像が、流れ込んでくる。
古い建物。窓から光が差し込んでいる。
知らない場所。知らないはずの場所。
でも、懐かしい。胸が痛いほど、懐かしい。
小さな手が見える。
誰かの手。俺の手じゃない。
もっと小さい。女の子の手。
その手が、何かを差し出している。
青いリボン。
『これ、あげる』
声が聞こえた。幼い声。女の子の声。
『私の赤いリボンと、お揃い』
視界が動く。顔を上げている。
でも、相手の顔が見えない。光で白く飛んでいる。
『ありがとう』
誰かの声。幼い男の子の声。
……俺の声?
昔の、俺の声なのか?
『大事にする』
『うん』
女の子が笑っている。顔は見えない。
でも、笑っているのが分かる。
『ねえ』
『なに?』
『約束して』
小指が差し出される。
『指切りげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます』
俺も小指を絡めている。
『約束』
『大人になったら、迎えに来てね』
『迎えに?』
『うん。私、ここを出られないから。だから、あなたが迎えに来て』
『……分かった』
『絶対だよ』
『うん。絶対』
女の子が、俺の手を握った。
『忘れないでね』
声が震えている。
『私のこと、絶対に忘れないでね』
『忘れない』
俺は言っている。確かに言っている。
『絶対に、忘れない』
女の子が泣いている。顔は見えない。
でも、泣いているのが分かる。
『約束……』
映像が途切れた。
*
「っ——!」
糸から手が離れた。
床に膝をついていた。息ができない。心臓が痛い。
「レオン伍長!」
ミラが駆け寄ってきた。俺の肩を支えている。
「大丈夫ですか。レオン伍長!」
大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。
今、何を見た。誰を見た。
……あれは、俺だったのか。
幼い頃の俺と、赤いリボンの女の子。約束。
俺は、約束した。絶対に忘れないと、約束した。
なのに。
「思い出せない……」
声が震えていた。
「顔が、思い出せない……」
触れた瞬間は見えたはずだ。
彼女の顔。彼女の声。全部、流れ込んできたはずだ。
なのに、もう思い出せない。
「名前……」
名前を呼ぼうとした。
出てこない。
喉まで出かかっている。知っているはずだ。
大切な名前のはずだ。
なのに、出てこない。
「誰だ……」
「レオン伍長……」
「誰なんだ……俺は、誰を忘れているんだ……」
ミラが、俺の前にしゃがんだ。
真っ直ぐに、俺を見ている。
「レオン伍長」
「……」
「立てますか」
「……ああ」
ミラの手を借りて、立ち上がった。
膝が震えている。
「無理をしないでください」
ミラは、俺を支えながら言った。
「私は、あなたの傍にいます」
その言葉が、胸に染みた。
「……ありがとう、ミラ」
ミラは、小さく頷いた。
*
俺は、もう一度あの糸を探した。
見つからなかった。
無数の糸の中に、紛れてしまったのか。
「あの糸は……」
「分かりません」
ミラが、端末を操作しながら言った。
「確かに存在しました。でも……この糸に関する情報には、私のレベルではアクセスできないようです。そもそも本来なら、ここに現れるはずのない糸です」
「じゃあ、なぜ俺の前に……」
「分かりません」
ミラは、俺の左手首を見た。
「……リボンが、関係しているのかもしれません」
アクセスできない糸。
俺の記憶。
「ミラ」
「はい」
「あの糸……俺の記憶だ」
「……」
「俺は、記憶を削除された側じゃない。削除する側だ」
「……はい」
「なのに、なぜ俺の記憶が、ここにある」
ミラは、答えなかった。
俯いて、何かを考えているようだった。
「ミラ」
「……」
「何か、知っているのか」
ミラは、顔を上げた。
その目には、苦しそうな光があった。
「……申し訳ありません」
「ミラ?」
「今は、お答えできません」
ミラは、首を横に振った。
「でも、いつか必ず……お話しします。私が知っていることを、全て」
「……」
「今は、待っていただけますか。お願いします」
俺は、ミラを見た。
彼女は何かを知っている。
俺が忘れていることを。あの糸のことを。
三日前、彼女は言った。
『私は、あなたの傍にいます』と。
今日も、同じ言葉を言ってくれた。
俺が崩れそうな時、支えてくれた。
「……分かった」
俺は、頷いた。
「待つ。お前が話せるようになるまで」
ミラは、少し驚いた顔をした。
そして、表情が柔らかくなった。
「……ありがとう、ございます」
*
「今日のこと……報告は、私から行います」
メモリアルタワーを出る時、ミラが言った。
「ただ、あの糸については……もう少し調べてから報告させてください」
「いいのか。俺に判断を委ねるような形で」
「いいえ。これは、私の判断です」
ミラは、俺を見た。
「あの糸のこと、私にも分からないことが多いんです。不確かな情報で報告しても、混乱を招くだけです」
「……そうか」
「だから、もう少し時間をください」
俺は、頷いた。
「分かった。任せる」
夜になっていた。星が出ている。
俺たちは、黙って歩いた。
星が、きれいだった。
*
その夜、夢を見た。
同じ場所だった。
古い建物。赤いリボンの少女。
でも、今度は違うシーンが見えた。
誰かが、少女の手を引いている。大人の手。
『行かなきゃ』
少女が振り返る。泣いている。
『待って。まだ——』
俺は手を伸ばしている。幼い俺の手。
『約束、したのに——』
届かない。
少女が連れて行かれる。
『忘れないで…!』
少女が叫んでいる。
『絶対に、忘れないで——』
俺も叫ぼうとした。名前を呼ぼうとした。
声が出ない。口が動いている。でも、声が出ない。
彼女の名前が、出てこない。
*
目が覚めた。
暗い部屋。息を整えた。
頬が、濡れていた。
泣いていた。夢の中で、泣いていたんだ。
左手首を見た。
青いリボン。まだ温かい。
俺は、誰かと約束した。
大人になったら、迎えに行く。絶対に忘れない。
誰と。どこで。
思い出せない。名前すら、出てこなかった。
あの糸。青と赤が絡み合った糸。
あれは、俺の記憶だ。
俺が忘れている、誰かとの記憶。
でも、なぜ俺の記憶が記憶の庭園にある。
俺は記憶を削除された側じゃない。削除する側だ。
ミラは何かを知っている。
でも、今は言えないと言った。
待つと約束した。彼女が話せるようになるまで。
でも、俺は、多くのことを忘れている。
仲間たちの顔も思い出せない。
ガロウの笑い方も、マークの口癖も、ぼやけている。
代償のせいか。
いや、違う。代償は「他人から忘れられる」ことだ。
「俺が忘れる」ことじゃない。
なら、なぜ。
誰かが、俺の記憶を——消した?
誰かが、俺から奪ったのか?
「……俺は」
声に出した。
「誰を、忘れているんだろう」
「何を、忘れさせられたんだろう」
答えは出なかった。
でも、一つだけ確かなことがある。
このリボンは、俺が忘れていない証だ。
記憶を奪われても、これだけは手放さなかった。
俺自身が覚えていなくても、俺の体が覚えている。
絶対に外してはいけないと。
これだけは、守らなければいけないと。
窓の外では、夜明けが近づいていた。
青いリボンを、握りしめた。
温かかった。
まるで、誰かが傍にいるような。




